旅の窓

平凡ながら列車の旅が好きで、その様子を紹介しています。
『閑雲野鶴日記』は日々の自由気ままな生活の記録。

日本最長距離普通列車で行く道東の旅18 旭川まで

2015-02-17 05:10:17 | 日本最長距離普通列車で行く道東の旅
多くの場合スイッチバックは、急勾配を上り下りする場合に坂の途中に設置されるのですが、ここ遠軽は平地にあります。


 石北本線か開通する前は、鉄道で旭川から北見方面に向かう場合、今は廃線となった名寄本線を経由していました。そこに石北線の旭川から遠軽までが後から開通し、遠軽駅を分岐駅にしたため石北本線の列車がスイッチバックすることになったのです。石北線との分岐点争奪をめぐって遠軽と対立し、それが分村問題に発展してた安国駅が分岐駅になっていれば、このスイッチバックは存在しなかったのですが。


 見晴らしの良い高台のアイヌ語「インカルシ」が転訛し遠軽の地名のもととなった瞰望岩を右の見て旭川に向かいます。遠軽からは特別快速の名にふさわしく4つの駅だけに停車していきます。
遠軽の次の駅、瀬戸瀬を通過し、丸瀬布駅に到着します。駅舎は丸瀬布町生涯学習館に併設されていて立派に見えました。「

(丸瀬布駅)


 SLと昆虫のまち丸瀬布」の看板やホームの「名所案内」にある「林鉄雨宮号の走るいこいの森」とあるように、昭和3年に丸瀬布・武利意森林鉄道に配置された、東京・雨宮製作所で製造された初の国産11トン機関車「雨宮21号」が、「森林いこいの森」で動態保存されています。


 余談ですが、日本初の森林鉄道は明治42年12月に開通式を行い、昭和42年11月に廃止するまで58年間運行した津軽森林鉄道です。
 丸瀬布駅では、網走行特急オホーツク1号の通過を待って出発しました。


 ここからは、湧別川に沿って「白滝」と名の付く駅が続きますが、湧別川に注ぎ落ちる「白滝」が地名の由来となっているそうです。

(湧別川)


 丸瀬布駅の次の下白滝駅は通過。この駅に停車する列車は午前の下り1本と午後の上り3本という少なさです。
 次も通過の旧白滝駅。ここも下白滝駅と同じく列車は午前の下り1本と午後の上り3本しか停まりません。旧白滝は名前のとおりここは白滝村で最初に開けた地域だったそうですが、大正時代には村の中心が今の白滝に移っていたそうです。
 旧白滝駅から白滝駅の間は途中、両側に山が迫って来たり、狭い平地のは麦や牧草地が点在していました。
 白滝駅は、長いホームを持つ特急停車駅。ここから徐々に高度を上げ峠越えにかかります。


 次に通過する上白滝駅から隣の上川駅までは34.0km。在来線で日本一長い駅間は石勝線新夕張駅・占冠駅間34.3kmで一歩及びません。
 上白滝駅から上川駅までは、上白滝方から順に奥白滝、上越、中越の3つの信号場がありますが、このうち上越は昭和50年まで、奥白滝と中越は平成13年までは駅でした。また、上川駅と中越駅の間には天幕という駅もありましたが、ここは平成13年に完全廃止になりました。

(上白滝駅・奥白滝信号所間)


 更に列車は登っていきます。奥白滝信号場を過ぎ25‰の勾配を登ったところに、標高857mの北見峠の下を通る開通時には道内最長だった4356m石北トンネルがあります。

(奥白滝信号場)


(石北トンネル)


 石北トンネルを抜け、スノーシェードを通ると、上越信号場です。駅当時設置された「石狩北見国境標高六三四米上越駅」と書かれた看板は今でも健在でした。

(上越信号場)


 道内で、乗客が乗り降りできる最も標高の高い駅は、トマム駅で標高538mですから、それより約100m高いところに有り、開業当時は道内で最も標高の高いところにある駅でした。
 上越信号場からは完全な山の中を、今度は25‰の勾配を、国道333号や旭川紋別自動車道と何度も立体交差しながら中越信号場に向かって下っていきます。

(上越・中越間)


 中越信号場を過ぎ、開けてくると間もなく上川駅です。

(大雪山系 中越・上川間)



(上川駅2・3番ホーム)


 特別快速でありながら、1両という身軽さもあった白滝駅からここまで37.3㎞を37分かけて走ってきました。つまり時速約60㎞。この後の特急オホーツク6号は、特急でありながら4両編成のためか、39分かかります。ちなみに普通列車は途中上白滝駅に停まりますが、1時間14分かかります。それだけ勾配がきついことを意味しています。
 特別快速きたみは上川駅を出ると、東雲・安足間・愛山・中愛別・愛別・伊香牛・将軍山と通過し、当麻駅に停車し、その後、桜岡・北日ノ出・東旭川・南永山・新旭川・旭川四条を通過し、終点旭川駅に到着します。
上川駅を出ると、左右に石狩川が見え水田も見られるようになり、ついで市街地らしきものが見えてくると、最後の停車駅当麻に到着します。

(愛山・中愛別間石狩川)




 当麻駅を出ると田園風景が続き、遠くに旭川市街地が見えてきます。

(当麻駅・東旭川駅間)


 新旭川駅から宗谷本線と合流し高架上を複線で進み、旭川駅に12時20分に到着しました。

(旭川四条駅・旭川駅間)


 昨年の稚内の旅の時はまだ工事中で、地平ホームだったのが高架ホームになっていました。


 つづく

日本最長距離普通列車で行く道東の旅17 遠軽まで

2015-02-13 04:54:12 | 日本最長距離普通列車で行く道東の旅
第12列車名 石北本線 特別快速きたみ 旭川行 乗車距離184.7km
北  見          09:12発
西 北 見(にしきたみ)   09:17着 09:17発
東 相 内(ひがしあいのない)09:20着 09:21発
相  内(あいのない)   09:26着 09:26発
留 辺 蘂(るべしべ)    09:36着 09:36発
西留辺蘂(にしるべしべ)    レ
金  華(きんか)     09:42着 09:42発
生 田 原(いくたはら)   09:57着 09:57発
生  野(いくの)       レ
安  国(やすくに)    10:06着 10:06発
遠  軽(えんがる)    10:14着 10:18発
瀬 戸 瀬(せとせ)       レ
丸 瀬 布(まるせっぷ)   10:36着 10:39発
下 白 滝(しもしらたき)    レ
旧 白 滝(きゅうしらたき)   レ
白  滝(しらたき)    10:57着 10:57発
上 白 滝(かみしらたき)    レ
上  川(かみかわ)    11:34着 11:35発
東  雲(とううん)      レ
安 足 間(あんたろま)     レ
愛  山(あいざん)      レ
中 愛 別(なかあいべつ)    レ
愛  別(あいべつ)      レ
伊 香 牛(いかうし)      レ
将 軍 山(しょうぐんざん)   レ
当  麻(とうま)     12:04着 12:05発
桜  岡(さくらおか)     レ
北日ノ出(きたひので)     レ
東 旭 川(ひがしあさひかわ)  レ
南 永 山(ひがしながやま)   レ
新 旭 川(しんあさひかわ)   レ
旭川四条(あさひかわよじょう) レ
旭 川(あさひかわ)   12:20着
 北見駅からは9時12分発の「特別快速きたみ」旭川行に乗ります。「特別」という名が付くように、特急列車は2時間50分台で旭川に着くのに対して、こちらは旭川まで31ある途中駅の内、12駅に停まり、3時間8分で旭川に着きます。走行速度は特急列車と同等のようですが、車輌は1両。10人ほどを乗せて定刻に出発しました。


 出発してまもなく右にカーブしたと思ったら、高架ではなくトンネルの中。
 ここ北見駅の南側は鉄道のカーブと国道39号等の道路が複雑に交差しているため、踏切で渋滞し事故も多かったそうです。このトンネルが作られたのは昭和52年で、貨物列車を含めて現在とは比べものにならないほど多くの列車が運行されていたので、立体交差化する必要があり、騒音や冬季の積雪を考慮して約2㎞の地トンネルが作られたそうです。日本初の地下立体交差と同時に、市街地における日本最北の地下鉄道トンネルだそうです。
 そのトンネルを抜けて市街を進むと、西北見駅に停車します。JRに移行する前の年の昭和61年11月に臨時乗降場として開業しJR北海道誕生と同時に駅昇格した無人駅でコンクリート打ちっ放しの待合室は、マネギがデザインされたものだそうですがよく分かりませんでした。


 よく分からないと言えば、次に停車する東相内駅と相内駅。
「相内」と書けば、青森県では「あいうち」「あいない」と読むのが一般的ですが、当地ではそれぞれ「ひがしあいのあい」「あいのない」と読むそうで、ちょっとした難読の駅名です。平成9年4月「東相ノ内」「相ノ内」と表記していたものを今の表記に変えたのだそうです。


 それにしても、北見駅を挟んで「高架」と「地下」交差、「いとしの」と「あいのない」駅、何とも言えない存在でした。
 相内駅を出ると、左右にビートや麦の畑が広がり、次第に高度を上げると今度はが優に林が迫ってきて留辺蘂駅に到着しました。

(相内駅・留辺蕊駅間)


 留辺蘂の由来については、北見市のホームページに「旧町名の留辺蘂は、アイヌ語の「ルペシュペ」からでたものです。アイヌ語では、道のことを「ルー」越える道を「ルペシュペ」と称し、本町の場合は佐呂間別川へ越す道の意味で、ペをベにし、シュペをシベにして「ルベシベ」と訳し、さらに漢字の「留辺蘂」をあて、今日にいたっています。」とあります。
 次の西留辺蘂を通過し、北に進路をとり登っていくと金華駅に着きます。

(西留辺蘂駅・金華駅間)


 金華駅で北見から平行していた国道39号と離れて、常紋峠越えに入ります。次の駅、生田原までは全く人家のない区間になります。


(金華駅・常紋信号場間)


 常紋峠の手前には、定紋信号場があります。坂の途中にあるためスイッチバック式で列車交換するため、側線も有り分岐器部分は巨大なスノーシェルターに覆われていますが、現在はこの信号場での列車交換はありません。

(常紋信号場のスノーシェルター)


 信号場を通過すると、常紋峠の下を通る常紋トンネルに入ります。
 このトンネルは凄惨過酷なタコ部屋労働で建設されたことでも有名です。当時も今と変わらず人家のないところで、重労働と栄養不足による脚気から労働者は次々と倒れ、倒れた労働者は治療されることもなく現場近くに生き埋めにされたという言い伝えが残っていて、信号場が有人の時代には、「幽霊が出る」などの噂や、信号場の職員・家族に病人が絶えないという話が伝えられていました。
 そのため、昭和34年に慰霊のための地蔵像が建立されました。その後、昭和43の十勝沖地震でトンネルの壁面が損傷し、昭和45年にその改修工事の際、壁から立ったままの人骨が発見さました。またトンネル入口付近でも大量の人骨が発見されました。これにより「常紋トンネルには人柱が埋まっており、彼らの亡霊がトンネルや信号場に出る」という鉄道員達の噂の一部、「常紋トンネルには人柱が埋まっている」が事実であることが確認されました。
 当時の留辺蘂町は、昭和55年に金華駅西方の高台に「常紋トンネル工事殉難者追悼碑」を建てました。


 トンネルを抜けて細かくカーブしながら峠を下り、再び国道39号と合流して生田原駅に到着。駅舎は豪華な建物で、中には図書館とオホーツク文学館が入っているようです。


 次の生野駅は、もともと仮乗降場として昭和21年に設置された駅で、今でも停車する普通列車は、上りは朝一番の1本と下りは午後の3本で、待合室もない短いホームだけの、秘境駅と言ってよいところでしょう。

(通過する列車がほとんどの生野駅)


 生野駅を通過し、次は停車する安国駅。林業の盛んな地域にふさわしいログハウス風の駅舎に、列車からも見える「木のおもちゃ王国」という木で出来たおもちゃのショーケースがありました。


安国駅を出ると平野が広がり、右左にカーブして湧別川を渡り、左手に瞰望岩(がんぼういわ)を見て遠軽駅に到着します。遠軽駅は折り返し形のスイッチバックになっているので、方向を変えるため乗務員の交代が有り、4分間停車します。

(湧別川)



(瞰望岩)


 つづく

日本最長距離普通列車で行く道東の旅16 北見まで

2015-02-12 05:14:56 | 日本最長距離普通列車で行く道東の旅
第11列車名 石北本線 普通 北見行 乗車距離53.0km     
 始発 知床斜里 06:45発   
網  走          07:31着 07:43発
呼  人(よびと)     07:52着 07:55発
女 満 別(めまんべつ)   08:02着 08:03発
西女満別(にしめまんべつ) 08:08着 08:09発
美  幌(びほろ)     08:16着 08:16発
緋 牛 内(ひうしない)   08:28着 08:30発
端  野(たんの)     08:37着 08:38発
愛 し 野(いとしの)    08:40着 08:41発
柏  陽(はくよう)    08:44着 08:44発
北  見(きたみ)     08:49着

4日目は、網走から室蘭を目指します。

(ホテル サン・アバシリの朝食)



(網走駅前にある流氷の電話ボックス)


 網走駅から旭川駅までは石北本線と呼び、網走駅から旭川駅を経由して札幌駅を結ぶ四往復の特急が走っていますが、網走駅から旭川駅までの直通の普通列車はなく、途中の北見駅や遠軽駅で乗り換えなければいけません。
 そこで、網走駅7時43分発の北見行き普通列車に乗ることにしました。8人ほどの乗客を乗せて出発したキハ54形1両は、しばらくすると右手に見える網走湖沿って進み呼人駅に到着します。


(網走湖に突きだした呼人半島)


 呼人駅は、呼人半島の付け根にあるため湖を見ることは出来ませんが、しばらくすると、林の間から再び網走湖を見ながら進み、図書館に併設された女満別駅に到着します。


 女満別駅から両側を防雪林に囲まれて何も見えないまま停車したのが西女満別駅。女満別空港に最も近い駅ですが、近くに人家も見えない無人駅、勿論アクセスする交通機関もなくここで降りる人もほとんどいないようです。

(西女満別駅)


 再び、防雪林の中を進み美幌川を渡り大きく右にカーブをすると美幌駅に到着します。


 駅の中には美幌林業館と観光案内所が併設されていますが、かつてのように阿寒観光の北の玄関口としての定期観光バスの発着はなく、北海道観光はマイカーやレンタカーが主になっていることを痛感します。

(大阪から来たおじさん二人、青春18きっぷで小樽まで行くとのこと。)


 美幌駅からは丘陵が続き、左右にカーブして緋牛内駅に着きます。

(美幌駅・緋牛内駅間)


 緋牛内駅からは少しずつ高度を上げながら左に大きくカーブし常呂川を渡ると端野駅に着きます。

(緋牛内駅・端野駅間)


 ここからは、国道39号と平行しほぼ一直線に北見駅を目指します。
端野からは北見の市街地に向けて住宅街や畑や水田が続き、小さなログハウス風の待合室がある愛し野駅に着きます。北海道の地名と言えばアイヌ語を語源とするところが多く、愛し野駅のある旧端野町もアイヌ語の「ヌプ、ケシ」(野の端)を意訳したものだそうですが、愛し野の語源は分かりません。駅周辺にはコンビニや郊外型の大型ショッピングセンター並んでいました。


 愛し野駅を出て高架区間に入り柏陽駅に着きます。近くに道立柏陽高等学校があることからその名が付いたと思われます。柏陽駅は、高架駅としては日本最北端であるとともに日本最東端の駅です。

(柏陽駅・北見駅間)


 柏陽駅の次は、高架を下りたところにある終点北見駅。定刻8時49分に到着しました。

(高架を下りると北見駅)



(駅の南北を結ぶ自由通路「みんとロード」)


 北見と言えば、戦前には世界の7割を生産したというハッカで栄えた所で、今でも農業がさかんで、中でもたまねぎの生産量は日本一で、全国のたまねぎの約2割を生産しているそうです。特に新しいブランド「真白」にこだわって生産しているそうです。「真白」の特徴はその名の通り、見た目にも美しい白色で、食感は身がしまっているので、シャキシャキとし、辛み成分は一般の玉葱の1/3なので、水にさらさずにそのまま食べられる甘さのあるものだそうです。そして、たまねぎを無駄なく使うために地元のお菓子屋さんでは、たまねぎを使ったお菓子も作られていました。

(羽前屋の「玉葱パイ」)


 このように農業が盛んな北見市は、内陸という印象がありますが、平成18年に北見市、端野町、常呂町、留辺蘂町が合併し新「北見市」となり、面積は1427.56㎢で香川県の77%にあたり、北海道では第1位、全国で第4位の広さだそうです。また、東西に延びる道路の距離は東京駅から箱根までの距離に相当する約110kmあるそうです。

(北見市のホームページより)


 つづく

日本最長距離普通列車で行く道東の旅15 網走まで

2015-02-11 05:11:21 | 日本最長距離普通列車で行く道東の旅
 知床斜里駅を出発して10分。止別駅に着きました。

(知床斜里駅・止別駅間)


 駅名票の他に「えきばしゃ」の看板。今は無人駅ですが、有人駅時代の駅長事務室で「ラーメン喫茶・えきばしゃ」が営業している為の看板でした。列車を利用するお客さんより、網走まで並行して走る国道334号を車で来る人が断然多いと思われます。


 止別駅を出ると、砂丘の内陸側を進むため、林や畑・牧草地という景色が続き、浜小清水駅に着きます。

(止別駅・浜小清水駅間)


 開業当初は、アイヌ語の「フル・ツイ・イ」(丘のきれている所)から古樋(ふるとい)駅と言いましたが、小清水町の浜にあるので昭和27年「浜小清水駅」に改称したそうですが、砂丘に阻まれて駅からは海は見えませんでした。


 浜小清水駅を出ると、右に砂丘、左に濤沸湖を見ながら原生花園に沿って進みます。

(濤沸湖と遠くに藻琴山)


 5分ほど走ったところに、5月から10月まで開業するの臨時乗降場の原生花園駅があります。


 小清水原生花園には昭和29年に昭和天皇が、そして昭和33年には皇太子時代の今上天皇も訪れており、それを記念して原生花園内の高台を天覧ヶ丘展望台と呼よんでいるそうです。

(天覧ヶ丘展望台)



(原生花園駅・北浜駅間)



(濤沸川を渡るとまもなく北浜駅)


 北浜駅は、オホーツク海にいちばん近い駅として知られる駅で、止別駅同様に旧駅務室を利用して喫茶「停車場」が営業しています。ホームの端には木製の展望台もありました。

(北浜駅)



(北浜駅から見るオホーツク海)


 北浜駅を出て今度は左手に藻琴湖が見えて来ると、藻琴川の下流である水路を渡り、藻琴駅に着きます。

(藻琴湖)


 藻琴駅では、釧網本線数多くある駅舎を活用した喫茶店などの元祖「軽食&喫茶トロッコ」が営業しています。
 駅舎は大正13年開業当時の建物がそのまま使われていました。


 引き続き、海岸線に沿って走ると鱒浦駅に着きます。


 昔からマス漁が盛んだったというこの地域では、並行して走る国道沿いのカニの直売店では、「鮭トバ」ではなく「鱒トバ」が売られているとのことです。
短い鱒浦トンネルを出たところで網走港に停泊している飛鳥Ⅱが見え、網走トンネル抜けると桂台駅。

(網走港に停泊中の「飛鳥Ⅱ」)


 カーブしたホームと、道路から降りる階段の途中に駅の出入り口と、鉄骨フレームガラス張りの待合室がある桂台駅は、住宅も多く、高校もあるためか乗降客も比較的多く見られました。

(桂台駅)


 桂台駅を出ると右に市街を見ながら左にカーブを切ると、定刻18時49分に終点網走駅に到着しました。


 7月下旬ということもあり、日没間もない時間帯なのに「キヨスク」はもう閉店。よく見ると営業時間が7時40分から17時40分。


 網走駅には、駅名標には珍しい縦書きのものもあります。これは網走刑務所で刑期を終えて列車で帰る出所者に対して、これからは真っすぐな人生を歩んでほしいという願いと戒めを込めたものだそうです。


階段を挟んで反対側には、「モヨロ人の漁撈(ぎょろう)の像」。

 その碑文には、「6~9世紀頃、サハリンなどの先方からオホーツク沿岸に渡来してきた「オホーツク文化」の人びと、網走市最寄(モヨロ)貝塚はその代表的な集落跡です。彼らはクジラやトド、アザラシなどを主な生活の糧とする古代の優れた海洋狩猟民族でした。」と書かれていました。このモヨロ貝塚を発見したのは青森県人だそうです。詳しくは、http://kamuimintara.netで(株)りんゆう観光、カムイミンタラ編集室が配信している「冊子カムイミンタラ21号」をご覧下さい。


 さて、今日の宿泊は、駅から徒歩2分の「ホテル サン・アバシリ」。1人1泊朝食付き4,000円と今までにない安さ。どんなところかと思えば、三井住友海上陸上競技部か合宿中ということから、そこそこだろうと思いました。


 この日の夜は、あばしりオホーツク夏まつり花火大会が開催されていたので、花火を見ながら市の中心部まで歩き、「オホーツク観光郷土料理」のステッカーが貼ってある「蒸気船」で夕食。



  つづく

日本最長距離普通列車で行く道東の旅14 知床斜里まで

2015-02-10 05:25:41 | 日本最長距離普通列車で行く道東の旅
第11列車 釧網本線 普通 網走行 乗車距離141.9km
 始発 釧路 15:50発   
塘  路          16:20着 16:20発
茅 沼(かやぬま)    16:27着 16:28発
五 十 石(ごじっこく)   16:33着 16:34発
標 茶(しべちゃ)    16:41着 16:42発
磯 分 内(いそぶんない)  16:51着 16:51発
南弟子屈(みなみてしかが) 16:57着 16:58発
摩 周(ましゅう)    17:06着 17:06発
美 留 和(びるわ)     17:15着 17:15発
川湯温泉(かわゆおんせん) 17:22着 17:23発
緑   (みどり)     17:38着 17:39発
札  弦(さっつる)    17:46着 17:47発
清 里 町(きよさとちょう) 17:54着 17:54発
南 斜 里(みなみしゃり)    レ
中 斜 里(なかしゃり)   18:01着 18:02発
知床斜里(しれとこしゃり) 18:06着 18:07発
止  別(やむべつ)    18:17着 18:17発
浜小清水(はまこしみず)  18:23着 18:23発
原生花園(げんせいかえん) 18:27着 18:28発
北  浜(きたはま)    18:32着 18:33発
藻  琴(もこと)     18:36着 18:36発
鱒  浦(ますうら)    18:39着 18:40発
桂  台(かつらだい)   18:45着 18:45発
網  走(あばしり)    18:49着
 今日の最後の列車は、塘路駅16時20分発網走行普通列車。


 茅沼駅までは、右に塘路湖・シラウトロ湖を、左手に釧路湿原を見ながら進みます。

(塘路駅・茅沼駅間)


茅沼駅は釧路湿原の奥にあり、過去に駅員が餌付けをして「タンチョウの来る駅」として全国に知られるようになり、現在も冬になるとその姿を見ることが出来るそうです。


 今は無人駅ですが、「タンチョウの来る駅」の看板が着いていました。
 次の停車駅五十石駅。明治20年代にこの先にある硫黄山(正式にはアトサヌプリ=跡佐登)の硫黄をここまで陸路で運び、この先釧路までは釧路川を五十石船で運搬したことから付けられた駅名だそうです。


 ここの住所は、標茶町オソベツ723番地の1。地名には五十石はついていません。
 ちなみに、オソベツとはアイヌ語の、「オソッ・ペッ」。川尻の滝という意味だそうですが、この辺は湿原で滝等があるとは思えないのですが、町名の標茶はアイヌ語の「シペッチャ」。大きな川のほとりという語源だそうですから、湿原から大きな川に流れ落ちる様子が、滝のようにも見えたのでしょうか。
 五十石から先は、左手に釧路川と原野を見ながら進み、標茶駅に着きます。


 平成元年4月までは、ここから標津町の根室標津駅に至る本線と、途中の中標津駅で分かれて厚床駅に至る支線から成る標津線がありました。
 鉄道で栄えた街なのでしょう、ホームには古いレールが展示されていました。
 また、「SL函館大沼号」や「SL冬の湿原号」などに使われている蒸気機関車は、一度廃車になり標茶町の児童公園にて静態保存されていたものを復元したものだそうです。
 ここから摩周駅までの区間は、アトサヌプリの硫黄を運搬するためにはころで釧網本線の摩周-標茶間は旧釧路鉄道の路盤を使用したものである。釧路鉄道はアトサヌプリ(跡佐登=硫黄山)の硫黄を運搬するために明治25年から明治30年まで営業していた旧釧路鉄道の路盤を使用しています。
 標茶駅の次は磯分内駅。ここは海からほど遠い場所なのに駅名に「磯」という海を連想させる文字が使われています。地名はアイヌ語の「イソポ・ウン・ナイ(うさぎのいる川)」に由来し、音に当て字をしたため「磯」という文字が使われたようです。「うさぎのいる川」というのは、標茶町と弟子屈町の町境にある小川の沢に兎が多く住んでいたことからだそうです。

(磯分内駅・南弟子屈駅間)


 南弟子屈駅を通って、摩周駅まではひたすら牧場や原野の中を走ります。


 摩周駅は平成2年に弟子屈駅から改称した駅で、駅前から摩周第一展望台行きのバスが出ています。また、先行した「摩周&川湯温泉足湯めぐり号」がその名の通り21分間停車する駅でもあります。


 摩周駅では下り「摩周&川湯温泉足湯めぐり号」と交換して出発。北に進路を変え、右の美留和山が迫ってくると、美留和駅に着きます。車掌車だった駅舎には美留和小学校の児童によって絵が描かれ、フラワーポットも置かれていました。


(美留和駅・川湯温泉駅間)


 屈斜路湖と摩周湖の中間部分を両側を林に囲まれ進み、川湯温泉駅に着きます。

(川湯温泉駅の足湯)


 昭和63年3月に川湯から改称した駅で、登別、洞爺、湯の川、定山渓、層雲峡、十勝川温泉といった北海道有数の温泉の中では、駅から3.5㎞と唯一徒歩圏内に温泉街があります。
 川湯は「セセキ=ベツ」(熱い川)を意訳したもので、釧路鉄道によって運搬され硫黄を産出したアトサヌプリは駅から2㎞ほどの所にある、標高512mの活火山に指定されているいて、今でも噴煙を上げています。硫黄を産出する山を一般に硫黄山と言いますが、「硫黄山」といえばここアトサヌプリを指す指すことがり、付近の地名には「跡佐登」の字を使っています。
 改札口の脇には足湯があり、先行した「摩周&川湯温泉足湯めぐり号」はここでも20分ほど停車するそうです。
 川湯温泉から100分の25という坂を上り、北見・釧路国境の釧北トンネルを抜け下ると緑駅に行きます。

(釧北トンネル)


 緑駅はもともと上札鶴駅といいましたが、上斜里村から清里町に町制移行した際に緑町と町名が変更したのに合わせて昭和31年に改称したそうです。駅名の通り、駅舎や道路の舗装まで緑色になっていました。


 緑駅を出ると更に列車は下り、谷がひろがり、斜里川に沿うと札弦駅に到着します。
 以前は「札鶴」と書いていたそうですが、緑駅と同じく町名変更のため昭和31年に改称したそうです。


 札弦駅の側には建材メーカーで有名な「札鶴ベニヤ」の本社工場があります。こちらは勿論、改称していません。
 札弦駅を出ると、右手に斜里岳とを見ながら、碁盤の目のように畑を区切る木々を見ながら、直線で走っていくと清里町駅に到着します。

(札弦駅・清里町駅間)


「清里」といえば、小海線の駅。ここは上斜里駅を昭和31年に「清里町」に改めた駅。
 清里町は昭和30年に町制施行する以前の、昭和18年に、小清水村(現小清水町)と斜里町から分村し、前身の上斜里村として誕生したことから、町制施行を機会に母村の小清水と斜里から1字ずつ取ったのが名前の由来だそうです。
 次の駅は、畑の中に待合室もなく1本のホームだけがぽつんとある南斜里駅。列車は下り4本、上り2本しか停まらないためなかなか途中下車できないため、秘境駅のひとつに数えられています。

(南斜里駅)


 南斜里駅を通過して、麦やビート、ジャガイモの畑が広がる中、中斜里駅から北上して知床斜里駅に着きます。

(中斜里駅・知床斜里駅間)


 平成17年に世界自然遺産として正式登録された知床への玄関口となる駅で、世界遺産登録への取組を始めた平成10年に斜里駅からから知床斜里に改称したそうです。
 また斜里町は、文化4年(1807年)に北方警備のため派遣され、越冬中に殉難死した津軽藩士の慰霊碑を昭和48年に建立したことから、昭和58年に弘前市と友好都市の盟約を結び、それを記念してその年「弘前ねぷた」が斜里町に伝授され、それ以来ねぷたを中心に交流を重ね続けいて、今では「しれとこ斜里ねぷた」として定着しているということで、ホームには「ねぷた」が展示されていました。


 つづく