「ボーダー」⑩

2012-03-29 18:00:08 | 境界性パーソナル障害(BPD)



               「ボーダー」⑩


 さて、個人に於いて、幼少期に様々な精神的外傷によって自己形成

が充分果たせず、成人になって幼少期の感情のコントロールが出来な

くなり人格障害をもたらすと言いましたが、それは社会に於いても言

えるのではないでしょうか。つまり、過去のトラウマが現在社会に様

々な問題をもたらしているのではないだろうか。もしも、我々の社会

が何らかのトラウマを抱えているとすれば、それは、間違いなく戦争

とバブル経済の崩壊でしょう。

 ただ、その前にどうしても明治維新から太平洋戦争までを眺めてお

きたいのですが、明治政府は欧米列強からの植民地支配を避けるため

に急速な近代化を押し進めました。そして、日露戦争に勝利したこと

で愈々我が国の国力は先進国に比肩したと国民は過信した。実際は、

日本軍は刀折れ矢尽き兵倒れそれ以上戦争を続けることは不可能だっ

た。ポーツマス会議に全権を託された小村寿太郎は、国民から非難さ

れることを覚悟して交渉に挑みました。講和条約が締結したが戦勝国

日本にとっては賠償金さえ放棄せざるを得ない譲歩した内容だった。

重税に耐えてきた国民は国家の実情を知らされず、不満を表して政府

を弾劾する集会が各地で開かれ、暴徒化して日比谷焼打ち事件が起こ

り戒厳令が敷かれるまでに至った。これは司馬遼太郎が何度も指摘し

ていますが、「そこから日本の帝国主義が始まった」(司馬遼太郎「昭

和という国家」)。つまり、日露戦争勝利によって国民の感情を抑圧し

てきた理性が外され、明治維新のトラウマが激しい感情となって現れ

たのではないだろうか。その後政府は国民を怖れて監視を強化し、不

満をかわすためにアジアへの覇権を強めた。

 その流れは、太平洋戦争へと続くことになるが、ここでは、その敗

戦というトラウマが戦後日本に如何なる影響を与えたのか考えていき

たい。戦後の高度経済成長は、もちろん一概には言えないが、戦勝国

アメリカの管理下、平和憲法によって軍事予算が割かれることなく復

興に費やされ民主国家としての再建がスムーズに進み、技術立国とし

て幸運にも恵まれてアメリカに次ぐ経済大国にまでのし上がった。そ

して、浮かれた後のバブル経済の崩壊。それはまるで成功と失敗が、

明治維新から日露戦争までを裏返しにしたような結果だった。バブル

経済の崩壊は、再び我々に敗戦のトラウマを蘇えらせた。絶望が社会

を支配し未だに閉塞感から逃れられない。繁栄の後の衰退は世の習い

とはいえ新しい時代が全く見えて来ない。国家財政は政権のたらい回

しによって緊縮とバラマキを繰り返して負債が莫大に膨れ上がってし

まった。民主党政権は消費税の増税によって財政破綻を免れようとし

て、恐らくそれは避けて通れない道にせよ、その手続きにいかがわし

さを払拭できない。そのいかがわしさは本当のことを何も知らされず

にただ決定に従うことだけを強いられた戦時下の体制と大差ない。我

々国民は、消費税増税の反対を民主党の代議士に託した筈ではなかっ

たのか。民主党政権はその負託に答えてきたのか。まずは消費税増税

に手を付ける前に、既得権益を得ている者たちから既得権を奪還する

ことが先決ではないか。政治家も立派な既得権者である。我々がいか

がわしさを禁じ得ないのは公平さが感じられないからだ。国民に負担

を強いるならまず不公正な既成制度を改めてからではないか。これま

でのような豊かさを分け合うことが出来ないと言うなら、公平な負担

を実現しなくてはならない。何だ!この格差は。

 我々は、再び戦争中のトラウマに襲われているに違いない。需要を

担うべき国民の所得を減らしてデノミを加速させながら、その一方で

金融緩和を行なってデノミからの脱却を目指している。つまり、ブレ

ーキを踏みながらアクセルを吹かしているのだ。まさに政府は、進む

べきか退くべきかを巡って迷走したあの大本営のように、今では財政

再建と財政緩和という正反対の政策を同時に行っている。



                                   (つづく)



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「あほリズム」(203)

2012-03-27 12:22:11 | アフォリズム(箴言)ではありません



               「あほリズム」


                 (203)


  問題は、壇上で手を振っているあの人物にあるというよりも、

  その人物に惜しみない拍手を送っている群衆にある。

  

          

                  (204)



  「この国を変えよう!」というスローガンに誰しも喝采を送るが、

  より酷く変わることだってあるとは誰も思っていない。


  

                   (205)

  

   彼らは自分で考えることが面倒臭くなって、新しいアプリを

   インストールするように、新しいガバナンスのソフトをダウン

   ロードする。



                   (206)


    改革者は自らが創った新しい制度をより慎重に運用することだろう。

    しかし、後を引き継いだ権力者はその制度をより大胆に乱用する。



                  (207)




   結局、民主党は消費税を上げるためだけの政権だったのか。








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「あほリズム」(202)

2012-03-27 02:08:43 | アフォリズム(箴言)ではありません
            「あほリズム」

                  

             (202)



 「自分自身を知る」とは理性による内省的な遡行である。「知る」

とは理性の仕事である。ところが、理性は、理性による行ないに対し

ては悔い改めさせることができても、本能に対して「かくあれ」と変

えさせることができない。いくら理性で解っていても恋しい人を忘れ

られないように。しかし、「自分自身を知る」とはその本能を知るこ

とでなければいったい何の意味があるだろう。もちろん、人格を変え

させることなどできないが、知ることはできる。そして、知ることに

よって自覚が芽生え、自覚は衝動的な感情を躊躇わせる。「自分自身

を知る」とは、本能に対して「何故、そうするのか?」と不断に問い

かけ、言葉として語らせ、その是非を理性が判断して、本能に「自

己変革」を迫ることである。心の穴を埋めとかないといつも同じと

ころに落ち込んじゃうよ。



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「あほリズム」(201)

2012-03-26 12:29:14 | アフォリズム(箴言)ではありません
                  

                   「あほリズム」


                     (201)



 近代社会は誰もが物質文明の豊かさを追い求める時代であった。だ

から、誰もが社会の「あるべき姿」を共有することができた。とは言

っても、我々が共有した豊かさとは経済成長だけだったが。ところが、

物質文明の様々な限界が見え始めると、それぞれが現実の違いから理

想を共有できなくなった。「あるべき姿」が共有できなくなった社会

は停滞し拡散する。社会が共有するのはただ「空しさ」だけだ。誰も

が孤立して現実の絶望と向き合う。励ましの歌でさえ力を失った言葉

の聞き飽きたお経のようで、みんな同じに聴こえてきてなお空しくな

る。ああ、誰か社会が共有できる新しい理想を語ってくれ。自分自身

を忘れて生きることのできる新しい理想を。そうだ!我々は、生きる

こととは自分自身を忘れることだと思っていた。生きる歓びは自分

の外にしかないと。果たして、生きることとは自分自身を失うことだ

ろうか。しかし、停滞した社会ではそれぞれが失った自分自身を取

り戻さなければならない。我々現代人がもっとも忌み嫌う「孤独」の

時代が始まろうとしている。



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「あほリズム」 (199)(200)

2012-03-25 14:06:45 | アフォリズム(箴言)ではありません



           「あほリズム」



            (199)


 サッカーは相手のゴールにボールを蹴り込む競技である。ボールを

持った選手は、頭の中にゴールまでの展開を描きながら味方の選手に

パスをするか、或いは自分でドリブルをして相手選手に取られないよ

うに攻め上がる。そのドリブルは、ボールを再び自分が支配出来るよ

うに考えて蹴り出さなければならない。つまり、自分がイメージした

ところへ正確に蹴り、今度はそのボールに自分自身が追い着く。何度

もそれを繰り返してゴールに向かう。サッカーのドリブルとは、自分の

理想を現実のボールに与え、次には理想を失った自分が、前に出し

た理想を再び自分のものにしようと追い駆ける。現実と理想を、また

はザイン(存在)とゾレン(当為=かくあるべし)を、自分とボールの間で
 
互換しながら目的を遂げようとする。サッカーのドリブルとは、まさに
 
人間の生き方のメタファー(隠喩)なのだ。ただ、そんなことを考えなが
 
らドリブルをしていると簡単に相手選手にボールを奪われてしまうが。



             (200)


 我々は、安易に追い着けないボールを蹴り出したり、または、相手

選手にボールを奪われることを怖れて、イメージのない味方選手へ

のパスを出したりしていないだろうか。現実とはかけ離れた理想、或

いは理想を見失った現実、そのどちらからも閉塞した状況を打開す

る精度の高いドリブルは生まれない。

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