「無題」 (九)―④

2012-08-14 15:30:52 | 小説「無題」 (六) ― (十)



               「無題」

      
                (九)―④


 日がな一日を無為に過ごす者にとって、家族旅行の計画を立てる

ことは会社でのどんな仕事よりも楽しかった。毎日パソコンと向き

合い人気の施設や行楽地のサイトをダウンロードして、夕飯のあと

でみんなの意見を聞いた。二泊の予定なのに一週間かけても周れな

いほどの候補の中から娘の己然(キサ)の意見を優先して選んだ。

己然は、

「お姉ちゃんにも聞かなくてもいいの?」

と言うので、

「それじゃあ、自分で聞いてあげなさい」

己然は母の携帯デンワをとって姉の美咲にかけた。

「おねえちゃん、うふふふふっ」

「笑ってないで、ほら」

母に急かされて、

「おねえちゃん、今度の旅行どこいきたい?」

美咲が言ったことを己然は私たちに伝えた。

「あのね、キサのいきたいとこならどこでもでいいって」

それっきり妹と姉は旅行とは関係のない二人だけの話にひとしきり

花を咲かせてからデンワを切った。携帯デンワを受け取った母は、

「何でちゃんと訊かないの?」

「だから、どこでもいいって」

すると突然、母の手の中にある携帯デンワが鳴った。

「ああ、美咲、どうしたの?」

母は娘の話を聞くと、

「だめっ、それだけは絶対ダメッ!」

と言うと、どうも美咲の方からデンワを切ったようだった。私は、

それとなく妻に、

「美咲、何だって?」

妻は、しばらく黙っていたが、

「あの子、箱根へ行きたいって」

 私は、普段から家族の者に隠しごとは止めようと訴えていたので、

彼女も仕方なく私の知らなかった過去を打ち明けてくれた。彼女に

よると、箱根は、妻の前夫、つまり美咲の実父の親戚が旅館を営ん

でいて、離婚するまではよく家族で訪れたところだったという。私

は、しばらく考えてから、

「よしっ、箱根に寄ろう」

妻はか弱い声で、

「だめよ、それだけは」

と言った。私はパソコン画面の地図を眺めながら、

「ほら、そんなにかけ離れていないさ」

何よりも私は、美咲が家族と一緒に旅行することを望んでいた。た

とえその行き先が彼女と実父の想い出の場所であったって構わない

と思った。消すことのできない想いを無理に忘れさせようとは思わ

なかった。そんなことをすれば、彼女はますます幼い頃の鮮明な記

憶へ回帰しようとするに違いなかった。過去の記憶の中に今の自分

が生きているのではないことを、脱皮した殻に再び戻ることができな

いことを、自分の目で確かめて自分の意志で決別する他なかった。

                                   (つづく)