「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「妙顕寺」(みょうけんじ)

2007年11月21日 00時06分23秒 | 古都逍遥「京都篇」
 妙顕寺という名のお寺は全国各地でみることができるが、この名は日蓮宗寺院の代表的な名前である。
 京都「妙顕寺」は、元亨元年(1321年)に日像(1269-1342)が後醍醐天皇より寺領を下賜され、元享元年(1321)京都における日蓮宗最初の道場として御溝傍今小路(上京区)に具足山妙顕寺を建立した。当時、妙覚寺、立本寺と並んで永く帝都広布の中心地としての役割りを果たし、三山を称して「三具足山」と言われた。
 
 この時代、新興宗派であった日蓮宗の布教には様々な迫害を受けたが、建武元年(1334)には後醍醐天皇より綸旨を得て勅願寺となる。2世妙実の時、暦応4(1341)に四条櫛笥(中京区)に移転。さらに明徳4年(1393)には三条坊門堀川(中京区)に移転し妙本寺と改称するが、永正16年(1519)には元の寺名に戻っている。

 日蓮宗の洛中21本山の中心として栄えるが、天文5年(1536)に天文法華の乱で焼失し、堺に避難している。帰洛を許されるのは天文11年(1542)で、二条西洞院に再建した。天正11年(1583)に豊臣秀吉の命により、現在の地に移転したものの、天明8年(1788)には天明の大火により焼失し、その後再建された。現在は本圀寺と並んで京都の2大本山となった。

 本堂は「龍華年表」によると天保元年(1830)9月15日に上棟している。瓦銘に天保10年とあり、この頃に完成したものと言われている。この堂は日蓮宗本堂の伝統的な平面形式を守っており、外廻りの立面構成も旧守的であるが、内部の空間はきわめて平明で、近世的なといえるものを創出している。

 三菩薩堂は祖師堂に当るが、日蓮、日朗、日像の三祖を合祀していることから三菩薩堂と称した。三菩薩の由来は、2世大覚上人が、延文3年(1358)雨乞いの霊験をあらわし、それにより日蓮に大菩薩、開山日像とその師日朗に菩薩号の勅賜をうけたことによる。天明大災直後に仮本堂として再建され、寛政2年(1790)には法儀がここで営まれている。
 鐘楼は天明大災の焼失後に再建されたもので、大門の東隅に在ったのであるが、昭和40年に五重塔があった現在地に移築された。鐘は正徳3年の鋳造である。
 壽福院塔は客殿とその南正面にある勅使門、及び、その右手に聳える11層の大石塔である。この塔は加賀藩主、前田利家の室、壽福院日栄(徳川家康側室のお万方と並び称せられる法華外護の大信者)の壽塔であって、当山への丹精を記念して寛永5年に建立、堂々とした石造物である。
 勅使門は天皇、天皇の許可を得た勅使しか出入りが出来ない門で、戦前までは客殿の正面右手奥に天皇専用の玉座の間があったという。

 では庭を紹介しておこう。

 庭園は、客殿の前庭は龍華飛翔の庭(四海唱導の庭)、書院の前庭は光琳曲水の庭と謂われているが、天明の大火の焼失後は原形を失う程であった上、古図も元の姿を伝えていないとのことだが、坪庭の孟宗竹林は見事なもので心打たれる。
 門前にある2本の枝垂れ桜、参道の両脇に並ぶ約10本の染井吉野など、枝ぶりが立派な大木が多く、桜の美しさは周辺でも随一だ。

 当寺の東隣の塔頭泉妙院には尾形光琳の墓があるので、あわせて拝観するとよいだろう。光琳(1659~1716)は中立売智恵光院付近の呉服商雁金屋の子として生まれ、本阿弥光悦や俵屋宗達の画風を学び、琳派を作り上げた。「長江軒青々光琳墓」と彫られた墓石は、100回忌の文政2年(1819)に酒井抱一が建てたもので、近年、寺内の総墓地から移された乾山ら光琳一族の墓石と並んでいる。

 所在地:京都市上京区妙顕寺前町514。
 交通:京都駅より市バス9系統西賀茂車庫行、堀川寺ノ内で下車、寺之内通を東へ、徒歩5分。

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