佐渡に来てから新調しなくてもよくなったもの、ほしくなくなったもの。
それゆえに非常に心が軽くなったもの、があります。
かばんと腕時計です。
都会にいた頃は、かばんも腕時計も新しいものを常にほしがっていました。
財力はないので買うことはありませんでしたが、それでも、「常に」「ほしがって」いました。
それはどういうことか、
突き詰めて考えてみると、「欲しいという欲望をいつも痛いほど刺激される空間で暮らしていたのだな」ということなんだろうな、思います。
「自分へのご褒美」という言葉は、本来後ろめたいはずの「物欲」への免罪符です。
すぐに廃れてしまう沢山の言葉の中で、
この言葉が長い間、燦然と光をはなっているのは、
モノを買うことに対して多くの人が、無意識にでも感じる後ろめたさを
払拭してくれるからではないかな、と思います。
かつての私は、かばんも腕時計も、本当に「欲しい」と思えるもの、
一生使えると思えるくらいに気に入ったスタイルのもの、
それを見つけられたら、手に入れられたら
思い描いているような理想の生活や自分を手に入れられるような、
そうでなくても、一歩や二歩くらいは近づけるような、
そんな錯覚と妄想を抱いていました。
もちろんそんなことはなくて、「モノ」は道具ではあっても手段ではありません。
きっかけにはなっても、それ自体が幸せであるはずがありません。
でも、当時の私は、モノを買うこと「だけ」で得られる幸せがあると、
信じていた部分がありました。
だから、一生使えるかのような牛皮製のなめしかばんに、ひどく憧れていました。
そうかと思うと流行色のターコイズ色の皮かばんに目をうばわれたり、
フェアトレードの山羊皮かばんを手に取ったりしていました。
心は常に揺れていました。
今、こういう生活をしていると
毎日かばんを持つこともないし、何より人目にあまりふれることもないので(笑)
かばんを選ぶ、ということもなくなりました。
そう思うと「かばん」って物を運ぶためのものなんだな、という
基本というか、骨組みのところがやっと見えてきました。
「自分を表現する」とか「カスタマイズする」ということは、
「かばん」にやらせるんじゃなくって、自分がやることなんだとやっと気付くことができました。
今、外へでかける時に使うかばんは、18歳の頃に購入したかばんです。
表面がはげてきていて、もうぼろぼろ。
本革に見えるそうですが、人工皮です(笑)
一年に一度、皮用のクリームを塗って手入れして使っています。
これを身に着けて町におりたら、
「いいかばんをつけている人がいるな、と思ったらあなただった(笑)」という感じで
声をかけてくれた知人が2人いました。
フォーマルな場で使う皮製のかばんがひとつありますが、
この2つで、とりあえず外出用には足りています。
今も「一生もののかばん」を欲しがる自分が消えたわけではありませんが、
自分にとっての唯一無二なかばんに出会えることを、
10年スパンで、気長に待つことができること、
少なくとも、「それまではこの程度でいいや」と幾つものかばんに目をうばわれたり、
高いお金をだして「つなぎ」を買うことがなくなったことは
とても気持ちが楽になっています。
それゆえに非常に心が軽くなったもの、があります。
かばんと腕時計です。
都会にいた頃は、かばんも腕時計も新しいものを常にほしがっていました。
財力はないので買うことはありませんでしたが、それでも、「常に」「ほしがって」いました。
それはどういうことか、
突き詰めて考えてみると、「欲しいという欲望をいつも痛いほど刺激される空間で暮らしていたのだな」ということなんだろうな、思います。
「自分へのご褒美」という言葉は、本来後ろめたいはずの「物欲」への免罪符です。
すぐに廃れてしまう沢山の言葉の中で、
この言葉が長い間、燦然と光をはなっているのは、
モノを買うことに対して多くの人が、無意識にでも感じる後ろめたさを
払拭してくれるからではないかな、と思います。
かつての私は、かばんも腕時計も、本当に「欲しい」と思えるもの、
一生使えると思えるくらいに気に入ったスタイルのもの、
それを見つけられたら、手に入れられたら
思い描いているような理想の生活や自分を手に入れられるような、
そうでなくても、一歩や二歩くらいは近づけるような、
そんな錯覚と妄想を抱いていました。
もちろんそんなことはなくて、「モノ」は道具ではあっても手段ではありません。
きっかけにはなっても、それ自体が幸せであるはずがありません。
でも、当時の私は、モノを買うこと「だけ」で得られる幸せがあると、
信じていた部分がありました。
だから、一生使えるかのような牛皮製のなめしかばんに、ひどく憧れていました。
そうかと思うと流行色のターコイズ色の皮かばんに目をうばわれたり、
フェアトレードの山羊皮かばんを手に取ったりしていました。
心は常に揺れていました。
今、こういう生活をしていると
毎日かばんを持つこともないし、何より人目にあまりふれることもないので(笑)
かばんを選ぶ、ということもなくなりました。
そう思うと「かばん」って物を運ぶためのものなんだな、という
基本というか、骨組みのところがやっと見えてきました。
「自分を表現する」とか「カスタマイズする」ということは、
「かばん」にやらせるんじゃなくって、自分がやることなんだとやっと気付くことができました。
今、外へでかける時に使うかばんは、18歳の頃に購入したかばんです。
表面がはげてきていて、もうぼろぼろ。
本革に見えるそうですが、人工皮です(笑)
一年に一度、皮用のクリームを塗って手入れして使っています。
これを身に着けて町におりたら、
「いいかばんをつけている人がいるな、と思ったらあなただった(笑)」という感じで
声をかけてくれた知人が2人いました。
フォーマルな場で使う皮製のかばんがひとつありますが、
この2つで、とりあえず外出用には足りています。
今も「一生もののかばん」を欲しがる自分が消えたわけではありませんが、
自分にとっての唯一無二なかばんに出会えることを、
10年スパンで、気長に待つことができること、
少なくとも、「それまではこの程度でいいや」と幾つものかばんに目をうばわれたり、
高いお金をだして「つなぎ」を買うことがなくなったことは
とても気持ちが楽になっています。
成長しているのだととらえなおすこともできるかも。しかし、欲ばかりが刺激されてしまう空間って危険ね。ホントに…。
ここは本当に‘欲を刺激される空間’です。
誘惑されること多し。でも前ほどではなくなったなぁ。
なんでだろ。
自分がどうすれば本当に満足なのか、
自分のことがやっとわかってきたからかな。