蘇我馬子が飛鳥の地に創建した「元興寺」は、日本最初の本格的な寺院「法興寺」が平城遷都にともない、養老2年(718)に平城京左京外京の現在地に移転した頃に改名されたもので、1998年12月に「古都奈良の文化財」として世界遺産に登録された。
猿沢池と三条通りを挟んで北には興福寺が位置している。飛鳥の地にそのまま残ったものは「本元興寺」となり、飛鳥大仏で有名な現在の「飛鳥寺」となっている。
奈良時代には、三論宗・法相宗の道場として、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていたようで、その大きさは、南北440m、東西220mにおよび、創建当初の講堂は、間口11間、丈六の薬師如来坐像と脇侍、さらに等身の十二神将像が祀られ、現在の奈良町界隈は全て元興寺の寺内町だったというから、全盛期には壮大な大寺院であったと想像できる。
また、七四九年の各寺院の墾田の記録では、「東大寺が四千町歩、元興寺が二千町歩、大安寺・薬師寺・興福寺が一千町歩、法隆寺・四天王寺が五百町歩」だったとのことで、南都の中でも東大寺に次ぐ位置にあったようだ。
東大寺・興福寺の勢力を増していくなか、元興寺は次第に衰退して行くが、天平時代の学僧「智光」が描かせた本尊「阿弥陀浄土図(智光曼荼羅)」が、平安末期の末法思想や阿弥陀信仰の流行とともに再び信仰を集めるようになったが、その信仰の中心で学僧智光法師が居住した禅室であった極楽坊は元興寺から独立、江戸時代には西大寺の末寺として、真言律宗の寺になった。
その変遷のなか元興寺は世界遺産となっている「元興寺(極楽坊)」と、五重塔を祀っていた「元興寺観音堂」「元興寺小塔院」の3つの寺院に分裂した。五重塔も観音堂も江戸時代末期に焼失し、現在は極楽坊の南側に「元興寺塔跡」として残っている。
本堂は、寄棟造の「妻」側(屋根が三角見える側)を正面とし、柱間を六間と偶数(通常は奇数)にしており、堂内は「智光曼荼羅(レプリカ)」を祀った内陣を、四方から参拝できる形になっている。正面から見ると、「葺寄菱格子欄間」という細かな菱形の欄間と、下の引き戸の格子との構造が美しく、時を忘れて楽しめる。また西側の屋根瓦は、上部が細く下部が幅広くなる独特の形で、「行基葺(ぎょうぎぶき)」という形式になっており、元興寺の前進、飛鳥時代の「法興寺」から移築された瓦まで残っているという。
奈良時代作の五重小塔は、収蔵庫に安置。高さ5.5mほどの小塔だが、内部構造まで省略せずに忠実に造られており、「工芸品」ではなく「建造物」として国宝に指定されている。同じく建造物として国宝に指定されている海龍王寺(奈良市法華寺)の五重小塔は、奈良時代の作であるものの内部構造は省略されているため、現存唯一の奈良時代の五重塔の建築様式を伝える資料として貴重である。
上下2巻からなっている『元興寺極楽坊縁起絵巻』は、元興寺極楽坊と本尊である智光曼荼羅図の由来について、19段からなる絵と詞により説いており、下巻によれば、元禄14年(1701)、旧来の縁起が傷んだため、元興寺住職であり西大寺長老でもあった尊覚律師の需めにより、安井門跡であった道恕(1661~1733)が新調に及んだことを記している。道恕は画を好んで狩野永納に学び、人物花鳥画に秀いでていたという。詞書の筆遣いは道恕の能書家ぶりも良く示しており、享保5年(1720)には奈良・與喜天満宮大鳥居の銅製額銘も揮毫している。道恕は後に第189代東寺長者となっている。一方、絵様は金泥彩色を各所に施して仕上げられているが、絵師の名は不明である。
所在地:奈良市中院町11。
交通:JR奈良駅から徒歩20分、近鉄奈良駅から徒歩10分。
猿沢池と三条通りを挟んで北には興福寺が位置している。飛鳥の地にそのまま残ったものは「本元興寺」となり、飛鳥大仏で有名な現在の「飛鳥寺」となっている。
奈良時代には、三論宗・法相宗の道場として、東大寺や興福寺と並ぶ大伽藍を誇っていたようで、その大きさは、南北440m、東西220mにおよび、創建当初の講堂は、間口11間、丈六の薬師如来坐像と脇侍、さらに等身の十二神将像が祀られ、現在の奈良町界隈は全て元興寺の寺内町だったというから、全盛期には壮大な大寺院であったと想像できる。
また、七四九年の各寺院の墾田の記録では、「東大寺が四千町歩、元興寺が二千町歩、大安寺・薬師寺・興福寺が一千町歩、法隆寺・四天王寺が五百町歩」だったとのことで、南都の中でも東大寺に次ぐ位置にあったようだ。
東大寺・興福寺の勢力を増していくなか、元興寺は次第に衰退して行くが、天平時代の学僧「智光」が描かせた本尊「阿弥陀浄土図(智光曼荼羅)」が、平安末期の末法思想や阿弥陀信仰の流行とともに再び信仰を集めるようになったが、その信仰の中心で学僧智光法師が居住した禅室であった極楽坊は元興寺から独立、江戸時代には西大寺の末寺として、真言律宗の寺になった。
その変遷のなか元興寺は世界遺産となっている「元興寺(極楽坊)」と、五重塔を祀っていた「元興寺観音堂」「元興寺小塔院」の3つの寺院に分裂した。五重塔も観音堂も江戸時代末期に焼失し、現在は極楽坊の南側に「元興寺塔跡」として残っている。
本堂は、寄棟造の「妻」側(屋根が三角見える側)を正面とし、柱間を六間と偶数(通常は奇数)にしており、堂内は「智光曼荼羅(レプリカ)」を祀った内陣を、四方から参拝できる形になっている。正面から見ると、「葺寄菱格子欄間」という細かな菱形の欄間と、下の引き戸の格子との構造が美しく、時を忘れて楽しめる。また西側の屋根瓦は、上部が細く下部が幅広くなる独特の形で、「行基葺(ぎょうぎぶき)」という形式になっており、元興寺の前進、飛鳥時代の「法興寺」から移築された瓦まで残っているという。
奈良時代作の五重小塔は、収蔵庫に安置。高さ5.5mほどの小塔だが、内部構造まで省略せずに忠実に造られており、「工芸品」ではなく「建造物」として国宝に指定されている。同じく建造物として国宝に指定されている海龍王寺(奈良市法華寺)の五重小塔は、奈良時代の作であるものの内部構造は省略されているため、現存唯一の奈良時代の五重塔の建築様式を伝える資料として貴重である。
上下2巻からなっている『元興寺極楽坊縁起絵巻』は、元興寺極楽坊と本尊である智光曼荼羅図の由来について、19段からなる絵と詞により説いており、下巻によれば、元禄14年(1701)、旧来の縁起が傷んだため、元興寺住職であり西大寺長老でもあった尊覚律師の需めにより、安井門跡であった道恕(1661~1733)が新調に及んだことを記している。道恕は画を好んで狩野永納に学び、人物花鳥画に秀いでていたという。詞書の筆遣いは道恕の能書家ぶりも良く示しており、享保5年(1720)には奈良・與喜天満宮大鳥居の銅製額銘も揮毫している。道恕は後に第189代東寺長者となっている。一方、絵様は金泥彩色を各所に施して仕上げられているが、絵師の名は不明である。
所在地:奈良市中院町11。
交通:JR奈良駅から徒歩20分、近鉄奈良駅から徒歩10分。