「ボーダー」⑨
こんなに長々とボーダー(BPD)について述べるつもりはなかった
が、ダイアナ妃がボーダーだったことをつい最近知り、もしかしたら
という思いが確信に変わったことと、そして、その症状が今の日本
人全体のメンタリティと似通っているなあと感じたからで、例えば、
被災地を励ます「絆」に共感する一方で瓦礫の受け入れを頑なに
拒んだり、国家意識を持たせる教育が国歌を歌う教師の口元を監
視することに矮小化したり、理想と現実、つまり、言ってることとやる
ことの余りの乖離に情けなくなった。一言で言うと、ちょっと「幼稚」す
ぎないか、ってことだ。逆にして考えれば、果たして現実で行われて
いることが理想に繋がって行くのだろうか。地域エゴが国民の「絆」を
育むだろうか。口元の監視が国家意識を高めるだろうか。
ボーダーと呼ばれる人々は、発育期に情緒不安から自己が形成さ
れず、成人になっても感情をコントロールする理性が働かないで自己
同一性が失われて衝動的な感情に支配される。感情に身を任せるこ
とが充実感を満たすなら退屈な日常生活は虚無感で満たされる。そ
して、空しい自己から逃れようとして他者に依存するようになる。その
他者とは個々に異なるが、自らの衝動の発露に適った対象で、アルコ
ールや薬物、暴力、セックス、過食、暴走行為、妄想によるオカルト体
験などで、彼らはいくら理性による冷静な判断が出来ても、いや、実際
に驚くほど理性的なのだ、ところが、自己意志は理性がコントロールで
きない衝動的な感情(充実感)に負けて冷静な判断とはまったく異なった
選択をしてしまう。この感情に支配された幼児期の本能的な人格と、成
長期に学習によって得た理性的な人格が二律背反しながら存立し、言
うこととやることが正反対で、あたかも禁煙を固く誓いながら一服するよ
うに、欠落した自己同一性に堪えられなくなった自己は衝動感情に身を
まかす。
ある週刊誌に離婚歴があって一児の母でもある倉玉某という才女が、
男を品定めして語るコラムが連載されて人気があった。そこで彼女は、
男は自らの行動を俯瞰して省みることのできる理性を持ち合わせてい
なければならない、というようなことを語っていた。さすがに、一度結婚
に失敗した彼女はしっかりしているなあ、と思った、ら、何とまあ、その
理性的な判断とはかけ離れたような経歴の持ち主と再婚した。もちろ
ん、彼が三回の離婚歴があって子供が三人も居るとか、女を何百人
抱いたと豪語してるとか、借金が幾らあるかとか、凡そは世間に知られ
ることを憚ることを自慢げに吹聴すること自体から、もちろんそんなこと
で判断してはいけないが、彼が自らの過去を俯瞰して省みて考えを改
めることの出来る人物とは到底思えない。それにしても彼女は、余りに
も言うことと実際が違いすぎる。これ以上彼女のプライバシーをとやか
く言うつもりはないが、間違いなく彼女は衝動的な感情を制御できない
ボーダー(人格障害者)だ。彼女は高校受験の時に、九千人が受けた
模試で一番になったことがあるほどの才女で(ウィキペディア)、多分、
「人間になる」ことを忘れて暗記ばかり強いられたに違いない。
今の自分は過去の自分によってここに居る。もちろん、遺伝的性格
もあるが、過去の歓びや不安が、或いは成功や挫折が今の自己を形成
している。ところが、今や我々は情報化社会の中で、自分自身を知る
機会を持たなくなった。「汝自身を知れ」とはアポロンをまつるデル
フォイの神殿の入り口に掲げられていた言葉で、ソクラテスの思索の
テーマでもあったが、テレビや週刊誌は「汝自身など忘れろ」とばか
りに自己を忘れさせることばかりを伝える。こうして我々の関心はす
べて自分自身の外に向けられ、自分自身など知ろうとしない。それ
はトラウマを避けようとするボーダーの心情とよく似ている。彼らは
孤独の中で自らの辛い過去を省みることが居た堪れない。(自己逃
避) だから、「自分自身を忘れろ」と言い聞かせて社会を求める。(
他者依存) 大事なのは自分の考えではなく、そもそも自己が確立し
ていないのだから、自分の考えを社会がどう評価するかなのだ。ど
う振舞えば社会という看守は自分に注目してもう少し自由を分け与
えてくれるか。学問であれ運動であれ趣味でさえも、もはや自分自
身のためにするのではない。親が、友だちが、世間が、マス・メディ
アが、社会が、それら他者に認めてもらうために、自分自身を失う
って命がけの飛躍をこころみる自己喪失した時代なのだ。
(つづく)