おおはるさんの死から一週間がたって、
葬儀もおわり、やっとほっとしました。
皆様からコメントをいただき、有り難う御座いました。
落ち着きましたら、ゆっくり返事させていただきます。
葬儀の準備、かかってくる電話の応対、
決めなければならないことをこなす等、
あっという間の一週間でした。
牧師さんに言われて作成したおおはるさんの経歴。
ここに、書いておきます。
大正8年12月15日 港区麻布飯倉に6人兄弟の三番目、長女として生まれる。
森村幼稚園、成城学園小学校、成城学園女学部に入学、3年次に玉川学園女学部に編入。同女子高等部を卒業。その後玉川学園小学部にて数学をしばらく教える。
学生時代は、玉川学園の合唱や体操の講演旅行に参加したり、合唱コンクールに出場したり、NHK交響楽団の前身である新響の第九演奏会に合唱で参加している。
昭和17年、Yと結婚。広島市で新婚生活をスタート、転勤により東京阿佐ヶ谷に移る。昭和18年、長女Hが誕生。その後北軽井沢に疎開。夫の転勤にともない、御代田(みよた)、小諸、穂積(ほづみ)と移り、小諸時代(昭和22年)二女toty誕生。昭和25年に東京洗足のYの両親と同居、26年には世田谷の経堂に移る。
家庭生活を営むなか、
中江ゆりさんがなさっていた料理教室に通い、のちには長女Hの友人を集めて自宅で料理を教えていた時期もあった。
木彫を女学校時代の美術の牧田先生に長期間習い、狛江にあった「きつつき会」で習うかたわら、横浜産経学園で教えたり、自宅、杉並でも教室をもって、教えていた。
英語は、経堂にあるフレンド英語教室マザースクラスに50年通い続け、現在95歳になられる兼子先生を中心に三人の生徒の一人として、病にたおれるまで、毎週火曜日の教室を楽しみにしていた。長いこと、ハリーポッターを原著で読み、最近は赤毛のアンを読んでいるといっていた。
(以下は、兼子先生から寄せられたメッセージです。
20数名で始めたクラスも高橋さん(85歳)佐野さん(93歳)、私、兼子(95歳)と3名になってしまいました。米沢さんとの楽しかった日々を宝として与えられました日々を過ごしていきたいと思います。)
昭和30年ごろから、卒業した玉川学園の同窓会の事務を手伝うようになり、名簿制作、会計処理等、大いに活躍した。
特に、名簿の管理などにコンピュータの導入を考え、自ら自宅近くのパソコン教室に通い、プログラムから習い、後の同窓会事務に役立てた。また、事務局長、副会長などを歴任した。
同窓会を手伝うようになってから、玉川学園の創設者、小原国芳先生の思い出を残すことを卒業生によびかけ、「野路ははるけし…165人の小原先生」という本を刊行する。玉川学園の創設期を知り、そして小原先生を慕う方々の記憶が残っているうちにとはじめたこの企画のため、ノートパソコンをリュックにかつぎ、入院中の夫の見舞いのかたわら、集めた原稿の全文を入力、校正作業を親友のNさんが担ってくださって、発送まで、一生懸命だった。
平成4年、長女Hがなくなってからは、つくばに住むHの家族のもとに通い、夫が入院の折は付き添って一緒に入院、二人部屋に住まって、他の患者さんのカウンセラーのごとく、また看護婦さんの助手のごとくすごしていた。
一週間のうち、4日は病院、2日はつくばの長女宅、一日は経堂の自宅という暮らしを続けた時期もあった。
Hが点訳に興味をもっていたことから、Hが亡くなってからは、点字図書館の講習会に参加、コンピュータでの点訳作業をマスターし、つくばにある点訳後援会で本の点訳に参加、かなりの数の本の点訳を完成していた。
楽しむことも上手で、小学校時代、ハンネス・シュナイダーに習ったことが自慢だったスキーにでかけたり、世界を旅したり、病人を抱えながらも充実した毎日を過ごした。
夫が町田にある病院で入退院を繰り返していたので、面会に便利なよう玉川学園にアパートを借り、夫が平成12年に亡くなってからは、やはり玉川学園にある老人ホームに入った。いつも「よりかかる」ことはなく、自分で考え実行するのが早かった。
平成に入った頃から、経堂の協会に通うようになり洗礼も受け、玉川学園に引っ越してからは、古淵の教会の礼拝に参加、水曜の聖書の学習会にも出席、家庭的な教会の雰囲気を好み、週に二回は教会のみなさんと祈る機会をもっていた。
ゲームが好き、毎日一万歩を歩く、おいしいものが好き等、エピソードをあげていたらきりがないが、孫5名、曾孫6名に慕われ、本人も良く皆をかわいがっていた。
平成21年7月30日、出血性脳梗塞で倒れ入院、23年8月21日、約2年の闘病生活を終えた。最後は眠るようだったという。
一週間がたって! クリック
おかはんをよろしく、ブログもあります!
葬儀もおわり、やっとほっとしました。
皆様からコメントをいただき、有り難う御座いました。
落ち着きましたら、ゆっくり返事させていただきます。
葬儀の準備、かかってくる電話の応対、
決めなければならないことをこなす等、
あっという間の一週間でした。
牧師さんに言われて作成したおおはるさんの経歴。
ここに、書いておきます。
大正8年12月15日 港区麻布飯倉に6人兄弟の三番目、長女として生まれる。
森村幼稚園、成城学園小学校、成城学園女学部に入学、3年次に玉川学園女学部に編入。同女子高等部を卒業。その後玉川学園小学部にて数学をしばらく教える。
学生時代は、玉川学園の合唱や体操の講演旅行に参加したり、合唱コンクールに出場したり、NHK交響楽団の前身である新響の第九演奏会に合唱で参加している。
昭和17年、Yと結婚。広島市で新婚生活をスタート、転勤により東京阿佐ヶ谷に移る。昭和18年、長女Hが誕生。その後北軽井沢に疎開。夫の転勤にともない、御代田(みよた)、小諸、穂積(ほづみ)と移り、小諸時代(昭和22年)二女toty誕生。昭和25年に東京洗足のYの両親と同居、26年には世田谷の経堂に移る。
家庭生活を営むなか、
中江ゆりさんがなさっていた料理教室に通い、のちには長女Hの友人を集めて自宅で料理を教えていた時期もあった。
木彫を女学校時代の美術の牧田先生に長期間習い、狛江にあった「きつつき会」で習うかたわら、横浜産経学園で教えたり、自宅、杉並でも教室をもって、教えていた。
英語は、経堂にあるフレンド英語教室マザースクラスに50年通い続け、現在95歳になられる兼子先生を中心に三人の生徒の一人として、病にたおれるまで、毎週火曜日の教室を楽しみにしていた。長いこと、ハリーポッターを原著で読み、最近は赤毛のアンを読んでいるといっていた。
(以下は、兼子先生から寄せられたメッセージです。
20数名で始めたクラスも高橋さん(85歳)佐野さん(93歳)、私、兼子(95歳)と3名になってしまいました。米沢さんとの楽しかった日々を宝として与えられました日々を過ごしていきたいと思います。)
昭和30年ごろから、卒業した玉川学園の同窓会の事務を手伝うようになり、名簿制作、会計処理等、大いに活躍した。
特に、名簿の管理などにコンピュータの導入を考え、自ら自宅近くのパソコン教室に通い、プログラムから習い、後の同窓会事務に役立てた。また、事務局長、副会長などを歴任した。
同窓会を手伝うようになってから、玉川学園の創設者、小原国芳先生の思い出を残すことを卒業生によびかけ、「野路ははるけし…165人の小原先生」という本を刊行する。玉川学園の創設期を知り、そして小原先生を慕う方々の記憶が残っているうちにとはじめたこの企画のため、ノートパソコンをリュックにかつぎ、入院中の夫の見舞いのかたわら、集めた原稿の全文を入力、校正作業を親友のNさんが担ってくださって、発送まで、一生懸命だった。
平成4年、長女Hがなくなってからは、つくばに住むHの家族のもとに通い、夫が入院の折は付き添って一緒に入院、二人部屋に住まって、他の患者さんのカウンセラーのごとく、また看護婦さんの助手のごとくすごしていた。
一週間のうち、4日は病院、2日はつくばの長女宅、一日は経堂の自宅という暮らしを続けた時期もあった。
Hが点訳に興味をもっていたことから、Hが亡くなってからは、点字図書館の講習会に参加、コンピュータでの点訳作業をマスターし、つくばにある点訳後援会で本の点訳に参加、かなりの数の本の点訳を完成していた。
楽しむことも上手で、小学校時代、ハンネス・シュナイダーに習ったことが自慢だったスキーにでかけたり、世界を旅したり、病人を抱えながらも充実した毎日を過ごした。
夫が町田にある病院で入退院を繰り返していたので、面会に便利なよう玉川学園にアパートを借り、夫が平成12年に亡くなってからは、やはり玉川学園にある老人ホームに入った。いつも「よりかかる」ことはなく、自分で考え実行するのが早かった。
平成に入った頃から、経堂の協会に通うようになり洗礼も受け、玉川学園に引っ越してからは、古淵の教会の礼拝に参加、水曜の聖書の学習会にも出席、家庭的な教会の雰囲気を好み、週に二回は教会のみなさんと祈る機会をもっていた。
ゲームが好き、毎日一万歩を歩く、おいしいものが好き等、エピソードをあげていたらきりがないが、孫5名、曾孫6名に慕われ、本人も良く皆をかわいがっていた。
平成21年7月30日、出血性脳梗塞で倒れ入院、23年8月21日、約2年の闘病生活を終えた。最後は眠るようだったという。
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