「無題」
(七)―③
「お父さん、ちょっといい?」
「ん?」
私が何も応えない間に娘は向いの椅子を引っ張り出してゆっくり座
った。立ち去るものだと思っていた私は、
「なっ、なにぃ?」
「実は、」
そう言ってからしばらく噤んだ。彼女がテーブルに載せた左腕の淡
い空色のブラウス袖口から手首に巻かれた白い包帯がはみ出して
いた。私はとっさにそれから視点を逸らして彼女の背後へ移すと、奥
のキッチンでは背を向けて流し台に佇む妻が、音も立てずに家事を
している振りをして聞き耳を立てているのがわかった。私は、美咲が
何を言い出すのかビクビクしながら固唾を飲んでその後の言葉を待
った。
「わたし、できたらまた一人で暮らしたい」
「京都へ戻るつもり?」
彼女が籍を置いていた学校には一応休学届を出していたが、借りて
いた京都の部屋はまだそのままで、何時までもそのままにしておく
わけにはいかなかった。
「もう京都へは戻らない」
「じゃ学校はどうする?」
「できればこっちの学校に移りたい」
「うん」
彼女が言うには、この秋にこっちの大学の編入試験を受けて京都で
の学生生活を引き払うつもりだと言った。それを聞いて私は少し安堵
した。少なくとも大学に在籍している限り、退学してしまうよりは
迷いが少ないと思ったから。ただ、彼女はもう教職を目指すことは
諦めた。そして、
「心理学を勉強したい」
と言った。私は、彼女が傷付いた左手で握り締めているキルケゴー
ルの文庫本に目を遣った。そこには「死に至る病」と書かれていた。
(つづく)