3月11日新国立劇場中劇場で、ラヴェル作曲のオペラ「スペインの時」とツェムリンスキー作曲のオペラ「フィレンツェの
悲劇」をみた(新国立劇場オペラ研修所公演、指揮:飯守泰次郎、オケ:東京シティフィル、演出:三浦安浩)。
二つのオペラを大胆に連結させ、20世紀初頭の同じ町の広場を舞台に起こる二つの物語として上演。
「スペインの時」
時計屋のトルケマダは週に一度仕事で外出する。この日は妻コンセプシオンにとって羽を伸ばせる日。詩人気取りの
学生ゴンサルヴェとの逢引きを楽しむ予定だ。ところがロバ引きのラミーロがやってきて、時計の修理のため主人が
帰ってくるまで店で待つという。コンセプシオンはゴンサルヴェとの時間を作るため、ラミーロに用事を言いつけ、時間
を稼ぐ作戦に。そこへ、今度は彼女に熱を上げている銀行家イニーゴまで訪ねてくる。最後に彼女が選ぶのは誰?
「フィレンツェの悲劇」
商人シモーネが帰宅すると、妻ビアンカしかいない家に王子グイドが訪ねてきていた。
シモーネとグイドはたわいもない会話を交わし始める。この男と妻との関係を半ば確信し、探りを入れるかのような
シモーネと、それをかわしつつ、時にシモーネを挑発するかのように堂々とビアンカの美しさを称えるグイド。
ビアンカは妻として振る舞いながら、夫のいないところでは、グイドと愛の言葉を交わす。
果たして三人がたどり着く結末とは・・。
背景で終始うごめく大勢の男女が邪魔。ハイドンなど古典的な作品の場合、こうした工夫が間をもたせてくれて楽しいが、
近代の作品の場合、逆に音楽をぶち壊してしまうことがよく分かった。
何しろまず音が出てくるまでが長くてびっくり。演出家によって書かれたセリフ劇が冒頭に挿入されたのだが、これが
全く不必要な代物で、ただ音楽の邪魔をしているだけなのだ。
若い歌手たちはみなよかった。オケもうまく、音楽的には申し分なかったので、凝り過ぎで場違いな演出が、なおのこと
残念だった。
悲劇」をみた(新国立劇場オペラ研修所公演、指揮:飯守泰次郎、オケ:東京シティフィル、演出:三浦安浩)。
二つのオペラを大胆に連結させ、20世紀初頭の同じ町の広場を舞台に起こる二つの物語として上演。
「スペインの時」
時計屋のトルケマダは週に一度仕事で外出する。この日は妻コンセプシオンにとって羽を伸ばせる日。詩人気取りの
学生ゴンサルヴェとの逢引きを楽しむ予定だ。ところがロバ引きのラミーロがやってきて、時計の修理のため主人が
帰ってくるまで店で待つという。コンセプシオンはゴンサルヴェとの時間を作るため、ラミーロに用事を言いつけ、時間
を稼ぐ作戦に。そこへ、今度は彼女に熱を上げている銀行家イニーゴまで訪ねてくる。最後に彼女が選ぶのは誰?
「フィレンツェの悲劇」
商人シモーネが帰宅すると、妻ビアンカしかいない家に王子グイドが訪ねてきていた。
シモーネとグイドはたわいもない会話を交わし始める。この男と妻との関係を半ば確信し、探りを入れるかのような
シモーネと、それをかわしつつ、時にシモーネを挑発するかのように堂々とビアンカの美しさを称えるグイド。
ビアンカは妻として振る舞いながら、夫のいないところでは、グイドと愛の言葉を交わす。
果たして三人がたどり着く結末とは・・。
背景で終始うごめく大勢の男女が邪魔。ハイドンなど古典的な作品の場合、こうした工夫が間をもたせてくれて楽しいが、
近代の作品の場合、逆に音楽をぶち壊してしまうことがよく分かった。
何しろまず音が出てくるまでが長くてびっくり。演出家によって書かれたセリフ劇が冒頭に挿入されたのだが、これが
全く不必要な代物で、ただ音楽の邪魔をしているだけなのだ。
若い歌手たちはみなよかった。オケもうまく、音楽的には申し分なかったので、凝り過ぎで場違いな演出が、なおのこと
残念だった。