春. 夏. 秋. 冬. 河童の散歩

八王子の与太郎河童、
つまづき、すべって転んで、たちあがり・・。
明日も、滑って、転んで・・。

後味のいい別れは・・・・・! 

2016-05-26 23:43:01 | Extra
後味のいい別れは、人の心を優しくするのだろうか!
私ごとき人間にも、ひとつ、ひとつ記憶をたどって、語りかけてくださる残像は、
浜辺の潮風に吹かれて、かなたを見ていると、
人のつながりの不思議さになおさら鮮明に浮かび、心が奪われてしまう。
そして、
何げない風景が幼いころへの郷愁なのだろうか、つい目が奪われてしまう。

鎌倉、江の島海岸の風景です。






















私の巾着袋の中にある名刺入れには、
表題『ブログに掲載させてください』と
印刷してある名刺が入っており、渡しながら
カメラを見せ、撮った写真を全部お見せしてから、
削除してほしい写真の時は、当人の前で削除します。
顔写真は必ずお断りを入れてからの掲載ですので
遠慮なく投稿しています。
これはいい、こっちはダメという会話も、又、心安らぐ一瞬でしょうか。
高速飛ばして、今の時刻になりました。
今日はこのあたりで・・・・・。


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関東大震災の年の・・・駅弁!

2016-05-25 21:57:01 | Extra
今日は何もしないで、ゆっくり休養日に当ててみたら、
気が抜けたような、
何もしない日でした!
自分でも随分器用な性格だなと再認識したところです。

かねてより、頼みごとをしていた鎌倉市のお宅から連絡があり、
出かける準備をしている最中です!

横浜驛
崎陽軒
昭和30年(1955)
80円


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

沼津駅
桃中軒
大正12年(1923)



※御鯛飯のコピーは時代でしょうか?
大正12年12月11日、製調の押印ですが

危険
車窓からも
顔や手を
出さぬ様に
して下さい
(東京鉄道局)

この年関東大震災が9月1日にあったばかりの年でした。
別荘地、鎌倉も火事と津波の被害で多くの方が亡くなれた年でした。
コメント (3)
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アクセスが下げ止まりません・・・・・!

2016-05-24 21:47:22 | 節三・Memo
メモを入れる巾着がな~い!
カメラ、よし。
茶色のボールペン、よし。
タブレット、よし。
名刺、よし。
薬、よし。
小銭、よし。

巾着が所定位置にな~い!

ブログコメントに返事を書いたら、
『疲れているようですね』と似たコメントが、ひらひらと羽を広げて舞い戻ってきた。

疲れてた!!
仕事部屋が檻に見え始めていた。

冷静な判断をくださった、意見には従うが最良策!!
ウン・・・・!
この辺で、『迎賓館』のような部屋に立て直す必要がある・・・・ウン

しかし・・・・巾着袋がな~い!!

 

ルーシー・節三・林田さんの記事にアクセスが下げ止まらない!

一冊の著書から「スカッと」した読後の余韻が、醒め、沈黙に変わった日から、
ブログ開設の必要が目の前にちらついていました。
著書の中の林田民子さん、架空の人物でも実在の人物でも、私にはどちらでもよかった。
むしろ、実在の人物として、登場していたらこれほどに被爆者を代表して喝采を受けるに
与えする物語はない、と著書を小脇に抱えて、そっとほくそ笑んだであろう。

ブログが拡散しました。
著書に集う会も発足し、著者も招待されています。
かなりの拡散効果と思いました。

後日、私の心を凍てつかせたのは、
実在の人物として登場した「林田民子」さん
実在の人物「太田節三」をも登場させ、林田民子さんを秘書に
設定し、かつトルーマン大統領を投げ飛ばした「林田民子」は後年、慈善事業に力を注ぎ
林田民子さんが「しばらく節三さんをお借りします」と、
花を添えたルーシーのお墓に語りかける情景でした。

林田民子さんと太田節三の接点?
著書には渡米中の船の中とありますが、
節三の兄六郎の後述からはうかがえません!

著書、お墓参り時間の流れは
日本女性の奥ゆかしさをを表現させた、鳥肌も立つくらいのとても美しい情景でした。

節三はアルゼンチンで兄六郎が身を投じて生涯を終えた道徳的な慈善事業とは、ほど遠く
慈善事業には全く興味はありませんでした。

「林田民子」の存在は著者からも聞けません。

林田民子さんの甲冑の写真は、手が加えられているという情報を受け、
著書を読まれ、胸のすく思いに浸った皆様の気鋭をそぐことが無いようにと願いながらも、
林田さんを探さなければなりません!!

実在の人物「太田節三」を登場させなければよかったのに!
つくづく思います!
しかも一番センセーショナルな部分にです!

巾着袋、ブログ書いてる間に、歩いてくる訳ないですよね。

巾着が無~い! 
明日は何もしません。
出かけます!

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ルーシーはスキャンダルと闘う素敵な女性です・・!

2016-05-22 22:53:24 | 節三・Memo


大叔母ルーシー・バニング・太田

livedoorブログ、2016年5月21日で紹介され
コメントをいただいた記事を・・・。

Mr.Toyoguchiのgooブログ「太田節三の慕情」最新記事を抜粋で御紹介致します。

Mr.Toyoguchi「Lucy Banning ルーシー・バンニング(バニング)は
1926年当時来日した時は、まだ夫とは婚姻関係にありました。
来日の撮影写真は同年5月ですが、間もなく梅雨の終わり、
ルーシーと節三はアメリカへ帰国します。
ルーシーと3番目の主人との婚姻が離婚の手続きで終止符を打つのは
1927年、1月12日です。
この日まで二人は静かに暮らし、1年後1928年1月に入籍します。
二人の婚姻は、アメリカで正式に執り行われています。
1926年の滞在エピソードは沢山ありますね。
ルーシーは節三がまだ若いころ、ルーシーの母の影響で、一人訪日しているようです」。

「1929年 25歳でアメリカへ渡った林田民子さん。
とてもきれいな方ですが、
花嫁写真・・・アメリカの男性が日本から花嫁さんを捜すため、
自分の写真を日本に送り、応募した女性が当時たくさんいました。
林田民子さんはその中の一人で生まれは、
熊本県。
生涯アメリカで暮らしたといわれております。
どなたかご存知でしょうか?
夢の中に生きた男たち著者 前田秀峯さん
著書の中では林田民子の名前で登場し、
1945年 アメリカが日本に原爆の投下を決断したトルーマン大統領を、
投げ飛ばしたと書かれております。
その女性に触れてみたくなりました」。

Mr.Toyoguchiは、太田節三氏甥子さん。なので、
ルーシー・バンニング(バニング)さんはMr.Toyoguchiの「義理の叔母」。
ルーシーさんに関する米国記事は数年前に彼女がモデルとなったノベルズが
発売でかなり増えている。
それでもそれらの記事は2004年の
某ページ(日本人の原文がもとになっている、と書かれている)
からの記述がほとんど。
日本人格闘家の先駆者・太田節三氏はルーシーさんの
「一目惚れ」以降、米国マスコミの嵐に吹かれていた。
米国ページで太田節三氏関連の記事がほとんど出てこないのは、
「米国人と外国人の恋愛を良く思わない傾向」が米国に現在もあるからだろう。
Ad Santel アド・サンテル氏との対戦記事も出てこないのだ

一昨年の夏、「林田民子エピソード」が日本中のTwitterで大ブーム。
そのエピソードでは、太田節三氏と林田民子女史がホワイトハウスへ
招かれたことになっている。
太田節三氏が著名な方であっても、政界関係者ではない日本人を
ホワイトハウスに招くだろうか。
その林田民子女史に柔道を教えたのが太田節三氏で、
林田女史は太田氏の秘書だったという。
「夢の中に生きた男たち」、夢が感じられる著書名だけども。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

{toyo0181}
上記ブラウンカラーは私が書いた記事の抜粋を読者が自分のブログに、
英語と日本語で転記したもので間違い無く、
英語版も読まさせていただきました。
又、記事の一部への返信は幾度か書かせていただきました。

林田民子さんの記事は2日前に書きました。
林田さんのことは私は否定するために、知りたくなったのでは無く、
ただ「夢の中に生きた男たち」の中では林田さんと節三が、
ありえない想定で描かれ、読者を喜ばせ、ブログでは相当話題になった、
著者が知る林田さんはどんな方か、他意なく知っておきたい願いだけだったのです。

残念ながら、太田と林田さんの接点がないのです。
節三は秘書を傍らにする仕事ではなかったと・・・。

私が今缶詰状態になっている、1930年前後アメリカと日本の時代背景、
それは、食べ物・交通手段・着物・建造物・貧民街と、富裕層の生活・人物像・・・等
能力以上の資料の収集とまとめに鉢巻をしているわけですが・・・
これこそ、帰国後の節三の足跡を知る手掛かりと思っております。
この調べで「夢の中に生きた男たち」の著書を云々するつもりは
毛頭なく、帰国後節三を取り巻く、政界等その苦悩に身を焦がした心情を
つい・・・。

アメリカでサンテル戦も、節三も話題にならないのも、アメリカを否定し、
日本を優位に描いた某作家の記事が影響されていませんか?
自分の国を否定されたら、誰でも面白くないでしょう!

私と同じサイトのブログに記事を寄せる、アメリカに住む
某作者も警鐘しています。
オバマが広島で、sorry と発しても、「原爆投下は間違っていた」と
政治的にとらえてはいけないと。
アメリカ人は、自尊心の強い人間の集まり、自分のしたことを間違いと
認めないのだと。

・・・・・・・・・・・・・・

大伯母ルーシーはアメリカ人で、スキャンダラスな女性。
日本、日本人の登場など、必要のないほど話題が尽きません。
アメリカのブログは、アメリカで楽しめる内容でいいのでは?
日本人に知らせるための学術書を書いているわけではないでしょう!
無理にアメリカの著書、ブログに、サンテルや武術、節三を登場させなくても!
それでいいのでは?

いつも真摯で、貴重な記事ありがとうございます。
練習で声を壊しませんよう、たまには休憩ください!
 
※少し疲れて拙い文です {Toyoguchi}

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吉川英治の馬力と…さやえんどう!

2016-05-21 22:38:12 | Extra
末娘、香屋子が小学校1年になった時、7年かけた「新・平家物語」が完結した。
原稿の量は、400字詰めで1万2000枚。
積み上げた原稿用紙の横に香屋子が立つと、
原稿用紙の方が50センチほど高かったという。


吉川英治の書斎

へぇ~ すげぇ~


こんないい天気なのに、自分の部屋が檻に見えてきた!
何度か脱出を試みたが、結局、すごすごと舞い戻ってくる・・・・・!
一日中、思い切り外でぶらぶらしてみたい・・・・と
思ったとき
「さやえんどう」と「母」が瞬間クローズアップした。

4月の初め、武田信玄の娘、松姫のお寺に行った帰り、
近所の畑にさやえんどうの花が咲いて、「きれいだなぁ」と見惚れた時があった。

思い出の少ない「母」が
さやえんどうの味噌汁を吸う私を見ている。
具は山ほど入っていた。

ヘタと筋を取り除くのが面倒で御椀一杯吸うのに
別の具の何倍も食卓の前に座っていた。
さやえんどうの時だけは、母も正面に座っていた記憶がありありと浮かび、
一瞬、首を・・・クィ・・と持ち上げてしまった。

私は性来、落着きのない子であったかもしれない!
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