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牽強付会では? 憲法9条

2018-02-22 09:46:31 | 法・裁判

22日の朝日新聞の論壇時評で、今をときめく憲法学者・木村草太さんが、9条の改憲論議に関連して、9条改正を語るにはまず政府解釈や憲法学説をきちんと理解することが大事という。結論(9条改憲は不要)や途中の論証はほとんど同意できますが、9条についての憲法学説の理解にはかなり違和感があります。
木村さんの論旨は、外国からの武力攻撃に対する必要最小限の実力行使は、9条の武力行使禁止の例外として認められるという政府解釈(たぶん木村説も同旨)を紹介して、これは欺瞞だとして自衛隊は9条違反だとする見解(絶対平和主義=軍隊に類する実力組織や武力行使は絶対認められないという考え方)もあるが、この見解は外国による侵略で国民が不幸になることを放置するもので「こちらの方がよほど無理筋」「それこそが欺瞞」と断ずる。
しかし、憲法の代表的な教科書(たとえば芦部信喜『憲法』岩波書店)では、絶対平和主義こそが9条の正しい理解とされ、政府解釈のような考え方はコテンパンに批判されています。憲法解釈を離れれば、現在の国民の多くは芦部説ではなく木村説に軍配を上げると推測しますが、憲法が制定された太平洋戦争直後はどうだったのでしょう?
もう少しで3世紀を生きることになった私の祖母(2000年11月に106歳で死去)は、太平洋戦争の終わりころには、どうなってもよいから戦争は終わりにしてほしい、戦争はもう懲り懲りだと思ったと言っていました。「どうなってもよい」や「もう懲り懲り」には、わが国が外国に占領されることも含まれていたのではないでしょうか。自国の軍隊が暴走することはもっと不幸だという反省です。だから、憲法制定直後には憲法学者だけでなく、当時の吉田首相も武力によらない自衛と理解していました。
政府解釈や木村説の最大の難点は、憲法には軍事力や武力行使に関する規定が全くないことです。素直な解釈は憲法は軍事力の保持や武力行使を想定していないということでしょう。もちろん現在の国民に外国に支配されたとしても武力行使はいけないかと問えば、先ほど言ったように、政府解釈に賛成という人が多数ではないかと思います。
そのあたりの事情を畏友・大津浩くん(当時成城大学、現在明治大学)が、以下のように説明していますが(2年半前の安保法制論議の際に報道機関のアンケートに答えたもの)、木村さんよりよほどフェアで率直な説明と考えます。

日本国憲法9条が本来は軍隊も戦争も認めていないことは、日本語の分かる者なら誰もが直ちに分かる。それでも……外国から急迫不正の攻撃を受けることに漠然とした不安を覚える国民意識を考慮した時、憲法9条の下で違憲と言い切れない唯一のグレーゾーンとして残るのが、日本が外国から急迫不正の攻撃を直接受けた時に、必要最小限の限定的な反撃をすることまで憲法は禁止しているとは思えないという理屈であった。だから歴代政府も、日本の存立に必要と思われる自衛権の行使ならすべて憲法が認めるという理屈ではなく、外国からの急迫不正の直接的な攻撃に対して、一時的に反撃し持ちこたえる程度の最低限の個別的自衛権の行使のみが許されるという理屈で、自衛隊や日米安保条約の合憲性を何とか取り繕ってきたのだ。つまり自衛隊や日米安保条約をかろうじて合憲としてきた根拠こそ、それが集団的自衛権の行使とは根本的に異なるからというものだった。
……安倍内閣は、過去に自衛隊や日米安保条約を国民に強引に受け入れさせたのと同様に、またしばらくの間国民を騙し、ごまかして既成事実を積み上げれば、集団的自衛権も受け入れられるようになるはずと考えているようだが、とんでもない。平和外交に徹した専守防衛は、自衛隊が人を殺すこともなく、また自衛官が戦地で殺されることもなかった。だからこそ多くの国民は、憲法9条の本来の意味からは多少外れると思いつつも、最低限の専守防衛に限定された個別的自衛権については、その合憲性を否定しなかったのである。なぜなら、たとえ個別的自衛権を認めたとしても、集団的自衛権の行使により外国の戦争に巻き込まれる危険性を一切排除するならば、日本は極力戦争を回避しなければならないという憲法9条の根本を変えないで済むからである。

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