伝統ある英国のTANNOY IIILZで聴く、音楽の父J.S.バッハ音楽を知る喜び・・・

音楽好きのIIILZ Monitor Goldユニットの箱を改良して楽しむダメオヤジ金ちゃんです。

今更ながら・・・再度検証する、カール・リヒター&ミュンヘン・バッハ管弦楽団&合唱団のcantataの考察

2023年03月29日 | J.S.バッハ制作音楽

先日SPENDOR SP3/1Pのインシュレーターの改造後、気をよくした故、筆者のTANNOYをじっくり聴き直して見る、タンノイの味わいと違いが実に面白い。
現在筆者のエンクロージャーシステムはTANNOY10inch同軸2ウェイ(IIILZ Monitor Gold)ユニットにGOODMAN A.R.U付きのGOODMANS AXIOM 80の箱に組み入れた物をシングル三極管の真空管をメインに繋げ聴いているが、当初と比べると随分音質は向上したと思うが、最近J.S.バッハのカンタータ等を聴く場合若干などであるが低域が部分的に籠りがちに聴こえるのだ。

今以上にTANNOYらしい甘美な音を鳴らして聴きたいと思った、ステレオ時代の初めにスタート時に登場した小型TANNOYスピーカーユニット、真空管アンプとの組合せが響かせる美音の妙味と思えるが注意深く聴くと微妙に若干低音がダブつくように思われる、先日改良したSPENDOR SP3/1Pの方法、ソルボセインのインシュレーターをカットした物の上に筆者のGOODMANの箱を乗せダブルでのクッション方式を取り入れた、良い結果がもたらさない場合は最終的に現在自作のインシュレーターの下部に厚み40mm程の石板を引き。その上に載せる方式にしてみようと思っている、早速残り少ない在庫のソルボセインをカットしてエンクロージャーにセットし試聴する。



最近ミツバチの巣か作った天然素材、モライフ ブリティッシュビーズワックス フローリング ( つや出し 木製品 家具 艶 蜜蝋 撥水 床)をエンクロージャーに暇な時に塗り乾拭きを続けたが意外と効果的な色合いになってきたようです。
少し籠り気味の低域の抜けが解消され高域も一層輝きが増したように聴こえるこの方式は効果があるり断然音楽を楽しめる環境に近づいたようである。

J.S.バッハの時代は正確な曲の速度は指示がなく指揮者、演奏者によりテンポは違って演奏したと聴くが、バッハの音楽を長く聴き続けると、自然に自分に合ったテンポの演奏者が見つかり又聴き続ける事により、それは年齢によっても違ってくることは誠に厄介極まりない。筆者がカール・リヒターを最近聴くのは其の様な理由によろものである。勿論装置が変わってもそれは言えることであろう。



先日から注文した、筆者の所に届いたバッハ:教会カンタータ75曲(26CD)カール・リヒター&ミュンヘン・バッハ管弦楽団&合唱団を試聴する、前回からの引き続きでBW V140をリッピングして試聴する。

筆者が感じるcantataは何度も繰り返し聴くうちに徐々にこの音楽?J.S.バッハの良さが滲み出て、もう一度聴きたい感情が現れ、音楽を取り入れる事により心の浄化が始まるような世界のように思える。
【収録情報】
 第1番『輝く明星のいと美しきかな』 BWV.1
 第4番『キリストは死の縄目につながれたり』 BWV.4
 第5番『我はいずこにか逃れゆくべき』 BWV.5
 第6番『我らとともに留まり給え』 BWV.6
 第8番『いと尊き御神よ、いつ我は死なん』 BWV.8
 第9番『われらに救いの来たれるは』 BWV.9
 第10番『我が心は主をあがめ』 BWV.10
 第11番『神をその諸々の国にて頌めよ(昇天祭オラトリオ)』 BWV.11
 第12番『泣き、嘆き、憂い、怯え』 BWV.12
 第13番『わがため息、わが涙』 BWV.13
 第17番『感謝の供え物を献ずる者、われを讃えん』 BWV.17
 第21番『わがうちに憂いは満ちぬ』 BWV.21
 第23番『汝まことの神にしてダビデの子よ』 BWV.23
 第24番『まじりけなき心』 BWV.24
 第26番『ああ、いかにはかなき、ああ、いかに空しき』 BWV.26
 第27番『誰ぞ知らん、わが終わりの近づけるを』 BWV.27
 第28番『神は頌むべきかな!今や年は終わり』 BWV.28
 第30番『喜べ、贖われし群よ』 BWV.30
 第33番『ただ汝にのみ、主イエス・キリストよ』 BWV.33
 第34番『おお永遠の火、おお愛の源よ』 BWV.34
 第38番『深き悩みの淵より、我汝に呼ばわる』 BWV.38
 第39番『飢えたる者に汝のパンを分け与えよ』 BWV.39
 第44番『人々汝らを除名すべし』 BWV.44
 第45番『人よ、汝は先に告げられたり、善きことの何たるか』 BWV.45
 第51番『諸人よ、歓呼して神を迎えよ』 BWV.51
 第55番『我哀れなる人、我罪の下僕』 BWV.55
 第56番『我は喜びて十字架を担わん』 BWV.56
 第58番『ああ神よ、心の痛手いと多く』 BWV.58
 第60番『おお永遠、そは雷のことば』 BWV.60
 第61番『いざ来ませ、異邦人の救い主よ』 BWV.61
 第63番『キリスト者よ、この日を銘記せよ』 BWV.63
 第64番『見よ、父なる神の大いなる愛を』 BWV.64
 第65番『みなサバより来たるらん』 BWV.65
 第67番『死人の中より甦りしイエス・キリストを覚えよ』 BWV.67
 第68番『げに神はかくまで世を愛して』 BWV.68
 第70番『目を覚まして祈れ』 BWV.70
 第76番『諸々の天は神の栄光を語り』 BWV.76
 第78番『イエスよ、汝はわが魂を』 BWV.78
 第80番『われらが神は堅き砦』 BWV.80
 第81番『イエスは眠りたもう、我何を望むべき』 BWV.81
 第82番『我は満ち足れり』 BWV.82
 第87番『今まで汝ら何をも我が名によりて』 BWV.87
 第92番『我は神の御胸の思いに』 BWV.92
 第93番『尊き御神の統べしらすままにまつろい』 BWV.93
 第96番『主イエス・キリスト、神の独り子』 BWV.96
 第100番『神なしたもう御業こそいと善けれ』 BWV.100
 第102番『主よ、汝の目は信仰を顧るにあらずや』 BWV.102
 第104番『イスラエルの牧者よ、耳を傾けたまえ』 BWV.104
 第105番『主よ、汝の下僕の審きにかかずらいたもうな』 BWV.105
 第106番『神の時こそいと良き時』 BWV.106
 第108番『わが去るは汝らの益なり』 BWV.108
 第111番『わが父の御心のままに、常に成らせたまえ』 BWV.111
 第115番『備えて怠るな、わが霊よ』 BWV.115
 第116番『汝、平和の君、主イエス・キリスト』 BWV.116
 第121番『キリストを我らさやけく頌め讃うべし』 BWV.121
 第124番『われ、わがイエスを離さず』 BWV.124
 第126番『主よ、我らを汝の御言のもとに保ち』 BWV.126
 第129番『主に賛美あれ』 BWV.129
 第130番『主なる神よ、我らこぞりて主をほめん』 BWV.130
 第132番『汝ら道を備え、大路をなお良くせよ』 BWV.132
 第135番『ああ主よ、哀れなる罪人我らを』 BWV.135
 第137番『主を頌めまつれ、力強き栄光の王をば』 BWV.137
 第139番『幸いなるかな、おのが御神に』 BWV.139
 第140番『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』 BWV.140
 第147番『心と口と行いと生活とで』 BWV.147
 第148番『その御名にふさわしき栄光を主に捧げまつれ』 BWV.148
 第158番『平安、汝にあれ』 BWV.158
 第171番『神よ、汝の誉れはその御名のごとく』 BWV.171
 第175番『彼は己れの羊の名を呼びて』 BWV.175
 第178番『主なる神我らの側にいまさずして』 BWV.178
 第179番『心せよ、汝の敬神に偽りなきやと』 BWV.179
 第180番『装いせよ、わが魂よ』 BWV.180
 第182番『天の王よ、汝を迎えまつらん』 BWV.182
 第187番『彼らみな汝を待ち望む』 BWV.187
 第199番『わが心は血の海に漂う』 BWV.199



【収録演奏】
 エディト・マティス(ソプラノ)
 シーラ・アームストロング(ソプラノ)
 ロッテ・シェードレ(ソプラノ)
 マリア・シュターダー(ソプラノ)
 ウルズラ・ブッケル(ソプラノ)
 ヘルタ・テッパー(アルト)
 アンナ・レイノルズ(アルト)
 ユリア・ハマリ(アルト)
 トゥルデリーゼ・シュミット(アルト)
 エルンスト・ヘフリガー(テノール)
 ペーター・シュライアー(テノール)
 ヨーン・ヴァン・ケステレン(テノール)
 ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウ(バリトン)
 テオ・アダム(バリトン)
 クルト・モル(バス)
 キート・エンゲン(バス)
 ミュンヘン・バッハ管弦楽団、他
 カール・リヒター(指揮)



リヒターはバッハのライフワークだった教会カンタータは、芸風の変遷や人生のさまざまなできごとが投影されていることでも知られています。
長年かけて教会カンタータのレコーディングに取り組み、結果、75曲の録音をアルヒーフに残したカール・リヒターにとっても、それらは自身の芸風の変遷なども反映したものとなっており、モダン楽器小編成によるかっちりしたサウンドにのった独特の求心力あるサウンドを基調としながらも、峻厳で快速、パワフルな第4番から、遅めのテンポでじっくり仕上げた第140番まで、時期による傾向の違いも反映した興味深い内容となっています。

以前筆者はモダン楽器小編成に疑問を抱き徐々に古楽器演奏のソース中心に聴くようになってしまったが、最近カール・リヒター、フリッツ・ヴェルナー等の演奏を聴いている、確かに古楽器も良いが指揮者によってはモダン楽器演奏も良いと思うように変化していることは確かにである。



カール・リヒター(Karl Richter, 1926年10月15日 - 1981年2月15日)は、ドイツの指揮者、オルガン・チェンバロ奏者。

ヴァイマル共和政下のザクセン自由国(現ザクセン州)プラウエンに牧師の子として出生。1937年、11歳のときドレスデン聖十字架教会付属学校に入り、同聖歌隊のメンバーになった。ここで最初の音楽教育を受け、ヨハン・ゼバスティアン・バッハやハインリヒ・シュッツの合唱曲に親しんだ。
1946年、ドレスデンからライプツィヒに移り、ライプツィヒ音楽院に入学。聖トーマス教会のカントルであったカール・シュトラウベとギュンター・ラミンの下で学んだ。1949年に教会音楽の国家試験に合格して聖トーマス教会のオルガニストに就任した。
1950年にライプツィヒ・バッハ・コンクールのオルガン部門で、アマデウス・ウェーバージンケとともに首席を獲得した。1951年、聖マルコ教会(ミュンヘン)のオルガニストに就任し、これに伴いミュンヘンに移住。バッハ・コンクールの成績が契機となってミュンヘン国立音楽大学のオルガンとルター派教会音楽の講師に迎えられた。リヒターは当初東ドイツで活動し、伝統の後継者と目されていたが、社会主義統一党の支配に対して自由な活動の場を求め、次第に西ドイツのミュンヘンで活動するようになった。
1951年から1953年の間、戦後設立されたハインリヒ・シュッツ合唱団の指揮を任され、主にバッハ作曲のカンタータを演奏する目的で訓練、これをミュンヘン・バッハ合唱団と改称した。1953年にはソリストを募集し、ミュンヘン・バッハ管弦楽団を設立。
1954年、シュッツの Musikalische Exequien「音楽による葬送」を録音しレコード・デビューを果たした。同年10月、スイスのジュネーヴにあるヴィクトリア・ホールにて、イギリスのデッカ=ロンドンレーベルのために、バッハとフランツ・リストのオルガン作品を録音。これがリヒター最初のステレオ録音となる。
1956年にラミンが死去した後、トーマス教会からのカントル就任要請を断り、完全に西ドイツに活動の本拠を移した。ミュンヘン国立音楽大学のオルガン科教授に就任し、ミュンヘン・バッハ管弦楽団および同合唱団を率いてアメリカへの演奏旅行を行った。



1958年、ドイツ・グラモフォンの古楽専門レーベルであるアルヒーフでバッハの「マタイ受難曲」を録音。これは今日まで最もよく知られる彼の代表的作品となった。さらに同レーベルへのカンタータ録音を開始。ドイツ・グラモフォンがアルヒーフレーベルによる音楽史を構想した当初、バッハのカンタータはフリッツ・レーマンらによって担当されていたが、レーマンが1956年に演奏中に急死したため、数人の指揮者による分担を経て、結果的にリヒターがその後任となった。自らライフワークとしていたカンタータ録音は、20年以上をかけて約70曲を残しているそうである。

1926年10月15日、ドイツとチェコとの国境近くのザクセンのブラウエンで生まれた。1936年にドレスデンのギムナジウムに入り、その学校の十字架聖歌隊のメンバーとなり、早くも宗教音楽に親しむようになる。1946年にライプツィヒ音楽学校に入学し、カール・シュトラウベ、マウエルスベルガー等に師事し、バッハへの造詣を深めた。1949年にはトーマス教会のオルガン奏者に就任した。1951年にミュンヘンに移り、理想的なバッハ演奏の実現のためにミュンヘン・バッハ合唱団を設立し、自ら指揮を務めた。1955年には当時のミュンヘンの主要オーケストラの腕利きを集め、ミュンヘン・バッハ管弦楽団を設立、演奏会やレコーディングでバッハを中心とした作品を披露した。そのかたわら、オルガンやチェンバロの演奏家としても活躍、またミュンヘン音楽学校の教授も務め、多忙を極めた。そのためか、1981年2月15日、心臓発作のためミュンヘンで急死した。



オーレル・ニコレによる追悼スピーチの抜粋(1981年2月20日・ミュンヘン、聖マルコ教会)

「生前のカール・リヒターは絶えず働き通しでした。かのマルティン・ルターは、1546年2月16日にアイスレーベンで最後の文章を書き上げましたが、それが発見されたのは、彼の死〔同年2月18日〕の2日後のことでした。10日ほど前、リヒターは彼がいつも持ち歩いている紙片を私に見せてくれました。それは、ルターが書いたラテン語の文章で、ドイツ語に訳すとこんな具合になります。『ヴェルギリウスの牧歌を理解しようと思うなら、5年間は羊飼いをしなくてはならない。農作をうたったヴェルギリウスの詩を理解しようと思うなら、やはり5年間は農夫を体験しなくてはならない。キケロの書簡を完全に理解しようとするなら、20年間は国の政治に携わらなくてはならない。聖書を十分に理解しようとするなら、100年間は、預言者、バプテスマのヨハネ、キリスト、そして使徒たちとともに、教会を指導していかなくてはならない。それでもあなたは、自分を神の代理だなどと思ってはならない。そうではなく、額(ぬか)づいて祈るべきだ。私たちは、言ってみれば物乞いなのだから。』カール・リヒターは、このルターの文章についてこう言いました。『生きている限り、私は音楽を学び、音楽を自分に叩き込まなくてはならない。ただ単に暗譜するとか、芸術的に演奏できるようになればいいというのではなく、文字通り完全に。』カール・リヒターは、そんな生き方をした人でした。これほどの精神をもった人がかつて存在し、これからも良き模範であり続けるのは、私たちにとってこの上ない励みになります」と語っていたようです。



演奏を聴けば分かるが全単位ゆったりとした、いかにも大河を流れる如くリズムJ.S.バッハ独自のポリフォニー(polyphony)は、複数の独立した声部からなる音楽のこと。ただ一つの声部しかないモノフォニーの対義語として、多声音楽を意味する。複数の声部からなり、それぞれの声部が、旋律線の横の流れを主張しながら、対等の立場でからみあっていく様式の音楽。複音楽。多声音楽。が楽しめる演奏です。

確かに些細な変化ではあるがカンターターを味わうには今回の階層は実に細やかなな歌声の微妙な移り変わりの楽しさを堪能出来るようになった事と余分な音は抑えられ良い感じになった、勿論名器をお持ちの趣味人は、日々このような場景に、満悦されておられることであろうが・・・弱音器をかけたような、忍び音(しのびね)の音楽は、最も素朴な人々と、最も洗練されたる人々を、同時に魅了させずにはおかない。如何にもデリケートな表現を味わい尽くすことのTANNOYユニットとGOODMANS ARU付きのとAXIOM 80の箱とのコンビの音質と改めてこの音は実に味わい深い音を奏でる様である。

TANNOY IIILZをお使いの諸氏はアメリカタンノイの様な、是非一度大きな箱に入れての試聴は満足する音に変化するのでお試しいただきたい。アメリカタンノイにつきましては以下のようなコメントが表記されていました。「天才が些細な不正にも苦しむ純潔な精神、微々たる瑕瑾(かきん)をも見逃し得ぬ精妙な感性、完璧のみが至上の逸楽をもたらすことを、啓示してくれる。高貴にして神聖なる魂は、虚偽と罪業(ざいごう)と醜悪の世界に窒息する様を・・、偉大なる芸術家が幸福であるためには、俗衆の喝采を必要としないことを、”インペリアル”は教え、語り、諭すであろう。バッハからブルックナーまで、ガーシュインからジョン・ケージまで、ドビュッシーから武満徹まで、声楽からオペラまで、ニューオーリンズからフリージャズまで、総てを受け入れてしまう幻のスピーカー。その秘密、解析(かぎ)はそれぞれに2個(15インチレッドorシルバー)が内包されこだわりの構造がなせる技なのであろう。」

兎に角カンタータが聴きやすく感じるこの頃である、この箱でやっとTANNOY10吋の(IIILZ Monitor Gold)ユニットも完成度の近い音質になったようである。ブラボー!

少し古いが今も新鮮に聴こえるフリッツ・ヴェルナー指揮のバッハのカンタータを考察する。

2023年03月24日 | J.S.バッハ制作音楽

真空管オーディオを愛して止まない皆様へ向けて、令和に入ってから4年分の真空管業界動向を総特集!とのコメントが気になり購入した「令和の真空管オーディオ」の雑誌を購入したが、全く中身は薄く今後入手出来る真空管についてが紹介されていた、この程度記事の薄いの内容はマニアな方なら誰でもご存知の当たり前の雑誌に呆れる思いであった。最近はオーディオ雑誌に益々興味は薄れていく一方である。

いちばん困ることは日本のマスゴミ(TV・朝日/毎日新聞・大手代理店)は殆どまともな情報は流さず、全く嘘情報を流している事に尽きる、このような情報は子供達にも大いに悪い影響を与えるようである。
最近の現在の小学生に取り柄はと聞くとお金持ちになりたいとか、偉い人になりたいと言うグローバル化が激しいのであろう、昔は日本は明治時代から教育勅語として「素直で優しくて勇気があることが取り柄だと教えている教育勅語」があった事を忘れた国民になってしまった様である。



「教育勅語」意味について、
国民の皆さん、私たちの祖先は、国を建て初めた時から、道義道徳を大切にする、という大きな理想を掲げてきました。そして全国民が、国家と家庭のために心を合わせて力を尽くし、今日に至るまで美事な成果をあげてくることができたのは、わが日本のすぐれた国柄のおかげであり、またわが国の教育の基づくところも、ここにあるのだと思います。
国民の皆さん、あなたを生み育ててくださった両親に、「お父さんお母さん、ありがとう」と、感謝しましょう。兄弟のいる人は、「一緒にしっかりやろうよ」と、仲良く励ましあいましょう。縁あって結ばれた夫婦は、「二人で助けあっていこう」と、いつまでも協力しあいましょう。学校などで交わりをもつ友達とは、「お互い、わかってるよね」と、信じあえるようになりましょう。また、もし間違ったことを言ったり行った時は、すぐ「ごめんなさい、よく考えてみます」と自ら反省して、謙虚にやりなおしましょう。どんなことでも自分ひとりではできないのですから、いつも思いやりの心をもって「みんなにやさしくします」と、博愛の輪を広げましょう。誰でも自分の能力と人格を高めるために学業や鍛錬をするのですから、「進んで勉強し努力します」という意気込みで、知徳を磨きましょう。さらに、一人前の実力を養ったら、それを活かせる職業に就き、「喜んでお手伝いします」という気持ちで公=世のため人のため働きましょう。ふだんは国家の秩序を保つために必要な憲法や法律を尊重し、「約束は必ず守ります」と心に誓って、ルールに従いましょう。もし国家の平和と国民の安全が危機に陥るような非常事態に直面したら、愛する祖国や同胞を守るために、それぞれの立場で「勇気を出してがんばります」と覚悟を決め、力を尽くしましょう。
いま述べたようなことは、善良な日本国民として不可欠の心得であると共に、その実践に努めるならば、皆さんの祖先たちが昔から守り伝えてきた日本的な美徳を継承することにもなりましょう。

このような日本人の歩むべき道は、わが皇室の祖先たちが守り伝えてきた教訓とも同じなのです。かような皇室にとっても国民にとっても「いいもの」は、日本の伝統ですから、いつまでも「大事にしていきます」と心がけて、守り通しましょう。この伝統的な人の道は、昔も今も変わることのない、また海外でも十分通用する普遍的な真理にほかなりません。
そこで、私自身も、国民の皆さんと一緒に、これらの教えを一生大事に守って高い徳性を保ち続けるため、ここで皆さんに「まず、自分でやってみます」と明言することにより、その実践に努めて手本を示したいと思います。
明治天皇は明治元年、国是五箇條を神々にお誓いになり、新生日本の大方針を明らかにされました。政府はこの方針にそって、近代国家の建設には人材の育成が急務であるとして、明治5年学制を公布し、全国的に学校を設置して義務教育の制度を確立し、教育の普及に努めました。しかし当時は文明開化の風潮により洋学が重んじられ、我が国伝統の倫理道徳に関する教育が軽視される傾向にありました。
戦後に教育勅語が排除された結果、我が国の倫理道徳観は著しく低下し、極端な個人主義が横溢(おういつ)し、教育現場はもとより、地域社会、家庭においても深刻な問題が多発しています。今こそ、私たちは教育勅語の精神を再認識し、道義の国日本再生のために、精進努力しなければなりません。

最近日本の教科書問題が気になり、調べましたが、大変な問題が見つかった、敗戦後70年以上も過ぎわが国も敗戦国意識は捨ていち早く独立国家に改める時期でもある現在近隣諸国条項があり、まともな歴史認識しか出来ないが戦後発掘された磨製石器発掘調査で証明され関東地域でも1万箇所の石器の発掘事実のある国は実に珍しい国なのであろう。一般的に日本の歴史は縄文時代から始まると答える方が一般的に多く5万年以上前の旧石器時代から続く国と認識されている方が少ない事も事実である。日本のルーツを再度見直すべきである。

大変残念な事にこのような教育勅語を教えられた人間も人生を踏み外せば、戦前影のフィクサーと言われた旧ソ連(現ロシア)に日本を売った男、罪深い伊藤忠「瀬島龍三」のような人物が戦後も中曽根に取り憑き日本を操っていたと言われる、影の部分を知る男が彼の他にもいた事です、しかしいずれにせよ戦後伊藤忠は共産国との取引を未だ続けて稼いでいる様である。



また近隣諸国条項とは、日本国の教科用図書検定基準に定められている「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること。」という規定のこと。 この規定は、教科用図書検定規則に基づいて定められている義務教育諸学校教科用図書検定基準と高等学校教科用図書検定基準にある。
調べると下記のような報告が掲げられていた。
この文章は間違えると大変なのでネットからコピーさせて頂きました。

近隣諸国との領土に関わる係争を抱える我が国の現状及び将来を展望するとき、我が国が将来にわたって主権国家としての国際的な発言力・発信力を正しい形で保持することは極めて重要である。また、国の将来を担う子供たちにどのような教育を施すかは、原則として他国の介入を許さない主権事項だということも明白な国際ルールである。上記の観点から見るとき、教科書の検定基準の一つとして定められた「近隣のアジア諸国との間の近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮がされていること」という規定、いわゆる「近隣諸国条項」は、根本的な欠陥を有する。現に、外国からの内政干渉・主権侵害を誘発しており、教科書検定において中華人民共和国や大韓民国等の主張に反する記述は修正を迫られ、他国の歴史観に迎合することを強いられている。近隣諸国との友好を増進させるための外交的配慮であるとするならば、外交の相互主義に基づき、近隣諸国に対しても「近現代の歴史的事象の扱いに国際理解と国際協調の見地から必要な配慮」を求めるべきであって、現在、中華人民共和国や大韓民国等で行われている反日教育に対しても厳重なる外交措置を採るべきである。現在、尖閣諸島及び竹島についてその領有権をめぐって様々な報道がされている。「近隣諸国条項」に関わる検定基準では「社会科(地図)を除く」としているが、この島々が日本に帰属する理由を説明しようとすれば、地図の学習だけでは不十分であり、近現代の歴史的事象について言及せざるを得ないことは言うまでもない。自国の歴史を正しく学び、理解しておくことは、世界を舞台として活躍する国際人として必須の教養であると言って過言ではない。子供たちが正しく学び、理解するには、教科書が史実に即して記述されたものであることが必須の条件であり、何が史実であるかは、何事にも配慮することなく、科学的・実証的な論理や史料によって判断すべきものである。その判断をゆがめるおそれのある近隣諸国への配慮を撤廃することは、我が国の歴史教育の正常化のための喫緊の課題である。以前にも日本の石器時代問題をここでアップしたが調べた資料の文章に疑問点があり、公文書としては近隣諸国条項の項目が多いに怪しい文章になるようで正しく日本は敗戦国であり極東国際軍事裁判とは、1946年5月3日から1948年11月12日にかけて行われた、ポツダム宣言第10項を法的根拠とし、連合国軍占領下の日本にて連合国が戦争犯罪人として指定した日本の指導者などを裁いた一審制の軍事裁判のことであるは間違った裁判と思った。今だにこの問題は今も大きな影日本に残している様である。お隣韓国問題は現在「尹 錫悦」ではあるが、隣国のため普通の挨拶はするがそれ以上になってはいけない、勿論支那にも同じことが言える、経団連関係は支那との付き合いがと言うが、支那と言うお国柄を良く弁えてのお就あいしなければならない、最近益々米国の支那批判は高まっているが売電次第ですが今後どのように変わるかは全く不明と判断する事が正しいのであろう。
いま日本が望む事は一刻も早く敗戦国のレッテルを取り去らなければならない。今の日本の教育は実に情けないと思うことが一番大切なことで、情けないと思わなくなった時が最悪の事態となる様に思う。



話は変わるが、1996年発売されたSPENDOR SP3/1Pであるが木目の色が冴えるようにフィーデンワックスを塗り木目の美観を整える、筆者が扱って未だ本来の音質を聴かせてもらえない、意外とセッティングが難しく手間取っていたが、置き方を替え音質向上になり、本格的に配置してみた、しっとりと緻密な音を紡ぎだすSPENDOR SP3/1Pの置き方を替え色々試聴するが厚み40mmの石板の上にAIRBOW ウェルフロートボードA4に更にソルボセインのインシュレーターをカットした物の上にSP3/1Pに載せた状態で、更にツイターを試聴する高さに調整しての試みたがいちばん良い効果を得た。LS3/5aよりふたまわりほど大きなスピーカーです。密閉型ではなくバスレフ型で、ポートは背面に設置されていますので後方の広さはある程度は必要であると思うが幾らか優しい音で低域も心地よい音が鳴る様です。

SP3/1PのP表記はおそらくプロ用であることを示しています。つまりスタジオモニター用途のスピーカーということでしょうか。音は繊細で緻密な感じで、しっとりと落ち着いた趣があります。小編成のクラシックや大人の雰囲気を持った女性ヴォーカルが最適。とても美しい音を聴かせてくれるスピーカーです。実際の音は中域が強いがあまり張り出さない、かと言ってアンプが弱いと暴れて箱鳴りドンシャリにもなりますアンプは勿論真空管でもおそらく良いと思います。
最近ジャズ系統を聴いていたがやはりバッハの音楽で視聴したいと思います。



管弦楽団ハイルブロン=ヴュルテンベルク室内管弦楽団
指揮:フリッツ・ヴェルナー(Fritz Werner、1898年12月15日 - 1977年12月22日)は、ドイツの指揮者・合唱指揮者・作曲家・オルガニスト。教会音楽の復活に尽力した。
ベルリン出身。ベルリン教会音楽教育アカデミー、ベルリン大学、プロイセン芸術アカデミーなどで学び、ゲオルク・シューマンらに作曲を師事した。1935年、バーベルスベルクのベツレヘム教会のオルガニスト兼音楽教師となった。1936年にポツダムのニコライ教会のオルガニスト・カントルとなり、1938年には教会音楽監督に昇進した。1939年にはラジオ・パリの音楽ディレクターとなった。第二次世界大戦後の1946年にハイルブロンのキリアン教会のオルガニスト・カントルとなり、1964年まで務めた。

ハインリヒ・シュッツ合唱団
1947年、ハイルブロンでハインリヒ・シュッツ合唱団を創設し、1973年まで指導にあたった。最初はハイルブロン周辺で知られた作曲家ハインリヒ・シュッツの音楽を集中して取り上げたが、後にはヨハン・ゼバスティアン・バッハの多くの受難曲・オラトリオ・モテット・カンタータの録音を残した。多くの声楽家や、トランペットのモーリス・アンドレ、ホルンのヘルマン・バウマン、オルガンのマリー=クレール・アランなどの独奏者を招き、ハイルブロン・ヴュルテンベルク室内管弦楽団や南西ドイツ放送交響楽団などと共演している。ヴェルナーのバッハの録音は同年代のカール・リヒターのそれと比べられるものであった。



『目を覚ませと呼ぶ声が聞こえ』は、1731年にバッハによって作曲されたカンタータ。全7曲から成る。曲名は『目覚めよと呼ぶ声が聞こえ』、『目覚めよと呼ぶ声あり』とも表記される。英語では『Sleepers, Wake』。

「目覚めよとわれらに呼ばわる物見らの声」BWV140——待降節第3日曜
第3曲のコラールがよく知られていて、バッハのカンタータの中でもとくに人気が高いのではないでしょうか。
この曲が初演された1731年11月25日。ライプツィヒの教会における礼拝で朗読されたのは、福音書マタイ25の1-13「花婿を迎える10人の乙女」。
マタイ伝の、有名な「10人の乙女のたとえ」。 花婿の到着を待つ、10人の花嫁のたとえ話です。 花婿の到着が遅れて、花嫁たちは皆、寝入ってしまう。 深夜、花婿の到着を告げる物見の声に、花嫁たちは起こされますが、灯火の油をちゃんと用意していた半分の花嫁だけが、婚礼の宴に参加することができた、というもの。
以前購入うした3セットのシリーズから試聴する。長年にわたり、CD発売が熱望されていたフリッツ・ヴェルナーのバッハ!一時代を画した名演奏の数々の体系的なリマスタリング・シリーズである。

フリッツ・ヴェルナーは1898年生まれ、1977年に没したドイツの合唱指揮者。戦前から教会音楽家としての活動を始め、1947年には、旧西ドイツのハイルブロンにて、ハインリヒ・シュッツ合唱団を創設し、後にオーケストラも組織しています。1960年代にエラート・レーベルに、バッハとシュッツの録音を数多く行い、その演奏は、カール・リヒターと並び、日本でも多くのファンを持っていました。リヒターの峻烈な演奏とは異なり、ヴェルナーのバッハは、常に温かみを持つ穏当な解釈を特徴とし、その「優しさと慈愛に満ちた」演奏は、古楽器演奏による優れた録音が数多く存在する現在でも、独自の価値を保ち続けています。



ヴェルナーのバッハ録音は、全200曲の約3分の1にあたる約58曲の教会カンタータ録音(2曲は新旧録音あり)、受難曲やオラトリオ、ミサなどの大規模宗教曲録音があります。これらの録音はステレオ最初期の1959年頃から1974年頃になされました。そのすべてが、全3巻CD全30枚の最新リマスターシリーズとして、オリジナルテープより復刻されます。これらの録音のほとんどは、エラート・レーベルがBMGから発売されていた時代を含めて、CD国内発売されたことがなく、そのCD化が待望されていました。オリジナルテープからの最新技術による今回のリマスタリング・シリーズは、ファンにとって大きな朗報となります。

私がバッハのカンタータをリヒター、トーマス等であれこれ聴いていた頃に、やはりカンタータ作品に詳しい先輩のレコード・ライブラリーにはF.ヴェルナー指揮によるLP盤がかなりあり当時はちょっと地味な確かに、F.ヴェルナー指揮を聴くわかるが、例えばリヒターの鋭烈な演奏とは異なり、ヴェルナーのバッハは温かで穏当な解釈を特徴として「優しさと慈愛に満ちた」演奏の印象を持ったものでした。
勿論その後もトンコープマン、Gustav Leonhardtも聴くがこの様な穏さは得られない、またスピーカーもLS3/5Aが優れたスピーカーには間違いないが、J.S.バッハのカンタータを聴く限り適度な温かみと穏やかさを持つzaika5300の三極管とある程度調整されたSPENDOR SP3/1Pの音は何時迄も聴きたくなる飽きのこない音だった様です。



基本的には暖かい包み込み様なフィーリングが聴き処だと推量されます。ありますがバッハ声楽作品演奏史上忘れてはならない演奏のように思います、

カンタータ Vol.2: Werner / Heilbronn Pforzheim.co, Heinrich Schutz.cho
フリッツ・ヴェルナーの芸術-2バッハ:カンタータ選集-2
・ハインリヒ・シュッツ合唱団プフォルツハイム室内
管弦楽団ハイルブロン=ヴュルテンベルク室内管弦楽団
(CD全10枚・全30曲)
収録予定曲目
BWV 8/BWV 10/BWV 19/BWV 21/BWV 26/BWV 50/BWV 51/BWV 53/BWV 56/BWV 70/BWV 78/BWV 79/BWV 80/BWV 85 *第1回録音/BWV 90/BWV 98/BWV 102/BWV 105/BWV 106/BWV 119/BWV 130/BWV 131/BWV 137/BWV 140 *第2回録音/BWV 140 *第1回録音/BWV 147/BWV 149/BWV 150/BWV 180/BWV 200
指揮:フリッツ・ヴェルナー
ディスク7
カンタータ第140番『目覚めよと、われらに呼ばわる物見らの声』(Wachet auf, ruft uns die Stimme)
この曲が初演された1731年11月25日。ライプツィヒの教会における礼拝で朗読されたのは、福音書マタイ25の1-13「花婿を迎える10人の乙女」。
「そこで、天の国は次のようにたとえられる。十人のおとめがそれぞれともし火を持って、花婿を迎えに出て行く。 そのうちの五人は愚かで、五人は賢かった。 
愚かなおとめたちは、ともし火は持っていたが、油の用意をしていなかった。 賢いおとめたちは、それぞれのともし火と一緒に、壺に油を入れて持っていた。
ところが、花婿の来るのが遅れたので、皆眠気がさして眠り込んでしまった。 真夜中に『花婿だ。迎えに出なさい』と叫ぶ声がした。
そこで、おとめたちは皆起きて、それぞれのともし火を整えた。 愚かなおとめたちは、賢いおとめたちに言った。『油を分けてください。わたしたちのともし火は消えそうです。』 
賢いおとめたちは答えた。『分けてあげるほどはありません。それより、店に行って、自分の分を買って来なさい。』 
愚かなおとめたちが買いに行っている間に、花婿が到着して、用意のできている五人は、花婿と一緒に婚宴の席に入り、戸が閉められた。 
その後で、ほかのおとめたちも来て、『御主人様、御主人様、開けてください』と言った。 
しかし主人は、『はっきり言っておく。わたしはお前たちを知らない』と答えた。 だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」
新共同訳聖書より「マタイによる福音書」より

BWV140
 12.Wachet Auf. ラフト・アンズ・ダイ・スティミー
 13.Wachet Auf. ラフト・アンズ・ダイ・スティミー
 14.Wachet Auf. ラフト・アンズ・ダイ・スティミー
 15.Wachet Auf. ラフト・アンズ・ダイ・スティミー
 16.Wachet Auf. ラフト・アンズ・ダイ・スティミー
 17.Wachet Auf. ラフト・アンズ・ダイ・スティミー
 18.Wachet Auf. ラフト・アンズ・ダイ・スティミー

J.S.バッハ カンタータ 第147番「心と口と行いと生活で」BWV147 名盤 ~主よ人の望みの喜びよ~
バッハ(1685年~1750年)が作曲した教会カンタータ147番です。合唱とアリアの全10曲で構成されています。筆者が特に好きなパートでゆったりと歌い上げる落ち着いた演奏の喜びを感じます、中でも第6曲と第10曲に合唱によって歌われる「主よ、人の望みよ喜びよ」は特に有名で、結婚式の入場時、単独のコンサートや他楽器の編曲ヴァージョンでも演奏されています。第5曲で歌われるソプラノのアリア「イエスよ、道をつくり給え」も透明感のある美しいアリアです。

『主よ、人の望みの喜びよ』は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハが1723年に作曲した教会カンタータ『心と口と行いと生活で』の終曲のコラール「イエスは変わらざるわが喜び」の、英語によるタイトル"Jesu, Joy of Man's Desiring"に基づくタイトルである。

BWV147
 01.Herz Und Mund Und Tat Und Leben. 
 02.Herz Und Mund Und Tat Und Leben. 
 03.Herz Und Mund Und Tat Und Leben.
 04.Herz Und Mund Und Tat Und Leben. 
 05.Herz Und Mund Und Tat Und Leben. 
 06.Herz Und Mund Und Tat Und Leben. 
 07.Herz Und Mund Und Tat Und Leben.
 08.Herz Und Mund Und Tat Und Leben. 
 09.Herz Und Mund Und Tat Und Leben. 
 10.Herz Und Mund Und Tat Und Leben.

確かに古い演奏ではあるが、最近のRudolf Lutz、ガーディナーやアルノン クールなどのピリオド楽器による演奏も良いがテンポが中途 半端に速く、変なアクセントがついいたり、イメージに難のある場合もある、特に06.Herz Und Mund Und Tat Und Leben.のパートはあえて9/8拍子にしている事も注目に値する。ゆったりした優しい音の中で過ごす時間がゆっくり味わえるシリーズでもある。このシリーズは1集~3集までは揃えたが全集がないことは誠に残念である。
全集を揃えたいと思うは筆者だけなのであろうか・・・ブラボー!


100回聴いても飽きないEllaのMack The KnifeをSPENDOR SP3/1Pで聴く、1960年代のライブです。

2023年03月16日 | JAZZ・ボサノヴァ


このSPENDORエンクロージャーが筆者の部屋に来て10ヶ月過ぎようとしているが皆様が称賛するような音質は得られず聴くたびに苛立ちを覚える事が続く、何故か改良策はないものかとイメージ通りな音が得られず筆者の好きなジャズ系統及びバッハ系統の音楽を試聴しながら考察する・・・。

SP3/1Pスピーカーエッジの老朽化からの交換からエージングも終わり、偶にSPENDORを聴くがどうもAIRBOW ウェルフロートボードA4の上に乗せてもLS3/5Aの様な効果が薄い様である、何故かエンクロージャーから音離れなくモコモコし、又ヴォリュームを上げると大変煩く感じる、何方と言えば音が纏わりつくように鳴るのだ、密閉箱とバスレスとの違いがあるのか定かではないが良い方法が見つからず最近は益々途方にくてる始末である。

兎に角現在ポン置きは状態での試聴は最悪の状態で音が篭ってしまい途方に暮れた事態が続くが解決方法が思いつかず途方に暮れる始末である。



オーディオテクニカのハイブリッドインシュレーターの以前に購入した在庫があり試すが余り具合は良くない、次に以前購入したプロケーブルのハイテク衝撃吸収素材写真左側、ブルー色のソルボセインのインシュレーターを小さくカットしてSP3/1Pの下に敷き視聴する、するとこれが意外と効果的であり低音のこもった音の抜けがスッキリして、音がエンクロージャーから離れフワッとヴォーガルがセンターに浮かび上がる。確かに低域がエンクロージャーにまとわりつく様な音は今まで散々悩み諦め気味だったSPENDORでしたがやっと思い描く正常な音に鳴り出しました。
ピアノ曲も聴くが、大変粒立ちも良く若干甘みな感じに聴ける勿論クラシックも聴ける感じがしたSPENDORらしい音に満足する。エンクロージャーによりインシュレーターも様々であり違いに驚いた次第である。

確かにSP3/1Pは低域用:16cmコーン型使いLS3/5Aは低域用:11cmコーン型の違いがあり低域の出す音に違いがあるのかも知れない。双方の音質を比べとわかるが16cmコーン型の音は確かに少し温かみを感じる低音がたっぷり響く様に思う。SPENDOR SP3/1Pがまともに鳴った時この音を聴きSPENDORスピーカーを理解出来た様に思う。
一番ベストな設置方法は聴く位置に据え置き、その上に30mmほどの厚みの石を置きその上にAIRBOW ウェルフロートボードA4を載せソルボセインのインシュレーターを小さくカットしてSP3/1Pの下に敷き視聴するが一番具合は良かった、AIRBOW ウェルフロートボードの下にある程度のアルミの石板が味噌であろう、見事にヴォーガルがセンターに浮かび上がり見事でもある。

ブリティッシュビーズワックス フローリングを塗り磨くと程よい艶が得られ誠に良い自然なツヤの仕上がりとなった。SPENDOR SP3/1Pの好きなところはMDF合板の上につき板を張って作られているエンクロージャー(キャビネット)です。なんと、つき板(自然の木)は左右のエンクロージャーのバッフル面の木目が合わせてあり、極めて美しい左右対称の木目になっています木目調の塩ビシートを貼ったものならば、いくらでも木目?は合わせられますが、天然の木材の木目をあわせるというのはコストをかけ、こだわりをもって製作しているメーカーでなければお見受け出来ませんデザインも大変シンプルで、長年使っても飽きがこないよさがあります。



勿論LS3/5Aの音もフラットで良いがSPENDOR SP3/1Pの奏でる音は暖かみを感じ又高域も高域も実に日おんが魅力的にも思える。1996年発売クラシックシリーズの小型ブックシェルフ型スピーカーシステム。低域には16cmコーン型ウーファーを搭載しています。振動板にはポリプロピレンコーンを採用しており、ボイスコイルには2.5cm経のコイルを採用しています。高域には1.9cmソフトドーム型ツィーターを搭載しています。このユニットはスキャンスピークと共同開発したユニットです。エンクロージャーにはバスレフ方式を採用しています。入力端子にはバナナプラグに対応したスピーカーターミナルを採用しており、バイワイヤ接続に対応しています。音質はSPENDOR S3/5よりふたまわりほど大きなスピーカーです。

密閉型ではなくバスレフ型で、ポートは背面に設置されています。SP3/1PのPの表記はおそらくプロ用であることを示しています。つまりスタジオモニター用途のスピーカーということでしょうか。音は繊細で緻密な感じで、しっとりと落ち着いた趣があります。小編成のクラシックや大人の雰囲気を持った女性ヴォーカルが最適。人の温もりも感じとても美しい音を聴かせてくれるスピーカーです。上手くセッティングして初めてこのスピーカーで好きなジャズヴォーガル聴いた、美しい演奏が、実に細やかに表現されていて聴き惚れてしまいました。

色々手を替え品を替えやっとSPENDOR SP3/1Pの音が聴けた瞬間でもあった。今までヴォリュームを上げると煩く感じた音が今はヴォリュームを上げても音の抜けが良くなったせいか余り感じなくなった。
但し設置方法は手持ちのAIRBOW ウェルフロートボードA4の上に乗せその上にソルボセインのインシュレーターを小さくカットした物の上にSP3/1Pをセットしソフトドーム型ツィーターを視聴する耳の位置にセットし視聴する側に向けて試聴すれば真ん中におねぞみのヴォーガルが浮かび上がるのでした。



筆者の好きなジャズシンガー、何度聴いても飽きのこないエラ姉さんこと、エラ・フィッツジェラルド(Ella Fitzgerald 1917年~ 1996年)の名盤アルバムのライブはゴキゲンなサウンドを繰り広げます。
とはいえ、完璧主義者だったと言われるだけあって、個人的にエラ・フィッツジェラルドのアルバムに、退屈なアルバムはないように思います。
エラの名盤と言えば、この「マック・ザ・ナイフ-エラ・イン・ベルリン(Mack The Knife – Ella In Berlin)」を意の一番にあげる人が多いと思います。

当時から名演中の名演、エラの姐さん。全盛期の実に最高なチャーミングな歌声だと思う。当時の西ベルリンで行われたコンサートのライブ盤です。後にエラの十八番となる「マック・ザ・ナイフ(Mack The Knife)」のノリの良い、このときが初演だそうです。
“マック・ザ・ナイフ”はいろいろなアーティストによる演奏や歌唱がある超有名曲ですが、エラのこのヴァージョンは何度も聴きたくなりますし、一度はこんな風に歌えたらなあ、と歌手ではない人でもそんな妄想をしてしまうぐらいの名唱です。聴けば聴くほど味が出る事は請け合います(笑)。
この曲は、このライヴの前年にボビー・ダーリンが歌ってヒットしており、それより前の1955年にはルイ・アームストロングが同曲をリリースしており、それを受けて、歌詞の中に両者の名前を出しつつ、ルイ・アームストロングの歌い方を真似して歌うという、即興芸につながっています。
またこういう演奏はライヴ空間の中で瞬発的に生まれるものであり、スタジオ録音では決してこうはならないでしょう。
改良したSPENDOR SP3/1Pのエンクロージャーからはマック・ザ・ナイフを踊りながら熱唱するエラの姐さんのステージが目の前で浮かび上がる様である。

このエラの演奏から24年後にリリースされたフランク・シナトラが歌う同曲も見事な創作歌詞をおりまぜた名演となっておりますのでご紹介しましょう。1984年のアルバム『L.A.イズ・マイ・レディ』に収録されており、このアルバムはクインシー・ジョーンズのバックアップで数々のミュージシャンが参加した豪華作で、シナトラにとっては最後のオリジナル・ソロ作品となったものです。ここでシナトラはエラの歌詞をなぞらえて、ボビー・ダーリンやルイ・アームストロングの名前を引用しますが、その後、クインシーを始め、ジョージ・ベンソン、ブレッカー・ブラザーズなど参加メンバーの名前をリスペクトを込めて歌詞に盛り込んで聴かせてゆく展開が素晴らしいです。

Mack The Knife – Ella In Berlin
 1.That Black Old Magic
 2.Our Love Is Here To Stay
 3.Gone With The Wind
 4.Misty
 5.The Lady Is a Tramp
 6.The Man I Love
 7.Love For Sale
 8.Just One of Those Things
 9.Summertime
 10.Too Darn Hot
 11.Lorelei
 12.Mack the Knife
 13.How High the Moon
〈パーソネル〉
 エラ・フィッツジェラルド(VO)
 ポール・スミス(P)
 ジム・ホール(G)
 ウィルフレッド・ミドルブルックス(B)
 ガス・ジョンソン(DS)
1960年2月13日、ベルリンにてライヴ録音

余談ではるが、同曲をモリタートとも言う、ドイツの劇作家ベルトルト・ブレヒトによる音楽劇「三文オペラ」の劇中歌、「メッキー・メッサーのモリタート(Die Moritat von Mackie Messer)」の通称。歌詞はブレヒト、曲はクルト・ワイルによる。アメリカでは「マック・ザ・ナイフ(匕首マック)」のタイトルで、ジャズのスタンダード曲として知られている。

エラ・フィッツジェラルドはあらゆるフォーマットに対応した万能型のシンガーなので、しっとりと歌うバラードも最高なら、スキャットをまじえたダイナミックな熱唱もこれまた素晴らしい。本作は後者のエラを存分に堪能できる猛烈なライヴ・レコーディング。録音は1960年ベルリン。ピアノのポール・スミス、ギターのジム・ホールを含むクァルテットをバックにエラは最初からフルスピードでガンガン飛ばし、マシンガンのようなスキャットを披露する。これには聴衆も度肝を抜かれたとみえて、会場の興奮は一気に限界点に達する。聴いているうちに、自分もその場にいるかのように錯覚、思わず拍手喝采してしまうから不思議だ。
筆者が薦める1曲は、少しヴォリュームを上げてしまう、エラが「マック・ザ・ナイフ」でサッチモの物真似を披露するが、実はこれが大受け。このライヴアルバム、少々羽目を外しすぎという声も一部にはあるけど、羽目を外したからこそ、これほどの白熱盤が生まれたわけだ。とにかく、これほどエキサイティングなライヴ盤というのはめずらしい。これを聴いて興奮しなかったら、たぶん、その人はよほどの不感症であろう。
おまけでサッチモのマック・ザ・ナイフです。

次に視聴は最近話題となっている、新鋭のジャズシンガーの新星サマラ・ジョイの魅力:グラミー新人賞を受賞したジャズ・ヴォーカルの新星です。



サマラ・ジョイ (Samara Joy) プロフィール資料によると
NYブロンクスで生まれ育ち、祖父母は有名ゴスペル・グルーブThe Savettesのメンバーで、父親もゴスペル・シンガーという音楽一家に育つ。NYフォーダム校でジャズを歌い始め、その類い稀な声で数々のコンペティションで受賞、州立大在籍時の2019年に「サラ・ヴォーン・インターナショナル・ジャズ・ヴォーカル・コンペティション」で優勝、音楽シーンに大きな衝撃を与えた。2021年にマット・ピアソンのプロデュースのもとデビュー・アルバム『Samara Joy』をリリース。パスカル・グラッソ(g)、アリ・ローランド(b)、そしてケニー・ワシントン(ds)というトリオ編成での作品は高い評価を得た。既にクリスチャン・マクブライド、ジョン・ファディス他の大御所とも共演を重ねつつ多くのライヴを披露して話題となっている。2022年、名門ヴァ―ヴと契約しメジャー・デビュー作『Linger Awhile』をリリース。また、TikTokでも100万以上のいいねを記録するなどSNS世代にも幅広く支持されている。

弱冠22歳にしてサラ・ヴォーンを思わせる圧倒的な表現力で「カスタードのようにリッチな歌声」(ニューヨーク・タイムズ)、「静謐で悠然な音楽」(NPR)と絶賛を集める、次世代のジャズ・ヴォーカル・クイーンの座が確実視されている女性ジャズ・ヴォーカリスト。
1960年代の匂いを感じるののは筆者で気なのであろうか?ヘットホンで聴くより断然スピーカーで聴く事をお勧めします。握力感が全く違って聞こえます。
ソースはCDからリッピングした物で聴いております。最新録音盤の音質のよさは迫力満点です、SP3/1Pで視聴も十分納得できました。



 サマラ・ジョイ『リンガー・アワイル』
 1. キャント・ゲット・アウト・オブ・ディス・ムード
 2. ゲス・フー・アイ・ソウ・トゥデイ
 3. ノスタルジア
 4. スィート・パンプキン
 5. ミスティ
 6. ソーシャル・コール
 7. アイム・コンフェッシン
 8. リンガー・アワイル
 9. ラウンド・ミッドナイト
 10. サムワン・トゥ・ウォッチ・オーヴァー・ミー
 11. アイム・グラッド・ゼア・イズ・ユー ※日本盤ボーナス・トラック

〈パーソネル〉
 サマラ・ジョイ(vo)
 パスカーレ・グラッソ(g)
 ベン・パターソン(p)
 デイヴィッド・ウォン(b)
 ケニー・ワシントン(ds)
 ケンドリック・マカリスタ―(ts)
 テレル・スタフォード(tp)
 ドノヴァン・オースティン(tb)

“ジャンルを超えた”2010年代のジャズロバート・グラスパーやサンダーキャットに代表されるようにどちらかというと、“ジャンルを融合した”もしくは“ジャンルを超えた”ジャズミュージシャンの表現が脚光を浴びることが多かったのが2010年代。ジャズ・ミュージシャンたちは自身を型にはめず、独自の表現を求めて、“ジャズ・ミュージシャンならではのまだ名前のついていない新しい音楽”を生み出していた。
歌に関してもR&Bシンガーやラッパーのようなキャラクターを持ち合わせたホセ・ジェイムスやレイラ・ハサウェイ、もしくはアンサンブルのパーツのひとつとしてほぼ楽器と同じ役割を演じることができるグレッチェン・パーラトやベッカ・スティーヴンスらの活躍が目立っていた。新しい音楽には新たな歌唱が求められていた。

兎に角最新の録音技術は大変素晴らしく音質も大変良い、又筆者好みのヴァーブに移籍したのであろうか、ジャズ好きのレーベルにはヴァーブは少し音質に癖もあるが大変昔から馴染む音質が好きである。このヴァーブの音質は楽器に独特の甘みのような音を感じさせる特徴は昔ながらの好みの音でもある。
愈々筆者のオーディオ機器の音質は非常に敏感に変化したいる感じがする、オールドタンノイの音とは思えないような、音にエネルギー感がある。凄みがあり、飛んできそうな音。音の分解性が高く、現代的なCDの音も表現する。一音一音の肉付けが良くお腹から出来くる歌が聴こえる。高域がちょっときつく感ずる所もあるが、他にクリヤーは音質は魅力的な面がある。

最近筆者の庭にも春の花が咲き出した。昼間は暖かく過ごしやすい。愛犬モジャ君の散髪にサロンに連れ出した。すっかりスッキリしました。



このようなコメントもあり引用しました。
突如シーンに出てきたサマラ・ジョイセシルとジャズメイアの奮闘からしばらくして、突如シーンに出てきたのがサマラ・ジョイだった。サマラはエラ・フィッツジェラルドやサラ・ヴォ―ン、カーメン・マクレエなどを思わせる極めてオールドスクールなスタイルを現代最高レベルのとんでもないテクニックでやってしまうジャズ・ヴォーカリスト。セシルやジャズメイアの流れにある存在なのは間違いないが、彼女たちとは異なる経緯で一気にスターになったのが特徴だ。それはいわゆる“ジャズ・ヴォーカリスト”を真摯に行い、それをそのまま発信したら、SNSでウケてしまった、というもの。超絶的な実力のミュージシャンがその実力をそのまま出したら、ジャズの枠を超えた人気者になってしまったという夢のような話が彼女のストーリーだ。



そんな保守と革新が入り混じるパスクァーレは基本的には自身トリオもしくはソロでしか演奏しないのだが、例外的に幾度となく共演をしているのがサマラ・ジョイなのだ。パスクァーレはライブや動画だけでなく、『Pasquale Plays Duke』『Be-Bop!』でも彼女を起用し、素晴らしい録音を残した。

そして、サマラはデビューからの2作『Samara Joy』『Linger Awhile』でパスクァーレを迎え、彼の演奏の力を借りることで傑作を完成させた。ふたりは盟友のような間柄だ。そんな彼ら2人の共演動画「Solitude」の再生数はなんと100万回を超えているそうである。ブラボー!

千葉の水郷佐倉の鰻を食べに・・・思うに日本は昔から海洋国であった、日本のルーツを考察する。

2023年03月11日 | 歴史(世界史/日本史)の考察


筆者の住む街の公園にも河津桜があり、河津桜とは静岡県賀茂郡河津町で毎年3月上旬に満開になるピンク色の桜です、意外と開花時期は早く、期間も長く楽しみが続きますが愈々散り始めた様である。

先日大阪に住む娘が遊びに自宅に立ち寄る、最近三月頃の体感気温で暖かく、皆でジュニアの厄年の御礼参りも兼ね、ドライブと美味しい物でも食べに行こうと出掛ける。以前行った笠森神社に同行した、帰りがけに少し大回りして水郷の街の利根川の美味しい鰻ランチを食べに寄り道をした。


笠森寺は、延暦3年(784年)最澄の開創で、坂東三十三霊場の第三十一番札所に数えられている。観音堂は後一条天皇の勅願で長元元年(1028年)に建立されたと伝えられていたが、昭和35年(1960年)の修理に伴う調査の結果、天正、文禄などの墨書銘が発見され、現在の建物の建立は伝統的な木造建築方法の桃山時代であることが判明したと言われている。

笠森寺の山門手前の崖の上に三基の句碑が並んで建立されている。中央の句碑が芭蕉句碑であり『五月雨に此笠森をさしもぐさ』左右にはそれぞれ各務支考、渡辺雲裏の『片枝に脈や通ひて梅の花』『すへられて尻の落着く瓢かな』の句碑が芭蕉句碑を守るかのように並んでいる。


レイライン春分の日と秋分の日に、太陽が通る道。北緯約35度23分を結ぶ直線上には、地理的な名所、歴史的な建造物が立ち並ぶ。
太陽が昇る東は、千葉県の玉前神社から、西は島根県出雲大社までを結ぶ線は、御来光の道として知られ神秘的なパワーをもらたすと言われています。

山門には正面左右には風神・雷神があるが一方は口を開きもう一方は閉じているので阿吽の仁王像をさすのだととも言われる。


お札参りに帰りに近くに有名な(怪しい寺があり)ちょいと覗いてみる。

千葉県長生郡長南町にある「長福寿寺」は“日本一の”金運寺“日本一宝くじが当たる”と名高いお寺のようです。 その篤いご利益から各メディアで頻繁に取り上げられるほど! そのご利益の所以は「人々を幸せにするためにやってきた」という伝説をもつ象・吉ゾウくんによるものなのですが、吉ゾウくんとは一体どんな石象なのか?

境内の両側に像の石像がありこの像が吉ゾウくんで説明がありお参りすると金運に預かると言われているそうです。



筆者が一番驚いた光景は像の石像の前で真剣にお参りする姿を見たからである、宝くじの当選には興味はあるが、どこか当たらないと思う自分が入ることで、真剣に当たる事を願う人に何故か驚きを覚えた。

勿論、出来れば宝くじでも当たり余裕があればオーディオ装置も最終的に完成したいので一千万ほどが当たれば良いイコライザー付きのマニュアルプレイヤーシステムEMT930stの程度の良いプレイヤーとか、WEのトランスを組み込む真空管アンプが欲しいのですが?未だまだ物欲欲望があり思うは当分元気で暮らせそうである。

簡単に拝観し場所は少し離れるが美味しいランチを求めひた走る。香取神社等東国三社巡りの途中で寄る方も多く。日本地図の編纂で有名な伊能忠敬の出身地でもある、小江戸佐原にある老舗鰻店『うなぎ割烹山田』に向かう。

この鰻調理は、新鮮な鰻を割く、そして炭で焼く、蒸す、其れからタレを付け炙り炊き立ての米の上に鰻を乗せムラシを入れた状態で配膳の運びとなる、筆者は調理人ではないので詳しくは知らないのですが、この様な手の込んだ仕事は日本文化の象徴でもあろう、支那料理も西洋料理もこの様な手の込んだ調理方法は珍しい方法だとも思う、又付けタレも昔からの秘蔵のタレを継ぎ足して使い次の世代に受け継ぎ伝統を継承する文化は日本の歴史を感じて止まない。



いつも別館に行くのだが生憎木曜は定休日で本店は初めて尋ねた。2時迄に受付すればランチタイムで食べられますとの案内早速受付を。20分程で携帯電話が鳴った。店からの呼び出しである。
お店からの鰻を焼く匂いがたまらなく食欲をそそり、上じか重(ご飯の上に鰻が載る一般的な鰻重)、を注文した。肉厚で表面はカリカリに香ばしく焼かれていて脂がのった身肉はふっくらしていてとても美味しかった。ご飯も炊きたてタレの味も大変よく鰻と相性も良い。通常でもかなり盛りがよいのでジュニアは大盛りにした為相当な量になったが、勿論それでも見事に完食した。
鰻も肉厚で絶品でボリューム満点です、珍しく娘も完食した、鰻はやはり関東風が一番美味い。



上鰻丼と写真が上じか重。うなぎ割烹山田の鰻は箱蒸しという技法を用いていて余熱で軽めに蒸すことで旨味を損なわないように下準備した蒲焼きを備長炭でじっくり焼いていることにより独特の香ばしく肉厚ふっくら感がある鰻に仕上げることが出来ているのだそうです。それにこのかえしダレの深い旨味が絶品。

お店が火事に遭った時もこのタレだけは大切に抱えて無事だったそうです。その他にも鰻屋はあるそうで鰻文化は古い様である。



食後大正末期創業、地元の味醂を使って作る佃煮屋 麻兆を覗く、近くの古くから水郷の町として栄えたこの町には多くの老舗が残っています。
すずめ焼とは佐原の地域の様々なお店で販売されている佃煮の一種で、はぜ、小鮒等の小魚を串に刺したもの。姿が小枝に止まっているすずめに似ているから、や、お殿様がすずめを焼いたものと勘違いしたから、等様々な説があります。

思えばこの様な調理方法は実に手間、暇がかかり例えばハゼを釣り、内臓を出し炭火で焼き、それを天日干しして、その後煮込んで味付けをする調理である。またアサリも有名であるが生のアサリの身をを取り出し、作る方法と茹でて身をとり出し作る方法では仕上がりの味にに雲泥の差がつくのである。

娘の土産も購入し、自宅用のお酒のお供ににも購入した。筆者は勿論ハゼを注文した、後はアサリが美味しそうであった。此の地域の「わかさぎ」も注文した。
後日、炊き立ての白飯と味噌汁にすずめ焼きで食べる米の飯の旨さを味わう楽しみは格別で日本人として生まれた喜びを噛みしめる、楽しみでもある。



確かにこの辺り関東近県は江戸を中心にしての運河、河川を利用した交通網が昔から栄えており、海運業は荷物運送には無くてはならない常套手段であり、ここから利根川沿いに銚子港に出て江戸に物を運び栄えたわけであり考えれば昔の日本は想像を超える海運大国であったのであろう。勿論河川から河川に繋ぐ運河も多く工事した様である、そのような事を思い帰路に着いた。

今回は久しぶりに日本史について考えてみようではないか。筆者日出身は東三河地区で関東の江戸幕府以前お歴史ついては知らない事柄が多いのですが・・・色々日本の歴史を紐解くと、想像以上に水との関わり合いが強い、昔から海洋国であり交通機関も海。河川を利用して生活していた事も理解できる。

日本の石器時代については旧石器時代は、「打製石器」というものを使用して、狩猟や漁労、採集などを行っていた時代のこと。洞窟や小さなテント式の小屋を作って移住生活をしていたそうです。旧石器時代は200万年前に始まったそう。ホモ属(ヒト属)が誕生したころでしょうか。
地質学的には、約258万年~1万年前までを更新世と呼びます。氷河期とも被っています。氷河期は、氷期(めっちゃ寒い時期)と間氷期(比較的暖かい時期)を繰り返していて、氷期に氷が増えると海水面が下がります。

最近見つけた戦国時代の尾張地方の地図であるが戦国時代は埋立作業もなく湿地帯が多く海水面は多く残っていたそうである、桶狭間の戦いの頃の地図であり、熱田、大高、小牧などは海沿いであり海運だ栄え城を築き町を繁盛させたのはいまの交通網とは違い海運の交通網はかなり綿密であったのであろう。大高(おおたか)等は遠州地方からの大量の荷物を引き取った港でもあったのであろうと思える、古地図によって合点の行く話になろう。
今川方が東三河を制圧したのも田原の港、幡豆港等を制圧し西三河、と続き尾張港を制圧して行った海の制圧も十分考えられる。



話を戻し氷期はそのおかげで、日本とユーラシア大陸は陸続きになっていました。この時期に、北からマンモスとヘラジカ、南からナウマン象やオオツノジカが上陸したそうです。それを追いかけて、ご先祖様たちはやってきたのかもしれません。また、現在は「もう氷河期は終わった!」という考え方と、「いや、今は暖かい間氷期なんだ!」という考え方があるそう。

そして此処で発見された「岩宿遺跡」(いわじゅくいせき:群馬県みどり市)は、1946年(昭和21年)に発見された旧石器時代の遺跡です。 現代では、日本における旧石器時代は約40,000年前から15,000年ほど前までとされていまが、岩宿遺跡が発見された当時、日本に旧石器時代は存在しないというのが一般的な学説でした。
兎に角文明は支那から日本に伝わったとされる事が多く、現在日本人のDNAと朝鮮、中国とは全く違っていることが確認されているそうですが、DNAの研究も新しいテクノロジーは解明されれば違う歴史も解るのかもせれない。日本の土壌は弱酸性で人骨は溶けて無くなり証明は難しいとされている。これは歴史というよりむしろサイエンスと思考することが正しい考えである。

新たな考え方は、ジャワ原人のように日本原人が居たのかも知れないと思うは夢であろうか?そう言う考えに歴史を考えると何故か辻褄が妙に合うと思うは筆者だけであろうか?
旧石器時代の遺跡の発掘から文化は支那から来たという歴史は違うのかも知れない?氷河時代アフリカから陸路を渡った原始人達の移動は無理があり、海を渡った説が濃厚になる。



岩宿遺跡とは第2次世界大戦の頃までの考古学者は、発掘を進めて赤土(関東ローム層)が出るとそれを「地山」と呼び、それ以上掘ることはありませんでした。土器を使っていた縄文時代(世界史では新石器時代にあたる)の人々が日本の最初の住人だと考えていたからです。この考古学・日本史の常識を覆し、日本にも世界史でいう旧石器時代段階に人々が生活していたことをはじめて明らかにしたのが、岩宿遺跡です。
此処で素人の遺跡好きの人が発見する岩宿遺跡は、昭和21(1945年)に相澤忠洋(あいざわただひろ)氏により発見されました。昭和24(1949年)・25(1950年)に、その後頑張った明治大学考古学研究室による発掘調査により「日本列島に旧石器時代には人類が住んでいない」とされていたそれまでの学説をくつがえした遺跡として脚光を浴びました。日本最古の人類の歴史は数千年前の縄文時代から一挙に数万年前まで遡り、戦後の日本考古学の重要な出発点の1つとなりました。日本の旧石器時代を「岩宿時代」と呼ぶ研究者もいます。
日本歴史の黎明期のあり方を知る上で不可欠の遺跡である」ことから学術研究上も重要な場として国の史跡に指定されました。



当時は研究者の間では決して旧石器時代の石器は日本には無かったと言われたが、磨製石器の発掘東ローム層黒土(表土)の下にあり、火山灰などが降り積もってできた1万年以上前の赤土、相沢忠洋(あいざわただひろ)1929年生-1989年没。独学で考古学を学び、納豆の行商などをしながら赤城山麓の遺跡を調査し、岩宿遺跡を発見した。主に刃の部分を磨いた石斧。旧石器時代には磨製石器は存在しないといわれていたが、日本の後期旧石器時代初頭にはこの石器が特徴的に存在する。切り出しナイフに似た形の石器、後期旧石器時代後半期の初めに特徴的にみられる。
また実に面白き発掘は、神津島で最高の黒曜石が取れる場所そして世界最古の記録を持つ場所です。恩馳島(おんばせじま)は、神津島の前浜から見える離れ小島で、天候によって神津島からの距離感や見え方が変わる不思議な島です。
周囲はいつも白波が立っているような岩礁地帯で、かなり凪いでいる日でないと船で近づくことも容易ではない離れ小島です。最近は釣り人の穴場としても人気があり訪れる釣り人も多い島となっている様です。

先人達の冒険力と探検力は素晴らしい物があります、自由を目指より豊かな生活力を求める希望に満ち溢れていたのであろう。



一番興味深いことは、この時代に遠方の神津島のゆるキャラのモチーフにもなっている天然記念物「カンムリウミスズメ」の数少ない営巣地の一つでもあり、黒潮の影響による魚影の濃さで「釣り人の聖地」とも称される、いろいろてんこ盛りな濃い島です。
関東圏の黒曜石産地は、神津島だけではなく長野の霧ケ峰周辺や箱根、少し遠いですが福島の高原山など、幾つか存在します。しかも、長野の黒曜石などはとても質が高く、埋蔵量も多く、石器としての利用に十分適うものです。
そんな産地が比較的近くあるにもかかわらず、わざわざ命の危険を冒して海を渡り(山もいくらか危険があったとは思いますが)、神津島の黒曜石を大量に持ち出していたのかの疑問・・・?
最初はただ質の良さで利用されていたのが、それが時が経つにつれて、神津島、恩馳島、もしかしたら黒曜石自体を対象とした信仰へと変わっていったゆえ、その信仰を表現するために命がけで島に渡り黒曜石を採集していたのかもしれません。これは色々な理由で)比較的可能性が高いと考えています。しかも、現在でも恩馳島には「恩馳神社」という神社が存在し、毎年ではないそうですが神事も執り行われています。これは過去にあった恩馳島への信仰が神社という形で残ったものではないか、と考えています。そこで海運業は相当発達したと思われる所以である。



上記写真の様な黒曜石は実にキレイな波紋みたいな割れ口(貝殻状断面という)が、恩馳島で採れる黒曜石の特徴は質の良い物が多く珍重された。この恩馳島の黒曜石は石器の原料として用いていた古代人も理解していたようで、特に縄文時代においては、この黒曜石が大量に(それもたぶんトン単位で!)海上輸送によって本土に持ち出され利用されていたことが分かっています。
磨製石器の日本では磨製石器営業、磨製石器製作工場、海運業、陸上運送業等仕事分担が出来上がり充実した生活を長い間平和に暮らしていた様である。
何故なら人間を殺戮する磨製石器は出土しては無く日本独自の温和な時代が長く続いたと想像できる。



この文書を読んだ時に思ったことは人類アフリカ発祥説の他にも日本発祥生もありかも知れないと思ったことでした。磨製石器で巨大な丸太船を作り横に並べ安定させ航海術を所得していたのではあるまいか?
ある程度南の島に次々に島を渡りフィリピンまで行くのも想定内であろうと想像できる、また弥生式時代の米も支那種とは違い日本は水田利用の亜熱帯で採れる米であり伝承ルートは支那では無く今までとは違うことが想像できる。

神津島(コウヅシマ)から伊豆半島との位置関係を示す現代の地図である。これから論じたい黒曜石と海の道に対する私的イメージを赤の点線で描いてみた。
この様な資料を集め想像し探索することも全く愉快である。
当時の旧石器人は道を構築するという概念は無く、土地を所有するという概念も無く、結婚という概念も無かった。ただ自然界に現存する獣や魚や植物を採取して食べて行き、本能的に親子関係を大切にし子孫を作り育てることに専念していたに違いない。



ただ彼らが初めて神津島の黒曜石を知ってからは、その島の持つ他に類例のない地理的存在観念と黒曜石採取欲を強く感じた瞬間だったかも知れない。海を渡って如何に安全確実に黒曜石を運んだらよいか明確な目的意識が湧き、比較的安全な河口や海の浅瀬で試行錯誤を重ね、当時の採取可能で加工可能の材料で海に浮き移動可能な物体を作るため、おそらく気の遠くなるほどの年月を重ねて黒曜石を手に入れる渡航術を身に付けたものと想像される。複数人の共同作業には当然言語の発達も進んでいった。



神津島から旧石器人が採取した黒曜石(コクヨウセキ)がどのようにして運ばれたのか、神津島近辺で黒曜石が現在確認されているのは利島(トシマ)と伊豆の河津(カワヅ)(段間ダンマ遺跡)と伊豆大島の三か所である。利島は古代よりミツケノ島(見付けの島)とかアズケノ島(預けの島)とか呼ばれており、海上から見るに円錐状のシンボリックな形状で海の民にとって分かり易い目印だったに違いない。

また、利島の遺跡から45kg黒曜石が発掘されており黒曜石搬送の中継基地的役割をしていたのではと推察される。(かなり後世のこととなるが大量の和鏡も発見されておりアズケノ島と呼称されて来た)一方、静岡県賀茂郡河津町見高の段間遺跡(ダンマイセキ)からは250kg以上の神津島の黒曜石が発見されていることから河津が本土側の集積地だったと推定されている。

神津島から河津まで直線距離約60kmだが、立ち寄ったかどうかは別にして現在では神津島から式根島まで約10km、式根島から新島まで約3.5km、新島から利島まで約10km、利島から河津まで約33kmとなる。つまり、島伝いを通過することにより安心が得られ、万が一の備えとして危険が生じたら島に避難したと考えられる。また、殆どの地図に載せられていないが、釣りが好きな人には知られるこの海域に海上に顔を出す岩礁も多く、海退の生じた太古ではもっと多くの岩礁があったかも知れない。



なお、伊豆大島の縄文時代中期の遺跡から神津島の黒曜石が確認されているので、旧石器人の子孫は渡航船体の構造進化に相俟って渡航技術を磨きつつ、相模湾横断も達成した可能性も高く赤の点線にて推定航路を記入した。その後、彼らの子孫は日本各地・世界に輪(倭・和)を広げて行ったと思われる。

残念ながら、今から1万年以上前の伊豆半島南東の島々の形状や海の様子に対し科学的研究がされていないが、原始宗教神話の源流の地でもあり海彦の生活の場でもある。当時山彦達(内陸)の羨望の的・黒曜石を生む宝島でもある当該エリアの考古調査解明が切望される。
鉋もノミも無い時代に磨製石器での舟の建造技術は相当難しい方法であろう、現在と比べ当時が相当未来が面白かったようにも思えます。



上写真はグーグルマップの写真版ですが日本の南の島、伊豆半島南東の島々から島と渡続けばグアム島まは意外と簡単に辿り着くであろう。それからパラオ辺りは簡単に航海していたのであろう、赤線で示した様に島々を渡り海洋生活集団も考えられる話でもあり、これも磨製石器時代の頃の話である。

ただし、最も知りたい当時の舟ないしは筏の構造を知り得る木・竹・草・皮などの遺品に遭遇することは繊維質は腐り易いことから見つけ出すことは極めて困難だと憂慮される。ただし、磨製石斧をはじめとする石器など間接証拠が見つかればと期待している。最近の風潮として、南方の民族が黒潮ルートに乗り日本列島にやって来て日本古来の旧石器人と交わり倭人を構成したとの説をWebサイトで散見される。もともと舟の操れる民族だから神津島の黒曜石を発見し運べるのは当然の帰結であると短絡して論ずることに私は否定的立場をとりたい。

なぜなら最近の遺伝子研究において日本人の遺伝子が南方系住人のそれとは異なることが証明されているからである。彼らは土器や言語の類似を主張しているようだが、3万5000年前に海で囲まれた日本列島において渡海技術を有する海洋文化が萌芽し、1万年以上に亘り渡航術を発展させ縄文時代の早い時期にロシアアムール川、壱岐、竹島、朝鮮半島、沖縄、中国沿岸部、台湾、フィリピン、東南アジア方面に足をのばして行き、私的交易や情報交換をしていた可能性が高いからだ。日本の土壌の特筆として弱酸性の土地のため人骨は溶けて無くなる弱点があるが貝塚等の貝殻があれば弱アルカリ性の土壌に変化し、五万年前の貝塚から人骨が見つかれば日本原人も成立可能となり新しい発見となるのである。
今後も新しい科学と共に太古の時代が解き明かされる日本の歴史の事実は実は大変楽しみでもある。ブラボー!

前々から筆者の音を聴きたいと言っていた、友人Nさんが来客、デモでしか聴いた事がないLS3/5Aでジャズを、ルート66について考察

2023年03月06日 | JAZZ・ボサノヴァ

先日ミツバチの巣か作った天然素材、モライフ ブリティッシュビーズワックス フローリング ( つや出し 木製品 家具 艶 蜜蝋 撥水 床)を教えて頂き早速試すが独特の匂いを嫌う人もいるとは思うが、大変良い使い心地で19世紀からアンテーク家具も多い英国では家具職人も愛用末うビーズワックスです床にも試してみたが独特の自然のツヤと、さらっとした仕上がりが良好であった。早速筆者の愛機に使用を試みる香りもソフトな感じで使い心地も良く仕上げも大変よくし上がりも綺麗な感じに見える。
GOODMANS AXIOM 80の箱に2度塗りし乾拭きし仕上げたが写真に撮ってもあまり変わり映えもしないが見た目は綺麗に感じる。


木目は綺麗で塗った後は乾拭きすればサラッとして仕上がりは良い感じである。今後2か月毎に練り仕上げを行う予定である。
めっきり春に近づき明日辺りからは四月の陽気でカワズ桜も満開である。庭の「ふきにとう」も目を出した。
フキは筆者の庭に育ち夏場に食用にします。キク科フキ属の多年草春一番にフキの地下茎から出てくる花のツボミがフキノトウです。


前々から筆者のオーディオの音を聴きたいと言っていた友人Nさん彼は免許証が無く仲間のTさんの車に同乗しての来客、彼自身もギター演奏者で中々音に付いては拘りをお持ちの方で、系統としてはジャズ、ポップ系統をお好みであるそうです、今回はジャズ中心に聴きたいと言われ、ジャズなら筆者をお勧めはLS3/5Aの音が一番と思いNさんの聴きたいと言われるサックス奏者を中心に聴き始める。
彼のオーディオとの付き合いは最初にビートルズに影響され今もリボルバー等のアルバムは良く聴くそうである。

確かにジャズ音楽の衰退はビートルズの新しい分野の音楽が影響して歴史が変わっていく瞬間であったのかも知れない・・・?この時代当時の音楽の移り変わりを見たり感じたりする時代を行きた筆者世代は実に貴重な体験をしている。
当時白人の間にも人気の高いダンスもできるビックバンドジャズの全盛期からグレン・ミラー、、ベニー・グットマンも終わりに近い状態にありロック、ポップ時代の幕開けの頃の様に思う。



先ずはGerry Mulligan Meets Johnny Hodgesのアルバムから聴き出す、マリガンおバリトンとホッジスのアルトの違いと掛け合いが面白いアルバムで2 人のサックス奏者は美しく溶け合い、互いのサウンドを補完します。


聴いている間に、筆者自慢の珈琲を淹れる今回で豆がなくなるブルーマウンテンをセレクトした。淹れ方はんネルドリップの味わいのある様な淹れたかを最近体得しその方法で淹れる。独特の薫が良く、淹れたてを賞味して頂く。

後は1960年代の代表的なプレイヤーを聴く。Nさん曰く、今までの聴いた音とは違って、先ずは随分奥行きのある音がして二人のサックスの溶け合いが良いと言う、兎に角 中高音は実に綺麗だと云う、確かに低音は意外と再現可能ではあるがそれに負けない中高音は再現は困難である様です。確かにLS3/5a独特の音出しが影響しているのかも知れない。Nさんも今まで何度も聴くがこれ程の中音が良い音はと褒めていただいた。実はこのLS3/5aには大変な苦労をしやっとこの音が出る様になったことを吐露した。
途中10吋タンノイも聴いて頂くが、Nさん曰くこのラッパはクラシック専用の音ですね、ジャズはLS3/5aの音が良いとお気に入りの様でした。
勿論ピアノ曲、ヴィブラフォンと続けたが、いつにお間にかLS3/5aに戻し試聴は続けビートルズのリボルバーをリクエストそして暫くビートルズを聴く。

接続ケーブルの話も話題になり、本人曰くギターアンプ等の接続ケーブルには何が良いかの問いにCAT7LANケーブルの芯数4対(8芯)の自作をお勧めした。以前自作したケーブルをお見せし参考にして頂いた。



暫くその様なオーディオ談義を織り交ぜながら、ジャズ、ポップ系統の試聴は続け、その後はボーガルに移る、Nさんと同じく、ここで筆者が好きなナット・キング・コールを聴かせる。

Straighten Up And Fly Right」(1943年) 「Straighten Up And Fly Right」は、ナット・キング・コールと作詞家/出版業者/プロモーターのアーヴィング・ミルズによって書かれた。同曲は1943年のコメディ映画『HERE COMES ELMER』のサウンドトラックにも使用されている。1919年3月17日にアラバマで生まれたナット・キング・コール(本名はナサニエル・アダムス・コール)は、シカゴでバプテスト教会の牧師の息子として育った。 「Straighten Up And Fly Right」はコールの父エドワードが説教の際に時々話していた説話を基にしている。戦時中の本ヴァージョンでは、ジャズ・トリオ編成(ギターはオスカー・ムーア、ベースはウェスリー・プリンス)でのコールによる初期の名演が聴ける。同曲はチャートの1位にも輝き、その人気は今も衰えない。ジェフ・ゴールドブラムは2018年に発表したデビュー・アルバム『The Capitol Studios Sessions』でこの曲を取り上げている。

例えば英国は紅茶を愛用するがアメリカは珈琲を愛用し、英国との差をかわいらしく表現していた頃と違い、全く変わってしまった様である。
クルーナーの至宝ナット・キング・コールはジャズピアニストとしてそのキャリアをスタートさせている。しかもピアノトリオという編成の先鞭をつけた人物でもある。本作は彼のピアニストとしての魅力をも堪能できる人気作品だ。すでにポピュラー界で押しも押されもせぬスーパースターとして君臨していた絶頂期の演奏と歌声。優しく耳をなでるシルキーなヴォーカル同様、ピアノプレイも軽妙洒脱。"Just You, Just Me"、"Caravan"、"It's Only a Paper Moon"といったスタンダードを取り上げ、リラクゼーションあふれるジャズヴォーカルの魅力をたっぷりと堪能させてくれる。

「髪なで付け」の元ネタは「サンセット77」の登場人物「クーキー」の「髪なで付け」アクションなのか調べてみたら、「サンセット77」のオープニングはあの「ディーン・マーティン」の店の駐車場エントランスで撮影されたものであること、「サーフサイド・シックス」と「ハワイアン・アイ」は「サンセット77」のフランチャイズドラマである、ということが分かったというお話でした。
やっぱり「髪なで付け」アクションはカッコいいんだなあと納得する、なでつけるほどの髪がなくなって来た年代の私なのでした。



ナット・キング・コール生誕100周年記念アルバム『Ultimate Nat King Cole』がCDとLPで発売決定!
NAT KING COLE / ULTIMATE NAT KING COLE
 1. (Get Your Kicks On) Route 66
 Route 66』
 作詞・作曲:ボビー・トゥループ(Bobby Troup)
  If you ever plan to motor west
  Travel my way
  Take the highway that's the best
  Get your kicks on Route 66
  車で西へ行くなら
  俺のオススメを通りなよ
  ハイウェイが最高さ
  楽しめるぜ ルート66
 2. Straighten Up And Fly Right
 3. (I Love You) For Sentimental Reasons
 4. Sweet Lorraine
 5. Unforgettable
 6. Walkin’ My Baby Back Home
 7. Mona Lisa
 8. Pretend
 9. Quizas Quizas Quizas (Perhaps Perhaps Perhaps)
 10. Love Me As Though There Were No Tomorrow
 11. Stardust
 12. Orange Colored Sky
 13. When I Fall In Love
 14. The Very Thought Of You
 15. Perfidia
 16. Let There Be Love
 17. Those Lazy-Hazy-Crazy Days Of Summer
 18. L-O-V-E
 19. Smile
 20. Nature Boy
 21. The Girl From Ipanema (with Gregory Porter)

2018年にリリースされたグラミー賞アーティストのグレゴリー・ポーターによるトリビュート・アルバム『Nat King Cole and Me』より、オリジナルのナット・キング・コールの歌声に、グレゴリー・ポーターが新たにレコーディングした貴重なデュエット曲“The Girl From Ipanema”を収録!



JAZZ音楽を聴く場合筆者はLS3/5aで聴く場合が多い、イギリスのBBCが放送局用に開発したスピーカーがLS3/5aです、最も重視されているのは人の声の再現性です。とすると、中域を核とするオーディオ・スピーカーの性能としては不十分かと思われますが、そんなことはありません。しっかり鳴らすと低域の物足りなさを感じることは稀で、高域では弦楽器の倍音再生の評価が確立されている様です。日本の一般家庭のリスニングスペースであれば、小出力真空管アンプとの組み合わせでも十分満足のいく音を鳴らします。

筆者の知るナット・キング・コールと言えば「Straighten Up And Fly Right」「Route 66」「Too Young」等数々の作品があるがJAZZを聴き出す以前のーシンガーであり思い出すのは中学生の頃だと思う。がしかし現在のアメリカはここに来て全く新しいアメリカに変化しているようで、昔の開拓者精神建国の精神は無くなって何か解らな武器を持たない集団の様であり、例えば英国は紅茶を愛用するがアメリカは珈琲を愛用し、英国との差をかわいらしく表現していた頃と違い、全く変わってしまった様である。



筆者が知る懐かしい青春時代いや学生時代の明るいアメリカが懐かしく思える。確かに憧れのアメリカであり、暗黒のアメリカ等は知らない上辺だけの情報しかない良き時代でもあった。
日本の敗戦から75年も過ぎ、当時は鬼畜米国と叫んでいたアジア解放のための戦いであった大東亜戦争と言う文言さえ使用禁止となる、自由の国と言われるアメリカは必死にこの事実をひた隠しに隠し東京裁判を行なった、なぜ極東の島国の日本を恐れたのであろうか、未だ問題になっている人種差別等白人から見た世界観は違って見えるのであろう、不平等と言われ続ける事実は隠しきれない事実である、我々は正しい歴史を目にすることにより事実を知ることが大切である。
簡単な答えがあるので説明しますと、米国語は文法上面倒に説明し日本人になるべくは理解できないように極力米語力を弱めアメリカ人の話が伝わらない方法を取ったと聞いたこともある。

一方アメリカの良い所もあり、当時のテレビドラマの(Surfside 6)女性に人気の「スター」トロイ・ドナヒューが出演していました放映当時は『サンセット77』の青春版とも言われたTVシリーズで、フロリダ州マイアミビーチのヨットハーバーの6号埠頭に停泊しているハウスボート(それゆえ「サーフサイド6」と呼ばれる)を探偵事務所にする3人の若い私立探偵の活躍を描いている。「ハワイアン・アイ」は、ハワイ、ホノルルのホテルのプールサイドの部屋が事務所という如何にもおしゃれな設定です。

景色の良いおしゃれな場所を舞台として、探偵事務所の探偵と女性秘書、それにからむ「相棒」的な人物、という設定で、しかも主な撮影場所は同じ「ワーナー・ブラザース」スタジオなので、それぞれのドラマのスタジオセットは隣接、というより同居していて、同じ壁を共有して使っていたりしていたほどでした。
また「髪なで付け」で超売れっ子に 駐車場係の「クーキー」は、この髪なで付けスタイルで超人気者となり、デュエットソング?まで出来て、ヒットパレード番組でこんなパフォーマンスもするくらいに人気沸騰です。


何故か今もナット・キング・コールの「Route 66」を聴くとこの頃のドラマを思い出す。ジュリー・ロンドンの夫、ボビー・トゥループが作曲した「(Get Your Kicks On) Route 66」は、シカゴからロサンゼルスへの旅を歌った楽曲。アメリカを代表する旅の曲のひとつであると同時に、ナット・キング・コールの代表曲のひとつでもある。 ヒットを記録した1946年のヴァージョンでは、ピアニストとしてのコールの天才的な技術が発揮されている。ジャズの名手アール・ハインズの影響を受けたコールは、流れるような演奏で至高のスウィングを生むピアニストだった。2000年にレイ・チャールズがコールのR&Bの殿堂入りのプレゼンターを務めた際、彼は以下のように語っている。 「私は寝食の全てをかけてナット・コールを自分に取り込もうとしていました。つまり彼の声とピアノはあまりに調和している。私もそうなりたかったんです。ナット・コールのような演奏をして、仕事をもらいたかったのです」。



ルート66は、かつてアメリカ合衆国中東部のイリノイ州シカゴと、西部のカリフォルニア州サンタモニカを結んでいた全長3,755kmの国道です。アメリカで最も人気の高いドライブコースの一つとして知られるルート66。
1985年に廃線となりましたが、現在も数々の映画や小説、音楽などに登場しています。今回はそんなルート66について考察してみました。
2006年に公開されたディズニー映画のカーズ(Cars)の舞台にもなっているルート66。アメリカの繁栄を支えてきた国道として役割を全うした後も多くの人に愛され、いまでは世界中のドライブ好きが集まり、日々車通りが絶えません。実は『Route 66』(ルート66)は、アメリカの音楽家ボビー・トゥループ(Bobby Troup)が1946年に作詞・作曲したポピュラー・ソング。ジャズのスタンダード曲として名高い。20世紀アメリカを代表するジャズピアニスト・歌手ナット・キング・コール(Nat King Cole/1919-1965)の有名な曲である。ブラボー!