峠おやじの「たわごと」

峠、自転車、キャンピングカー、野菜、園芸、時事ネタなどをぼやいてます。

鵜舟を洗う(山下哲司鵜匠)

2024年08月16日 | 歴史

8月4日、長良川の対岸で鵜舟を洗っている場面に出くわした。

2人で舟を傾けて舟底を洗っていた。こちら岸には鵜飼の道具(鵜篭、鵜、松明用の松、鮎箱など)を運ぶ大八車が置いてあったが、どの鵜匠さんかはわからなかった。

次いで8月12日には、一番わかりやすい山下哲司鵜匠のところで、この鵜舟を洗うところに出くわした。しかもこちら岸から皆で出発するところからだったから、たまらない(^^;

なんと総勢5名。哲司鵜匠と息子さん、そして船頭さんだろう。鵜飼は毎晩のようにあるけれど、朝集まれるのはお休みの日とかお盆だからだろう。

山下家の奥さんが対岸に出かけるのを見送っていた。毎朝昨晩の鵜飼に使った鵜篭を川で洗っているときには見たことがないので珍しい光景には違いない。

舟が対岸に着くと総出で舟をひっくり返して洗いにかかる。

金華山と岐阜城が見守っている。ずっと付き合っていたかったけれど、散歩の途中なのでここまで動画を撮ってサヨナラした。

 

3日後の8月15日、また鵜舟洗いに出くわした。今度は総勢3名。

今回も鵜舟をひっくり返すところは見損なったけど、舟を戻すところは撮影できたので、動画もアップしておくよ。

今夏3人の鵜匠さんの鵜舟洗いが見られた。

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一言坂の戦い

2024年08月08日 | 歴史

先月アップした『二三月峠』に続く徳川vs武田の戦跡の峠『一言坂』。奇しくも『一二三』と続く峠となった。


元亀3年(1572年)本願寺や越前朝倉氏、比叡山延暦寺など反信長(信長包囲網)の動きに同調した武田信玄は織田・徳川領への侵攻を開始。三河・遠江の諸城を次々と落としていった。対する家康は武田軍に対峙。先行した本田忠勝、内藤信成の偵察隊が武田軍と遭遇。偵察隊はすぐに退却、家康本隊も退却したが武田軍が追撃、本田・内藤隊は本隊の殿となって、一言坂下で武田軍と戦闘になった。徳川軍は無事浜松城に撤退できたが、二俣城は包囲・陥落してしまう。そののち浜松城籠城から三方ヶ原の戦いへと進んでいくことになる(ウィキ『一言坂の戦い』)。

場所は静岡県磐田市一言にある県道413号線付近。行ってみると立派な石碑と案内看板が立てられている。

看板の内容によると、実際の『一言坂』は後ろにある坂道とのこと。

辿ってきた道なので、先にチェック済。竹藪の前にこれまた懇切丁寧な案内看板があった。

こちらは本田忠勝の活躍をリアルに解説していて例の『とんぼ切り』の大槍の話など書いてあった。

 

実際に訪れたのは昨年の10月。ちょうどNHKの大河ドラマ『どうする家康』が放送されていた頃。

三方ヶ原の戦いなどはとっくの昔に終わっていたし、レポートをアップするタイミングもここまで遅くちゃねえ・・・

歴史好きな皆さんのお目汚しにならなければいいのですが。

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苗木遠山史料館(遠山の金さん)

2024年06月08日 | 歴史

苗木城跡に登城した後、麓に下りてきて車を停めた苗木遠山史料館に入った。

中世・戦国時代から明治時代初期に至る、苗木領の歴史的な文化遺産を保存・公開する史料館だ。

苗木遠山家の資料を中心に、苗木領と苗木城に関わる資料を展示している。

入館料は330円だが、 JAFなどの会員証を提示すると 270円に割引される。

私はイオンカード(WAONカード)で割引してもらった(^^;

 

こういったミュージアムの常で館内は撮影禁止だが、お城の復元模型だけは撮影可だった。

展示物のなかには歴代城主の肖像画や兜甲冑、鉄砲、刀剣などがあった。

注目したのは明治維新後の廃藩置県の際に賜った『遠山美濃守 苗木藩知事を仰せ付ける 明治2年6月』の拝命書が残っていること。一時的にせよ苗木藩知事が存在したわけである。

 

また全国的にも珍しい徹底的に行われた神葬改宗や廃仏毀釈について紹介してあった。

苗木藩は明治新政府の神道国教・祭政一致の政策を受けて、廃仏毀釈運動を開始し、ほかに例を見ない程、 藩の政策として徹底的に仏教施設等の破壊を行った。明治新政府の意図したものではなかったのに、苗木藩は強制的に領内の仏教的要素の払拭を行い、 寺院を打ち壊し、路傍の石仏や位牌までも廃棄させたという。そのため現在でも旧苗木領にはお寺がないそうだ。

なぜここまで徹底的に行ったかというと幕末に平田国学思想を学んだ藩士が明治新政府と良好な関係を保つよう、平田国学思想を藩政に取り入れたため苛烈な政策になったらしい。幕末~明治維新という激動の時代だったとはいうものの、苗木藩ではさらに極端な状況だったのが理解できた。

 

蛇足であるが、遠山といえば真っ先に思い浮かぶのが遠山金四郎景元。遠山の金さんである。

北町奉行としてお白洲で「この桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねぇぜ!」などと啖呵を切るのが時代劇での定番だが、モデルの遠山景元は明知遠山家の分家の6代目。知行500石の直参旗本である。

同じ岐阜県でも恵那市明智町由来の遠山氏なのであった。

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天空の城・苗木城

2024年06月04日 | 歴史

先週、中津川の苗木城跡に行ってきた。

なんかの番組で

『木曽川を見下ろす岩山にあり、中山道の往来が監視できる立地』

と紹介されていて、一度行ってみたいと思っていたのだ。

城の縄張りというか案内図。

備え付けパンフレット。イラスト配置などイマイチだが色々とわかりやすいので。

苗木城は苗木遠山氏が戦国時代(1526年頃)に築城。本能寺の変の後、森氏に城を追われるが徳川氏に身を寄せ、関ヶ原の戦い前に徳川氏の指示で城を取り戻す。この功績により、苗木領1万521石の大名となり、明治4(1871)年の廃城まで約270年、12代にわたって遠山氏が治めた。

一般的に1万石の大名は城を持たず陣屋に住んだが幕末期の大名のうち苗木遠山氏のみ城持ちだった。苗木城は写真のように岩山に造られており全国的にも珍しく、昭和56年に国史跡に指定された。

 

ということで麓の駐車場に車を置いて登り始めた。石畳になった車道などを歩き、最後の駐車場(A1)を過ぎると『足軽長屋跡』があった。

ここから二の丸や天守跡が見える。立てられた看板には『かつての苗木城』として復元CGが掲示されている。

足軽長屋から歩いていくと石畳道などを経て風吹門跡(かざふきもん)へ達する。

ここは大矢倉を北側に配した三の丸への入り口で、今は広場になっておりトイレもあって、観光客の休憩場所になっている。

次に三の丸と二の丸を隔てる大門跡(下の左上の写真)を通り、綿蔵門跡(下の右上の写真)へ。道が登りにかかる。

折り返して坂下門跡(上の左下の写真)。

ここら付近から西方には木曽川、城山大橋、笠置山(上の右下の写真)が見える。

 

さらに菱櫓門跡から階段の折り返しを経て千石井戸(下の左下の写真)に辿り着く。ここは殆ど山頂だというのにどんな日照りでも枯れなかったと伝えられており、千人の用を足すことから千石井戸と言われた。

今でも井戸には水(上の右下の写真)があった。山頂直下なのに不思議なことだ。またここに本丸口門があって二の丸と本丸との境になっていた。

本丸口門付近には大岩があり(下の写真左上)、それを利用して石垣が造ってある。そして天守跡(下の写真右上)が近づいてくる。この折り返しを登っていくと、いよいよ天守台だ。

天守台の展望台(上の写真)は大岩の上に懸け造りで建てられている。岩に穴を穿って支えられている。

展望台に上がると視界が抜群に広がる。

特に木曽川上流方向と中津川市内である。在りし日には中山道の往来を見張ることができたという。

カメラをズームしてみると上部路トラス橋の玉蔵橋の下流に廃線跡と思しきトラス橋が見える(上の画像右下)。

これは予想通り北恵那鉄道の廃線跡だった。やはり「玉蔵橋」と呼ばれていたそうで、錆具合といいその形といいとても格好いいのだ\(^o^)/

天守台直下に独立した大石があった。『馬洗石』という。かつて敵に攻められ水の手を切られたとき、この岩の上に馬を乗せ、米で洗って水が豊富であるように敵を欺いたことから、この名が付いたそうだ。

 

最後に設置してあった展望案内写真?

写真?じたい、本日の曇天とどっちこっちのクリアさなのだが、神坂峠らしき鞍部は見えていたし、恵那山の頂上だけが雲がかかっていたのが残念だった。

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消滅する?岐阜弁

2024年05月13日 | 歴史

5月6日の岐阜新聞岐阜弁の半数超 若者「知らんて」』の記事。反応はしてたけどアレコレ忙しく、やっと記事にできた。岐阜弁については前にも『岐阜弁まるけ』という記事を書いてるけどね・・・

 

新聞記事にあるように例示した50語のうち、回答者の3分の2以上が「意味が分からない」とした岐阜弁が半数を超えた。という。

「ごがわく」「づつない」「かざ」の3語は、回答した全員が「意味が分からない」。小学生では「じょうらかす」(足をくずす)「けなるい」「ざいはらい」の3語で全員が「意味が分からない」とのこと。私も「ごがわく」以外はわからん。

いま70歳の私が分かるのは「ごがわく」「くろ」「ひまざい」「よーさ」「やっとかめ」。でも私が自分から使うのは「やっとかめ」くらいかなあ。

 

それでも9割以上がわかるという机を運ぶ時の「つる」、鍵をかける時の「かう」、バカ・アホの「たわけ」、最下位を意味する「どべ」、捨てるの「ほかる」は当然使うし、健在とのことでホッとした。

 

また、怖いという意味の「おそがい」はいつもコメントいただけるとまぢふさんのブログでも見られますし、几帳面の反対の「だだくさ」、準備するの「まわしをする」美味しくないの「あじない」、疲れるの「えらい」、お粗末の「おぞい」、ちょっかいの意味「かまう」、美容院の「かみいさん」、画鋲「がばり」水分や脂気がなくなつて乾いた状態「カピカピ」、硬いの「かんかん」、工夫するの「かんこーする」、この間の「こないだ」、失礼しました「ごぶれいしました」、お湯などが熱い「ちんちん」、窮屈「つもい」、どこか「どこぞかんぞ」、さわる「なぶる」、ズボラ「なまかわ」、なめる「ねぶる」、汚い「ばばい」、爪でひっかく「ばりかく」お腹いっぱい「ポンポン」、○○だらけ「○○まるけ」太もも「ももた」、やりにくい「やにこい」、招待される「よばれる」。

なんてのが私のボキャブラリーですかねえ。

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災害の記録と記憶(長良西)

2024年02月16日 | 歴史

今朝の新聞折り込みで『ながらにし』が入ってきた。

発行元は長良西まちづくり協議会とのこと。長良西でそれらしい組織というと自治会連合会だ。

『ながらにし』の記事でも表面は「二十歳のつどい」。都ホテル岐阜長良川で行われたもので、私がご町内の自治会長を務めさせてもらったときもコロナ過のなか細々と行われたし、その年は中止になった自治会連合会の新年互例会も行われたとの記事が載っているので自治会連合会が発行元だろう。

今までこのチラシは記憶にないが、第9号とのこと。それならバックナンバーはと思ってネット検索しても出てこない。発行元の長良西まちづくり協議会すらヒットしない。岐阜市役所の『まちづくり協議会設置状況』を見ても存在じたい不明という有様だ(-_-;)

 

そんな情けない『ながらにし』であるが、今回注目したのは下の記事である。

両方とも齢70のジジイにとっては懐かしく嬉しい記事である(^^;

長良西校区は昭和30年に長良から分離して成立。私の弟の生年と一緒だ。

そして災害として伊勢湾台風、水防団結成、その後の2つの水害。長良立閘の完成などが書かれている。

 

伊勢湾台風のとき私ゃ6歳だったから保育所に行ってた。夜中に叩き起こされて小学校に避難した。家は床上浸水。上記の『ながらにし』の記事の中にも濁流が長良西校区に流れ込むとある(校区内の地形など高低差の記事)。

 

そのあともう一度学校に避難した覚えがあるが、翌年のことだったろうか?ウチの母が避難した小学校の2階渡り廊下で(飛んできた瓦により)割れたガラスでケガをした。避難した教室の窓側に机でバリケードをして割れるガラスを防いだという記憶が鮮明に残っている。

 

また昭和51年の安八災害時には夜中に鳥羽川の洪水を見に行ったり、増水で閉められた長良立閘で川下に迂回したため始業時間に遅刻したという苦い思い出が残っている。

 

蛇足だが、昭和36年梅雨前線の停滞による水害のところ。線状降水帯が『線上降水帯』になっている。

線上と記するのは『G線上のアリア』くらいしか思い浮かばないが・・・記事を書いた人はバイオリニストだったりして。

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黒部宇奈月キャニオンルート

2024年01月23日 | 歴史

先日NHKの『ブラタモリ』とBS朝日の『鉄道絶景の旅』

今年からツァーに申し込めば行けるようになる『黒部宇奈月キャニオンルート』を紹介していた。

 

『鉄道絶景の旅』は鉄分は多めだけど純粋な旅番組なので普段は見ていない。

『ブラタモリ』は地形や歴史を学べるので毎週見ている。

 

立山と黒部峡谷鉄道は1967年、私が中二のときに行ったことがある。

まだアルペンルートは開通しておらず、1963年に完成した黒部川第四ダムにも未だ行けてない。

それだけに黒部川の電源開発のすべてがわかる『キャニオンルート』にはとても関心があった。

ということで北陸新幹線からだと新黒部駅、昔からのルートだと富山駅から富山地方鉄道で宇奈月へ。

宇奈月からは電源開発資材運搬用に敷設された黒部峡谷鉄道(トロッコ列車)で進む。

中二のとき、上記の新柳河原発電所はできておらず、旧柳河原発電所が稼働していた。また後述する猫又堰堤も当時現役だった。

そして黒部峡谷鉄道の終点欅平(けやきだいら)に到着。

番組ではそこから工事用トロッコ電車に乗り換えて進んでいく。

少し進むと、トンネル内に貨車を積み込めるエレベーターがあり、一気に260m高度を稼ぐ。

鉄道が急勾配を克服する方法としてループ式とかスイッチバック方式とかアプト式などがあるが、エレベーターは初めて見た。

エレベーターを出ると次のトロッコ列車が待っていた。今までは電気機関車だったが、ここからは蓄電池機関車が牽引する。戦前(1936年工事開始)にエレベーターとか蓄電池機関車なんて、今でもビックリするシステムである。

仙人谷のダム建設地まで下記のように熱湯が噴き出す高熱隧道区間があったため小さ目のトンネルで電化もできなかったのだろう。

ここは乗鞍火山帯と白山火山帯の交差するような場所で地質的にも熱水が上がってくるような場所になっているらしい。

そんな高熱隧道の掘削をするのに頭上と後方から水をかけながら、それも20分交代の大変な工事だったそうだ。

そうして造った仙人谷ダムの水は欅平に造られた第三発電所に送られている。

また仙人谷ダムから地下を進むと地下200mに黒部川第四発電所がある。

その名のとおり、アーチ式の黒部川第四ダムの発電所であるが、写真にもある発電タービンの水車をどうやって運び込んだか・・・さきほどの小さいトロッコかと思ったら・・・その先にあるインクラインで上流側から運び入れたそうだ。

このインクラインで高低差456mを克服したわけだが、これってケーブルカーとどこが違うの?

日本国内でインクラインといえば琵琶湖疎水の南禅寺付近にあるものしか頭に浮かばない。たぶん荷物運搬用をインクライン。旅客用をケーブルカーとして区別してるんだろう。そういえばケーブルカーは鋼索鉄道、ロープウエイは索道というからどれも高度差を克服する手段のひとつなんだよね。

ということで、バスで黒部ダム駅まで行くと、アーチ式の黒部第四ダムまで到着する。

 

しかし第四ダムというからには第一ダムなどがあるはずで『ブラタモリ』ではその秘密。電源開発の歴史を辿って紹介していた。

ここで前述の西洋式のお城のような新柳河原発電所と猫又堰堤が出てくる。

すなわち、新柳河原発電所の隣に昔あったのが黒部川第一発電所にあたる旧柳河原発電所(枠内の写真)で、猫又堰堤から取水していた。現在の新柳河原発電所は猫又堰堤より下流に造った出し平ダム(排砂問題で有名になった)から取水しているが・・・

 

そして前述した仙人谷ダムの水は欅平の黒部川第三発電所で使っているが、その黒部川第三発電所に隣接して新黒部川第三発電所がある。ここは黒部川第四発電所で使った水を再利用(発電)するために造られた。そして旧猫又堰堤付近に造られた第二発電所(欅平との間に建設した小屋平ダムから取水)の地下に新黒部川第二発電所で再々利用するというシステムになっているそうだ。

 

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超ド級

2023年10月07日 | 歴史

昨日の『チコちゃんに叱られる』に出てきたクイズ。第2問は・・・

超ド級「ド」ってなんなの?』

ふつうは一般人と同じように首をひねる私だが、今回はすぐわかった。即座に女房に解説。

「これはイギリスが作った『ドレッドノート』という戦艦の名前。それまでの戦艦を凌駕する火力を持つ艦で、その後各国がこぞって真似して作ったのを『ド級』と言ったから」

まさにピンポンピンポン。女房

「父さん、正解」

「普通の人は知らんやろうけど、兵器ヲタクやからねえ・・・」

ということで、引き続き『超ド級』の解説。

その後さらなる大型戦艦ができたため、それを超弩級戦艦と称し、超ド級と言われるようになった。

ちなみに日本初の超弩級戦艦は下の写真の「金剛」。

金剛はイギリスで造られた。同型艦は比叡、榛名、霧島の合計4艦。

太平洋戦争時、艦名が山なのは巡洋艦(鳥海、妙高など)で、戦艦は旧国名(大和、長門など)だった。排水量が26,330 t(竣工時)で巡洋艦としては大きく、戦艦としては小さかったため巡洋戦艦という位置付けだった。当初は魚雷発射管も8門搭載(その後撤去)するなど巡洋艦的要素が多かった。

 

最高速30kt(改装後)の高速艦であるため太平洋戦争でもガダルカナル沖のソロモン海海戦など幾多の海戦に参加。昭和19年11月米潜水艦の雷撃により沈没。

 

金剛型は大正初期にできた古い戦で、同型艦ともども殆どの海戦に参加、日本海軍の戦艦で最も活動する機会が多い結果となった。

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両親の新婚旅行先、白雲楼ホテル

2022年09月06日 | 歴史

濃厚接触者の自宅待機期間中に見ていたテレビ番組に両親の新婚旅行先のホテルが出てきました。

昭和27年(1952年)、今から70年前です。岐阜で結婚式をしたあと、1日目は福井県のあわら温泉に泊まりました。

翌日は金沢を観光したあと、金沢郊外の湯涌温泉にある白雲楼というチョー豪華ホテルに泊まったそうです。

リンク先のウィキによると

石川県金沢市湯涌温泉にかつて存在した温泉ホテル。1932年(昭和7年)開業した豪華なホテルで、70室の客室を持ち、かつては東洋一といわれていた。

GHQが保養施設として接収したり、吉田茂元首相が来館したり、昭和天皇・皇后が食事をとるなど栄華を極めたが1998年(平成10年)に倒産した。

以後紆余曲折を経たのち、2006年(平成18年)5月から7月にかけて解体

 

母から新婚旅行先がチョー豪華なホテルだったと聞いていて、息子が金沢に在学していた2005年頃、湯涌温泉に泊まりがてら探しに行ってみました。

泊まった先で聞いてみたところ上記のように解体済みで、その姿を母に見せてあげることはできませんでした。

 

そののち、何かのミステリーで登場した記憶がありますが、大々的な舞台にはなってませんでした。

そんな白雲楼ホテルが舞台となったミステリーが、9月3日にBS松竹東急で放送されました。

ミステリー『月蝕の館殺人事件』。初出は1996年8月17日土曜ワイド劇場。とうぜん倒産前です。

出演者は佐野史郎、宇梶剛士、梶原善(鎌倉殿の13人に出てくる暗殺者役)、それに自殺してしまった可愛かずみなど若々しい面々です。

ドラマとしても楽しませてもらいましたが、肝心のホテルが画面に出てきたとき、両親の新婚旅行先と分かり、一挙に期待度が上がりました。

上の画像はドラマの中に映っていたものをアレコレ集めてみたものです。

豪華な様子はよくわかりました。

それでは親のアルバムに残っている写真と対比してみましょう。

外観はおおかた合っていますね。

次に母を写した場所がイマイチわかりません。

後ろのアーチ窓を頼りにこの辺かなと思える場所を対比してみましたが、

ここだとすると腰かけている高さが合わないように感じます。

それに豪華ホテルで浴衣に丹前というのも場違いない感じがしますけれど、

大昔のトラベルミステリー『寝台特急北陸殺人事件』1985年の動画を見ると、浴衣・丹前もあったようなのでこれで合ってるようです。

 

母に録画した番組を見せたいところですが、2時間番組を見てもらう時間もないので、とりあえず写真にして見せました。

肝心の母の記憶がかなり曖昧になっているので、感動はしてもらえませんでしたが、

長年の悲願?は達成できたかなと肩の荷がひとつおろせた気分です。

 

そして昭和27年(1952年)にこんなホテルに泊まることにした父にも敬服しています(*^_^*)

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岐阜公園の動物園

2022年04月27日 | 歴史

4月17日に岐阜新聞に載った記事の写しです。

かつて岐阜公園にあった動物園の記事が写真とともに紹介されていました。

年配の方なら覚えていらっしゃるでしょう。岐阜公園にはライオンもペンギンもいたのです。

もう忘れてしまいましたが、この記事によると1997年に動物園、99年に水族館を廃止したそうです。

私のHPが96年の年末に開設しましたから、ほぼ同時期だったわけです。

 

こんなエポックメイキングなことを写真を撮るとか何で記録しておかなかったのでしょう?

今思うと残念ですが、当時はフィルム写真でしたから今みたいにバカスカ写真は撮れませんでしたし、

ネットも電話回線なので油断すると月に2万円かかってしまった時代でしたから致し方ないでしょうね。

 

初代のライオンは記事にもあるように『金牡丹、銀牡丹』という名前でした。水族館はうす暗く館内のど真ん中にバカでかい水槽がありました。

また今の金華山トンネル付近には岐阜県図書館があって、大学の卒論を書くのに県図書で岐阜県の経済本を借りたりしましたから大変懐かしいです。

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道との遭遇(岐阜の筋骨路地)

2022年04月20日 | 歴史

「道との遭遇」なんて、

998年に、いちど私のHPのタイトルにしたような番組が最近CBCテレビで放送され始めました。

初回は気が付かずに見逃しました。番組HPによると「静岡の隧道」だったらしいです。

2回目の「大阪の激狭商店街が国道」から見だしました。

そして3回目が「岐阜の筋骨路地」。どこじゃろうと思って見てみると、下呂市の飛騨金山やん!

 

この絵地図は行政?が作ったものらしいのですが、国道41号線「飛山」の反対側にある旧道(飛騨街道)筋付近にあるようです。下の画像のように道幅1m弱の道路?がアチコチにあって、水路沿いには水路をまたいだ建物が一杯ありました。

なかには地図にも書いてある「ハウルの動く城」を彷彿とさせる建物があったり、ナカナカの面白さです。

なんでこんなに路地が発達したのかというと、飛騨街道の宿場町であった金山に少しでも店を多く作りたいと思い、それぞれの間口を狭くしたために、こんな路地ができたそうです。そしてその狭さを克服するために増築するときは水路の上に張り出したり、3階建てにしたりしたとのことです。

そして、下の画像が地図に載っていた施設のひとつです。

1枚目の画像ですぐ「銭湯」とわかりました。とっくの昔(昭和)に廃業した銭湯です。

入ってみると、やはり狭いです。そして湯舟が深~い。ふつうの銭湯のように座って入ると多人数が入れないので立って入る「立ち湯」というスタイルだったそうです。

そんな昔(昭和61年の廃業時)の写真も残っていて、なかなかディープな回でした。

ちなみに紹介してくれた道案内人は岐阜の人で、愛車ももちろん岐阜ナンバーでした(^^;)

 

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長久手古戦場 色金山(いろがねやま)

2021年04月13日 | 歴史
先週、孫に会いに行ってきました。

近々「まん延防止措置」が出そうな愛知県ということもあって、孫の散歩に付き合うスタイルです。

今回は秀吉と家康が直接対決した小牧長久手の戦いの長久手古戦場に近い色金山(いろがねやま)公園に行ってきました。

下の写真にある床几石は家康が腰掛けて軍議をめぐらしたと伝えられています。

山頂に建てられた砦状の展望台の下に軍議をめぐらすレリーフがかけられていました。



小牧長久手の戦いは犬山城付近に陣取る秀吉と小牧城付近の家康が対峙し、

膠着状態になった戦況を打破しようと、秀吉側が別動隊で三河を襲撃しようとしたものです。

しかし、これを察知した家康軍が長久手で池田・森隊と堀・羽柴隊との間を分断し、

森長可、池田恒興、元助父子が打ち取られ、局地戦としては家康の勝利に終わった戦いです。

小牧・長久手の戦い

上にあげた写真の他に長久手合戦慰霊碑や合戦の解説文、そして家康方で戦死した将、伴若狭守盛兼の墓碑がありました。

数年前の大河ドラマ「女城主直虎」の舞台となった浜名湖北辺にある気賀の領主だったとのことです。

気賀の北東には井伊谷や直虎が出家した竜潭寺もあります。



盛兼は信長の家臣で伊勢亀山城主でしたが、家康の伊賀越えに協力した功労者とのことなので

井伊家とは関係ありませんでした。

しかし、思わぬところで大河ドラマのストーリーをなぞり直すことになりました。

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渋沢栄一関連

2021年02月21日 | 歴史
今回の大河ドラマ「青天を衝け」の主人公、渋沢栄一については2度取り上げています。

「F35Aから新紙幣 」と先日書いた「三十三銀行」です。

それぞれ新紙幣の顔ということと、国立銀行条例でできた名前に数字が付いた銀行の話です。

すると、今朝来た新聞に渋沢栄一が揮毫した扁額の写真が載りました。





この扁額の言葉「順理則裕」を刻み込んだ時計を銀行の創立140周年の記念品として全行員がいただきました。いちど電池切れになったので分解し、ボタン電池を入れ替えて今も動いています。



記念品といえば創立110周年のときにはこんな時計が配布されました。


「110」の数字を時計の文字盤と合わせてデザイン化したナカナカの力作です。





こちらは単3電池1本です。30年以上動いているので、動作は微妙になってきていますが、まだまだ現役です。


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「麒麟が」終わりました

2021年02月07日 | 歴史
昨年度の大河ドラマ「麒麟がくる」が終わりました。
久しぶりに岐阜を舞台にした大河なので、岐阜ではドラマ館や麒麟のモニュメントを付けた鵜飼観覧船などそれなりに盛り上がりました。



また日本史史上最大の最大のミステリー、本能寺の変をどう描くかも注目のひとつでした。なにしろ光秀側から描く大河ドラマは初めてですからね。見終わってみて、過去に語られてきたエピソードも含め、無難にまとめたなという感想です。

先回、帰蝶と光秀の会話で
「道三さまなら、どうなされましょう?」
「毒を盛る…。信長さまに」
帰蝶の初めの夫、美濃の守護大名だった土岐頼純に毒を盛ったエピソードを彷彿とさせます。
「今の信長さまを作ったのは、父であり、そなたなのじゃ」
「よろず、作った者がその始末をなすほかあるまい。違うか?これが、父上の答えじゃ」
なかなか納得のいく会話です。

その信長の人物像も若いころから承認願望が強い人物として描かれ、父や母に認めてもらいたい、誉めてもらいたいのに認めてもらえないことから僻んだり横暴な振る舞いに出る。非常によくわかります。それが道三や帰蝶、光秀に認められて天まで昇ります。しかし途中から将軍、浅井長政、周りの大名、天皇、帰蝶、光秀など次々と離れていくと、承認願望が満たされない信長が凶悪化していくのも理解しやすいです。

帰蝶とのやりとりや天皇の示唆、近衛前久の独白など、黒幕説もそれなりに散りばめながら、今回は
「公方さま(将軍足利義昭)を討て」
と信長が光秀に命じます。その話は過去に取り上げられたことはなく、それが最終的な引き金になったというスタンスは、ある程度説得力はあります。

現在新聞で執筆されている安部龍太郎氏の「徳川家康」ではイエズス会の関与が書かれていますし、本当のところはわかりません。また公方さまを討てと命じられたあと光秀が細川藤孝に相談し、彼は念のためと称して秀吉に顛末を連絡したため秀吉が光秀の葛藤を知ったということにしてあります。秀吉が事前にクーデター計画を予測していた説への説明としてあります。

細川藤孝は光秀の盟友ですが、信長に自害させられた三淵藤英の弟で細川家には養子で入っています。細川家の中では立場が弱いでしょうし、兄の例を見るまでもなく、剃髪して情勢眺めになったのは致し方ないところでしょう。

いずれにしても麒麟などという伝説の生き物に仮託して、ミステリアスな光秀の生涯を1年間放送してもらえました。架空の人物が何人か登場して無理な話をでっちあげ、私も何度か突っ込みを入れさせてもらいましたが、総じて楽しませてもらいました。

PS
明智家の女性の描き方は天真爛漫すぎます。最終回の玉(ガラシャ)。すでに子持ちのはずですが、そんな感じは全くなし。帰蝶なら実子はいないのであの描き方で良いと思いますが・・・


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黒い雨裁判

2020年08月18日 | 歴史
本日も遅きに失している話。黒い雨訴訟です。

75年前の8月6日、広島市に原子爆弾(原爆)が落とされた直後、放射性物質を含んだ「黒い雨」が降りました。この雨で病気になった広島県内の84人を、新たに被爆者と認める裁判の判決が7月29日に言い渡されました。広島地方裁判所は、医療の支援などを受けられる手帳の交付を広島県と広島市に命じました。しかし県と市は、国の求めを受けて8月12日に国と共に控訴しました。

黒い雨とは原爆投下直後にすさまじい爆風、上昇気流によって起こる、泥やほこり、すすや放射能などを含んだ重油のような粘り気のある雨のことです。原爆に曝されなくてもこの雨を浴びたり、雨水を飲むことによって発病するものです。

広島において黒い雨の降った範囲は、当時の気象技師の調査などに基づき、爆心地の北西部に1時間以上降った「大雨地域」(南北19km、東西11km)と1時間未満の「小雨地域」(南北29km、東西15km)だとされ、国はそれに基づき「大雨地域」在住の被爆者にのみ健康診断やがんなどの特定疾患発病時の被爆者健康手帳の交付を行ってきました。

しかし実際にはその地域よりはるかに遠い地域でも降雨が報告されており、この基準に対する批判が多く、発病者も多かったため裁判に至りました。また広島大学原爆放射線医科学研究所の星正治教授らが2008年から2009年にかけて行った調査により、爆心地から8km離れた「小雨地域」の土よりセシウム137を検出したそうです。

そんな時勢のなかの判決だったわけですが、国は「十分な科学的知見に基づいた判決とは言えない」「これまでの最高裁判決と異なる」などの理由で控訴しました。その一方で、拡大も視野に入れて援護区域の検証を始める方針も示しています。

もともと広島県と広島市は拡大方針だったので控訴する気はなかったのに、なぜ国(厚労省)は?
また厚労省ですか! 厚労省といえばコロナ過でいまは奮闘してらっしゃいますが、年金をはじめとして無能(欠陥だらけの厚労省)ぶりを露呈したお役所ではないですか!偉そうなことを言っても、仕事が増えるのを嫌がっているだけに思えますよ。そのくせ援護区域の検証を始めるって矛盾し過ぎてないですか?

だったら県や市のように判決を潔く受け入れて、さっさと仕事しなさいよ!


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