旅の窓

平凡ながら列車の旅が好きで、その様子を紹介しています。
『閑雲野鶴日記』は日々の自由気ままな生活の記録。

日本最長距離普通列車で行く道東の旅13 塘路まで

2015-02-09 05:04:07 | 日本最長距離普通列車で行く道東の旅
第10列車 釧網本線 普通 塘路行 くしろ湿原ノロッコ4号 乗車距離5.1km
 始発 釧路 13:49発
釧路湿原          14:12着 14:13発
細  岡(ほそおか)    14:18着 14:18発
塘  路(とうろ)     14:35着
 釧路湿原駅からは、14時13分発「くしろ湿原ノロッコ4号」で塘路駅に向かいます。

(釧路湿原駅に到着する「くしろ湿原ノロッコ4号」)


 釧路駅から塘路駅までは定期列車で30分ほどですが、この列車は45分ほどかけて釧路湿原の中をのんびり進むトロッコ列車と言うことで「ノロッコ」の名の付いた4月下旬から9月末まで走る観光列車です。

(釧路湿原駅・細岡駅間)


 車輌は青森・函館間を走っていた「海峡」に使われていた客車を改造したもので、ディーゼル機関車に牽引されて到着しました。

(「くしろ湿原ノロッコ4号」車内


 釧路湿原駅を出た列車は、湿原の中を通って細岡駅に。ここの駅舎もログハウス調に改築されていました。


 細岡展望台に近い駅は「釧路湿原駅」、釧路湿原に近い駅は「細岡駅」何とも紛らわしい感じがしました。
 細岡駅から塘路駅までの間は、釧網本線の絶景区間。左手に釧路川が大きく蛇行して迫り、最も接近するポイントでは、ノロッコ号の通過に合わせて川下りをする、カーヌーを見ることが出来ました。

(細岡駅・塘路駅間)


 この区間は道路が並行していないので、列車に乗らなければ見ることは出来ません。
 9.6㎞を20分かけて終点塘路駅に着きました。



 塘路駅は列車交換可能駅ということで、ノロッコ号の終点となっています。

(外国人を含む多くの乗客はツアー客)


 ノロッコ号は、団体ツアーのコースにも組みこまれていることもあり多くの乗客が降りましたが、そのほとんどは、駅前で待っていた観光バスでどこかに行ってしまい、気がつけばひっそりと静まりかえっていました。


 次の列車まで1時間40分ほどあるので、レンタサイクルで塘路駅から北に1kmほど走ったところにサルルン展望台とサルボ展望台へ行くことにしました。

(展望台への階段)


 国道沿いの駐車場に自転車を止め急な階段を登り、登り切ったところから左に190mでサルルン展望台と標識があったので、先にそちらに行くこととし、なだらかな山道を歩くとサルルン展望台がありました。

(サルルン展望台からのサルルン沼)


 ここまで駐車場から10分ちょっと。手前にはサルルン沼、左奥には塘路湖、その右奥にはポン沼、エオルト沼、マクントーの沼、そして正面には釧路湿原を見渡すことができました。


 次はサルボ展望台です。サルルン展望台から15分ほどで着きましたへ行きます。

(サルボ展望台)


 サルボ展望台のサルボとはアイヌ語でサル(葦原、湿原)、ボ(子)、つまり小さい葦原という意味だそうで、ここは和歌山市にある日出染業株式会社の私有地であるために、会社の御厚意で使用させてもらっている旨の表示が案内板に付いていました。ここからは釧路湿原だけでなく、左側には塘路湖、右側にはマクントー、エオルト沼、ポントーなどの湖沼が一望できるほか、塘路湖とエオルト沼に挟まれた細い所を釧網本線が走っていて、鉄道写真の絶好の撮影場所だそうです。

(サルボ展望台からの塘路湖)



 サルボ展望台へ向かう途中にはチャシ跡と呼ばれるアイヌの砦の跡がある。チャシとは、「砦」とか「城」と言われますが、もともとは「柵」や「柵囲い」を意味するアイヌ語だそうですが、ここは湖周辺を一望でき外敵から守るのに最適なことから、物見台、見張り台ではないかとも言われているそうです。

(チャシ跡)


 駅に戻る途中で、国道を横断するキタキツネを見ました。そこそこ交通量のある車の切れ目を見て、すたすたと渡っていきました。


 駅に戻って、駅の中にある「ノロッコ&8001」という名前の喫茶店で一休み。



 店の名前の「ノロッコ」はもちろん「ノロッコ号」。「8001」は、大阪と札幌を結ぶ寝台特急「トワイライトエクスプレス」下りの列車番号を意味しているようです。
 注文したコーヒーは、実際に「トワイライトエクスプレス」で使われているカップに入れて出てきました。また、店内には、様々な鉄道に関する資料や部品が飾られていました。


 つづく

日本最長距離普通列車で行く道東の旅12 釧路湿原まで

2015-02-08 05:07:55 | 日本最長距離普通列車で行く道東の旅
第8列車 根室本線 快速はなさき 釧路行 乗車距離135.4km
根  室 11:03発
東 根 室   レ  
花  咲   レ
西 和 田   レ
昆 布 盛   レ
落  石   レ
別 当 賀   レ
初 田 牛   レ
厚  床 11:41着 11:41発
姉  別   レ
浜  中 11:56着 11:56発
茶  内 12:02着 12:06発
糸 魚 沢   レ
厚  岸 12:23着 12:24発
門  静   レ
尾  幌   レ
上 尾 幌   レ
別  保   レ
武  佐   レ
東 釧 路   レ
釧  路 13:05着

 根室駅からは11:03分発快速釧路行に乗ります。


 釧路駅13:5分着なので、昼の弁当として「ロースカツ丼」と駅弁の「花咲かにめし」を買って乗りました。



 快速といっても1両だけ、20人に満たない乗客を乗せて出発しました。

(釧路行キハ56-526の転換クロスシートは0系新幹線電車の廃車発生品。)


 皮肉なことに、根室を離れるに従って青空が広がってきました。
 次の停車駅厚床駅では2人が降りて、2人が乗って、その次の浜中駅では乗降無し。茶内では1人の乗車と、1両で十分ということに納得しました。

(落石湾と眼鏡岩)


 別寒辺牛湿原が見えてくると進行方向右側に厚岸水鳥観察館が見えてきました。平成5年にラムサール登録湿地に認定された厚岸湖・別寒辺牛湿原の水鳥や動植物の観察や、調査研究やモニタリング等を行う拠点として2年後に完成したものだそうです。

(厚岸水鳥観察館)


最後の停車駅厚岸駅では8人が乗車してきました。
 日中の快速ということもあり、1両でも十分のようです。
 厚岸駅から隣の門静駅までは厚岸湾に沿って走ります。浜では天候も回復したこともあり、昆布干しが始まっていました。一見すると、海から上げた昆布を砂浜にただ並べて干しているように見えますが、採った昆布は、まず、表面についた汚れをきれいに洗い落とすそうです。次に、浜辺に作ってある昆布に砂がつかないように玉砂利を敷いた「乾場」で、日中一枚一枚並べて天日干しをし、夜は湿気を吸ってしまうため、夕方には取りまとめて「番屋」にしまう。天候を見ながら干す・しまうを2日くらい繰り返し、均一に乾燥を進めていくことが、旨味をぐんと引き出すには欠かせない作業だそうです。

(厚岸駅・門静駅間の昆布干し)


 門静駅を通過すると、内陸に入りしばらくは牧草地も見えますが、次第に人家も見えなくなり、
上尾幌駅と別保駅間になると長い山越え区間で両側をに囲まれ、山奥という感じがしました。
 別保駅を通過し下っていくと市街地が見え始め武佐駅を通過。釧網本線と合流する東釧路駅を通過すると終点釧路駅。定刻の13時5分に到着しました。
 釧路駅のホームで目に付いたのが「石炭」。


 釧路は、函館に入港する外国船に石炭を供給するのが目的で、1856年(安政3年)に北海道で最初に石炭が掘られた所だそうです。
 展示してある石炭を寄贈した太平洋炭鉱は、明治30年に前身の安田炭礦が採掘を始め、閉山までの82年間で、採炭量は1億トン以上で採炭の多くを海底の炭層から行っていたため、「太平洋の海底炭」というネーミングで宣伝し販売をしていたそうです。ホームにある石炭は、その「太平洋の海底炭」でした。
 また、昭和29年のガス爆発事故以外に閉山まで大事故を起こすことが無かった炭鉱だったそうです。平成14年に閉山したそうですが、主に地元企業が出資した釧路コールマイン株式会社が規模を縮小して事業を引き継ぎ、年間70万トンを採炭する日本の唯一の坑内掘石炭鉱として今も残っているそうです。
 もう一つ目に付いたのが「湿原の鐘」。


 説明板には、「SLが活躍していた当時、操車場で列車の進入を知らせた鐘を、『湿原の鐘』として平成12年1月のSL冬の湿原号の運転に併せて再現し、お客様に鑑賞していただくと共に、SLの発車までの間鐘を鳴らして、当時を思い出していただきます。
 なお、こな鐘はSLの到着駅である標茶駅にも『C11 171ふるさとの鐘』として設置しております。(鐘を吊るすアーチは、1925年製30㎏のレールを加工したものです。)」とありました。

第9列車 釧網本線 普通 網走行 乗車距離17.6km
釧  路          13:20発
東 釧 路          13:24着 13:25発
遠  矢(とおや)     13:32着 13:32発
釧路湿原(くしろしつげん) 13:40着
 釧路駅からは、13時20分発網走行き普通列車に乗って釧路湿原に向かいます。
 この列車には「足湯」と大きく書かれたヘッドマークが付いてました。


 これは、定期列車釧路発摩周行4736Dと緑発網走行4738Dを、釧路・網走間を直通運転するために、9月30日まで摩周・緑間を結ぶ「摩周&川湯温泉足湯めぐり号」です。
 名前の通り、摩周駅で「21分」、川湯温泉駅で「18分」の停車時間を設けていて、駅舎に隣接する足湯を利用することができる列車です。
 7割程度の乗客を乗せて定刻に発車した1両だけの列車は、東釧路駅から釧網本線に入ります。
 遠矢駅を過ぎると左に釧路湿原が広がり、その中に岩保木(いわぼっき)新水門が見え、大きく右にカーブを切り林の中を進むと、釧路駅から20分、13時40分に釧路湿原駅に到着しました。

(岩保木新水門)


 釧路湿原駅は、昭和62年に釧路湿原が国立公園に指定され,翌年細岡大観望と言われる細岡展望台にアクセスするための臨時駅として開設され、その後平成8年から通年営業となった、タンチョウが羽を広げた姿をイメージして作られたログハウスの無人の駅舎です。


 展望台は、駅から階段を登って徒歩10分ほどのところにあり、湿原の中を大きく蛇行する釧路川と、遠くに雄阿寒岳・雌阿寒岳を望むことができました。






 つづく

日本最長距離普通列車で行く道東の旅11 根室半島遊覧(3)

2015-02-07 05:24:27 | 日本最長距離普通列車で行く道東の旅
 夏の観光シーズンというのに訪れている人もまばらで、北方領土に対する国民関心は、必ずしも国の予算に比例しているとは思えない感じがしました。
 時間が無いことも有り中に入りませんでしたが、100m近い高さの平和の塔がありました。展望台から北方領土を一望できる施設ですが、これは笹川良一氏が昭和62年に北方領土返還運動の象徴とて建設した「笹川記念平和の塔」と言う名称でしたが、所有権が移り今では特定非営利活動法人望郷の塔が運営していることから、「望郷の塔」と呼ばれていました。

(平和の塔)


 観光地であることを思わせるものもありました。
 お土産屋さんの壁には、「納沙布岬到達証明書」の看板が有り、記念写真を撮ることが出来るようになっていました。


 また、公衆電話ボックスは流氷を模した形になっていて、アザラシがのっていました。


 さて、納沙布岬を出たバスは、根室湾に沿って進みます。途中、貝殻島コンブ漁基地とエゾバフンウニ種苗生産センターのある温根元を通り、アイヌ語の「沼の傍らの広いところ」を意味する汽水湖のトーサムポロ沼を渡り、根室十景の一つ北方原生花園につきました。

(トーサムポロ沼)


 北方原生花園の広さは75㏊でヒオウギアヤメやエゾカンゾウ、ネムロタンポポ、キンポウゲ、トウゲブキなど100種類ほどの植物とミズナラの林、湿原からできていて散策路が木道で作られいました。そしてここの特徴は、原生花園の中に馬が放牧されている事だそうで、普段から原生花園の入口の扉は閉められフェンスで囲まれていますが、これは馬が外に出ないようにしただけで人間は自由に中に入ることができるそうで
す。

(北方原生花園入口)


 納沙布岬から25分ほどで下車見学の金比羅神社に到着しました。ここは、文化03年(1806年)、高田屋嘉兵衛によって創設されたそうです。 
 御祭神は、海上交通の守り神として漁師、船員などの海事関係者に信仰されている、讃岐「金刀比羅宮」の御祭神、大物主神(おおものぬしのかみ)を主神に、事代主神(ことしろぬしのかみ)、倉稲魂神(うかのみたまのかみ)の御三神をお祀りしているそうです。

(金比羅神社社殿)


 高田屋嘉兵衛と言えば、淡路島に生まれ、一代で廻船業を営むまでになり、函館に北洋漁業の基を築いたことで知られていますが、国後島と択捉島間の航路を開いたり、鮭・鱒が豊富な択捉島に17ヶ所の漁場を開き、島に原住していたアイヌを雇って漁法を教え、彼らの生活向上させたりと、北方の開拓に功績のあったことでも知られています。

(高田屋嘉兵衛の銅像)


 また、日ロ友好にも一役買ったことでも知られています。それは、嘉兵衛が北方で活躍していた頃、鎖国を理由に通商を断られたロシア使節レザノフが、武力行使で日本側に通商を認めさせようと、本国の許可も得ず、択捉島に住む日本人を襲うといった事件が起こり、たまたま千島海域の地理を調査中であったロシア皇帝艦ディアナ号のゴローニン艦長が、国後島で水・食料の補給をしようと、交渉のため上陸した途端、警備隊に捕らえられるということがおこりました。
 副艦長リコルドは船長の消息を聞き出すためそのとき偶然近くを通りかかった嘉兵衛の船を捕らえ、嘉兵衛を船員と共にカムチャッカへ連行し抑留しました。嘉兵衛はリコルドと同じ部屋で寝起きを共にするなかで、ロシア政府が許可も関知もしていないという証明書を日本側に提出するようにと説得、その言葉を聞き入れたリコルドは嘉兵衛と共に日本に戻り、2人の協力でゴローニンは釈放され両国が和解しました。
 平成18年には、カムチャツカ州政府はロシア地理学会の発案を受け、ナリチェヴォ自然公園内にある名前が付いていなかった3つの山に、それぞれ、「ヴァシリー・ゴローニン」(1333m)、「ピョートル・リコルド」(1205m)、「タカダヤ・カヘイ」(1054m)と名づけたそうです。
 さて、ここにも北方領土問題が残っていました。終戦後、島を追われた人がどうにか持ち出した11社の御神体がここに預けられていて、毎年各社例祭日には、元島民をはじめとする方々が金刀比羅神社社殿で祭典を行い、一日も早い北方領土の返還を祈念しているそうです。 金比羅神社から10分ほどで、終点根室駅前ターミナルに到着します。
 途中、稚内と同じように英語に加えロシア語の表記のある案内標識を見ました。これは、ロシア船入港が稚内に次いで根室が第2位ということからのようです。


 つづく

日本最長距離普通列車で行く道東の旅10 根室半島遊覧(2)

2015-02-06 05:09:10 | 日本最長距離普通列車で行く道東の旅
 根室駅前を出発して30分ほどで納沙布岬に着きました。ここでは45分間下車しての見学になります。


 納沙布岬は、北方領土問題から日本最東端と言わないで、「本土最東端の岬」「北海道最東端の岬」と言うのが正しいようです。
 岬にある納沙布岬灯台は、明治5年に点灯された、北海道で最古の灯台だそうです。

(納沙布岬灯台)

 天気が良ければ、すぐ目の前には歯舞群島の水晶島や貝殻島、そして国後島などの北方土が見えるはずでしたが、霞んでよく見えませんでした。
 根室半島からわずか3.7km一番近い北方領土、貝殻島を何とか肉眼で確認することが出来ました。 貝殻島はその名の由来であるアイヌ語の「カイ・カ・ラ・イ(波の・上面・低い・もの<岩礁>)」が示すとおり、低潮時には海面に姿を見せるが、高潮時には水没するため、正しくは島ではなく「低潮高地」と言うそうです。

(肉眼で何とか見えた「貝殻島」)

 釧路から根室・北方領土にかけては昆布の宝庫で、この地域のものは世界一長い昆布としても知られていて、日露昆布協定で毎年6月から9月にかけて昆布漁が行なわれるそうで、6月に採れるものを「棹前(さおまえ)」、7月中旬以降を「夏昆布」、そして9月以降のものは「後採り」と呼ばれ、特に貝殻島付近で採れる柔らかい棹前昆布は格別だとそうです。
 貝殻島の次に近い水晶島は7㎞先。島名の由来は、アイヌ語の「シ・ショウ(大きい・裸岩)」が「シイショウ」に変化したと言われるとおり、島の最も高いところで標高18メートル。そのため、望遠鏡で見ても国境警備隊の建物とみられるものが何とか確認できる程度でした。

(北方館の双眼鏡からの水晶島の島影)


(北方館のテレビ望遠鏡で見る貝殻島灯台)

 納沙布岬は、最東端の岬というほかに北方領土に一番近い岬でもあることから、北方領土返還に関係する建物などが多くありました。


 まずは、昭和56年に完成した高さ13mの北方領土の早期返還を祈念して建てられた 「四島(しま)のかけ橋」。前にある「灯火台」には沖縄から運ばれた「祈りの灯」が燃え続けています。



 つぎは、「きぼうの鐘」です。昭和62年北方領土の返還を願って日本青年会議所が建てたもだそうです。


 「望郷の家」は、第2次世界大戦後、北方領土の島々を追われた元島民の心のよりどころとして、戦前の四島の生活に関わる資料や四島の街並みを折り込んだ地図などを展示している施設でした。
 その隣は昭和55年に併設された「北方館」。パンフレットには「北方館は、北海道根室市の根室半島最東端・納沙布岬に位置しており、北方領土返還要求運動の原点の地で、目の前に広がる日本固有の領土である北方の島々を望みながら、北方領土問題の発生の状況や歴史的経緯を展示資料によってご覧頂き、返還運動への皆様の深いご理解とご参加を得て、より一層の国民世論の高揚を図り、一日も早い北方領土の返還実現をめざすために開設しております。」とありました。

(望郷の家(左)と北方館)
 
 「北方館」「望郷の家」を運営しているのは、「独立行政法人北方領土問題対策協会」というところです。
 設立の目的には「北方領土問題その他北方地域に関する諸問題についての国民世論の啓発並びに調査及び研究を行うとともに、北方地域に生活の本拠を有していた者に対し援護を行うことにより、北方領土問題その他北方地域に関する諸問題の解決の促進を図ること。」と「北方地域旧漁業権者等その他の者に対し、漁業その他の事業及び生活に必要な資金を融通することにより、これらの者の事業の経営と生活の安定を図ること。」だそうで、年間予算は16億8,500万円(平成23年度)で、そのほとんどが交付金と補助金によるものだそうです。
 北方館には、3種類の図柄のある「北方領土視察証明書」が準備してありました。

(北方館でもらえる証明書)


又数多くの資料の中には、外務省が作っている「2010年 われらの北方領土 資料編」という、日ソ・日露間の首脳・外相会談一覧や主要事項年表、北方領土関連の条約・宣言など、北方領土問題を理解するための情報が載った60ページあまりの冊子が無料で配布されていました。


 つづく

日本最長距離普通列車で行く道東の旅9 根室半島遊覧(1)

2015-02-05 05:16:27 | 日本最長距離普通列車で行く道東の旅
 根室市といえば「北方領土」。根室市長が会長を務める、北方領土隣接地域振興対策根室管内市・町連絡協議会で発行している「北方領土学習のご案内」という修学旅行用の冊子があります。それには、北方領学習について次のように書かれていました。



 「北方領土の隣接地域である北海道根室管内1市4町(根室市・別海町・中標津町・標津町・羅臼町)は戦前、北方領土(択捉島・国後島・色丹島・歯舞群島)と経済・文化など、さまざまな分野で一体となって発展してきました。
 しかし、「日本固有の領土である北方領土は、戦後、旧ソビエト連邦に不法に占拠されて以来、半世紀以上にわたる返還運動にも関わらず、残念ながら未だにその返還が実現しておりません。
 この領土問題を解決するためには、国民の正しい理解と世論の喚起が必要であり、そのためにも皆さんのような若い世代が、この問題を肌で実感し、返還運動に参加していただきたいと考えております。
 また、この根室管内は広大な大自然や貴重な動植物、渡り鳥の宝庫であり、地域の産業とともに目で見て、体験そていただくことは、皆さんの輝かしい未来への一助になるものと信じております。
 是非、本資料をご活用いただき、充実した修学旅行を企画されますようお願い申し上げますとともに根室管内へのおこしをお待ちしております。」
 そして、北方領土については次のように書かれています。
 わが国が一日も早く返ることを願い、ロシアに返還を要求している「北方領土」とは、北海道本島に近い歯舞群島・色丹島・国後島・択捉島の4つの島のことです。 
 歯舞群島は、根室半島の納沙布岬からわずか7キロメートルへだてた水晶島をはじめとして、それより東北に延びている秋勇留島・勇留島・志発島・及び多楽島の島々のことで、色丹島はさらにその東北にある島です。歯舞群島・色丹島は、大むかし根室半島と地つづきでしたが、土地のかんぼつなどによってはなれ島になったといわれています。 
 国後島は北海道本島の東北の海上に連なっている北方領土の南端に位置し、根室半島、野付半島、知床半島に囲まれています。 
 択捉島は国後島の東北のはしから22.5キロメートルへだてた地点より細長く延び、北方領土の中で一番大きな島です。 
 その先に、得撫島から占守島まで、大小およそ20あまりの列島(千島列島=クリル諸島)が、カムチャッカ半島まで海洋上に弓なりに連なっています。 
 北方領土の中で面積が最も広いのは、択捉島の約3,184平方キロメートル、それに次ぐのが国後島の約1,498平方キロメートル、色丹島約253平方キロメートル、歯舞群島の志発島約59平方キロメートルの順で、北方領土の総面積は約5,036平方キロメートルで、この面積より小さい都府県が19もあります。」
 さて、2時間50分を有効に使うために、7月中旬から9月下旬まで運行されている、ねむろ半島遊覧バス「のさっぷ号」に乗ることにしました。

(「のさっぷ号」乗車記念)

実は、この遊覧バスは根室交通が運行しているのですが、普通の観光バスと違って「北方領土隣接地域振興等基金北方基金」の運用益を財源にして、根室半島一周北方領土問題啓発バス運行事業として昭和54年度から始まったものだそうです。ねらいは、「点在する市内の観光ポイントを結んで、根室を訪れる観光客の交通の利便性を確保し、根室観光を楽しんでもらうと共に、納沙市観光などを通して北方領土問題への関心喚起を図る。」ことだそうです。
 A・Bコースあるのですが、根室駅前ターミナル8時25分発、10時40分着のAコースが私達が乗る根室駅発着の快速に接続するように設定されていました。
 駅前には、「返せ!北方領土」の北方領土問題啓発看板。


 市内至る所に北方領土返還を求める看板がありました。もちろん。市役所の屋上ににも。

(根室市役所)

 道道35号根室半島線。文字通り根室半島を一周する道なりにバスは進みます。
 明治公園。名前の通り、明治8年に開設された国立の「開拓使根室牧畜場」の跡地。巨大なサイロは昭和7年に1基、昭和11年に2基建設されたレンガ積みとしては国内最大級だそうです。

(明治公園)

 市街地を離れると、右にチトモシリ島・知友島の浮かぶ知友湾、左にタンネ沼・温根沼が見えてきます。

(温根沼)

(知友湾)

 今の時期、月の半分は濃霧と言われるだけあって視界はあまり良くありません。そのため、生産量日本一と言われる昆布漁も今日は休漁のようです。ちなみに、昆布消費量日本一は最南端の沖縄県だそうです。
 納沙布岬に近づくと、歯舞漁港が見えてきました。歯舞と言えば北方四島の一つ歯舞島が思い浮かぶのですが、それもそのはず、明治30年北海道に町村制が導入されたとき、根室半島先端部と歯舞群島を村域として歯舞村が誕生し、その後大正4年に周辺5村を合併したことから、地名に残っているようです。

(歯舞漁港)

 日本最東端の郵便局、日本最東端の学校の名前にある「珸瑤瑁(ごようまい)」は合併した村の名前です。

(日本最東端の珸瑤瑁郵便局)

(日本最東端の学校である珸瑤瑁小学校)

 つづく