「無題」  (九)

2012-08-17 03:22:40 | 小説「無題」 (六) ― (十)


               「無題」


                (九)


 美咲が家を出て行き、私が仕事を辞めたりと日常の変化に戸惑っ

ているうちに、すでに初夏を迎えようとしていた。これまで仕事に

感(かま)けて家族を蔑ろにしてきた反省から、美咲には取り返し

のつかない辛い思いをさせてしまって、今更の感は否めないが、こ

れからは家族を難破から守るために身を尽くしていくつもりだった。

にもかかわらず、妻からは、出掛ける予定がないなら朝ごはんをも

っと遅くにして欲しいと小言を言われ、それでも、身に着いた習性

をそう簡単に変えることができず、これまで通りテレビ局が朝一番

のニュースを流し始めた頃にはどうしても目が覚めた。それなら、

代わりに朝ごはんくらい自分が作ってやると張り切ってパソコンの

レシピを眺めながら、始めに豆腐とわかめの味噌汁を作り、鮭の切

り身を焼き、予定では厚焼き玉子のはずだったスクランブルエッグ

と、昨晩の残り物のほうれん草のお浸しを小鉢に盛り、それから、

ジャコおろし、漬物、味付け海苔、納豆を並べ、ちょっと手をかけ

過ぎたかなと思いながら旅館の朝定食並みのメニューを作り終えた

頃には、ちょうど下の娘、己然(きさ)が起きて来て、ところが、何

時までも経っても洗面所から出て来ず、出てきたと思ったら箸を手

にすることなく、冷蔵庫の中のジュースとヨーグルトそれにクロワ

ッサンだけ食べて、バナナを持って「ごちそうさまでした」と言っ

て自分の部屋に上がろうとするので、「ちゃんと食べて行けよ」と

言うと、「時間がない」と言い残してすぐに制服に着替えて家を出

た。私が、妻に愚痴を言うと、妻は「これで作る者の苦労がよくわ

かったでしょ」と、日頃から献立に文句の多い私に仕返しを果たし

た。仕方がないので二人で食べることにしようと、妻を労わってテ

ーブルのイスに座らせ、私がごはんをよそおうとしてジャーの蓋を

開けると、釜の中は空だった。


                                 (つづく)