「無題」
(八)
美咲が置いていったキルケゴールの本のおかげで通勤電車で退屈
しなくてすんだ。とはいっても、ポテトチップスをサクサク食うよ
うなわけにいかず、スルメイカをいつまでも噛みしめているようで、
わかったつもりで先へ進むと咀嚼されずに飲み込んだイカは嚥下
されずに再び口元へ吐き出されて、飲み込めない箇所に後戻りして
何度も読み直さなければならかった。例えば、「罪とは、神の前で
絶望して自己自身であろうと欲しないこと、あるいは、神の前で絶
望して自己自身であろうとすること、である」と書かれているが、
それじゃあ、いったいどうすればいいのかさっぱりわからなかった。
ところが、何回も同じところを咀嚼するうちに、「自分自身であろ
うと欲しないこと」というのは、自分との対話の中で、自分自身と
の関わりを放棄することであり、「自分自身であろうとすること」
とはそれとは反対に独我論に陥ることではないか。そこから「罪」
とは罪の意識から逃れることであり、或いは、罪の意識そのものを
認めようとしないこと、なのではないか。例えば、人を殺しておい
て自分は知らないと虚偽することであったり、或いは、あんな人間
を殺してなぜ悪いと自分を正当化することである。ところが、「神
の前で」が意識されなくなった時、相対化した世界の中で絶対への
意志からもたらされる絶望がなくなり、絶対は存在しないのだから、
虚偽や詭弁を用いることの疚しさを感じなくなる。恐らく、キルケ
ゴールは神への信仰が失われた時、つまり現代だが、絶望(精神)か
ら逃れた我々は、彼は冒頭で「精神とは自己である」と言っている
ので、自己を失い同時に絶望が消え失せ、しかし絶望とは自己にと
ってのある一つの基準なのだ、その基準を失った世界は矮小化し虚
偽と詭弁がたしなめられず、そして、遂には虚偽と詭弁を根拠に精
神を失くした自己を正当化するようになり、やがて人間は堕落する
に違いないと思ったのではないだろうか。ほら、自己(精神)を失っ
て嘘と詭弁を繰り返す原子力村の人々ように。
おお、何時の間にか電車はもう降車駅に着いた。
(つづく)