「無題」 (九)―⑥

2012-08-06 02:34:38 | 小説「無題」 (六) ― (十)



           「無題」


            (九)―⑥


 旅行の楽しみは、目的地に到着することよりも、移動することそ

のものにあるのかもしれない。もっと突き詰めると、棲み慣れた柵

(しがらみ)から逃れて、此処ではない新しい世界への逃避、それが

自由を感じさる。たとえば、通り過ぎる車窓の景色を眺めながら、

美しい風景に心奪われて、こんなところなら住んでみたいと思って

も、いざ、実際に今日からそこで住むとなると、その思いも微妙に

変化する。それは、その土地に問題があるからよりも、移る視点と

定まった視点の見え方の違いによるものではないだろうか。それは

自由な視線と束縛された視線の違いであり、定住した途端に視線が

束縛され、自由な視線が失われる。つまり、移動することが自由を喚

起するのは、縛られた視点を移動させて自由な視点を取り戻すから

ではないだろうか。我々は、日常生活の中でどうしてもこの自由な視

点を失ってしまう。

 有難いことにこの上ない晴天に恵まれて、今、私の家族は車上で

自由な視線を満喫しているところだ。私は、折角の水入らずの家族

旅行だからとレンタカーを借りることにした。混むといけないから

と予め朝早くに家を出て正解だった。今のところ加速の邪魔をする

先行車両は少なかった。後ろの席では、己然と美咲の二人が窓の外

を指差して、ハンドルを握る私に見てみろと言ったり、かと思うと、

突然、二人で歌を唄い始めたりと大騒ぎしている。度が過ぎると、

助手席の妻が静かにしろと叱るが応えやしない。すると突然、己然

が何を言うのかと思えば、

「お父さん、オナラして」

と私にせがんだ。すぐに美咲が、

「だめだよ、マド締め切ってるんだから」

と言ってたしなめた。実は私は、今なら車の微妙な振動のせいで、

己然が喜ぶような放屁の準備はできていたが仕方なく我慢した。そ

して、

「ほらっ、富士山!」

そう言うと、二人は前の席の背もたれの間から顔を覗かせて、フロ

ントガラス越しに雲一つ掛かってない富士山を見て、

「きれいっ!」

と、声を合わせて叫んだ。妻の弘子は、後ろを振り返って、

「美咲、きのうお風呂で、キサ、オナラしてって言わなかった?」

美咲は、

「もう、こいつ、頭おかしい。そればっかりなんだもん」

己然は、

「がははははっー」

と、仰け反って笑いながらごまかした。そして、

「だって、お父さん、すごいでー。ものすごい大きい音出すんだか

ら」

私は、己然に褒められて、

「キサ、お父さんな、音だけじゃなくって、今、声にしようと思っ

て練習しているとこなんだ」

「ええっ、どういうこと?」

「もうちょっと頑張ったら、たぶん、オナラで返事くらいできるよ

うになると思うよ」

「えっ!うそっー?」

それを聞いていた美咲が、家族には馴染のない関西弁で、

「あほ臭さっ!」

と言って、自分の席の背もたれに身体を倒した。さっきから助手席

の妻が、車内の空気を嗅ぎ回っていた、

「なんか、ほんとに臭くない?」

と言って、私を見た。そして、

「お父さん、オナラしたでしょ?」

「ゴメン、漏れたかもしれん」

すると、美咲が、

「ギャーッ!お父さん、マド開けて!」

己然は、今度は本気で仰け反って、

「がははははっー」

と笑った。

                            (つづく)