11月4日、舅にお供しての講演会。
今回は、池田武邦氏の話。
現在90歳という氏のわかりやすく、しっかりした口調は
話の内容と共に、とても印象的でした。
最初に示されたタイトルは、
「太平洋戦争と日本の超高層建築ーグループダイナミックスー」
だったが、そのほとんどは戦中戦後の話だった。
氏は海軍兵学校を2年9か月で卒業。佐世保の造船所に配属され
巡洋艦矢矧(ヤハギ)の建造中から携わった。
船の完成とともに、その性能テスト等をなし、正式に乗組員となる。
海軍なのに、最初の航海で船酔いし、それでは示しがつかないと
ゴム引きの洗面袋をいっぱい隠し持ち、処理したとか
ネルソン提督も最初は船酔いしたと聞かされ、これはなれで解決するとか。
昭和20年4月6日には、キングシップ(戦艦大和)、巡洋艦矢矧、駆逐艦8隻からなる船団は、
沖縄特攻として、出撃命令が下りる。
が、その時点ですでに、米軍の潜水艦に動静がキャッチされ、
生電で本国に通報されていた。
動静が全部筒抜けで、沖縄特攻は全滅。
船と飛行機の関係は、宮本武蔵が機関銃と戦っているようなももので、
勝ち目はない。
大和も矢矧も沈み、氏も爆風で顔面に大やけど、
海で泳いでいる無抵抗な所に、機銃照射された。
幸い、流れ出した重油がやけどにとっては重症化を遅らせたので、
助けられて佐世保に。重油の臭いは一か月たっても消えなかったというが
これで、命を長らえたという。
600人の卒業生のうち、残ったのは270名だったという。
乗る船がなくなって、潜水学校の教官を命じられ、
大竹というところで、予備学生を特殊潜航艇で特攻にというということで
教える。
そこに、広島に原爆が落とされ、
30キロ離れたところから、水路で被害者救助に向かう。
被爆者の被爆したところの蛆虫を割り箸でとるという、悲惨な状況。
終戦の詔勅の時は、
「もう殺されない」という気持ちで、ほっとしたという。
終戦後は、復員船のサカワ(矢矧の同型で、大砲を取り除き、蚕棚を作った)の乗組員として
函館の炭鉱の朝鮮から連れてこられた労働者を釜山に運ぶ作業。
横須賀港につけた時、その船はビキニ環礁の原爆実験のために使うと
接収される。
その後は、復員された方のお世話等をしていたという。
東京の焼け野原に立ち、何をするか
やむを得ず、大学に入ったという。
建築科を選び、その後霞が関の超高層ビルや、京王プラザの建築に携わる。
ハウステンボスやオランダ村にも携わる。
超高層のビル建設の理論は、戦前からあったが
地震に対する計算が膨大で、これは計算機の発達のおかげで
その計算が瞬時に出来ることによって、可能となったと
計算尺を扱う手つき入りで、手での計算からコンピューターの功績を
語っていらしたのが印象的だった。
心から思うのは
「人類から戦争をなくさなくてはならない。」
戦後しばらくは、朝起きて、ああ今は平和なんだと、毎日思っていたとのこと。
今の若い人は平和が当たり前だが、どんなに有難いことかを思って欲しい
・殺されないですむという思い
・快適さを求めすぎない
・常に、原点にたって自分を律しなくてはならない
戦争と平和は、永遠の課題であり、
アフリカの人々は気の毒だと思っている。
などと、締めくくられた。
徳川時代のポリシー、発明・工夫はご法度というのも
一つの考え方だと思うとのことだった。
最後まで、緊張を保ちながら聴くことのできる
有益な話だった。
お年ゆえの重複箇所が数か所あったが
気にはならなかった。
一緒に聞いていらした92歳の女性は
近く講演をなさるのだが
私も同じことを言ってしまうかしらと、心配しておられたが
90歳にしてこの元気と思うと、恐れ入るばかりだった。
今の平和をありがたいと思う、池田武邦氏の話から! クリック!
おかはんをよろしく、ブログもあります!
今回は、池田武邦氏の話。
現在90歳という氏のわかりやすく、しっかりした口調は
話の内容と共に、とても印象的でした。
最初に示されたタイトルは、
「太平洋戦争と日本の超高層建築ーグループダイナミックスー」
だったが、そのほとんどは戦中戦後の話だった。
氏は海軍兵学校を2年9か月で卒業。佐世保の造船所に配属され
巡洋艦矢矧(ヤハギ)の建造中から携わった。
船の完成とともに、その性能テスト等をなし、正式に乗組員となる。
海軍なのに、最初の航海で船酔いし、それでは示しがつかないと
ゴム引きの洗面袋をいっぱい隠し持ち、処理したとか
ネルソン提督も最初は船酔いしたと聞かされ、これはなれで解決するとか。
昭和20年4月6日には、キングシップ(戦艦大和)、巡洋艦矢矧、駆逐艦8隻からなる船団は、
沖縄特攻として、出撃命令が下りる。
が、その時点ですでに、米軍の潜水艦に動静がキャッチされ、
生電で本国に通報されていた。
動静が全部筒抜けで、沖縄特攻は全滅。
船と飛行機の関係は、宮本武蔵が機関銃と戦っているようなももので、
勝ち目はない。
大和も矢矧も沈み、氏も爆風で顔面に大やけど、
海で泳いでいる無抵抗な所に、機銃照射された。
幸い、流れ出した重油がやけどにとっては重症化を遅らせたので、
助けられて佐世保に。重油の臭いは一か月たっても消えなかったというが
これで、命を長らえたという。
600人の卒業生のうち、残ったのは270名だったという。
乗る船がなくなって、潜水学校の教官を命じられ、
大竹というところで、予備学生を特殊潜航艇で特攻にというということで
教える。
そこに、広島に原爆が落とされ、
30キロ離れたところから、水路で被害者救助に向かう。
被爆者の被爆したところの蛆虫を割り箸でとるという、悲惨な状況。
終戦の詔勅の時は、
「もう殺されない」という気持ちで、ほっとしたという。
終戦後は、復員船のサカワ(矢矧の同型で、大砲を取り除き、蚕棚を作った)の乗組員として
函館の炭鉱の朝鮮から連れてこられた労働者を釜山に運ぶ作業。
横須賀港につけた時、その船はビキニ環礁の原爆実験のために使うと
接収される。
その後は、復員された方のお世話等をしていたという。
東京の焼け野原に立ち、何をするか
やむを得ず、大学に入ったという。
建築科を選び、その後霞が関の超高層ビルや、京王プラザの建築に携わる。
ハウステンボスやオランダ村にも携わる。
超高層のビル建設の理論は、戦前からあったが
地震に対する計算が膨大で、これは計算機の発達のおかげで
その計算が瞬時に出来ることによって、可能となったと
計算尺を扱う手つき入りで、手での計算からコンピューターの功績を
語っていらしたのが印象的だった。
心から思うのは
「人類から戦争をなくさなくてはならない。」
戦後しばらくは、朝起きて、ああ今は平和なんだと、毎日思っていたとのこと。
今の若い人は平和が当たり前だが、どんなに有難いことかを思って欲しい
・殺されないですむという思い
・快適さを求めすぎない
・常に、原点にたって自分を律しなくてはならない
戦争と平和は、永遠の課題であり、
アフリカの人々は気の毒だと思っている。
などと、締めくくられた。
徳川時代のポリシー、発明・工夫はご法度というのも
一つの考え方だと思うとのことだった。
最後まで、緊張を保ちながら聴くことのできる
有益な話だった。
お年ゆえの重複箇所が数か所あったが
気にはならなかった。
一緒に聞いていらした92歳の女性は
近く講演をなさるのだが
私も同じことを言ってしまうかしらと、心配しておられたが
90歳にしてこの元気と思うと、恐れ入るばかりだった。
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