中将姫の蓮糸曼荼羅(當麻曼荼羅)の伝説で名高い「當麻寺」は、二上山(にじょうざん、ふたかみやま)の麓に威風堂々と建っている。
当寺はこの地に勢力をもっていた豪族「當麻氏」の氏寺として建てられたもので、仏像、梵鐘、石灯籠など、いずれも奈良時代前期(七世紀後半)の遺物があり、寺の草創はこのころと推定されているが正確な時期や事情については正史に記録がなく、今日に至っても明らかではないが、當麻曼荼羅への信仰が広がり始めた鎌倉時代になってからではないかと言われ、鎌倉時代初期の建久2年(1191)に書かれた『建久御巡礼記』に草創期の背景が見られるという。
これは、興福寺の僧・実叡が大和の名寺社を巡礼したときに記録したもので、これに聖徳太子の異母弟である麻呂古王が弥勒仏を本尊とする「禅林寺」として草創したとあり、その後、その孫の當麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が天武天皇10年(681)に役行者(えんのぎょうじゃ)ゆかりの地である現在地に移したものだという。一方、嘉禎3年(1237)の『上宮太子拾遺記』所引の『當麻寺縁起』によれば、推古天皇20年(612)、麻呂古王が救世観音を本尊とする万宝蔵院として創建し、現座地の南方の味曽路という場所にあったものを、692年に移築したとも伝えられているという。
当寺は、奈良時代の三重塔を東西二基とも残す全国唯一の寺で、国宝の本堂(曼荼羅堂)には室町時代に転写されたと伝わる、縦横四㍍程の織物「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」(重文)を本尊として祀ってある。曼荼羅の原本については、中将姫が蓮の糸を用いて一夜で織り上げたという伝説がある。また、壮麗な絵天井で知られる中之坊の「写仏道場」には、平成に入って描かれた色鮮やかな當麻曼荼羅が祀られており、これに描かれた仏様を描き写す「写仏体験」をすることができる。
では歌舞伎などでも有名な中将姫伝説について触れておこう。
『藤原鎌足の子孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれた姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられたが、執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて當麻寺で出家したが、姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と25菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立った』。
この話は、世阿弥や近松門左衛門らによって脚色され、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎にも取り上げられ人気を呼んだ。
■金堂(重要文化財)入母屋造、本瓦葺。鎌倉時代前期に再建されたというが、藤原京や平城京などの大寺の金堂と比べたら小さいが、創建以来の規模を保っているとのこと。内部は土間で、本尊の塑造弥勒仏坐像、乾漆四天王立像などが安置されている。
■講堂(同)は金堂の背後にあり、寄棟造、本瓦葺。鎌倉時代末期の乾元2年(1303)の再建とされ、本尊阿弥陀如来坐像(同)のほか、多くの仏像を安置。
■本堂(国宝)
金堂・講堂の西側に、東を正面として建つ。寄棟造、本瓦葺。平安時代末期、永暦2年(1161)の建築。解体修理寺の調査の結果から、平安時代初期(9世紀頃)に建てられた前身堂を改築したもので、奈良時代の建物の部材も一部転用されていることがわかっている。
■東塔・西塔(同)
いずれも三重塔で、東塔は初重が三間に対して、二重・三重を二間とする特異な塔である(日本の社寺建築では、柱間を偶数として、中央に柱が来るのは異例)。西塔は初重、二重、三重とも柱間を三間とし、屋根上の水煙(すいえん)は、東塔の魚の骨のような形をしたユニークな作りをしている。細部の様式等から、東塔は奈良時代末期、西塔はやや遅れて奈良時代最末期から平安時代初頭の建築と推定されている。
この他、別院「護念院双塔園」(国指定名勝)の牡丹の花は全国的に知られ、シーズンともなればバスツアーなど多くの観光客で賑わっている。
所在地:奈良県葛城市當麻1263。
交通:近鉄南大阪線「当麻寺駅」下車、徒歩20分。
当寺はこの地に勢力をもっていた豪族「當麻氏」の氏寺として建てられたもので、仏像、梵鐘、石灯籠など、いずれも奈良時代前期(七世紀後半)の遺物があり、寺の草創はこのころと推定されているが正確な時期や事情については正史に記録がなく、今日に至っても明らかではないが、當麻曼荼羅への信仰が広がり始めた鎌倉時代になってからではないかと言われ、鎌倉時代初期の建久2年(1191)に書かれた『建久御巡礼記』に草創期の背景が見られるという。
これは、興福寺の僧・実叡が大和の名寺社を巡礼したときに記録したもので、これに聖徳太子の異母弟である麻呂古王が弥勒仏を本尊とする「禅林寺」として草創したとあり、その後、その孫の當麻真人国見(たいまのまひとくにみ)が天武天皇10年(681)に役行者(えんのぎょうじゃ)ゆかりの地である現在地に移したものだという。一方、嘉禎3年(1237)の『上宮太子拾遺記』所引の『當麻寺縁起』によれば、推古天皇20年(612)、麻呂古王が救世観音を本尊とする万宝蔵院として創建し、現座地の南方の味曽路という場所にあったものを、692年に移築したとも伝えられているという。
当寺は、奈良時代の三重塔を東西二基とも残す全国唯一の寺で、国宝の本堂(曼荼羅堂)には室町時代に転写されたと伝わる、縦横四㍍程の織物「當麻曼荼羅(たいま・まんだら)」(重文)を本尊として祀ってある。曼荼羅の原本については、中将姫が蓮の糸を用いて一夜で織り上げたという伝説がある。また、壮麗な絵天井で知られる中之坊の「写仏道場」には、平成に入って描かれた色鮮やかな當麻曼荼羅が祀られており、これに描かれた仏様を描き写す「写仏体験」をすることができる。
では歌舞伎などでも有名な中将姫伝説について触れておこう。
『藤原鎌足の子孫である藤原豊成には美しい姫があった。後に中将姫と呼ばれた姫は、幼い時に実の母を亡くし、意地悪な継母に育てられたが、執拗ないじめを受け、ついには無実の罪で殺されかける。姫の殺害を命じられていた藤原豊成家の従者は、極楽往生を願い一心に読経する姫の姿を見て、どうしても刀を振り下ろすことができず、姫を「ひばり山」というところに置き去りにしてきた。その後、改心した父・豊成と再会した中将姫はいったんは都に戻るものの、やがて當麻寺で出家したが、姫が29歳の時、生身の阿弥陀仏と25菩薩が現れ、姫は西方極楽浄土へと旅立った』。
この話は、世阿弥や近松門左衛門らによって脚色され、謡曲、浄瑠璃、歌舞伎にも取り上げられ人気を呼んだ。
■金堂(重要文化財)入母屋造、本瓦葺。鎌倉時代前期に再建されたというが、藤原京や平城京などの大寺の金堂と比べたら小さいが、創建以来の規模を保っているとのこと。内部は土間で、本尊の塑造弥勒仏坐像、乾漆四天王立像などが安置されている。
■講堂(同)は金堂の背後にあり、寄棟造、本瓦葺。鎌倉時代末期の乾元2年(1303)の再建とされ、本尊阿弥陀如来坐像(同)のほか、多くの仏像を安置。
■本堂(国宝)
金堂・講堂の西側に、東を正面として建つ。寄棟造、本瓦葺。平安時代末期、永暦2年(1161)の建築。解体修理寺の調査の結果から、平安時代初期(9世紀頃)に建てられた前身堂を改築したもので、奈良時代の建物の部材も一部転用されていることがわかっている。
■東塔・西塔(同)
いずれも三重塔で、東塔は初重が三間に対して、二重・三重を二間とする特異な塔である(日本の社寺建築では、柱間を偶数として、中央に柱が来るのは異例)。西塔は初重、二重、三重とも柱間を三間とし、屋根上の水煙(すいえん)は、東塔の魚の骨のような形をしたユニークな作りをしている。細部の様式等から、東塔は奈良時代末期、西塔はやや遅れて奈良時代最末期から平安時代初頭の建築と推定されている。
この他、別院「護念院双塔園」(国指定名勝)の牡丹の花は全国的に知られ、シーズンともなればバスツアーなど多くの観光客で賑わっている。
所在地:奈良県葛城市當麻1263。
交通:近鉄南大阪線「当麻寺駅」下車、徒歩20分。