少し前にBSで放送されたこの映画を観るまで、
「カティンの森事件」について
私は何も知らなかった。
聞いたことはあっても、多分関心が無かったのでスルーしていたのだと思う。
近頃暗い映画を何となく避けていた私は、この恐ろしい事件をテーマにした
映画だという予備知識がなかったからこそ「観てみよう」と思えたのだけれど
今、「集団的自衛権」の是非が論じられているこの日本に住む私たちにももはや
関係のないことではないのかもと思える。 ある意味、「偶然」と言う名の必然
だったのかも。
監督はポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダで、監督自身の父親がこの事件の犠牲
者の一人だったことが、この映画に込められた執念や思いを強めている。
構想に10年以上の月日をかけ、何十回もの修正を重ねてこの作品が作られたと
いうことからも、真相を記したいという監督の熱意を窺い知ることができる。
ドイツは不可侵条約の更新条件を飲まなかったポーランドに対し、一方的に条約を
破棄してポーランドに侵攻し、更に直後にはソ連軍もポーランドに侵攻したところ
から物語は始まる。
※事件そのものの複雑な背景や真相は、上記(wikiの記事)に詳しくあるので
ここでは省きます
身も心も深く傷を負うことになるのに、人は何故争い戦うのだろう。
ある国の主となる人は「自国民の幸福のため」と言い、ある国は相手国が攻めて
きたからと言う。それは国同士の諍いに限らず、個人と個人である時も同じ。
いつの世でも、何かしら「戦い」を正当化する理由をあげ、美名のもとに始まる
ものだ。だから人の命を犠牲にしてもいいの?子を持ち慈しんで育てた身に、そ
れは永遠の謎。
先の集団的自衛権行使のため安倍首相が公の場で語ったいくつかのこじつけのよ
うな理由も、私には納得できない。
この映画の齎した何とも言えない重苦しい胸のつかえのようなものが、実は今の
このきな臭い自衛権を巡るやり取りの先にあるような気がして、何とも言えない
気持ちになる。
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(以下朝日新聞記事より抜粋)
「この議論は、国民の皆さま一人ひとりに関わる現実的な問題であります」と強調し
米軍艦に母と子らが乗り込む姿を描いたパネルを示し、集団的自衛権を行使しないと
「米艦を守れない」とアピールしたけれど、実際、海外の日本人が危険に巻き込まれた
ケースはあっても、米軍に救助された例は「聞いたことがない」と防衛省もいう。
民間機などで避難したケースでは、イラン・イラク戦争中の1985年、イランに取り
残された日本人200人超がトルコ政府が手配した航空機で脱出した例がある。90年
からの湾岸危機の時には、日本の市民団体が民間機約10機を手配し日本人ら約3千人
を移送した。
自衛隊機や艦艇が日本人を紛争地域から退避させることは(すでに)自衛隊法で規定され
ているし、昨年のアルジェリアでのテロ事件を受けた法改正で、車両による陸上輸送も可
能になっている。
首相が会見で想定例としたのは、朝鮮半島の有事(戦争)とみられる。
緊急時には自衛隊を派遣して在韓日本人を退避させることもありうるが、韓国側との調整
が必要になる。
「米軍は米国民の避難を優先するのでは」(政府関係者)との声もある。行使容認に慎重
な公明党は個別的自衛権などで対応が可能との立場だ。
同党の山口那津男代表は16日、首相が示した例について「実際のリアリティーがどれほ
どか、よく吟味すべきだ」と述べた。
首相が行使を進めるもう一つの理由として、(それによりなぜか)戦争に巻き込まれない
ことを上げる。
「あらゆる事態に対処できるからこそ、そして対処できる(安全保障の)法整備によって
こそ抑止力が高まり、紛争が回避され、戦争に巻き込まれることがなくなる」「各国と協
力を深めていかなければならない。それによって抑止力が高まる」
安全保障上の抑止力とは、防衛や反撃の能力を持つことで相手国に攻撃を思いとどまらせる
考え方だ。
軍備を進めれば、攻撃を受ける危険性が減るとの考え方は東西冷戦時代を象徴するもので、
軍事力の均衡を保つ効果が期待できる半面、際限のない軍拡競争につながる危険性がある。
首相は、
集団的自衛権の行使容認で自衛隊の対処能力が向上し、「抑止力が高まる」と説明する。
だが行使容認に慎重な公明党の山口代表は「圧倒的な軍事力をもつ米国と安保条約を結んでいる。
日本に攻撃が加えられた場合は(米国が)対処することも条約で書かれている」と述べ、必要
な抑止力は持っているとの認識を示す。
首相は、
集団的自衛権を含めた法整備で「戦争に巻き込まれなくなる」と主張するが、行使は
他国での戦争に日本が加わることだ。
これまでは日本が直接攻撃を受けた場合に反撃できる個別的自衛権のみが認められてきた。
行使を容認し、米国などの支援要請を受ければ、日本は戦争参加の決断を迫られることとなる。
参戦を前提とする集団的自衛権行使を認める理由に「抑止力」を挙げるのは矛盾した論理と言える。
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安倍首相は報道陣の「行使する場合、国民に信を問うのか」の質問には明確に答えなかった。
このことからも、首相の権限により、自身もしくは政権で判断する可能性が大きい。
もし集団的自衛権が美名のもとに行使され、ある時点で子を戦争にかり出される
事態になったとしたら、世のお母さんたちは息子や夫を差し出すのだろうか。
私は嫌! たとえ殆ど家に顔さえ見せない息子でも、今生きているだけで充分だと
自分を納得させているけれど、戦争にかり出されるのだけは声を上げて阻止したい。
さて戦争繋がりでここに無理やりにねじ込む(笑)「終着駅-トルストイ最後の旅」
という映画。 この映画も録りためた後↑の映画とほぼ同時期に観たので。
著書の「戦争と平和」などからも読み取れるトルストイの思想そのものがテーマでは
なく、彼と、世界三大悪妻と言われた妻ソフィアとの、最後の日々の物語だ。
この映画からその妻ソフィアが言われていたほど悪妻ではなかったのかもと、殆どの
人が思うだろう。少々お金に執着し、エキセントリックな部分があったとしても、彼
女が紛れもなく若き日の夫を支え執筆に協力し、愛していたことは確かだと思える。
ただトルストイが立派すぎたのだと。もちろん初めからそうだったのではなく、恵ま
れた家に生まれたトルストイが、自らの生きる意味をキリストの教えに見出すように
なり、貧しい人々に富を分け与えようと著作権の放棄を考えるまでには、紆余曲折が
あったのだろう。若き日には女性との遊びが過ぎたこともあると、自ら話す。
ソフィアが変わっていったのではなく、トルストイが老成し、彼女がそれを理解できな
かったのだと読み取れる。 夫婦の複雑に絡み合った感情の軸は、周囲には到底解せ
ないものであっても、やはり「愛」だったのだと私には思えた。
晩年の家出先で死の床にあったトルストイが、最後に呼んだのは妻の名だったことも、
それを表している気がする。
ヘレン・ミレン 心に闇を抱えた堅い女性を演じればいつも見事に演じ切るけれど
この、エキセントリックで常に愛と言う名のもとに動かされる愚かな女性の役・・と
いうのも、やはり見事です・・。