「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

 京都・奈良を中心に古刹・名刹や「花の詩」等の紹介。花や風景写真、オリジナルの詩、カラオケ歌唱など掲載しています。

「談山神社」(たんざんじんじゃ)

2010年02月04日 09時51分22秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 談山神社は桜と紅葉の名所ともなっている多武峰(とうのみね)にある神社で、祭神は藤原鎌足(談山大明神・談山権現)。神仏分離以前は寺院であり「多武峯寺」という名称であった。

 寺伝によると、藤原氏の祖である藤原鎌足の死後の天武天皇6年(678)長男で僧の定恵が唐からの帰国後に、父の墓を摂津安威の地から大和のこの地に移し、十三重塔を造立したのが発祥とされる。その2年後に講堂(拝殿)を建立し妙楽寺と号した。大宝元年(701)十三重塔の東に鎌足の木像を安置する祠堂(本殿)を建立し聖霊院と号した。

 談山神社の名の由来ともなった歴史に残る「大化の改新」が行われた所としても名高い。
 西暦7世紀(舒明・皇極二代の天皇)の頃、蘇我蝦夷と入鹿の親子の勢力は隆盛を極め、独裁的政治で国を支配していた。この頃、中臣(藤原)鎌足はそれに不満を擁き、国の正しい有り方を考えていた時、折りしも飛鳥の法興寺(飛鳥寺)で蹴鞠の会が催され、中大兄皇子(天智天皇)に出会うことが出来、西暦645年5月、2人は多武峯(談山神社裏山)で密かに談合(大化の改新)を行った。後に「談い山(かたらいやま)」「談所ヶ森」と呼んだことから「談山神社」と呼ばれるようになったと伝えられている。

 平安時代には藤原高光が出家後に入山、増賀上人を招聘するなど、藤原氏の繁栄と共に発展を遂げた。
 天正13(1585)豊臣秀吉により、郡山城下に移すことを厳命され破却、遷座。同18年(1560)帰山を許された。その後衰退していたが、徳川家康により復興され朱印領は三千石余であった。明治2年(1869)に僧徒が還俗し談山神社と改称された。

 見どころを紹介すると、談山神社のシンボル的な存在となっている十三重塔(重要文化財)は、室町時代(678年)に父・藤原鎌足の追福のために、長男・定慧と次男・不比等によって建立された。現存の塔は、享禄5年(1532)の再建で、木造十三重塔としては、世界唯一のものという。唐の清涼山宝池院の塔を模して建てられたと伝えられており、高さは約17㍍、屋根は伝統的な檜皮葺き。

 本殿(重要文化財)は、もと聖霊院、大織冠社、多武峰社とも称し 三間社隅木入春日造のけんらん豪華な様式で知られている。社殿全体は極彩色 模様や、花鳥などの彫刻によって装飾されており、大宝元年(701)に建立され、現存は嘉永3年(1850)に建て替えられた。朱塗り極彩色で美麗名高く日光東照宮はこれをモデルとして造られたという。
 また、国宝に指定されている「粟原寺三重塔伏鉢」(おうばらでらさんじゅうのとうふくばち)は、三重塔や五重塔などの最上部に立つ「相輪」の部材の一つで銅で作られている。和銅8年(715)の年号を含む刻銘があるという。現在奈良国立博物館に寄託している。

 当社は大和路の代表的な紅葉の名所としても知られ、シーズンともなれば全国からツアーなどで大勢の観光客が押し寄せる。凛とした十三重塔が赤や黄色のモザイク模様の木々に囲まれる景観は、3D映像の世界にいざなわれた思いがする。
 古事にちなんで桜や紅葉と共に春秋に行われる「けまり祭」も有名で一見の価値がある。8名で一座を組み、それぞれ古式ゆかしい装束に身を包み、鞠を蹴り、次々に渡しては受け合う古典的遊技は雅の世界を楽しませてくれる。

 所在地:奈良県桜井市多武峰319。
 交通:近鉄大阪線・JR桜井線にて桜井駅下車。桜井駅南口より奈良交通バス談山神社行、終点で下車徒歩3分。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする