「無題」 (九)―⑦

2012-08-03 13:51:15 | 小説「無題」 (六) ― (十)


          「無題」


           (九)―⑦


 まず、お断りしておきますが、これは家族の旅行記ではありませ

んので、もとより訪れたところをいちいち取り上げるつもりはあり

ません。それに、箱根伊豆といえば、行ったことがなくとも恐らく

誰もがバラエティー番組等で頻繁に見聞されてるでしょうからその

すばらしさは拙著を待つまでもないので割愛させていただきます。

とは言え、私自身も勤めていた会社から店長会議や研修セミナー、

時には接待ゴルフなどで足繁く訪れながら、実は、その目的以外の

観光地に進んで訪ねることもなく、宿に着くや湯に浸かる程度で早

々に同行と酒を酌み交わしてそのまま酒宴に流れ込んで酩酊の中に

気が付けば慌しく出立の朝を迎えるという、折角の甲斐のない旅行

ばかりしていたことに気付かされた。つまり、家族の中で一番箱根

を訪れながら、箱根のことを一番知らなかった。妻は、名所旧跡を

一度も訪れたことのない私を嘲笑いながら、

「じゃあ何もわざわざ箱根まで来て会議をする必要はなかったんじ

ゃないの?」

私は、

「今から思うと、社内の親睦を図るためなら都内の居酒屋で充分だ

ったかもしれないね」

社命を帯びた旅行は、会社という束縛された視点を解放することが

できずに本来の旅行の楽しさ、気兼ねのいらない自由な視点で旅行

することなどできなかった。

 一旦、宿にチェックインして食事をとってから車を預けたまま、

子どもたちが絶対に乗りたいと言っていた芦ノ湖の海賊船とロープ

ウェイに、箱根フリーパスを買って乗ることにした。そして、妻に

は、

「あなたが一番はしゃいでる」

と呆れ返られるほど年甲斐もなく子どもたちと一緒に騒いだ。陽が

傾いて影が伸びきった頃に宿に入った。家族風呂ではなかったので

彼女たちとは分かれて一人になった。洗い場でシャワーを浴びなが

ら、かけがえのない家族と一緒に旅行していることが嬉しくて、何故

か、涙が溢れてきてしかたなかった。                     

 次の日は、主な観光地に立ち寄りながら、とは言っても、己然が

選んだところが主ではあるが、伊豆に向かって車を走らせた。途中、

美咲が車で寄って欲しいところがあると言い出した。妻は、

「美咲!」

とたしなめた。どうやら実父の親戚の旅館が近くにあったようだ。

私は、

「いいよ、行ってみようよ」

そう言ってハンドルを切った。駐車場に車を止めると、美咲はしば

らく玄関辺りを見詰めていたが、

「私一人で行きたいので、ここで待ってて」

と言った。妻は、

「もうやめてったら、美咲!」

私は、

「いいよ、行って来いよ、美咲」

そして妻に、

「いいじゃないか、思い通りにさせてやれば」

そう言うと、美咲はドアを開けて恐る恐る車外に出た。そして、玄

関の方へ歩き出そうとした時、その玄関が開いて中から子供連れの

家族が出てきた。子どもは己然と同じくらいの男の子だった。美咲

は立ち尽くしてしばらくその家族を眺めていたが、その家族が私た

ちの居る駐車場の方へ歩いて来るのに気付くと、再び私たちの車に

戻ってきて隠れるようにしてドアを開けて中に入った。誰もが黙っ

てその家族の様子を車内から眺めていた。妻は、

「前の亭主よ」

それ以上は言わなかった。彼らは、私たちの車の向い側に止めて

あった車に辿り着いた。男の子が、

「パパ、やらせて!」

と言って、父親から電子キーを奪ってロックを解除した。その声は

私たちが居る車内まではっきり届いた。奥さんと思しき人はハッチ

を開けて荷物を詰め込んでいた。美咲は、その様子を瞬きもせず覗

いていたが、その目からは涙が溢れていた。


                                  (つづく)