ヘアサロンうつのみや・オーナーのスポーツやヒーローもの、雑談ネタを徒然なるままに
こーじ苑
元 崇徳監督・久保和彦氏を偲ぶ
今日の新聞に76年の選抜で優勝した崇徳の監督・久保和彦
氏が、亡くなったという記事が載っていた。
83歳という事だったが、32年前に監督として優勝して勇退して
いたから51歳での勇退だったとわけだ。
ちょうど私が高校野球に熱中し始めた中1の選抜だったので
インパクトが大きかった。
なにせこの年の崇徳はエースの黒田真二をはじめ、キャプテン
が広島で活躍した山崎隆造。
また3番を打っていた小川達明もドラフト5位で広島に入団している
し、キャッチャーの應武篤良はソウル五輪の代表で現在は母校・
早稲田大学の監督として話題の斉藤佑樹を指導している。
まさしく初出場ながら、優勝を狙える大型チームだったのだ。
1回戦:11-8高松商
2回戦:4-1鉾田一
QF:4-0福井
SF:3-1日田林工
F:5-0小山
といった勝ち上がりだったが、久保監督は当時としては強気な
コメントが多かった。
‘勝った方が決勝に行くのでは'といわれた初戦の高松商戦は、
黒田が予想外の乱調で14安打を浴び8失点しながら`取られたら、
取り返す。こんな試合好きじゃけん’とコメント。
QFの福井戦は、黒田が8回2アウトまでパーフェクトに抑えていた
のだが‘ノーヒットノーランぐらいできるかなと思っていた’とも言って
いた。
SFでは2-0とリードした4回に日田林工が1アウト2,3塁のチャンスを
掴み、2ランスクイズを敢行したが しっかり見破り2塁ランナーをホーム
で刺して流れを渡さなかった。
試合後2ランスクイズについて訊ねられると
‘2回戦で既に1回やっていたので、やってくると思っていた。
ああいう戦法は2回もやるものではない’
と余裕のコメントをしていた。
更にファイナルでは
‘ウチは10安打、小山は6安打。
得点差も5点ぐらい付ける。
勝って当り前や’
と試合前にコメントし、実際に5-0 で勝つと
‘予想通り。
ウチが勝つのは初めから分かり切っていた、
唯一の予想外は小山が3安打しか打てな
かった事ですなぁ’
と超強気なコメントを残している。
当時としては、あまりにも自信満々のコメントで反感を抱いていた
ものの、あれだけの戦力なら分からないでもない。
1回のみの優勝で身を引いた潔さも、異色だった。
今一度、氏の甲子園での采配を見てみたかったし、強気なコメントを
も聞いてみたかった。
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小川とスケールの大きいチームでした。
広商に代表される広島の野球とは
かなり違ったチームでした。
もう30年以上前になるのですね。
前年の決勝が高知ー東海相模ですね。
高知の杉村ー東海の原が注目の大会でした。
野球に興味を持ち始めたばかりの時だったので、選手、監督ともに強烈な印象でした。
他県に住んでいた私ですがその後、縁があって崇徳へ入ることになり、数学の先生が久保先生でした。
甲子園での話し、先生の経験談、周りからの中傷等様々なことをお聞きしましたが、先生の話は一環していて、話に引き込まれるのです。そのわけは、すべて有言実行なのです。 『俺について来い!!俺が何とかしてやる。!!』そう言う雰囲気なのです。 「わしは、競技のルールなんて、知らなくても、優勝させられる。」と豪語するも私の在学時にも他のスポーツで全国優勝をさせていました。
その証として、野球部監督を辞めた後、部長、顧問として係わったクラブは、すべて全国大会に出場し春の高校バレー、柔道、ボクシングでは優勝しています。
どうしても広島といえば広商野球のイメージがありますが、こういうスケールの大きなチームは珍しかったですね。
前年の決勝は、高知の杉村と東海大相模の原の打ち合いが思い出深いですよ。
>太郎様
いらっしゃいませ、初めまして。コメントありがとうございます。
これからも宜しくお願いします。
そうなのですか、バレーや柔道、ボクシングの顧問もされていたのですね。
しかもいずれも結果を残しているとは凄い指導者ですね。
当時としては、あの強気な発言はヒンシュクを買うケースが多かったですが、自信の塊というのは特に高校生などはその気にさせる事ができますからね。
それを聞くと、余計もう少し長く指揮を取って欲しかったと思います。
懐かしいですね。76年というと私は小学三年でしたので崇徳の優勝はテレビで見たという位にしか覚えていません。大雨の決勝戦で小山高校に快勝。歓喜の瞬間も崇徳ナインは「もはや勝って当然~」といった表情でしたよね
あわよくば黒田投手は卒業後、意中の広島カープに入団してもらいたかったですね。地元だし、球界を代表するエースにのし上がったのでは‥と思えてならないです
崇徳高校も長い低迷。。。いつの日か小山高校や鉾田一高との再戦を甲子園で期待したいものですね☆
いらっしゃませ、はじめまして。
よくぞ古いスレを見つけてコメントいただきました。ありがとうございます。
ヒバゴンというのも懐かしい名前ですね、確か黒田
真二がそう呼ばれてましたっけ。
私は中1で野球を本格的に始めていたので、余計に
インパクトが大きかったですよ。
松坂の横浜やKKのPLと対戦させてみたかったですよね。
小山や鉾田一も公立高校受難の時代ですので甲子園自体が厳しいですね。
ちなみに夏は長崎海星のサッシー・酒井に2安打完封負けで春夏連覇ならず。
山崎が言うには春の優勝でモチベーションが欠けていたそうです。
ただ久保さんが監督を続けていたらどうでしたでしょうか。
というワケで、これからもよろしくお願いします。
こんにちは。こーじさんは私より4才年上ということですね。子供の頃の4才差というのは大きいですから、崇徳の強さをまざまざと見られてたことなのでしょうね
あの黒田のチームは、三年計画で甲子園でも通用するように強化が進められてたらしいです。当時は広商の黄金期で、「打倒広商!」しか有り得なかったとか。で、崇徳に100名以上の部員が入部。。。文献によると、黒田や山崎よりも有能な選手もたくさんいたらしいのですが、練習の厳しさから次々とリタイアしていった‥。もし彼等が残っていれば、楽々と春夏連覇していただろうと山崎は話しています
センバツを制覇し、夏は予選で宿敵の広商をノーヒットノーランで下して甲子園へ‥。久保監督が退任したことも大きいですが、目標を達成したという安堵感がナイン全員に少なからずあったのではないでしょうか。
筋肉隆々でノンプロ軍団とまで称された崇徳と、純白ユニフォームが爽やかだった小山。あの決勝、小山が同点のチャンス、無死二塁でランナーの初見が飛び出して捕手応武の牽制に刺されたんですよね。あそこで追い付いていれば‥。それでも崇徳が勝っていたでしょうか☆
県境を隔てて隣の日田林工がこの大会は出場し、快進撃を続けてSファイナルで対戦したのが崇徳戦。
3試合連続で2桁安打を打っていた林工打線が4回以外はチャンスらしいチャンスもなく、1・3・4回に1点づつ
確実に取られ‘これだけあれば十分’という感じで横綱相撲されましたからね。
スコアは1-3でしたが、点差以上の完敗でした。
ファイナルで6回のノーアウト2塁から1アウト3塁になっても点が入るムードではなかったですよ。
3年計画の3年目だったというのは分かるような気がしますよ、あれだけ完成度が高ければ。
あの頃の広島商は優勝した73年春夏、74年春、75年夏、そして77年夏と76年以外は甲子園出場してましたので崇徳は広商全盛時に楔を打ち込んだ形ですね。
レスありがとうございます。76年のセンバツは崇徳をはじめ春初出場が16校と空前のフレッシュ大会だったんですね。原、津末の東海大相模こそ不出場ですが、天理、智弁学園、東洋大姫路、北陽、習志野、土佐、豊見城など実力校も多かったようです。下馬評は崇徳が優勝候補の筆頭だったのでしょうか?
二回戦の鉾田一は本当に惜しかったのですね。何でも崇徳の優れたチーム力が、目に見えない無言の圧力となって土壇場で平常心を失っていたとか。。。その試合とか、習志野×大社、東洋大姫路×習志野、小山×東洋大姫路など名勝負の誉れが高く、ぜひリアルタイムでみたかったものです。
高松商は崇徳・黒田が不調だったとはいえ、よくぞあれだけ打ち込めたものです。高商はその春から毎回のように甲子園に出てましたので、伝統校としての威厳は健在だったんですね☆
76年の選抜についてです。
崇徳のブロックは中国王者の崇徳と四国王者の高松商が初戦で対戦したので勝った方が決勝に進出するだろうと言われてました。
対抗は天理か近畿大会準優勝の北陽だろうという事でした。
一方のパートは関東大会優勝で新チーム結成以来30戦無敗の小山に、神宮大会優勝の徳島商。
あと近畿大会優勝の東洋大姫路が有力と言われてたのです。
鉾田一は今では絶滅した?エースで4番のワンマンチーム。
初戦をノーヒットノーランで勝ったものの、4番の
エラー気味の強襲ヒットによるタイムリー以外は1安打のみで1試合最少安打の記録として未だに残ってます。
崇徳戦も7回までノーヒットだったのが8回に4番のソロで先制して あと1人まで追い詰めながらエラーからの逆転負けでした。
ただ鉾田一の監督に言わせると‘戸田の将来のためにはよかった、自分1人で勝てると勘違いしてしまうから’との事でした。
詳しく教えていただき有難うございます。高松商は夏は「出れば負け」が続きましたが、春は牛島(浪商)や片岡(府中東)を打ち込むなど全国でも屈指のチーム力だったことが伺えます。徳島商も優勝候補の一角だったとのことで、尽誠学園や池田でないところに時代を感じますね
崇徳×小山の決勝はカードとしては申し分のない組み合わせだったんですね。3安打完敗を喫したとはいえ、夏は東海大相模に完封勝ちするなど「栃木に小山あり」でしたよね。作新学院もまだ健在でしたし‥
最後に書かれている鉾田一の監督さんのコメントがいいですね。高校野球を通じてチームプレー、組織がいかに大切かをその試合で選手共々に学んだのではないでしょうか。夏は打力をアップさせて甲子園に戻ってきた鉾田一の成長に、選抜の惜敗が生かされたのだと私は感じますね‥☆
ここまで熱心に詳しくコメントされてますので、明日から異例の企画‘76センバツ・プレーバック’を始めます。
というのが、このセンバツだけは全試合カバーした
大会で雑誌や新聞の切り抜きなどもあったためです。
全29試合のレビューをレポしますので、期待してください。
こんにちは。70年代の高校野球はセピア色の記憶に包まれている遠い、遠い思い出です。子供の頃は高校球児は憧れでしたし、とても大人びて見えましたよね。私がはっきり記憶しているのは78年夏、逆転のPL初優勝あたりからです。ですのでそれまでの大会は断片的にしか思い出せないこともあり、詳しく紹介いただけるのは嬉しいの言葉以外見当たりません。本当にありがとうございます~!
この時期だと夏より選抜が懐かしいですね。岩崎宏美の「センチメンタル」(いい曲です!)に乗って入場行進した76年選抜の思い出、期待しております~!
今日から始めました。
まずは開幕戦の岡山東商ー弘前工戦からです。
1日1試合のレビューで行きたいと思います。
お楽しみに・・・・
いらっしゃいませ、初めまして。
私も欲しいのですが、どうしても70年代の試合はビデオ自体がないですからね。
You Tubeあたりで見るしかないですが、アレでは味気ないですよね。
なつかしく拝見しました。私は選抜優勝チームより一学年上の崇徳高校卒業生です。私たちのイメージは久保先生といえば、野球部監督というよりも、鬼より怖い生活指導部長。先生に呼び出されたらどんな不良も震え上がる存在でした。そしてそのころはボクシング部の顧問をされていました。野球部OBの前監督と部員とのトラブルもあって、なかなか監督の引き受け手が無かった末の数年振りの監督就任でした。
いらっしゃいませ、初めまして。
という事は広島予選の決勝で山村や田井らがいた広島商に負けて甲子園に行けなかった年が3年だったのですね。
しかも75年は久保監督ではなかったとは初耳でしたが、それだけ選手育成の手腕が素晴らしかったという事でしょうね。
これからも宜しくお願いします。
>>75年は久保監督ではなかったとは初耳でしたが、それだけ選手育成の手腕が素晴らしかったという事
これは違います。選抜優勝時の1976年は学校創立25周年で、どうしても広島商業を破って全国大会出場しようという事で、県内の有望選手をかなりここには書けないような手法でかき集めて出来たドリームチーム。黒田、山崎、小川、應武と1位指名二人を含む4人がドラフトで指名されるようなチームは後にも先にもこの年の崇徳以外には松坂で春夏連覇の横浜か全盛期のPLくらい。しかも彼らが2年生の時に県大会決勝で負けた広商は甲子園の優勝した習志野に敗れたものの準決勝まで進んだような強豪校。だから久保氏が強くした訳じゃない。事実、センバツ切符も前監督の時の秋季大会で得たものだから久保氏の手腕じゃないです。勇退とは聞こえがいいですが、体調を崩しただけ。
予想通り。
>ウチが勝つのは初めから分かり切っていた、
>控え投手でも勝てた
>あの程度の投手ならいつでも打てると思っていた
これを「強気」と感じる主の神経には驚くばかりです。
負けた相手の傷口に塩を塗り込んでいいい訳じゃないでしょう?
切り捨てた相手なら死体に小便をしてもいいという発想で、スポ―マンシップに反している。勝ったのは監督の手腕でなく、広島県史上最強と言われるメンバーが揃ったドリームチームだったから!それも久保氏が1年生の時から育てたチームではない。監督が偉そうにしていい理由を探す方が難しい。
まぁあれだけのメンバーを集めるのはキレイ事だけで
は無理でしょうからね。
たしかに久保氏のコメントは辛らつですが、当時の
強豪校の監督や選手達のコメントも今ならとんでもない
事を言っていたケースも多く特別な事とは思えませんでした。
まぁ秋大会での功績が前監督にあるのも事実でしょうが、夏の大会での戦いぶりを見ると誰が監督をしてもというフレーズは当たってないとも思いますよ。
とりあえず人それぞれに考えは違いますが・・・
当時は今より監督も選手もインタビューされていなかったのは確かですね。原(当時東海大相模)の受け答えなんか今見ると赤面ものです(謙虚ですが)し、強気、歯に衣着せぬ発言をする監督は松商学園・中原氏をはじめ珍しくなかったのは確かですが、それでも相手に一定の経緯は払っていました。強気と侮辱的を混同するのはいかがなものかと思います。監督主さんは特別な事とは思えませんでしたとの事ですが、センバツ決勝前に両チームがどこかのテレビ局(NHK?)で「決勝戦に向けて」みたいな企画があり、そこでのあまりに尊大な言動に司会者が怒ってしまい、対戦相手の小山高(栃木)の監督に「ぜひ勝って下さい」と言ったのには「よく言った」と思いましたね(思ったのは私だけじゃなく全国から同じような投書・電話が多数)。中立な立場のはずのテレビ局のキャスターが公然と全国ネットで一方にエールを送りそれに賛同する意見が多数送られたというのが、当時の久保氏だという事ですし、こんな事は前代未聞で、後にも先にも久保氏以外には例がありません。
久保氏が監督なら春夏連覇できたかどうか?人知を超えた結果でしょう。春夏連覇出来ないチームの方が多いのですから。
ただ野球素人と言っていい久保氏が「彼が監督なら夏も勝てた」と言う意見は久保ファンならではで好意的すぎ、合理性がないと個人的には考えます。
当時は私も‘酷ぇ事言うジジィやなぁ’とは思ってましたし、実際決勝では小山を応援したクチです。
ただ大人になって‘○○高校の監督はこんな事をインタビューで言っていた’などという事を聞き、久保氏も
その部類かと思ったわけですし、最初にこの記事を上げた時のレスも久保氏に好意的なコメントが多かったのも
事実です。
とりあえず当時の崇徳は才能集団でしたから、彼らが選抜優勝という栄誉で燃え尽きた感が夏は強かったと思うので久保氏が監督を続けていればどうやって立て直したかを見てみたかった気もします。
やはり人間ですから、勝った翌日というのは機嫌がいいのですね。
既に私も当時の久保氏と同世代になってますので、
こういう指導法でやれと言われても無理ですから氏の
凄さを実感します。
校内を久保先生が堂々悠々と歩くとオーラが漂っていたのを記憶しております。
在校中最上級生時、野球部は優勝候補の前評判ながら夏の県予選準決勝敗退でしたが、その年の春は久保先生が当時部長をされていたバレー部が春高バレー全国制覇達成し、数学で薫陶を得ることはなかったですが、あの時期同じ校内にいたことを誇りに思います。
この記事では久保氏が野球だけでなく、他の種目でも結果を出していた監督としてコメントをされている方がいますので今さらながら凄い方だったと実感します。
氏が野球部を離れてから甲子園出場したのは78年春のみですから、いくら素材が良くても指揮官が悪いとダメという事になりますね。
同年夏優勝した.
桜美林高校より 崇徳高校の方が,絶対に強いです
高田純次より
私も春の崇徳の方が、夏の桜美林よりも強かったと思いますよ。
やはり崇徳は春の優勝でモチベーションが下がっていたという形でしょうか。
夏の初出場はともに、1961(昭和36)年、第43回大会で、しかも、初戦(1回戦)は大会第3日目(8月13日)で、それぞれ、
第2試合 報徳7-6倉敷工(延長12回)
第3試合 崇徳3-2 武生(延長10回)と延長サヨナラで勝っています。
ちなみに、第1試合も銚子商2-1法政一(延長12回)となっており、同日全試合が延長サヨナラで、史上初という日でした。
そして、2回戦もともに勝って、準々決勝でともに敗れています。
私は崇徳の事を崇徳上皇の‘すとく’と呼んでました。
報徳の初出場が倉敷工相手の奇跡の大逆転は知ってましたけど、登場した日は全て延長サヨナラ勝ちだったのですね。
私が知っている範囲では73年夏の2日目が第2試合;高松商-取手一から第3試合:作新学院-柳川商、第4試合:銚子商-岡山東商が3試合連続延長サヨナラというものでした。
報徳学園はこの頃は73年春&74年春と銚子商キラーでしたね。
仮に74年の夏に報徳が出ていたら銚子商の優勝はできたのでしょうかね?
当時、私は幼かったので、当時はその様な分析する程、野球を把握していませんでしたので詳しい事はわからないです。申し訳ありません。
選抜優勝が住谷-東の投手リレーだったという事も把握せず、後に知ったのです。
しかし、こーじさんが書かれた、73年,74年の事で、後に知っている事を2つ書きたいと思います。
あるテレビ番組で、銚子商74年夏優勝の2年生4番打者、篠塚(元巨人)が話していたのですが、自分が入学する前に、銚子商が甲子園で大敗し、メンバーは夜中に帰ったそうです。後に色々調べた時、その相手は報徳だと知りました。
74年の夏は、準々決勝で出場した東洋大姫路(以後東洋と記します)に敗れ、報徳は甲子園に出られませんでしたが、その試合の事を福島敦彦氏が(当時報徳監督)と藤田明彦氏(当時東洋メンバー、現同校監督)の雑誌(兵庫の高校野球)対談で、あの年、夏県3連覇がかかっていた東洋より、戦力的に明らかにこちらが上だった。しかし、試合当日、球場近くに宿を借りればよかったが、電車を利用してしまい、それが、満員だった為、選手が披露してしまった。初回犠飛で足の速い3塁ランナーが刺された。それと、投手リレーを先発-抑えを逆にしてしまい、選手を動揺させた。田中監督(当時東洋監督)との差が出た結果です。
と、言うような事を述べられていました。
銚子商の話は2ちゃんねるの70年代の高校野球を語ろうに載ってましたね。
銚子商初の初戦敗退で普通に帰ったらヤバイので夜行で帰ったものの、銚子は漁師町なので住民は朝が早く見つかって罵声の中帰るハメになったとか。
74年の東洋-報徳戦は76年の週刊朝日の出場校予想号
に報徳の住谷と東洋の誰かが社会人でチームメイトという事で一緒に写真に納まってましたし、この時のスコアを見ると確かに東-住谷と選抜とは逆のリレーになってましたね。
満員電車で疲弊した話は興味深いですね。
これと同じ事をして失敗したのが79年のPLと08年の沖縄尚学で、79年のPLは浪商との決勝で1回にいきなり5失点して流れを手放してますし選抜優勝だった沖縄尚学も
1回に5失点して敗れてますのでよくある話かもですね。
ちなみに私は64年生まれで高校野球に興味を持ち始めたのが73年の江川の頃でしたから、この頃の話は今以上に記憶があるわけですよ。
いらっしゃいませ、初めまして。
久保氏の お孫さんで他界された時が5歳という事は現在は高2か3ぐらいでしょうか?
高校生だったら御祖父さんの偉大さが余計に実感できるのではないかと思います。
崇徳といえば御祖父さんが必ず取り上げられるほど有名でしたし、サイトによっては御祖父さんの悪口なども書かれているわけですが何事も大きな事をやる場合は批判が付きもので、かく言う私も小学生のキックベースですら優勝すると文句を言う声が聞こえてましたからね。
そういうのを一切気にせずに結果を残した御祖父さんというのは本当に偉大だと思いますよ。
久保先生は生徒であっても個を尊重し長所や力量を認めてくれる最高の師でした。
久保先生の魅力を端的に説明するのは難しいのですが、とても生徒を一生懸命にさせるのが上手な人、その証にどのクラブの監督や部長になっても全ての部活動で全国制覇を成し遂げています。柔道、アメフト、ボクシング、バレーボール、野球etc...俺に付いて来たら優勝させてやる。と言い切るんです。
私はラグビー部に属しながら喧嘩好きで校内謹慎2回停学3回で学校に残れた者は他にいないなか、久保先生に見出されてジュニアヘビー級でボクシングを始め首の皮一枚で在籍している生徒でインターハイで賞状がないと終わりだと言われてました。
先生からは高校野球で制覇した時のコメントの趣旨や叩かれたことも師から聴きました。 だってアイツらが凄いんだじゃけ…抜けとるんじゃけ…しょうが無かろう? その後ドラフトが控え人生がかかっとるから、正当な評価をして欲しいけぇ〜言ったまでよ。と…自分の事はどうでもいい人、その証拠に私の進級がかかった高校2年3月末日久保先生は定年を迎え有終の美を飾るべく春高バレーの決勝で全国制覇、数日後先生に電話して先生私…留年しました。…早よ言えや! もう退職しとるけぇ何とかできるかわからんけど、待っとれ!
5時間後先生から電話が…何とかなったでぇ
仮進級じゃけしっかりやれよ‼️と…後で聴くと…東大出身の先生に計算間違いって事で修正してやってくれと…頭を下げてくれたそうでした。
私は恩に報いるよう残りの一年は勉強とスポーツを頑張りました。
いらっしゃいませ、初めまして。
亡くなって既に13年経っているにも拘わらず、こういった教え子の方々がポジティブなコメントをいただけるという事が久保氏の器の大きさを物語ってますね。
ようやく現在はコロナ騒動を始めマスゴミの取り上げ方がムチャクチャという事に多くの人達が気付いてますが、むしろマスゴミから叩かれる人の方が好人物というケースは多いわけで久保氏も然りだと実感してます。
私も縁あって子供達にキックベースを教えてますが、こういった懐の大きな指導者になりたいと思ってますから最高の恩師に恵まれたという事ですね。