旧約聖書に「バベルの塔」の物語があります。人が神のようになろうとして、高い塔を建設します。塔が天に届けば、神のように偉くなれると考えて、建設を始めました。このままではいけないと思った神さまは、人にあることをして塔の建設の目論見を諦めさせました。それは、天から爆弾を落として人々を皆殺しにするのではなく、互いの言葉が通じ合わないようにするということでした。人々は、「はぁ、お前の言っている意味がわがんねぇ」状態になって、塔の建設ができないようにして、人々をその地から散らしてしまわれたというお話です。
高い塔を建設し、神のようになろうという考えは、権力を持つとか、巨万の富を追うということと通じているのではないかと思います。その場合、1%の者が権力を持つ者であったり、富裕層であったりするのではないでしょうか。皆が平等なのではなく、そこにいる99%の者は、奴隷ではないかと思います。それが、高い塔を建設して、神のようになる場合の全体像ではないかと思います。皆が平等だったら、高い塔など建設しないと思います。誰かにやらせて、はじめてできるのではないでしょうか。
バベルの塔の物語は、神さまが傲慢な人間を裁かれるという物語として伝えられているように思います。それは、間違ってはいないと思いますが、裁きの対象は、1%の者たちに向けられているのではないかと思います。そのことによって、神さまは、99%の奴隷を1%の権力者・富裕層から解放したのではないかと、そんな風に思います。そして、解放の方法は、1%の権力者・富裕層の言うことに、99%の奴隷が耳を傾けず、言うことを聞かなければ良いということではないでしょうか。99%の者同士が、「はぁ、お前の言っている意味がわがんねぇ」と言い合うというのではないように思います。
99%の奴隷を解放し、そこに留まらずに散らされたというのは、人が多く集中するところに便利なこともあるけれども、権力が生じたり、富が集中して、その結果、奴隷にさせられてしまうから、そうならないためには散らばることだ、そう考えたら、神さまの裁きというよりも、99%の人を1%の人から解放し、幸せに暮らせるようなを示されたと考えることもできるのではないでしょうか。神さまに裁かれたのは、権力を求め、富を求め、神さまのようになろうとする1%の者に対する裁きであり、99%の奴隷には祝福を与えようとしていたのではないかと思います。
現代の社会も、同じような状況にあるように思います。人が集中し、権力を持ち、富も集中して富裕層が生まれています。インターネットで一つにつながり、マイナンバーで一元管理され、個人の情報は全部筒抜け状態で、完璧な奴隷支配が巧妙に完成しつつあるように思えます。まるで、バベルの塔のような有様ではないかと思います。いまさらネットを止められるか、不便な生活に耐えられるか、色々とハードルはありますが、これで食料まで管理されるようになったら、完璧な奴隷状態といっても過言ではないのかもしれません。
そこから解放され、奴隷と反対の方向へ「散らされる」方法が、「はぁ、お前の言っている意味がわがんねぇ」状態になるということ、別の言い方をすれば、権力とか富とか、奴隷とかの価値観を共有しないということではないかと思います。そして、これまで盲従していたことを反省し、同じような99%の人たちと力を併せて1%の奴隷支配に背を向け、世界に散らばって、それぞれ小さい集まりで生活することを「了」とする生き方へと価値を転換するということではないでしょうか。そうはさせじと1%の側からの反撃もあると思います。右だの左だの、赤だの黄色だの、差別だのと言っている場合じゃないです。それらは、1%の側が設置した分断装置です。
現代の状況を見ていると、バベルの塔の物語は奥深いものがあり、色々と教えられるものがあると思う今日この頃です。
何だか、この曲を思い出しました。よかったら、聞いてください。
真島昌利 - 情報時代の野蛮人