|・)ノ 玄学界のアレクサンドリア木星王、どうもありがとうばい。
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『父 君 略 記』
美作主の長男なり。母は宮地神齋主の女。
常磐主長して痩体尤健身 容貌美質 天保四年癸巳年に至りて十五歳。
同年三月村上専八に就きて画道を学び、習字を竹内某に学び、及び吉岡兎内氏より教えを受く。
十八歳の頃、剣術居合い手裏剣等の諸氏に就いて修行する傍ら俳優に工あり。
弓術を宮地亀十郎氏に学び奥義に達す。
三十一歳砲術師田所忽氏に随ひて、砲術を学ぶ。
その奥義に達し、師の代理と成大砲鋳造ある毎に試験役を蒙る。
師田所氏云く、砲術弓術如何に極むるも、足下神官の家に生まれて、
神明の恩頼を蒙り其神明を尊崇して国教を邦域に拡充するぞ其職分なる。
之を捨て、他の芸事に渡るは神職の分を失うと忠告せられ、
忽ち其の言を諾し翻って敬神の道に基づき、其年十月より夜半に起き、庭前に立ち四方を拝し、
黎明家に入りて神前を拝し、午前十一時にして朝飯す。
此の間二十三年なり。故に神通を得たり。
一、常磐先生は、宮地美作主の長男として文政二年十一月十五日辰の下刻に生まれる。
幼名を佐之助と云い、天保二年八月九日満十ニ歳の時仕官して、上野佐重房と改名された。
先生の御改名は、始めに佐之助次に上野佐重房、次に布留部と称され明治四年諱を常磐とされた。
歌人仲間では宮地大重と称し、玄学上の道号は玄心と称した。
一、天保十年 大宰府に参官し、時の神主但馬と神葬式の義を京師に請願したが、聞き届けられず。
一、嘉永から安政年間にかけて、鹿持雅澄の門下として『万葉集品物図会』を描く
一、嘉永四年神葬祭を上京して請願したが聞き届けられず。
一、嘉永五年十一月八日 長男堅磐誕生す。
一、嘉永六年二月二十二日。厳父美作主の跡を襲いで天満宮神主となる。 時に二十三歳
一、嘉永年間『天満宮居考』の跋文を宮地遠と共に記す。
一、安政元年 二月上京して、神葬祭を請願したが、聞き届けられず。
宮地竹峰は「是実に常磐翁の実行の鉄腕家としての片鱗である」と云う。
一、安政二年正月元旦より、昼夜を問わぬ修行を始める。時に三十七歳
「父君略記」には、「十月より、夜半に起きて庭前に立ち四方を拝し」とある。
一、安政四年「鹿持雅澄像」を画く。
一、安政五年 岩蔵より異境の所見を聴集した「異境物語」を物す。
一、萬延元年六月十三日手箱山を開き、鉾を山上に立て、『大山祇神の璽」と假に定める。
一、萬延二年三月四日 常磐先生の信任は国君連枝まで及ぶようになり、これを憎んだ奸臣より
讒言され、手箱山の開山と神懸りのことを詮議され神主を差し止められる。
一、文久三年、武市瑞山監獄に入る時、山内兵部の依頼により、神符を出す。長崎の事情を視察する。
一、慶應元年 積年の功なり。大山祇神に拝謁する。常磐四十七歳
一、慶應四年 四月二十一日平田家に入門す。
紹介者 倉沢義随(信濃小野村 矢彦神社神主)
一、明治二年 名を布留部と改める。弓術の絶える事を憂い、師範を命じられ、
大衆を導く。明治二年九月十九日『石鎚神社神名考』を著す。
一、明治三年 五月二十五日中風を発病す。この年、伊勢神宮に参拝す。
一、明治四年御令室を伴い、京都鞍馬山貴船神社に参拝す。
諱を常磐と改名す。神社改正鎮鎮祀役に就任し、
足摺山の神仏取り分けを奉仕する。
一、明治十年潮江村の住民台帳その他提出す。
一、明治十三年六月十三日『家訓』を記す。
その後中風を再発し、殆ど身動きが取れなくなる。
一、明治二十三年一月十五日帰天。時に、七十二歳
常磐先生は鹿持雅澄十哲の一人と称せられ普通
村人は東の宮地と呼んで、宮地守遠とは区別していた。
宮地守遠も天満宮祀官の一人で『天満宮居考』に常磐先生と並んで跋文に名を連ねている。
先生は特に絵画に堪能で、現存する大山祇神御神像を始め幾多の神々の御神像を画かれた。
その師雅澄の万葉集品物図絵に筆を染め
その大著たる万葉集古義の完成に助力したと
『土佐歌人群像』に記載されているが、万葉集古義の完成に助力した部分には疑問が残る。
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