できるならばモノをもっと大切に使いたい、
と思う場面に遭遇することがよくあります。
例えば、お菓子の包み紙1枚、ちびた鉛筆1本、どうかするとレシート1枚でも
裏が白いなら、何かに使うことができるなら多少手間をかけても、
違う何かに使いたいと思うところが私にはあるようです。
洗濯機を回す時も、水道から使うよりお風呂の水をもう一度使いたいし
欠けたお茶碗も、もしもそういう修理をしてくれる人がいるならば継ぎをあててくれる人を探したい。
生ゴミも最終的にコンポストに入れるにしても、
その途中で山羊や猫が食べてくれるなら、そっちのほうをまずは選びたい。
太い薪を使うよりも、剪定した枝を使ってお風呂をわかしたい。
時間が倍以上かかることは、もちろん承知の上で。
でも、あまりにモノと時間のサイクルが早すぎて追いつけず、
そういうことをするよりも、捨てたり、新しいものを使うほうが
都合がいいことが実際に多いのも現実です。
「大切にすること」を大切にしすぎると、
生活が時間に追われ、体力が奪われすぎてしまうこともよくあります。
そんな時、連れ合いが「そんなに大切にしすぎなくてもいいんだよ」と
言ってくれて肩の力が抜け、ほっとしたりもします。
その時々で、無理のないほうを選ぶようにすることも学べるようになりました。
モノを大切に使うことに何故こんなにも
自分がこだわっているのか自分でもよくわからないまま、
やっぱり時間が許す限り、そんな風なことをしてしまう日々が続いています。
モノの命をまっとうするなんて高尚なものじゃないことはわかるのですが、
さてこれは意地なのか、それともただの性格ゆえなのか、
自問自答するのも面倒だなあ、とか思いつつ、
やっぱり「モノを大切に」してしまっています。
※写真はみ~んなお風呂の薪用のもの、です。
手前が剪定した常緑樹で、奥の木材は火事になって焼け焦げてしまった柱。
(知り合いの土木会社の人が「いる?」と声をかけてきてくれました)
剪定した木をお風呂に使うのは、もっぱら私の役目です。
と思う場面に遭遇することがよくあります。
例えば、お菓子の包み紙1枚、ちびた鉛筆1本、どうかするとレシート1枚でも
裏が白いなら、何かに使うことができるなら多少手間をかけても、
違う何かに使いたいと思うところが私にはあるようです。
洗濯機を回す時も、水道から使うよりお風呂の水をもう一度使いたいし
欠けたお茶碗も、もしもそういう修理をしてくれる人がいるならば継ぎをあててくれる人を探したい。
生ゴミも最終的にコンポストに入れるにしても、
その途中で山羊や猫が食べてくれるなら、そっちのほうをまずは選びたい。
太い薪を使うよりも、剪定した枝を使ってお風呂をわかしたい。
時間が倍以上かかることは、もちろん承知の上で。
でも、あまりにモノと時間のサイクルが早すぎて追いつけず、
そういうことをするよりも、捨てたり、新しいものを使うほうが
都合がいいことが実際に多いのも現実です。
「大切にすること」を大切にしすぎると、
生活が時間に追われ、体力が奪われすぎてしまうこともよくあります。
そんな時、連れ合いが「そんなに大切にしすぎなくてもいいんだよ」と
言ってくれて肩の力が抜け、ほっとしたりもします。
その時々で、無理のないほうを選ぶようにすることも学べるようになりました。
モノを大切に使うことに何故こんなにも
自分がこだわっているのか自分でもよくわからないまま、
やっぱり時間が許す限り、そんな風なことをしてしまう日々が続いています。
モノの命をまっとうするなんて高尚なものじゃないことはわかるのですが、
さてこれは意地なのか、それともただの性格ゆえなのか、
自問自答するのも面倒だなあ、とか思いつつ、
やっぱり「モノを大切に」してしまっています。
※写真はみ~んなお風呂の薪用のもの、です。
手前が剪定した常緑樹で、奥の木材は火事になって焼け焦げてしまった柱。
(知り合いの土木会社の人が「いる?」と声をかけてきてくれました)
剪定した木をお風呂に使うのは、もっぱら私の役目です。
もっと上手に生活できたら、と思うのですけれどね~。
私の祖母も、「もったいない」が口癖の人で、毎日なにかを繕っていました。部屋には、もったいなくて捨てられないものが・・・
ぼろ布で作った雑巾でさえ、穴があいたら繕ってもう少し使っていたり・・・
昔は「その方がめんどうくさいじゃない」と思って見ていた私ですが、年をとるに連れ、似てきたなあと思うことも・・・
でも、時間がかかって子供達に迷惑がかかったり、疲れて家族の負担になっているな、と思うときは、お金で時間を買うのも仕方ないかな、と自分に言い聞かせています。