ホスピスが舞台のドラマ「ライオンのおやつ」を観ている。
このドラマの原作者である
小川糸さんは、「人は誰でも死ぬ。死に対する恐怖を取り去る
物語を書きたかった。」と語る。そして言葉通り、このドラマにはそういったテーマに則
して、現実では恐らくないだろうと思われるホスピスでの「死を迎える直前の人たち」を
柔らかな目線で描いた。
前回の放送では、孫のふうちゃんと同じ8歳の女の子の「死」がテーマだったので、涙なし
ではとても観られなかったけれど、このドラマが描くそれは悲しいだけではなく、観た後に
心に風が吹き抜けるような感覚が残った。こういった物語にありがちな「重苦しさ」とは少
し違って、救いのようなものが残った。
このドラマの第一回目の放送と前後して、「NHKスペシャル 立花隆追悼番組「臨死体験
立花隆 思索ドキュメント 死ぬとき心はどうなるのか」を観た。
立花氏はこれ以前の「臨死体験」での取材当時から、死ぬと「心」も消えると考えていた。
立花さんのこの思索の旅も、最初は天国のような所を観たという臨死体験をした人達への
取材から始まり、それに続いて心は脳にあるのか、人の考えは脳から生まれるのか等々、
様々な主張をする科学者や研究者を訪ね歩き、それらを証明しようとする実験を目の当た
りにしたり、ある時は自身も実験に参加した。
けれどもつまるところ、それに対する明確な答えを導き出そうというより、ある意味、彼
のような立派な人間であっても、自身の体を蝕んでいる病がやがてもたらすであろう「死」
に向き合うための「心の救い」を求める旅であったように思う。「死」が、ただ自分の心が
消えてなくなることを意味するのなら、受け入れ難いことだろうと思う。
彼の「神秘体験の中で自分より偉大なものを感じる感覚はどこから来るのでしょうか」
という問いに対し、ケンタッキー大学のケビン・ネルソン教授は
「神秘的な感覚は辺縁系で
起こる現象なのです。死の間際、辺縁系は不思議な働きをします。眠りのスイッチを入れる
と共に覚醒のスイッチを入れる、言わば白昼夢の状態になる。
それにより、人は幸福感に満たされ、それを現実だと信じるような強烈な体験をする。
それは人が長い進化の過程で獲得した本能に近い現象ではないかと思います。
しかし科学とはそもそもどのような仕組みなのかを追求するものであり、何故そのような仕
組みが存在するのかと問われても答えられません。」
「神秘的な体験をする時、脳がどのように働くのかという科学的事実は、誰の信念も変える
ものではありません。脳は必ず神秘的な体験に参加するようにできているのですから。しか
しそれぞれの人が体験した神秘を、どう受け止めるのかは、必ずしも科学で証明する必要は
ないのです。臨死体験をして亡きお母さんにあった時、それをお母さんの魂と受け止めるの
か、お母さんについての記憶だと受け止めるのか、それはその人にしか決められない心の問
題です。その人の信念の問題なのです。」と、穏やかに語った。
「人が死ぬ時に何があるのか」この、人が求める永遠の疑問に対して、最終的に立花氏が導
かれたのは、
「人の意識は脳内の膨大な神経細胞のつながりによって生まれる
死の間際、特別な感覚を持ち神秘的な体験をするように脳の仕組みが出来ている
臨死体験とは誰もが死の間際に夢見る可能性がある奇跡的な夢である」
「死とともに自分の心は消えるかもしれない。しかし自分が死ぬとき、どんな思いで死に臨
んだら良いのか。それは科学でも宗教でも答えの出ない問題である。
人間は死ぬとき何を体験するのか。死の向こう側にはいったい何があるのか。何もないかも
しれないけれど、もしかしたら何らかの死後の世界があるのかもしれない。
死ぬということはそれほど怖い事じゃないということが以前より強くわかった。人生の目的
というのは結局『心の平安』ということが最大の目的なのだが、人間の心の平安を乱す最大
のものというのが、自分の死について想念、頭を巡らせること。今は心の平安をもって自分
の死を考えられるようになった。いい夢をみたい。観ようという気持ちで人間は死んでいく
ことが出来るのではないかと思えるようになった」と締めくくった。
私自身は以前学んでいた聖書の影響で、「魂は声や顔、肉体を含むその人の個性であり、
思いであり、死と同時に(神に)取り戻される」という解釈をしていた。なので、よく言
われる死後に残る「怨念」とか、「霊魂」とかいったものに脅かされることもなく居られ
た気がする。「すべての人の死は、完全に眠った状態」だと思っているからだ。
この日記で、私がしばしば亡くなった方に「またいつか」と言ってしまうのは、「生まれ
変わったら」という意味合いではなく、その人の個性や人格のままの「復活」を願っての
ことであり、そして自分自身を含めてすべての人に復活があるとも思っていないので、お
互いに再会できたらいいねという意味で使っている。同様に「安らかに」というのも、そ
の後には「お休みください」の言葉が隠れている。イエスのような「復活」を望むなら、
「善く生きよう」とも思える。
それでも、昨日まで言葉を発していた親しい存在が、突然消えてしまうことを易々と受け
入れられないのも事実だし、だから人は天国の存在を信じたがるのも理解できる。亡くな
る人も見送る人もそう思うだけで心が安らぐ。だから人の死生観を否定はしない。
だけど、何時か目覚める可能性を含む「完全な無の状態の眠り」に居るのだとしたら、
「死」は必ずしも「恐ろしいもの」ではなくなる。
以前私が「死ぬこと自体は怖くない」と言ったのは、そう思っているからだ。