「弱い者が召されていた」 コリントの信徒への手紙一 1章18~31節
「十字架の言葉」とは、イエスさんが十字架の死によって示された愛と赦しの教えのことです。この「十字架の言葉」とは、「他者愛」を伝えています。それに対して、多くの人々は、自分の命を失ってまで、他人を救うなどということは「愚かな」ことであると思うものです。それは、「自己愛」というものです。そんな「自己愛」というものは、「他者愛」というものを認めることができないものです。
パウロは、「そこで神さまは、宣教という愚かな手段を用いて信じる者を救おうとされた」と教えています。パウロの言う「宣教」とは、どういうものなのでしょう。それは、多くの人々が「愚か」と思うような方法によって「十字架の言葉」を宣べ伝え、多くの人々が「弱い」と思うような人たちが用いられて「十字架の言葉」を宣べ伝えることでした。
神さまは、十字架によって示された「他者愛」を伝えるために、無学な者、無力な者、無に等しい者、身分の卑しい者、すわなち「弱い者」を召されました。パウロは、神さまがそうされるのは世の権力者や世の知恵ある者を無力にするためだと教えています。言い換えれば、人が互いに平等でありさえすれば、「他者愛」を自ずと認めるようになれると教えているのではないかと思います。