「愛は民族の壁を越えていた」 使徒言行録 10章34~43節
聖書は、ユダヤ人が選民意識を持っていたことについて伝えています。自分たちは、神さまと契約を結んでいる民族であるという自覚があり、そのことが大きな理由となってユダヤ民族以外の人たちのことを「異邦人」と呼んで見下していました。異邦人コルネリウスは、ペトロに出会ったとき、その足下にひれ伏して拝みました。ペトロは、コルネリウスを起こして、「お立ちください。私もただの人間です。」と言いました。ペトロがそのような言葉を言えるようになったのは、人を分け隔てしてはならないと、幻を通して教えられていたからでした。ペトロは、そのことを頭で理解できてはいましたが、異邦人コルネリウスとの出会いによって、本当の意味で民族の壁を乗り越えることができたのではないかと思います。
旧約聖書を通して教えられているのは、神さまとの間に結んだ契約の出来事と、契約を結んだ神さまに背き続けたユダヤ民族の歴史であるように思います。言い替えれば、歴史をどのように生きてきたかということであり、それらは変えようがない過去の物語のことです。けれども、これからの未来については、イエスさまの愛の教えによって、如何様にでも変わることができるはずです。ペトロは、ユダヤ民族という壁を乗り越えて、異邦人と呼び称して見下していた他の民族の人々と、イエスさまの愛の教えによって結ばれる道を選びました。キリスト者は、世界中の人々とイエスさまの愛によって結び合わされている者たちであると言えます。キリスト者は、イエスさまの愛を基準として、その生き方を転換することができる可能性を持った存在ではないかと思います。イエスさまの愛とは、自己愛ではなく、他者愛と言うべきものです。