佐渡での生活の中で、ありがたいことに色々なお仕事をさせてもらっています。
ここでの仕事と、都会での仕事との大きな違いは、
一言でいうなら「(自らが)フリーであるということ」かなと思います。
(かなり大きなくくりですが)
フリーというのは、一匹狼な立場ですから、
(社会的にも)最も弱い立場にある身の上です。
その一匹狼の状態で何年か過ごしてきて自分なりにフリーとして必要なことは
こんなことではなかろうか、と思えるようになってきました。
自分の意見を(ある程度)持つこと、
不利な状況(や条件)に対してはきっぱりとNOと言うこと、
かつその理由を明確にすること、なんかは上位にあたります。
(でも、それをうまく伝える話術やノウハウについては本当に未熟です)
こうした判断がとっさに必要になる議論や企画ミーティング、
プレゼンテーションや意見交換などが
この何年か格段に多かったように思います。
そんな経験をふむ中で、非常に気になる事例が
自分の胸の中でひっかかりを覚えています。
それは共に仕事をしていく人達の中に「自分の意見を半ばゴリ押し(あるいは強い思い込み)に近い形で通す人がとても多い」という事実です。
(それは決して佐渡に限ったことではないことをつよ~く念押ししますが)
明らかに筋が通っていない、採算にあわない、
もしくは、世間的には正しいことなのかもしれないが
自らがおかれた状況と照らし合わせてみると様々な点において無理なものが多く
できないこと(現実的ではない)
といったものも「自分がコレをやりたいんだ!」という思い(と声の大きさ)だけで前に進み、
他人の意見を相容れない、結局他の人が根負けし、その企画が通ってしまう。
それらが、自分よりも倍近くの年齢の方が普通に行っている。
そんなシーンを多く見てきて、ふいに考えてしまいました。
「(社会の中で)ゴリ押しという、未熟な大人(あえて断定)によって行われる意見だけが通るのならば、
人間の成長(=対話による仕事や生活の進行)って何のためにあるのだろう」と。
いささか大げさではありますが「人としての成長」って
「相手と対等に対話すること、できること」ではないかな、と私は思っています。
相手の言っていることを、とりあえずまずは受け止め、
それを消化してから、自らの思い込みで判断せずに、返答する。
ものすごく難しいことですし、実際中々できないことが多いのですが、
それでもそうありたい、なりたいと思っています。
そして、願わくば自分よりも年上の人達にはそうあってほしい、
そしてそういう人を見て自分もそうなれるように努力したい、と
後から生まれた人間としては思ったりするのです。
しかし実際の現状を見て募る疑問。
考えて「このことについてどう思う?」と連れ合いに話したら、彼はこういいました。
「『話し合い』によって社会が成り立つ歴史は日本はまだ浅い」と。
「力だけで社会が成り立っていた歴史が長すぎたから、
議論の仕方や意見の言い方というノウハウが蓄積されていない、
もしくは、まだ未成熟なのではないか」と。
つまり「これからだ」と。
「あまりに議論によって物事を決める歴史のなかったこの国では
いざ、議論ができる時代になっても何を言えば、どう議論すればよいのか
わからなかったのではないか。
そのせいで『どんな意見でも意見さえ言えば良し』という少々間違った認識が、
我々の親の世代で発生したのではないか。
(もちろん全員ではないだろうし、そういう人も見てきているけれど)
祖父母の世代に至っては全ての意見を、まさに力でねじふせていた時代で、
議論の歴史さえ始まっていない。
その世代の名残は我々の世代にもまだ色濃く残っている。
それが君(私のこと)が現在感じている
フラストレーションの元になっているのではないだろうか」。
自分個人の小さな悩みを、歴史という縦の流れではかり、示した彼の意見は
ストンと胸に落ちて、納得(単純デス)。
こんなことで、あたふたする自分はまだまだワカイナア。
追記:最近の小中学校では「ディベート」という議論のノウハウを学ぶ授業も行っているともいいます。それにささやかに期待したりします。
ここでの仕事と、都会での仕事との大きな違いは、
一言でいうなら「(自らが)フリーであるということ」かなと思います。
(かなり大きなくくりですが)
フリーというのは、一匹狼な立場ですから、
(社会的にも)最も弱い立場にある身の上です。
その一匹狼の状態で何年か過ごしてきて自分なりにフリーとして必要なことは
こんなことではなかろうか、と思えるようになってきました。
自分の意見を(ある程度)持つこと、
不利な状況(や条件)に対してはきっぱりとNOと言うこと、
かつその理由を明確にすること、なんかは上位にあたります。
(でも、それをうまく伝える話術やノウハウについては本当に未熟です)
こうした判断がとっさに必要になる議論や企画ミーティング、
プレゼンテーションや意見交換などが
この何年か格段に多かったように思います。
そんな経験をふむ中で、非常に気になる事例が
自分の胸の中でひっかかりを覚えています。
それは共に仕事をしていく人達の中に「自分の意見を半ばゴリ押し(あるいは強い思い込み)に近い形で通す人がとても多い」という事実です。
(それは決して佐渡に限ったことではないことをつよ~く念押ししますが)
明らかに筋が通っていない、採算にあわない、
もしくは、世間的には正しいことなのかもしれないが
自らがおかれた状況と照らし合わせてみると様々な点において無理なものが多く
できないこと(現実的ではない)
といったものも「自分がコレをやりたいんだ!」という思い(と声の大きさ)だけで前に進み、
他人の意見を相容れない、結局他の人が根負けし、その企画が通ってしまう。
それらが、自分よりも倍近くの年齢の方が普通に行っている。
そんなシーンを多く見てきて、ふいに考えてしまいました。
「(社会の中で)ゴリ押しという、未熟な大人(あえて断定)によって行われる意見だけが通るのならば、
人間の成長(=対話による仕事や生活の進行)って何のためにあるのだろう」と。
いささか大げさではありますが「人としての成長」って
「相手と対等に対話すること、できること」ではないかな、と私は思っています。
相手の言っていることを、とりあえずまずは受け止め、
それを消化してから、自らの思い込みで判断せずに、返答する。
ものすごく難しいことですし、実際中々できないことが多いのですが、
それでもそうありたい、なりたいと思っています。
そして、願わくば自分よりも年上の人達にはそうあってほしい、
そしてそういう人を見て自分もそうなれるように努力したい、と
後から生まれた人間としては思ったりするのです。
しかし実際の現状を見て募る疑問。
考えて「このことについてどう思う?」と連れ合いに話したら、彼はこういいました。
「『話し合い』によって社会が成り立つ歴史は日本はまだ浅い」と。
「力だけで社会が成り立っていた歴史が長すぎたから、
議論の仕方や意見の言い方というノウハウが蓄積されていない、
もしくは、まだ未成熟なのではないか」と。
つまり「これからだ」と。
「あまりに議論によって物事を決める歴史のなかったこの国では
いざ、議論ができる時代になっても何を言えば、どう議論すればよいのか
わからなかったのではないか。
そのせいで『どんな意見でも意見さえ言えば良し』という少々間違った認識が、
我々の親の世代で発生したのではないか。
(もちろん全員ではないだろうし、そういう人も見てきているけれど)
祖父母の世代に至っては全ての意見を、まさに力でねじふせていた時代で、
議論の歴史さえ始まっていない。
その世代の名残は我々の世代にもまだ色濃く残っている。
それが君(私のこと)が現在感じている
フラストレーションの元になっているのではないだろうか」。
自分個人の小さな悩みを、歴史という縦の流れではかり、示した彼の意見は
ストンと胸に落ちて、納得(単純デス)。
こんなことで、あたふたする自分はまだまだワカイナア。
追記:最近の小中学校では「ディベート」という議論のノウハウを学ぶ授業も行っているともいいます。それにささやかに期待したりします。
私も、40代~70代前半の方々に混じって
会議に出席することがあるのですが、
中川さんの持った思いには、本当~~に同感です。
そして、歴史的視点で見る、という考え方を読んで、
私もすごく楽になりました。まさにストンと肩の力が抜ける感じ。
そんな風に受け入れることで、
落ち込んだり、嫌気がさしたり…という感覚自体、
すっと溶けていきそうです。
今現在の、そしてこれからの私達は、
子孫へと受け継いでいくべきものや、断ち切るべきものを分別しながら、
歴史を紡いでいくんでしょうね。
ありがとうございます。
そして嬉しい共感、さらにさらに!ありがとうございます!かなり強く思った意見なので、書き残したいと思ったんです(すぐ忘れそうだから(笑))
でも、結構固いなあ、とも思っていたのでコメント嬉しかったです。
納得はできたけれど、答えはまだ見出せていない状態ですが、ぼちぼち進歩したいです。
話し方、伝え方、受け止め方、色々と。