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読売書法展開催国立新美術館で見学、古代ミステリー 海の縄文人、丸木舟を飛鳥山博物館で探索。

2023年08月27日 | 歴史の考察

先日愛知に暮らす妹から連絡があり、読売書法展で読売奨励賞受賞したそうで会場は《第1会場》国立新美術館《第2会場》東京都美術館である。
アクセスは意外と都合よく北総公団鉄道町屋駅にて東京メトロ千代田線「乃木坂駅」6番口直結して雨天も気にせずにドアツードアである。
この国立新美術館での開催は初日とあり、まずまずの人手が多く、受付は混雑し詳細を調べるも手間取りました。



「カナの部」は国立新美術館での開催の為、今回交通は電車で向かった、実は帰りに飛鳥山の博物館探索も実行したく早めの朝9時頃出発する。

どうも忘れがちな常備品、この時期は氷入り麦茶の水筒と扇子と帽子は必需品である、いつでもどこでも飲める冷たい水筒は真夏の必需品で、この時期は給水は大切で、また熱中症予防にもなる。



経路は北総線白井駅から出発し、町屋で千代田線に乗り換え乃木坂下車で国立新美術館到着は車より便利でこの近くは駐車場も少なく電車でのアクセスは便利である。 設計監理:黒川紀章が波の様なうねうねとしたガラス張りの建物は有名である。会場は1・2・3Fと使い出品もかなり多い、他の上野の東京都美術館でも繰り広げる様です。



案内で場所を検索し2B -4会場を見つけ1Fで役員関係の作品を見ながら妹の作品を見た、妹曰く読売書法展で読売奨励賞は前から欲しかった賞であると言っていた今回やっと念願が叶った様である。



前回の日展の会場が少なかったと思うほどである、出展数が多い様に思う。
妹の書が読売奨励賞を頂いた作品でした。恥ずかしながら筆者は書の知識は全く無いのですが・・・(笑)。



先ずはおめでとう!次は日展ですね、頑張って下さい。

モダンな国立新美術館を後にして、次は駅までの距離があり少し歩くが大江戸線の六本木駅から乗車し麻布十番駅で南北線に乗り換え王子駅着、昔は王子駅はJR駅と都電しかなかった様に思うが便利になった交通網である。

この辺りで昼食にする、王子駅近のお蕎麦屋で喉越しの良い冷たい山かけ蕎麦を頂く、それと近くで立ち飲みの温かい珈琲を注文するが上手くは無かった。

この王子辺りは余り昔から縁遠く場所は下町なので美味しいお店のあると思うが、全く皆無で駅近くで、こ綺麗な蕎麦屋に入った、蕎麦の量は盛りも良く満足であった、食事の後の蕎麦湯は実に好物でしっかり頂きました。蕎麦湯を飲みたくそばを食う、今後新蕎麦の時期となるが楽しみでもある。



それから飛鳥山に向かう、展望台まで簡易なモノレールがあり乗車するとエアコンが良く効き快適であった。乗車時間は2分程度であるが・・・。
確かに東京と言う割には都市は意外にも木々が多く植わり公園等も備わっている為森林地帯が多く存在する街である。

勿論この王子、飛鳥山も江戸時代に整地され桜の名所として公園になった事は有名ではある。昔読んだ小説の内容だが何故か帝大入試問題で飛鳥山について述べよとの問いに田舎出身の受験生は可哀想であると思った箇所を何故か思い出す。



勿論本の内容だがこの飛鳥山は江戸時代の享保年間に行楽地として整備され春は庶民の桜の名所にもなっている、現在も桜の名所にて一度春の桜の時期に訪れるのも楽しいかもしれない。

来年新一万円札になる園内に残る旧渋沢栄一旧邸もあるそうだが、今回は博物館探索に決めており飛鳥山博物館に向かう。



桜の時期は上野公園とも人気な桜の名所としても有名である。モノレール下車して博物館にはゆっくり歩けば7〜8分程で到着する、飛鳥山は小高い丘上になっていて途中青々とした樹々が涼やかで児童公園には都電も掲示されていた。
途中にわか雨が降り出したが5分ほどで小振りになり目的地に到着する。

それを見ながら通過し、意外と簡素な建物が飛鳥山博物館であった。入場料は300円也でしたが高齢者は150円の割引です。撮影したい方は入り口にて撮影許可証を頂いてください(フラッシュ禁止です)。

少し前に青森の三内丸山遺跡の集落を訪れたが、この縄文時代は実にミステリアスで大変面白い世界であり、学生時代に簡単に学んだ日本の歴史を今学んでいる様である。現在日本には1万箇所以上ある遺跡巡りも実に興味深さがある、未だ発掘作業は途中で、これらの事が明らかになれば我々大和民族のルーツが解明出来ると思えば益々興味深い。

これこそ日本が世界に発信できる日本文化そのものである様にも思う。次の時代に世界に発信できる国は伝統文化のある日本が相応しいのかも知れない。



筆者が唯一BSのNHK番組放映を楽しみに観る、英雄たちの選択  追跡!古代ミステリー 海の縄文人放映した船の展示が飛鳥山博物館で見られる、丸木舟の情報を知りたく、是非現物を見たかった為に今回やっと念願が叶った。

意外と船の幅もあり深く削れているのが特徴的で、或程度の波にも十分波対策は得られるであろうと想像できる。丸木舟で台湾沖縄の横断は可能であるであったのだろう?海上公開について食料、飲料は如何に補給したのか不思議なことは多く益々興味深くなる様である。
この丸木舟のポテンシャルはどの程度の性能があるか色々想像するだけで我々の祖先海の縄文人は何を考えていたのであろう?そうの様な事を思うとロマンで胸が高鳴るのを覚えた。

以前丸木舟での台湾〜沖縄航海は横断成功したとの報道があり、驚くとともに実証されたことでの丸木舟の海上航海は事実となった訳である事が判明した。
勿論日本から見渡す太平洋上には火山活動が盛んな小さな島々が続いて存在し丸木船で島から島へ伝わりながら洋上を丸木船での往来は可能であった事であろうと想像できる。
或程度の水、食料を積み未開の海のの航海を楽しみも含め正に海への浪漫であったのであろう・・・・・。



基本的には日本列島は周りは海に囲まれた島国であり、食料は勿論海からの恵みに恩恵を受けた人々であろう。島々を渡りながら進めば西太平洋のミクロネシアにある米国領の島グアムまでも航海可能である。又台湾ルート航海を考えれなマニラ、フィリピン、インドネシアの航海も可能である。夢は広がる世界観でもあろう。

以前から山内丸山遺跡も丸木舟による海からの道が出来ていた記憶も新しい、今回興味深く見学したが、益々興味を抱いたことは、海上での獲物確保と、海洋交易である、黒曜石等勿論大切な琥珀等も産地から輸送したのであろう。

物の運搬は舟が一番手軽であるが、日本列島は島々が多く北から南まで随分長い、海を自由に航行できれば一番手軽だとも思う、日本列島を取り囲む「海」と古代人の関わりを示す新発見が相次ぎ、「海」を通して古代人のこころの解明に注目が集まっている。


丸木舟に関する上記パネル掲載にはムクノキ使用とあるが、ムクノキの葉は、葉の表面に光沢はなく、両面とも細かな剛毛があってザラザラしており、乾燥させた物はトクサと同様、紙ヤスリ代わりに桐の箪笥などの家具、象牙、鼈甲(べっこう)、漆器の木地などを研磨するのに使われるそうです。
舟表面を磨き防水並びに表面を研磨し水の抵抗を防いだのかも知れない、現在の研究では人類は1,400CCが脳の重さと言われるが最近人類の脳の重さは若干減っていとも言われる、縄文時代当時は覚えることも多く現在と違った脳の働きも必要とした時代であったのかも知れない、正しく海の縄文人の知恵なのであろうか?と驚く次第である・・・。

今回は、海の縄文人の世界に迫る・・・。
1万年以上続いた縄文時代の後期、突如、貝で作ったアクセサリー「貝輪」の一大ブームがあったそうである。なかでも、美しい輝きを発するオオツタノハの貝輪は珍重され、勿論展示もあり、東日本一円から出土している。この謎に包まれた貝の生息地を求めて各地を探し回っている考古学者もいる。



テレビ画面ではオオツタノハ採取の瞬間を放映していたが、オオツタノハを加工した「貝輪」は実に綺麗な真珠のような色で光り輝いていた。

このほか、全国各地から多数出土した縄文人の丸木舟、さらに技術的に現代のものに負けない骨格製の漁労具などから、知られざる海の縄文人の謎めいた事実も探ってみた。


この丸木船の形状を見ればわかるが木の中心部は船の舳先の下になっているためUの字の上の部分まで船が構成され、波にも負けない構造をしている事は解明できる、実験ではこの木を見つけ、木の伐採工事から丸木船にするまで磨製石器を使用し製作してする時間は20人程の人材で一ヶ月以上はかかると言われる。
その後航海後のメンテナンスを考えれば社会組織も必要になるのであろう。後は航海術、夜間の方位を調べる方法等必要事項も多い様に想像出来る。

しかし一番不思議に思うは、石器時代に「火」を扱うこと、「各種の道具」を扱うことの知識は如何にして湧いたかの疑問だ・・・今後も科学が進み多くの事が解明できればその様な謎も解明できるのかもしれない。


丸木船の舳先の部分です、波の影響も防ぎ安定な航海を考えての制作方法であろう。また当時は海の面積も多く締め、海上輸送が頻繁に行われた様である。

食事の支度、時期世代の子供も考えれば約100人程の人口は必要であり、また船の加工も表名を燃やし防水磨き摩擦抵抗も無くした跡もある様です。同時に海運も従事していたのであろう。造船技師、航海技師もいたのであろう、益々興味尽きない縄文文化であろうか、磨製石器で生活した先祖達に驚くのである。



筆者も思うは昔から海洋国であった事は事実であり、水路を利用した生活は今も続くが湿地帯である江戸に徳川家が入り、関東は隅々まで水路で繋技、上下水道を整備して利根川の流れまで変え、生活圏は住みやすい江戸時代で花開き明治、昭和時代まで続いていた。また海洋では暖流と寒流がぶつかり実に良い食料にも最適な漁場も見逃せない条件であろう偶然の重なりとは言え平和な国であった。

縄文時代は人類が獲物を求め移動生活と言われたが当時は海産物等豊富で移動しなくとも食卓は豊で穀物は栗など木のみが豊富であり栽培も盛んに行われた次第である。日本は間違いなく海洋国であり海と共に背活を営んでいたと想像できる。


ここで古い関東地方の5〜6000年前の地図であるが、手賀沼も大きな湖と分かる水源地はご存じ柏のこんぶくろ池である。関東地方は海の湖に囲まれた世界であり手賀沼、霞ヶ浦とは繋がっていた事がわかる。

此処とは別の場所にある「江戸東京博物館」に掲示される縄文海進とは、最終氷期(現在からみて最も新しい氷期。数万年前~1万年前ごろまで続いた)以降の海面上昇に伴い、縄文時代早期~前期に現在の海岸線よりも奥まで海が侵入したことを指す。



「この図の見どころは、縄文時代の貝塚遺跡の多さを実感していただくことです。それに加え、自分自身の住まいが当時はどういうところであったか(海!)探していただけると楽しめるかと思います。そして周辺の貝塚に興味をもって訪れていただければ幸いです」上記のようなコメントが残されていた。
確かに埼玉にも海は存在し、茨城も霞ヶ浦も内海で陸地は北側の日立市からの陸地で千葉も上総が先に繁栄し島の状態に近い。三浦半島から海を船で航海すれば近い上総である、関東地方は海が広がり遠浅の海洋生物が多く食料事情も良い事が想像出来る。当然貝塚も多かったのであろう事が判明する。

一番驚くは奥東京湾が表示されて川越奥まで続くまで海並びに湿地帯であった様に示されている、勿論現在の埼玉は海であった様である。丁度ここ飛鳥山付近は海岸近くであった様に地図には明記してある。


次の展示物は黒曜石の原石である、以前にも述べたが神津島で最高の黒曜石が取れる場所そして世界最古の記録を持つ場所です。恩馳島は、神津島の前浜から見える離れ小島で、天候によって神津島からの距離感や見え方が変わる不思議な島までこの丸木舟の航海は正に命賭けである。

後はブレスレット「貝輪」の事ある、聞くところ貴重なオオツタノハの貝輪は大規模な集落でも1~2点しか発掘されていない。更に詳細な生息地も定かで無く大変貴重な人気の貝であったようである。
見知らぬ小島の大潮の干潮時に現れるオオツタノハは貴重品であったと言われる、一変的にはベンケイガイの貝輪が一般的であったと言われる。


縄文時代の研究は始まったばかりで今後新しい情報が期待できる面白さがある。


飛鳥山博物館にも様々な貝塚の展示があった。中から人骨も出土している、の本の土壌は弱酸性で骨は溶けて無くなるのですが、貝塚周辺位は人ことも見つかっている。



これは栗の木の化石である、当時栗の木は巨木でありそれも山内丸山遺跡の謎の高層建物も栗の木を用いて製作している。

縄文から弥生時代に変わるが、面倒な穀類の農作物作りは地球の温度変化によって自然に生活様式が変わって行ったのであろう、土器も低温で仕上げた土器から高温で仕上げる様になり薄く丈夫などきに変わって行ったのであろう。
穀類の長期の保存ができる米主体の生活に変わり緩やかに過ごしやすい時代に変わって行ったのであろう。


続いて弥生時代に移る為、土器は薄く食事は現在に近づいてくる。弥生時代から古墳時代と日本には多くの人達が移り住み平和な時代が続いてのであろう。
その後幸いにもモンゴルの来襲にも屈せず征服されなかった事は日本独自の歴史を続ける事になった。
この様な事は日本人のDNA解析で証明されている、もちろん朝鮮人、支那人はモンゴル系統の系統が流れている事は証明墨と言われている。


食事の支度の展示品である、注意深く観察すれば昭和初期時代の食卓にも共通する感じが強い、実にバランスの良い食事でもある。特に現在のキャンプに近い。

現在日本食は実に健康的な栄養バランスで仕上がっている為、肥満傾向の海外の人達も日本食を大変興味深く考察している様である。


農機具の展示もあるが、形は今でも使えそうである。


そして面白きは江戸時代のお花見等に使ったお弁当等の展示がある。

江戸時代はやはり白身の魚が多く赤身魚はカツオが多いよ聞く、マグロのトロ部分は痛みやすく脂身の為に処分されていたと聞くが、保蔵手段が無かった事が調味料にも酢、醤油等を用い保存方法を考案した事が最大の理由であろう、写真を見ても分かるが大変美味そうである。


甘いデザート(お饅頭)の重もあり実に美味そうである。思えが一般的に和食は昔から余り変化はないらしい。


今現在海外から日本への旅行客も増えているそうでが、意外と和食に人気があるようで、和食の栄養のバランスも良く健康維持には日本食は良い食文化と言われるそうである。
現在支那は原発事故の処理水問題で勝手に騒ぎ、食品は全面的に輸入禁止状態であるが、美味しい海産物は日本で消費しましょう、健康のためにもバランスの良い海産物を摂取しましょう。


地下部分が博物館で構成された手軽な博物館でした。帰りは今回2回目の乗車する都電を利用しました。


王子から乗車した都電ですが、意外と混んでいました、町屋までおよそ20分程で到着する、何か懐かしい都電で旅であった、町屋からは北総線経由で今回の散策は終了します。

話は変わりますが、現在ネットでもお馴染みの如く「中国の崩壊」「中国地方都市不動産の闇」等の記事が多く新規雇用の就職率も異常に低いが、お隣の国の支那では日本の食品全面輸入禁止処置が実行され騒いでますが、美味しいお魚は日本人が食べましょう、又旅行先にも日本には渡航禁止法案が提出されたと聞く、大歓迎である。日本人の生活リズムを乱す常識知らずで、大騒して五月蝿い団体支那人の来日禁止は実に良い法案である。一刻も早く法案成立が望ましい。
支那の政策はナイス近平である、ブラボー!