この日をテーマに書いた連載エッセイ、ようやくできました。
ほかほかの原稿をアップ!
4回目の3・11は、
3回目のその日よりも、深く悲しみが押し寄せてきました。
時間がたつほどに癒されてもいいはずなのに何故でしょうかね?
やっぱり、原発再稼働への強力な動きが原因ではないか、と。
朝日に向かって、祈りをこめて手をあわせました。
とはいえ、いいこともありましたよ。
九州の玄海原発が来週にも廃炉を決定できそうというのです!
ネットニュースでの報道でしたが、
あっという間に消えてしまいましたので、
ここに掲載!クリック
そして、島内で集めていました
柏崎刈羽原発再稼働反対の署名が、なんと!2056筆も集まったそうです。
すごいことです。
大きなイベントをしたわけでもないのに、こんなに集まったことが
ひとつの民意を象徴しているように思います。
いつも、佐渡は離島だからあんまし意識が向いていない
と言われますが、決してそんなことはない、ということを改めて
気づかされました’。
地元の農家のおばちゃんが、道普請の休憩の時に
春の訪れを喜び、景色を愛でた後に
「こんなにきれいな風景の中に、原発なんてあるべきじゃないなあ」と
つぶやくように言いました。
原発の話なんて誰もしていなかったのに、
ぽつんと言ったその一言。重いです。
さて、今日は原発再稼働反対の署名を集めている時に
気になる言葉がありました。
今回のイラストエッセイはそれがテーマです。
署名を集めている時、
「放射能は怖いけれども、原発で働いている人がいるからねえ」
というニョアンスのセリフを言われたことがありました。
その言葉に「そうですよねえ」とはじめの頃は同意していたのですが、
ふと「あれ?」と思いました。
自分の心の中におきた「あれ?」の意味を深く考えました。
そしたら、この疑問にたどり着きました。
どうして、原発がらみの職業だけは、
雇用をそんなに(一般の人から)心配されるのだろう?と。
確かに原発が止まることで、原発に関わる業種の低迷はあるかもしれません。
廃炉になっても管理は必要だから、それにともなう原発内での業務による雇用は
維持されるでしょうが、
原発立地自治体に対して、毎年支払われ続ける「協力金」と呼ばれる
何千万ものお金(「黒いお金」と揶揄されています)は、配布されなくなるかもしれません。
「それ」によって暮らし続けた人は、確かにお給金が減るかもしれません。
そうした人がかわいそう、ということなのですから、
なるほど理解できそうです。
でも、一方でこう思うのです。
何故?と。
時代にそぐわない故に淘汰された職業と、解雇されてしまった人たちは
近くに沢山たくさんいて、私たちは日々そうした人たちを見続けているはずです。
例えば、身近な例でいえば
大型ショッピングセンターが開店したために、閉店においこまれてしまった
小さな商店の店主さん。
瀬戸物店だったり、靴屋さんだったり、お肉屋さんだったり…。
皆、これまで誠実に商売を営んできたお店ばかりだったはずです。
でも、私たちは結構「駐車場がないからねえ」とか
「品揃えがどうしてもかなわないよねえ」「値段が定価だしねえ」という
理由で、閉店もやむなしというような目でみるような気がします。
かつて派遣社員として大企業で働いていたことがあるので、
派遣切りや正社員のリストラも現場で見てきました。
日雇いの雇用体制で働いている人は、目の前にホームレスの道が
待っているような、本当にギリギリの生活を強いられているようなものでした。
そして、その中には超一流大学出身者が普通に働いていたりするのです。
でも私たちは、そういう人たちの暮らしに、境遇に想いをはせることは
少ないはずです。
日々の暮らしで精一杯だから、彼らを心配することができない?
その問いに私は大きな声で言いたい
「いいえ、違います!」と。
ここには、明らかなマスコミの操作がある、と私は思います。
法改正やリストラのせいで、路上生活をしているような人たちに対し、
マスコミは日夜「自分の責任能力のせい」と、
都合のよい強者の理屈と解釈で罵倒し、
「同情の余地無し」という烙印を押した様な報道を日々連日
流し続けて、視聴者をまどわせています。
生活保護受給者を申請する人に対し、受給しないように(できないように)
上のものが指示しているという話は、典型的なものですし、
生活保護が受給できないままに餓死したという北海道の若い姉妹のニュースは痛ましい
ニュースでした。
生活保護受給者を、社会的に価値がない人、
不当に受給している人がいる、というような一時期お茶の間をにぎわせた報道は、
一方的な強者の理論を伝えるばかりのもので、
「いじめ」に見えました。
雨宮処凛が書いた「14歳からの生活保護」という本の中で
「現政権が仕向けたものだろう」と、その理由と共に論じていて
なんともいえないやるせなさ、とこの社会で生きるための
知恵の付け方を
考え直さないといけない、と思い改めるには十分な内容でした。
社会の中でお金を稼がない人(税金をおさめない人)は、社会的に価値がなく、
早々に社会から抹殺されるような社会になっていることを
肌身で感じます。
テレビや新聞などのマスコミは、それでも(それだから)原発従事労働者だけは、
同情的にとりあげます。
「夫が東電社員であるという理由で、同じマンションに住む人から暴言をうけた」
妻をかばう報道。
「原発立地県の原発によって暮らす人が『このまま原発を止まったままでは立場の弱い
会社から仕事がこなくなってしまう』と嘆き、
原発推進議員が『なんとしても原発を再稼働させなくては』と伝える報道がありました。
推進派議員さんは弱者を救う正義の味方にみえました。
同情を誘うし、なんとなく「かわいそう」でした。
彼らもまた、救われるべき人たちだと思います。
しかし、前述したような、生きる死ぬのレベルで貧窮している人を
さらに追い込むようなマスコミの姿勢に比べると、
これらの報道は「公平」ではありません。
私は原発で働く人が仕事なくなっていい、と言っているわけではないです。
原発労働者のことを報道(心配?)するように、
福島で被災した人たちも
放射能の不安におびえて暮らしている人たちも公平に報道してほしい、ということなのです。
繰り返します、「公平に」。
自己責任だけの論理で言うならば、原発は
あの事故の直後になくなってしかるべき存在でしたし、
マスコミは政府と東電に原因究明を常に訴えるべきですし、
コメンテーターは福島の被害者救済を叫ぶべきです。
何故、原発機器の修繕されされないままの、危険な状態の原発という職業を、
明らかに、時代に見合わないと淘汰されるべき職業を、
世間の人は、こんなにも心配してくれるのでしょうか。
その答えの中には、
国民の同情心を利用して、原発を暗に動かそうとする意図すら感じます。
東電に勤める社員の家族の心の痛みは報道するけれども、
福島の今も故郷に帰れずにいる人たちの心の痛みは無視していい、
そんなはずがありません。
自分の故郷に帰りたいと訴える人に、
「被災した村の放射能だけは、高い放射能を浴び続けても健康に害はないですよ」
という主旨の言葉を言い放った役所の人間に対し、
「どこまでも馬鹿にするのか!」と怒りをあらわにした
村のおばあちゃんの声は、電波にはのりません。
福島の避難民の報道は、いつも「最後には希望を胸に抱いている」的な
終わり方に編集されていて、やるせなくなる
という被災地で暮らす知り合いの声は真実です。
もう過去のことにしようとしているのです。
改めて思います。
原発はなくさなくてはいけないと。
そうでなければ、
また同じような
死にそうなくらいに辛い想いをした人を
何万人も生み出すことになります。
間違いなくそうです。
そして、最後には名もない人の一人として葬られます。
それは、自分が、自分の子どもが、自分の孫が、そうなる可能性を多分に秘めています。
再稼働しませんように。
心から祈ります。
今日、この日も。
見やすい大きさのものをそのままアップしました。
ほかほかの原稿をアップ!
4回目の3・11は、
3回目のその日よりも、深く悲しみが押し寄せてきました。
時間がたつほどに癒されてもいいはずなのに何故でしょうかね?
やっぱり、原発再稼働への強力な動きが原因ではないか、と。
朝日に向かって、祈りをこめて手をあわせました。
とはいえ、いいこともありましたよ。
九州の玄海原発が来週にも廃炉を決定できそうというのです!
ネットニュースでの報道でしたが、
あっという間に消えてしまいましたので、
ここに掲載!クリック
そして、島内で集めていました
柏崎刈羽原発再稼働反対の署名が、なんと!2056筆も集まったそうです。
すごいことです。
大きなイベントをしたわけでもないのに、こんなに集まったことが
ひとつの民意を象徴しているように思います。
いつも、佐渡は離島だからあんまし意識が向いていない
と言われますが、決してそんなことはない、ということを改めて
気づかされました’。
地元の農家のおばちゃんが、道普請の休憩の時に
春の訪れを喜び、景色を愛でた後に
「こんなにきれいな風景の中に、原発なんてあるべきじゃないなあ」と
つぶやくように言いました。
原発の話なんて誰もしていなかったのに、
ぽつんと言ったその一言。重いです。
さて、今日は原発再稼働反対の署名を集めている時に
気になる言葉がありました。
今回のイラストエッセイはそれがテーマです。
署名を集めている時、
「放射能は怖いけれども、原発で働いている人がいるからねえ」
というニョアンスのセリフを言われたことがありました。
その言葉に「そうですよねえ」とはじめの頃は同意していたのですが、
ふと「あれ?」と思いました。
自分の心の中におきた「あれ?」の意味を深く考えました。
そしたら、この疑問にたどり着きました。
どうして、原発がらみの職業だけは、
雇用をそんなに(一般の人から)心配されるのだろう?と。
確かに原発が止まることで、原発に関わる業種の低迷はあるかもしれません。
廃炉になっても管理は必要だから、それにともなう原発内での業務による雇用は
維持されるでしょうが、
原発立地自治体に対して、毎年支払われ続ける「協力金」と呼ばれる
何千万ものお金(「黒いお金」と揶揄されています)は、配布されなくなるかもしれません。
「それ」によって暮らし続けた人は、確かにお給金が減るかもしれません。
そうした人がかわいそう、ということなのですから、
なるほど理解できそうです。
でも、一方でこう思うのです。
何故?と。
時代にそぐわない故に淘汰された職業と、解雇されてしまった人たちは
近くに沢山たくさんいて、私たちは日々そうした人たちを見続けているはずです。
例えば、身近な例でいえば
大型ショッピングセンターが開店したために、閉店においこまれてしまった
小さな商店の店主さん。
瀬戸物店だったり、靴屋さんだったり、お肉屋さんだったり…。
皆、これまで誠実に商売を営んできたお店ばかりだったはずです。
でも、私たちは結構「駐車場がないからねえ」とか
「品揃えがどうしてもかなわないよねえ」「値段が定価だしねえ」という
理由で、閉店もやむなしというような目でみるような気がします。
かつて派遣社員として大企業で働いていたことがあるので、
派遣切りや正社員のリストラも現場で見てきました。
日雇いの雇用体制で働いている人は、目の前にホームレスの道が
待っているような、本当にギリギリの生活を強いられているようなものでした。
そして、その中には超一流大学出身者が普通に働いていたりするのです。
でも私たちは、そういう人たちの暮らしに、境遇に想いをはせることは
少ないはずです。
日々の暮らしで精一杯だから、彼らを心配することができない?
その問いに私は大きな声で言いたい
「いいえ、違います!」と。
ここには、明らかなマスコミの操作がある、と私は思います。
法改正やリストラのせいで、路上生活をしているような人たちに対し、
マスコミは日夜「自分の責任能力のせい」と、
都合のよい強者の理屈と解釈で罵倒し、
「同情の余地無し」という烙印を押した様な報道を日々連日
流し続けて、視聴者をまどわせています。
生活保護受給者を申請する人に対し、受給しないように(できないように)
上のものが指示しているという話は、典型的なものですし、
生活保護が受給できないままに餓死したという北海道の若い姉妹のニュースは痛ましい
ニュースでした。
生活保護受給者を、社会的に価値がない人、
不当に受給している人がいる、というような一時期お茶の間をにぎわせた報道は、
一方的な強者の理論を伝えるばかりのもので、
「いじめ」に見えました。
雨宮処凛が書いた「14歳からの生活保護」という本の中で
「現政権が仕向けたものだろう」と、その理由と共に論じていて
なんともいえないやるせなさ、とこの社会で生きるための
知恵の付け方を
考え直さないといけない、と思い改めるには十分な内容でした。
社会の中でお金を稼がない人(税金をおさめない人)は、社会的に価値がなく、
早々に社会から抹殺されるような社会になっていることを
肌身で感じます。
テレビや新聞などのマスコミは、それでも(それだから)原発従事労働者だけは、
同情的にとりあげます。
「夫が東電社員であるという理由で、同じマンションに住む人から暴言をうけた」
妻をかばう報道。
「原発立地県の原発によって暮らす人が『このまま原発を止まったままでは立場の弱い
会社から仕事がこなくなってしまう』と嘆き、
原発推進議員が『なんとしても原発を再稼働させなくては』と伝える報道がありました。
推進派議員さんは弱者を救う正義の味方にみえました。
同情を誘うし、なんとなく「かわいそう」でした。
彼らもまた、救われるべき人たちだと思います。
しかし、前述したような、生きる死ぬのレベルで貧窮している人を
さらに追い込むようなマスコミの姿勢に比べると、
これらの報道は「公平」ではありません。
私は原発で働く人が仕事なくなっていい、と言っているわけではないです。
原発労働者のことを報道(心配?)するように、
福島で被災した人たちも
放射能の不安におびえて暮らしている人たちも公平に報道してほしい、ということなのです。
繰り返します、「公平に」。
自己責任だけの論理で言うならば、原発は
あの事故の直後になくなってしかるべき存在でしたし、
マスコミは政府と東電に原因究明を常に訴えるべきですし、
コメンテーターは福島の被害者救済を叫ぶべきです。
何故、原発機器の修繕されされないままの、危険な状態の原発という職業を、
明らかに、時代に見合わないと淘汰されるべき職業を、
世間の人は、こんなにも心配してくれるのでしょうか。
その答えの中には、
国民の同情心を利用して、原発を暗に動かそうとする意図すら感じます。
東電に勤める社員の家族の心の痛みは報道するけれども、
福島の今も故郷に帰れずにいる人たちの心の痛みは無視していい、
そんなはずがありません。
自分の故郷に帰りたいと訴える人に、
「被災した村の放射能だけは、高い放射能を浴び続けても健康に害はないですよ」
という主旨の言葉を言い放った役所の人間に対し、
「どこまでも馬鹿にするのか!」と怒りをあらわにした
村のおばあちゃんの声は、電波にはのりません。
福島の避難民の報道は、いつも「最後には希望を胸に抱いている」的な
終わり方に編集されていて、やるせなくなる
という被災地で暮らす知り合いの声は真実です。
もう過去のことにしようとしているのです。
改めて思います。
原発はなくさなくてはいけないと。
そうでなければ、
また同じような
死にそうなくらいに辛い想いをした人を
何万人も生み出すことになります。
間違いなくそうです。
そして、最後には名もない人の一人として葬られます。
それは、自分が、自分の子どもが、自分の孫が、そうなる可能性を多分に秘めています。
再稼働しませんように。
心から祈ります。
今日、この日も。
見やすい大きさのものをそのままアップしました。
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