「古都逍遥 京都・奈良編」「花の詩」「日常のこと」や花や風景写真

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「豊臣秀長大納言塚」(とよとみひでながだいなごんずか)

2012年05月22日 06時57分50秒 | 古都逍遥「奈良篇」
 近鉄郡山駅より西へ少し行き、坂を登りきった辺りに教会がある。そこから南下して坂を下ると、右手に入って塀を回り正面に出ると、豊臣秀吉の弟である大和大納言こと豊臣秀長の墓「大納言塚」がある。昭和50年(1975)10月2日、大和郡山市指定文化財(史跡)となり管理されている。

 秀長(1540~91)は、秀吉の異父弟で、戦国時代に活躍した武将である。天正13年(1585)、和泉・紀伊・大和におよぶ100万石の所領を有し郡山城主となり、「箱本」制度(注)という独特な自治を行い、城下の商工業を育成し繁栄を築いた。

 天正19年(1591)1月22日、城内で没した秀長(享年51歳)は、ここに葬られた。当初、今の芦ヶ池近くに豊臣秀吉が菩提寺大光院を建立し、院主に京都大徳寺の古渓和尚を当てて墓地の管理と菩提を弔った。
 豊臣家が滅んだあと、大光院は藤堂高虎によって大徳寺の塔頭として京都に移築され、秀長の位牌は東光寺(のちの春岳院)に託された。その後墓地は荒廃したが、安永6年(1777)、位牌菩提寺春岳院の僧、栄隆や訓祥が郡山町中の協力を得て、外回りの土塀をつくり、五輪塔を建立した。五輪塔は高さ約2メートルで、地輪の表面には、戒名「大光院殿前亜相春岳祥栄大居士」と刻し、台座には「春岳院現住法院訓祥、郡山内町中建立之」と刻まれている。五輪塔の手前には、「お願いの砂」がある。蓋をあけると砂が入っていて、名前と願い事をとなえながら、この砂を供えると願い事がかなうらしい。

 郡山城は、天正6~7年(1578~79)に筒井順慶が縄張りをおこない、同11年に天守閣を完成、13年、豊臣秀長が入城して、さらに拡張され、文禄5年(1596)には増田長盛による秋篠川の付け替えが行なわれ、外堀を一周させ城下町を完成。

 大阪夏の陣以降、水野勝成がさらに松平、本多が入城し、享保9年(1724)以降、幕末まで、柳澤15万石の居城として栄えた。現在のこる縄張りは、秀長時代のもので、左京堀、鰻堀、鷺堀で囲まれた本丸、二の丸、三の丸などが、城内でそれ以外の外堀に囲まれた地域が城下となる。

 (注)「箱本制度」:商工業保護の政策として同業者を町に集め、営業上の独占権を認め、町々にそれぞれの特許状を与えて保護した。こうした特権を主張する根拠となる文書を朱印箱に納め、封印をして1ヶ月交代で本町以下13町を持ちまわりする。当たった月の町が「箱本」となり、この朱印箱を町内の会所に置いて、表に長さ2尺の紺地木綿に白地で「箱本」と染め抜いた小旗を2間余りの竿に付けて立てる習わしであった。
 それぞれの町には「年寄・月行事・丁代」の世話役がいて町の自治に当たったが、「箱本」になった町では、その町の年寄りが1ヶ月間、全責任をもって郡山町中全体の世話をする。重要な問題の時は、跡・先・当箱本の三者で処理することになっていた。各町が平等に町政に参与する仕組みで、世襲のような独裁的色彩の少ないのも郡山箱本の特色であったようだ。

 所在地:奈良県大和郡山市箕山町14。
 交通:近鉄近鉄郡山駅から徒歩15分。

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