大和神社は式内社(名神大社)で、日本書紀によれば、元々倭大国魂神は天照大神と共に大殿に祀られていたが、世の中が乱れ謀反が起きるのは両神の勢いによるものと畏れ、崇神天皇6年(紀元前92年)、倭大国魂神を皇女渟名城入姫(ぬなきいりひめ)を斎主として祀った。
しかし、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。崇神天皇7年(紀元前91年)、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと、生没年不詳、孝霊天皇の皇女)が夢で「市磯長尾市(いちしのながおち)をもって、倭大国魂神を祭る主とすれば、必ず天下太平となる」との神託を受け、また同年に同じようなことが起こり、大倭直の祖・市磯長尾市を祭主として、神地が定められ鎮座・創建したと伝わる。
当初の鎮座地は、現在の鎮座地の東方の山麓大市の長岡崎(現在の桜井市穴師および箸中の付近)であるとみられ、後に現在地に遷座したとされるが、遷座の時期ははっきりしない。
寛平9年(897)、最高位である正一位の神階が授けられた。延喜式神名帳には「大和国山辺郡 大和坐大国魂神社 三座」と記載され、名神大社に列し、後に十六社・二十二社の一社ともなった。平安初期までに、天照大神を祀る伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、朝廷の崇敬を受けて隆盛した。しかし、平安京への遷都や藤原氏の隆盛などにより衰微し、中世には社領を全て失っていた。
明治4年(1871)官幣大社に列した。江戸時代には社殿は寺院様のものに作り変えられていたので、官幣大社列格の際に新たに社殿が造営された。
戦艦大和には、同名であることから当社の祭神の分霊が艦内で祀られていた。昭和44年(1969)、境内に「戦艦大和記念塔」が建立された。更に昭和47年(1972)に巡洋艦矢矧外駆逐艦8隻の戦没將士英霊をも合祀して、坊の岬沖海戦の全戦死者約3700柱が国家鎭護の神として祀られている。
所在地:奈良県天理市新泉町306。
交通:JR桜井線「長柄(ながら)」下車、徒歩5分。
しかし、淳名城入姫は髪が落ち体は痩せて祭祀を続けることができなくなった。崇神天皇7年(紀元前91年)、倭迹迹日百襲媛命(やまとととひももそひめのみこと、生没年不詳、孝霊天皇の皇女)が夢で「市磯長尾市(いちしのながおち)をもって、倭大国魂神を祭る主とすれば、必ず天下太平となる」との神託を受け、また同年に同じようなことが起こり、大倭直の祖・市磯長尾市を祭主として、神地が定められ鎮座・創建したと伝わる。
当初の鎮座地は、現在の鎮座地の東方の山麓大市の長岡崎(現在の桜井市穴師および箸中の付近)であるとみられ、後に現在地に遷座したとされるが、遷座の時期ははっきりしない。
寛平9年(897)、最高位である正一位の神階が授けられた。延喜式神名帳には「大和国山辺郡 大和坐大国魂神社 三座」と記載され、名神大社に列し、後に十六社・二十二社の一社ともなった。平安初期までに、天照大神を祀る伊勢神宮に次ぐ広大な社領を得、朝廷の崇敬を受けて隆盛した。しかし、平安京への遷都や藤原氏の隆盛などにより衰微し、中世には社領を全て失っていた。
明治4年(1871)官幣大社に列した。江戸時代には社殿は寺院様のものに作り変えられていたので、官幣大社列格の際に新たに社殿が造営された。
戦艦大和には、同名であることから当社の祭神の分霊が艦内で祀られていた。昭和44年(1969)、境内に「戦艦大和記念塔」が建立された。更に昭和47年(1972)に巡洋艦矢矧外駆逐艦8隻の戦没將士英霊をも合祀して、坊の岬沖海戦の全戦死者約3700柱が国家鎭護の神として祀られている。
所在地:奈良県天理市新泉町306。
交通:JR桜井線「長柄(ながら)」下車、徒歩5分。