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伝統ある英国のTANNOY IIILZで聴く、音楽の父J.S.バッハ音楽を知る喜び・・・

音楽好きのIIILZ Monitor Goldユニットの箱を改良して楽しむダメオヤジ金ちゃんです。

成田近郊の散策、この辺りは大昔は内海の湾内で海産物も多く出土した事の事実でもある。

2025年04月16日 | 歴史(世界史/日本史)の考察

おはようございます、今日も定期便のモジャ君との早朝散歩です、桜の花も葉桜になり遅咲きの八重の桜が咲き始めました、もじゃ君の後方にぼんやり見えるピンク色の木が八重桜の木であります。
公園の芝生も緑色は濃くなりいよいよ春爛漫の様でもあります。

実は昨日成田法務局に用事がありジュニアと共に出掛けました。我が家から成田まではパイパスが新設されたために30分ほどで成田市内まで到着します。法務局での用事は簡単に終了しました、ランチには時間があり成田散策に出かける・・・。


昨日は所用で海ほたるに出かけ、すごい風が強く波もウサギが飛び荒れていた。
本日はある程度風邪は治りドライブには絶好である。
成田法務局から15キロ程にて到着予定の「下総歴史民俗資料館」に向かう、詳細は、下総町の町制施行40周年を記念して、1995年に開館した資料館です。その後、成田市の資料館として再出発しました。下総地区で出土した考古資料、民俗資料を中心に約3万点を超える物品が収蔵されており、そのうちの一部が常設展示されています。



公共施設下総公民館の駐車場を利用し隣に隣接しているのが歴史民俗資料館である、木造の橋を渡り雰囲気ある眺めでもある。
残念ながら桜は既に葉桜になり、最近の快晴で初夏の雰囲気が漂う感じである。


グランドもあり桜は散ったが此処も桜の頃は綺麗であろう、それと見学者は我々だけであり館内はゆっくり見学できますね。


途中の花壇もすみれの花が咲き環境的には実に良い。


反対側を見れば公共施設下総公民館を望む景色で環境も良い。



早速下総歴史民俗資料館に入館入場無料でした。靴はスリッパに履き替えて入場する為に靴箱が備えてありました。


いきなりマンモスのイラストと入口を飾っていた。当時はある程度の地球温暖化と海抜が下がり現在の地図に近い状態に形を変えていった。もちろん現在の霞が浦と印旛は内海で繋がっていた様です。


ナウマンゾウの化石で頭部のレプリカ(本物は科学博物館に預けてある)、縄文時代には生息してのであろう、マンモスでもあり人類は大きな獲物から日本海が形成され大型動物から小型動物に獲物の変化と簡単に採取できる海洋生物捕獲と日本人の生活様式が変化していった時代でもあろう。この辺りは当時は海岸線沿いでもあった様で獲物も豊富であった。

基本的には日本人は昔から海との関わり合いが非常に強い人種でもある事は明らかでもある。この辺りでの縄文、弥生時代の出土物も多い様である。



上記は縄文時代の地図で、霞ヶ浦印旛沼は一つの大きな湾であった様であり、東京湾奥の奥江戸湾現在埼玉県辺りまで海岸が接近した浜辺で温暖な生活環境はたいへん食べ物も豊富で、住みやすい環境であった様でもある。

千葉県はもともと安房国(あわのくに)、上総国(かずさのくに)、下総国(しもうさのくに)の三国からなっていました。本日来た下総滑川は利根川南岸の低地と下総(しもうさ)台地にまたがる。 中心の滑川(なめがわ)は近世の利根川水運の河港として栄えたが,成田線開通後衰微し3月27日に成田市へ同郡大栄町と共に編入合併されたとされた。


現在の地名が書かれた地図と重ねてみると良く分かります、縄文時代前期(約1万〜5500年前)に起こった海水面上昇の現象で、地球温暖化が原因です。海面が現在の水準より2~3m高くなったと推定されており、縄文人の生活環境に大きな変化をもたらしました。徳川時代初期の頃は間違いなく江戸城は江戸湾の岸辺であった事が分かる地図である。
関東区域も徳川が収めた時代は土木工事が多く大変な時代とも思う、多摩地方から上水道を導入に利根川の水流を下総方面変え、川を整備し交通と運送を活性化させ繁栄させた功績は大きいですね!勿論この江戸時代に現在の月島は干拓された土地である。


この辺りは鬼瓦の製作も多く今も伝わっているそうです。


隣の安食にもこの様な資料館があり古代の種土品が多くあるそうです。


これは弥生時代の生活様式であろう・・・


装飾品勾玉等


表題には枕と書かれてあったが、死者を弔った枕であろうか?頭の周りに飾りがあったのである


これは江戸時代の農機具で、水田の構築に適した船であるそうです。当時の運送はやはり船が手軽に運べる事で使用範囲も大きのであろう。


祭りに使用された神輿であり、この辺りは神輿を担ぎ水に入って祝ったそうです。



鬼瓦で阿吽の呼吸の一対である



おなじみ「べんけい貝」」貴重な「オオツタノハ」の腕輪の飾れていた。

意外と貴重な資料も多く無料な事は大変有り難い。



最後に明治時代の足踏み式オルガンが飾られていた。確かに現在放映中のNHKドラマも江戸時代の頃利根川の流れを江戸から千葉に移設を施し、町人も知識率は非常に高く各種の本も豊富にあった様でもある、意外と見応えのある歴史民俗資料館でもある。

当時から日本は繁栄したいた事は想像つくが、敢えて何故政治家不在で今は政治屋ばかりで特に私欲が強い人間ばかりになってしまったのであろうか、次の参議院議員選挙から今の腐れ政治を変えなければならない。



明治中期に開設された成田線「成田鉄道は、下総国の北部に就いて布設し、其本線は日本鉄道会社の土浦線路(現在の常磐線)我孫子駅に接し、其支線は総武鉄道会社の線路佐倉駅に接す。延長四十五哩(マイル)五鎖(チェイン)の鉄道なり。」所謂成田山新勝寺参拝を視覚的なニュース・メディアとして盛んに活用されていましたと言われるそうです成田さん詣は娯楽でもあった様です。

帰路に電車を見た、JRの我孫子から先の成田線の単線部分である。筆者などは30歳過ぎに千葉に住むが千葉の地理には疎く今更ながら日本の歴史を思い直し驚いたり感動したり正に興味津々なり・・・!


行きに見つけた有名な「はたやのくず餅」看板が出てたからわかりましたが、無かったら気づかなかったかもです。でも駐車場は満車でした。
帰りに立ち寄った「はたや」、お店の前の大きなジャリ敷きの駐車場に車を入れ、お店に入りました。


くず餅、心太をお土産に購入し、帰宅後頂くが大変瑞々しく見め細やかで美味しいくず餅でした。

帰路につき印西にて食事休憩をする。


地元の人が知った中華の名店「真味(しんみ)」特に餃子、チャーハンが有名。
お店の入り口に大きな「刀削麺」の紹介の看板がありました。
「刀削麺」とは・・・中国山西省で生まれた中国五大麺のひとつで、水で練った小麦粉の塊を、くの字に曲がった刀で麺を削り出す調理法とのこと。

本日は海鮮刀削麺を注文しました。


スープが実に旨し、和風の感じがあり実に良い具合で麺も腰があり海鮮の具も美味しく頂きました。

このブログは今年終了するそうです、ブログ先変更したら案内します。
長い間皆様には大変ありがとうございました。

今後の日本丸は如何に・・・と思っていたが、ひとまずホットした、此れで好きな音楽が聴けますね!

2025年02月08日 | 歴史(世界史/日本史)の考察

今朝も愛犬モジャ君と散歩です、公園内ある梅の木があり、紅梅の花が咲き始めました、愈々春の到来間近か季節は毎年変わらなくやって来る様だ。

調べてみると、どちらの色が早いかは品種によります。 咲く時期によって早咲き~遅咲きまで、 2ヶ月ほど開きがあります。 早咲きの品種で代表的なものは『冬至梅』があり12月頃から咲き始めるそうです。



現在日本は戦後最低な総理大臣及び閣僚とも最低の顔ぶれを揃えたわけではあるが、米国は売電からトラさんに大統領が代わり、売電が続けた政策を悉く水に流している、勿論石破も日米会談に馳せ賛辞会談を取り交わすが、その様な事よりトラさんが一枚も二枚も上で前の売電が実施した此のUSAID案件は此処での登場が「ビル・ゲイツ」が最初に言い出し基金をしたUSAID問題を即刻中止を発表し続いてCIAのリストラだった。USAID問題はパリ五輪でのトランスジェンダー選手の悪影響も出たが此で正常運転に戻りそうでもある。


今回の日米会談においてトランプがUSAIDについて論じたが石破は全くわからない様な顔をしていた、何お興味も示してもいなかった!

今は闇組織の様な1961年に開設されたvは健全な組織であったが当時ケネディ大統領の頃発足したUSAIDも時代が移りクリントン政権以降CIAも取り込み闇組織に変貌し米国の税金の闇分配組織の解体化を調印したトランプ大統領である。日本もNHK始め、大手マスコミ、電通、博報堂、政治家、政府関係機構、厚生省、外務省、他に民間大手会社等全て61社に及ぶ闇献金を行い国民には闇を知らせない様に見事な仕組みを維持している、NHK始め大手マスゴミが騒がないコレが大きな理由である。

当時日本の岸田はバイデンと共にUSAIDとつるんでた岸田が責任は重く、即座に議員を辞めるべきだ。詳しきはYouTube内容をはっておきます。是非ご覧ください!

DSの飼い犬が日本の前首相だったという笑えないオチ・・・。最悪の黒幕の岸田文雄、外務省とUSAIDのあいだに入り橋渡し外務省とUSAIDが「外務省と米国際開発庁(USAID)との間の共通の国際保健の優先課題の推進のための協力覚書」を締結していたことに注目が集まっている。



また日本では金儲けには敏感な武見 敬三が進めるUHCとは「すべての人が、適切な健康増進、予防、治療、機能回復に関するサービスを、支払い可能な費用で受けられる」ことを意味し、すべての人が経済的な困難を伴うことなく保健医療サービスを享受することを目指しています。持続可能な開発目標(SDGs)においてもゴール3(健康と福祉)の中でUHCの達成が掲げられておりますが、UHC達成のためには「保健医療サービスが身近に提供されていること」、「保健医療サービスの利用にあたって費用が障壁とならないこと」の2つが達成される必要があることから、2017年7月の国連総会では「必要不可欠の公共医療サービスの適用範囲」と「家計収支に占める健康関連支出が大きい人口の割合」をSDGsにおけるUHC指標とすることが採択されました。UHCを達成するためには、物理的アクセス、経済的アクセス、社会慣習的アクセスの3つのアクセスの改善に加え、提供されるサービスの質が高まることが重要ですと莫大な利益をあげたいる。此の団体もトラさんは容赦なく切った様です。

アメリカ政府の「政府効率化省」を率いるイーロン・マスク氏は3日、対外援助を行う政府機関の「閉鎖」にトランプ大統領が同意したと明らかにしました。



イーロン・マスク氏
「USAID(国際開発局)についても詳しく話し合った。彼(トランプ大統領)は閉鎖すべきだとの意見に同意したんだ」マスク氏は自身のSNSの配信で、外国に対する人道支援や開発支援を行う政府機関・USAID=国際開発局について、不透明な運用が行われていると批判。トランプ大統領が組織の「閉鎖」に同意したことを明かしました。さらに、マスク氏は「閉鎖」の方針について、トランプ大統領に「何度も確認した」が、「イエス」との回答があったと話しました。USAIDをめぐっては、トランプ大統領が政権の外交方針との合致や効率性を見極めるとして、対外援助の90日間の停止を命じています。
アメリカ トランプ大統領
「バイデン政権の間、彼らは狂っていたんだ。渡すべきではない人たちや組織にお金を与えていたことは恥ずべきことだ」トランプ大統領はこのようにUSAIDを批判した上で、「大量の不正な支出を発見している」とマスク氏の仕事を評価しました。



トラさんとの会談では石破は椅子の座り方も教えなかったのか、全く無知であり日本人らしい品位の微塵もない様である。
最後は握手もせずに別れた最悪の首脳会談であった。

日本側も米国大統領トラさんから仕打ちが一番早い方法の様です。参議院選挙前に此の様な石破を始め閣僚並びに親中議委員は全て葬って頂きたい、暮らしやすい平和な日本を取り戻したいものです。これで心配事は少しは先が見えるのではと思う次第です。これで多少は安心して飯が食えるようだ!

しかし此処で問題は団塊の世代以前の日本人はいまだに大手マスコミを信じ基本的には、トラさん嫌いが多いそうである、当然我が家の奥方なども筆者とは政治問題では全く違う意見を言う、しかしUSAIDの事実関係は徐々に知れ渡り間違っていたのかも知れないと疑問を持ち始めているのが実情である。



自称音楽愛好家が思うオーディオについて先日からの実験の続きを実施しました先ずは筆者の愛聴するスピーカー「TANNOY」は、ガイ・ルパート・ファウンテンが創業したイギリスのスピーカーメーカーです。1947年にウーファーの中央にストレートホーン型ツイーターを配置した同軸2ウェイ式ユニットであるデュアル・コンセントリック(Dual Concentric)を開発し、それ以後「TANNOY」を代表するユニットとなりました。
同軸2ウェイ式ユニットの特徴は指向性が高く二つの低音、高音ユニットが同じ場所に位置するため、こうした特性の変化は少なくなります。天井や床からの反射音を含めて、フラットな特性を狙いやすくなるのが、同軸ユニットの良さと言えるでしょう。それと最大の特徴は2wayスピーカー3wayスピーカーと比べ同軸状タイプは比較して狭い部屋でもフラットな音楽が楽しめる様に思います。



勿論以前仕入れた安価なKEF Q300の同軸2ウェイユニットでした安価で音質も良くコスパも高いと思ったが、最近仕入れた英国のスピーカーメーカー「FYNE Audio」は、2017年に創業した新しいメーカーです。同軸2ウェイユニットを使用し自然な低音が鳴る様に工夫された、TANNOYの出身の技術者などにより構成されたメンバーゆえ、その技術は確かなものがあります。

音楽愛好家が思うオーディオについて先日からの実験の続きを実施しました先ずは筆者の愛聴するスピーカー「TANNOY」は、ガイ・ルパート・ファウンテンが創業したイギリスのスピーカーメーカーです。1947年にウーファーの中央にストレートホーン型ツイーターを配置した同軸2ウェイ式ユニットであるデュアル・コンセントリック(Dual Concentric)を開発し、それ以後「TANNOY」を代表するユニットとなりました。

同軸2ウェイ式ユニットの特徴は指向性が高くツイーターとウーハーが同じ場所に位置するため、こうした特性の変化は少なくなります。天井や床からの反射音を含めて、フラットな特性を狙いやすくなるのが、同軸ユニットの良さと言えるでしょう。それと最大の特徴は同軸型が一番優れている様に思う、2wayスピーカー3wayスピーカーと比べ比較して狭い部屋でもフラットな音楽が楽しめる様に思います。



以前購入したWesternElectric 銅単線ツイスト ビンテージケーブル太さは被覆込みの外径で1.3mmで柔軟性が高く、使用方法はなるべくケーブルの長さは短い仕様が効力を発揮する様ですので筆者の場合は約2メートルでカットした。

また此のケーブルでジャンパーケーブルを製作と思い立ち早速AmazonにてMONOSTORE Yラグ端子  ロジウムメッキ 品を8個購入昨日到着、ネジ部分に6角レンチで回すがスムーズな回転ではないようでネジもまともに作れない此れは支那製であろう、安価(8個¥1,680×2)まあ此の価格では文句も言えない・・・



銅単線ツイスト部をばらし黒色と白色を若干ツイストし銅単線部分を半田付けしYラグ端子に付け完成とする。一応一本のケーブルとダブルのケーブルと試作し聴き比べたがジャンパーケーブル、スピーカーケーブルともにダブルでの接続が音質が綺麗に聴こえたので現在ダブル仕様での接続を実施している。

ダブル仕様の際は半田でケーブルを繋げ使用すらが、筆者の場合の裏技は写真お様に水に浸した食器洗いのスポンジの硬い部分をカットし半田使用後に此のマットを使い使用ハンダを洗浄すると余分なハンダがコテに付かないので重宝しています。一度お試しアレ!



仕上がったジャンパーケーブルをFYNE Audioに取り付ける、タンノイのユニットにはQED Profile79Strandのケーブルの相性が良さそうです、その為にWE銅単線でのジャンパーケーブル造りは面倒であるが音質向上にはやむ得ないところで最早病気の世界である。

取付前にはスピーカーケーブルY金具をピカールで良く磨き接続した、綿棒には若干の黒い汚れがついたが乾いた綿棒でよく拭き取り汚れを削除した。
早速仕上がったケーブル装着し視聴する、今回はジャズ系統の音楽を試した。音質は兎に角クルーンで分離は良く最新録音には効力を発揮する様に思う。



以前も紹介したがショーロクラブの音を聴く録音には鬼才エンジニア、オノ セイゲン氏を起用し、サイデラ・スタジオで空間にリバーブを付加、ヘッドホンも使用せず、最低限のマイク数でDSDスタジオ・ライブ・レコーディングを実施。ギター、コントラバス、バンドリンの3つ弦楽器の生の質感をとらえた音源は、まるで目前で演奏を聴いているような体験をもたらしてくれます。これが実に宜しい、リアルで目の前の様な音がする、タンノイにスピーカーを変える場合はスピーカーケーブル毎変えなくてはならないが・・。

オリジナル・アルバム『música bonita』です。

同メンバーの新譜もある、それと驚く事に音源が近寄った感じを受ける、しかしながら此の様に聴こえるは飽きる音でもある、最終的には疲れる大人のかも知れない。しかし今は実に新鮮である。



caleidoscopio choro club
 1. かまいぬむい/Kamai-nu-mui
https://www.youtube.com/watch?v=EppYPPYTkMw
 2. Doce de Feijão ( com manteiga )
 3. Valsa de Concertina
 4. 眠れる空/Céu Adormecido.
 5. Uma Estrada Sinuosa
 6. 風のワルツ/Valsa da Brisa.
https://www.youtube.com/watch?v=ymQqh3LASW4
 7. Kaleido Scope
 8. Memórias #2
 9. Vamos para o Sítio!
 10. Numa Toada
 11. Anoitecer
 12. Giro Luminoso
 13. あなたの不思議/Your Strange
Composed by
 Oh Akioka M-02.03.08.10.
 Shigeharu Sasago M-01.04.06.09.12.
 Jyoji Sawada M-05.07.11.13.14
 Produced by Choro Club



前作「musica bonita」から6年・・・お待たせしました!新ショーロクラブが始まります。これまで自身でレーベルを立ち上げ「武満徹ソングブック」「No Nukes Jazz Orchestra」など数々の良質な音楽を産み出し高い評価を得てきた音楽家・沢田穣治が、2020 年、さらなる高みを目指し新レーベルを立ち上げる。バンドリン秋岡欧、コントラバス沢田穣治、ギター笹子重治による日本随一のブラジル音楽ショーロユニット。ブラジルの伝統的な都市型インストゥルメンタル・ミュージック「ショーロ」にインスパイアされながらも、全く独自のサウンドを創造する。
此の後バロック音楽も聴いたがタンノイでの表情とと違い古い演奏も現在風の演奏の様にも聴こえる気もする、チェンバロ演奏等も一層透明度が増し現在の最新録音盤と言う感じも新鮮である。なるほどと思うはFYNE AudioとWE銅単線ツイスト ビンテージケーブルの相性の深さを感じた思いはある、ブラボー!

今後日本は何処に向かうのであろうか?何れにせよ自己中心の政治世界はいつまで続くのであろうか?

2024年10月04日 | 歴史(世界史/日本史)の考察

此処では報道はされない政治問題について明記してみることにした。日本は昔からお上に逆らわない国民の民意の為に文句を唱えることもしなかったが、現在の議員諸氏の裏金問題、親中議員等余りの多さ、それにも増して変わらない野党諸氏の程度の低さに議員民度は下がり驚くばかりでもある。

歴史的には日本の歴史については、遥か彼方から記憶に残る海外から外敵蒙古襲来があったが、幸い日本においては、神風が起き日本は神の国と言われたが、当時の日本武士集団が一致団結し柵を作り武器を整備し外敵に備えた事柄等、蒙古が引き揚げ時に台風襲来により日本襲来した元寇の外敵が大陸に引き上げ勝利を収め、日本は独自の日本歴史が続いたわけであり、ここで思うは、日本の海外との戦争は日本武士軍団の勝利に甘んじた。

シーパワーの国の日本は、海に囲まれた地理的は自然な要害に守られ問題は無い、武士軍団の防御、戦闘の強さは確かに強さはあったのであろうが、戦術はお得意ではあるが、勝つ為の戦略はあったのであろうか疑問も残る、この問題は国境が全て海に囲まれた要害のある国はそのものが戦略酢の物でもあろう。又、単一民族のため非常に纏まりやすいという好条件が揃った国である為であろう。

その様な伝統ある国日本は最終的には、昔から疑問視される戦略の弱さが露呈する、元々アンブロサクソン系は戦略に強い、米国の世界覇権のための戦力に乗って大東亜戦争を開始した、マレー半島上陸と真珠湾攻撃によって戦争を始めた日本軍は、石油を産出するオランダ領東インド(現在のインドネシア)を占領するなどして、“自給自足”の体制をつくりアメリカ・イギリスに対抗しようとしました。 日本は戦争の目的として「自存自衛」、ついで「大東亜共栄圏」の建設を掲げました。太平洋の島々を奪った米国は、次に沖縄を占領して、日本本土を攻めるための前進基地として使おうと考えた。 これに対し日本は、日本本土を守るため、沖縄になるべく米軍をひきとめて時間をかせぐ「持久戦」の作戦をたてたが結果は惨敗した。
今思えばある程度のアジア圏の国々は大東亜戦争終了後欧州、米国の植民地であった国々が独立し日本は戦争には敗退したがアジア植民地の国々は解放された結果になった。

しかし戦後は米国の戦争プログラムの作戦に乗った日本は米国のGHQの支配下になり今も此の事実は変わらず、GHQの与えられた憲法を実施する日本は未だ米国の植民地と言えよう。
この間トランプ政権下の時点で安倍総理の時代トランプから今の時代に日本は核を持ち軍備を整え独立を何度も勧めたそうであるが、安倍総理は途中に糾弾に倒れ事半ば日本の独立は政権が売電になり話は無くなってしまった。日本の総理もアメリカ社会のように共和党から民主党になり日本も自民党リベラル派岸田が就任し今回も岸田の大吾の切り札で石破政権が発足した。この政権に取って一番の喜びは親中公明党であり負の政治に突き進む様である。



伊藤貫(日本の評論家、国際政治アナリスト、米国金融アナリスト、政治思想家。アメリカ・ワシントンD.C.在住。東京大学経済学部卒業。姉は政治家の山谷えり子。)が語る言葉が面白い。実際長年米国に住居を構え実際に米国での体験が長く政治経済を学んだ日本人の考えは実にリアルで新鮮でもある。
此処で冷静になって政治を考えてみよう、これは日本の評論家、国際政治アナリスト、米国金融アナリスト、政治思想家。伊藤貫の語る今後の日本を参考にしては如何であろうか?

アメリカはトランプ政権下に置いて安倍総理の時に何度も「日本に独立しろ」と何度も何度も伝えたそうで、ペンタゴンの上層部とCIA、FBI、司法省の上部連中、グーグル、FB、等の大手I T業界他にウォールストリートの50〜100名のトップ金融の連中は殆ど民主党のトップ連中は殆ど大金を渡し支配している隙に共和党時代にしか出来ない独立を薦めたと言われる。
確かに日本の政治家にはトランプは人気が無いが、これもマスコミの捜査疑惑がある、現在時期大統領候補を名乗るカマラ・ハリスは副大統領就任後も同じことが繰り返されている。幹部の70%以上退任が相次いでいるのだ。スタッフはハリスを「沈みかけている船」と感じ、早々に脱出しようとしているという話も聞こえてくる事実が続いている。
この様な解説もある、「ハリス氏はリベラル色が強いカリフォルニア州出身で、風土も異なる中西部の工業地帯『ラストベルト』に多い白人労働者の支持を得られるかも課題だ。全米の世論調査では接戦かもしれないが、各州ごとに選ばれる選挙人の制度では、トランプ氏がラストベルトを含む接戦州で有利だ。ハリス氏は苦しい戦いを強いられるのではないか」と言われている。



筆者が米国の凄さは一般の人達は日本人と比べ劣る人も多い様に見受けるが、本の一部の特殊な能力ある米国人達は日本人では全く勝てない特殊人間であるかの様な知能も持つのが特徴で、アングロサクソンの特殊性でもあろう。
今や米国は益々移民が多く昔の英国から新しい国を目ざした人種が少なくなりしつも米国人質も随分下している。

現在日本の総理は岸田は民主党の売電の言いなりである。しかし日本は岸田の非常にエゲツナイ裏工作し、能無し財務省のポチの石破に変わり米国の共和党は万々歳である、今後勉強もしない馬鹿な石破の政策は全て拒否される事が多くなり消費税(15%)勿論所得税、法人税も大幅に上がるであろう。従って景気は最悪の事態になり日経株価3〜4,000円程度になるとも言われる。
民主党米国の喜びは頭がパーで、煽てればすぐに嬉しく調子に乗る総理大臣が大好きで最初に見抜かれtは進次郎の親である「小泉純一郎」である話しは有名でもある多分石破も大歓迎であろう。しかし前回総理の岸田が取った行動は国民を騙し犠牲にして米国に靡く行動を起こし今回の石破に恩を売る行動をした、最も愚劣極まりない人物と露呈した人物でもあった様だ。

一番肝心な事は一番米国の恐れていつことは、戦略核とは,射程が5500キロ以上の,米ロ間で相互に到達するICBM大陸間弾道ミサイルなどによって運ばれる核兵器のことです。 その内,実際にミサイルに積まれていて,すぐに発射可能な状態にあるものを配備核弾頭と呼びます。現在ロシアはそうびいています、これを使わせない為にウクライナ支援に消極的な方法をとっているが、今後支那、北朝鮮で戦略核を開発し装備すれば米国は手が出ない出せない状態になる。

この核武装の事は地球上唯一の被爆国である日本は非核三原則があり未だ続いているが、日本国憲法を米国が勝手に決議し未だその憲法を使う日本は、今も原潜、原子力空母が日本の占領港に停泊中の船舶は原爆を搭載しているが誰も注意しない、出来ないのが現状である。幾ら核反対を叫べども現実は核は排除できない、日本は核の開発を行い平和利用の道が最良でもあるが、実際支那、朝鮮、ロシア等争い大好きな国の隣国に位置する日本は憲法改正し隣国と対等に話し合いしなければならない、その為には戦術核装備しなければ話も出来ないであろう。核反対は理解できるが冷静に考えれば、これこそが冷静で隣国等と話の出来る下準備いや条件でもある。全て反対と言う諸氏よ現実に今やウクライナに戦争が起こっている事が事実である。



昨年11月のフォーリン・アフェアーズ(1922年にNYの米外交問題評議会によって創刊された外交専門誌)にダリル・プレスと云うダートマス大学の教授とキア・リーバと言うジョージタウン大学教授が二人とも有名な戦略各学者が、戦略核を持っている国には米国は手を出せないと発表しているそうです。

この為米国の通常戦力は出て来れなくなったしまったそうです。フォーリン・アフェアーズの一番読まれたいる外交雑誌で、日本人のそこに明記してある外務省並び自衛隊のトップレベルの人が読んで無い事が問題である。特に日本人は戦術は大好きで研究も盛んだはあるが、事戦略は周りが海に囲まれ外敵から身を守られた歴史が長いので戦略については、知的好奇心を無くしてしまっている。特に外務省、防衛省、財務省についてはグランドステージを想像する能力が無い、特に石破総理に教えても時間の無駄であると思う。
但し現在隣国の「支那」が勢いが弱体化しこの先共産党の変化がどの様に動くのか不明であるが、日本も次期選挙にまともな国になる様真剣に日本の未来を塾考する事を思う。

今後米国にて大統領選挙が開催されトランプに大統領がなった場合はどの様になるのであろうか心配である、トランプとの会話に対応できる総理でないと困るのである。衆議院解散総選挙では自民敗退し違う野党ではグランドデザインを描ける人物も居なく、せめてお金に綺麗な人物で良い意味にて日本の未来を描ける人が選出される事を望むしか今はないのが現状である。
最後に一言は親の時代から親中議員の河野太朗も立候補したが化けの皮が剥がれ失墜したことは大変喜ばしいことであった。しかし民意を反映させない総裁選は以下であろう、今やまともは政治家は不在で、色・欲と金に塗れた政治屋ばかりである現状が情けない!

学生時代に学んだ歴史と全く変わった日本の古代史、今蘇る日本の縄文文明を纏めてみた、Part I

2024年05月29日 | 歴史(世界史/日本史)の考察

45億年前に誕生した地球の歴史は、昔興味本位で観た1968年に上映された今から65年前映画「2001年宇宙の旅」のアーサー・C・クラーク(Sir Arthur Charles Clarke)の映画を思い出す。テーマ曲も衝撃的なニーチェが説いた"超人"の思想を寓話的に描いた哲学書の「ツァラトゥストラかく語りき」は衝撃的であり今も映像と共に記憶に残る曲でもある、又アーサー・C・クラークはイギリス出身のSF作家。20世紀を代表するSF作家の一人であり、科学解説者としても知られている筆者も若い頃「人間に未来はあるか」も読んだが中々興味ある内容と記憶する。

最近ホモ・サピエンス全史なる上、下巻の本が発売されてますが、これが実に驚きの連続であり興味のある方はご覧ください。面白い内容は何故肉食動物は食後ダラダラする時間が必要であるのかの秘密であり、人類誕生の250万年前は猿人も動物同様であり200万年程は他の動物同樣にその生活を続けるのであるが、勿論ヒト族も火を使うまでは肉食動物同様随分長い間、一日中ダラダラした暮らしていたそうである。食物を火によって焼いたり、煮炊きする様になり腸が長さが極端に短くなり消化が劇的に早くなル、又行動時間が著しく増したのである。

それと此のホモサピエンス族だけは認知革命(嘘を信じる)を起こして又他のヒト族違い匂いには敏感な種族で多くのヒト族を滅ぼしホモサピエンス族は残り僅か我々の中にはネアンデルタール人およびデニソワ人由来のDNAが残り当初は交配もしていた事が証明される。特にネアンデルタール人は脳の大きさ、腕力は勝りホモサピエンスが不利であったが「認知革命」により圧倒的に団結力が優った。認知革命は、認知科学と呼ばれる諸学問を生み出した、1950年代に始まった知的運動の総称。 学際的な連携と研究が大規模に進行する現代的文脈の中で始まった動きである。
本編は認知革命の説明をしているが、簡単に説明すると「嘘」が言える様になった事と解いている例えば現在の宗教、国家、お金(紙幣)は絶対的な価値は無く、皆で決めた価値観なのである。一番興味深い事は現在は紙を印刷し、此れをお金の代用品としているが、これは実際は確かに紙であり紙の価値しかない物を虚構と言う噂により流通させたのがヒト族「嘘」の恐ろしい所でもある。正に噂を信じて団結させた社会こそがサピエンス族の頂点になれた認知革命の話でもある。因みにネアンデルタール人は1万2千年前に絶滅しているそうです。



2001年宇宙の旅本編では、太古の昔1匹のヒトザルは、謎の石をきっかけに武器を使うことを覚え、生物の頂点に君臨する。時は過ぎ、人類が宇宙を旅する時代。米国のある博士は謎の石の調査のため月へ赴く。やがて調査が進む中、石は木星に向けて移動し木星から信号を発する。
勿論此のストーリーはミステリーに富んだ人間の歴史の物語でもあった、しかし我々がホモサピエンスと想像すれば出土したのはアフリカであるがヒトザルが樹木から地上に降りた時代には緑豊で食物の豊富であったのであろう・・・当然当時のアフリカは砂漠ではなく森林が広がる世界であったであろう、食物が豊富にあることは生きる為には最低条件でもある。
ヒトザル達は現在の欧州に行くもの、エジプト方面に行くもの、インドを目指すものと色々他方に暮らし易い所に向かった。
ヒトザル達は先ずは火を使う事を覚え、食料、語源、信仰と追求であろう、ヒトザルからホモサピエンスが永遠と感じたものは信仰心の永遠の太陽であったのであろう・・・アフリカで新しい生命となったホモサピエンスは太陽の昇方角に超生命体を感じたホモサピエンスが東を目指したのであろう。

勿論仮説であるが、これがホモ・サピエンス族は認知革命を信じた者たちが極東を目指したその道中に色々な種族と交わり極東にたどり着けやがて定住し縄文時代の幕開けなのであろう、当然或程度の航海技術を持っていないと台湾付近の黒潮の強い流れを克服できないからである。



これは欧州全体から地図を見れば日出るくには日の元であろう。その先は太平洋の海が広がる島であった。日本のルーツを歴史書等を紐解き幾ら読んでも答えは出ないのである。それでは筆者が考える倭人のルーツを推理しある程度納得できる様纏めてみる事にした。
勿論市の図書館にも通い、色々な本を見ながら参考記事の収集、インターネットによる検索、此処2〜3年に行った博物館、青森の三内丸山遺跡等を参考にした、何か学生に戻った様に感じた、A4のコピー用紙をメモ用紙に参考文献等は記載する、後日その記事を見ながらキーボードに打ち込み記事内容を書き込みした。計画とは意外と時間が必要であり久し振り漢字を書く行為は可成り下手な文字になっていた(笑)
下の写真がメモ用紙である、何と学生時代の比べ文字の大きさも大きく年代を考えるは算盤が有利である。



日本人もアフリカから来たのであろうか?或いはジャワ原人の様に何処かのアジア諸国から来たのかは最新のテクノロジーDNA解析で判明するがかなり特色は違えどアフリカ方面から混血種と変貌し現在の日本人となったと言われるルーツが一番正しい様である。

理化学研究所資料提供でゲノム解析資料も掲載(日本人集団の遺伝的構造、ネアンデルタール人およびデニソワ人由来のDNAと病気の関連性、そしてゲノムの自然選択が影響を及ぼしている領域を複数発見しました。日本人の祖先に関わる三つの源流(縄文系祖先、関西系祖先、東北系祖先)の起源を明らかにしました。また、現生人類(ホモ・サピエンス)の最も近縁とされる古代型人類ネアンデルタール人やデニソワ人から受け継いだ遺伝子領域を特定しました。一部の日本人が持つNKX6-1遺伝子領域は、2型糖尿病リスクと関連しており、この領域がデニソワ人由来であることが明らかになりました。さらに、日本人の遺伝子における自然選択が作用している領域も同定しました。)
以上の様な解析書があり日本の土壌は弱アルカリ性の為人骨はほとんど溶けて無くなっているが、偶に貝塚に埋められた人骨が発見される程度である。日本の縄文文化は1万4,000年続く歴史と現在日本国地には14,000件以上の古墳は見つかっており数も世界各国と比べ異常な程多いと言われる。長く続いた縄文の歴史を数枚の容姿に表すことは所詮無理な話であるが、興味本位にまとめて見た。



不思議なことに日本全国の遺跡は圧倒的に関東以北が多く、一般的に考えれば暖かな南が暮らしやすいと思うが、当時怒った大被害があった、その後、1,000年近くは無人の地となったようです。

縄文時代の中の最大の事件である、南九州での遺跡は上野原遺跡から判明する鬼界アカホヤ火山爆発の事実。「鬼界カルデラ」は、北西∼南東の長さが約25㎞、北東∼ 南西が約15㎞の楕円形をしていて、複数の巨大噴火によって形成された、いくつかの カルデラが複合してできたものと考えられています。

鹿児島県霧島市の高台にある縄文時代から弥生時代を中心とした複合遺跡。 特に,北側(第4工区)では,約10,600年前(縄文時代早期前葉)の竪穴住居跡などが発見され,「国内最古,最大級の定住化した集落跡」であることがわかりました。



発掘調査では17層の土層について調査され、1層目から9層目までの範囲で遺跡が確認された。 
 1層目: 桜島の火山灰を含む現代の農耕土。土師器や陶磁器が確認された。 
 2層目: 黒色土。山之口式土器、中溝式土器、竪穴建物跡6棟が確認され、近世から中世にかけての遺跡とされる。 
 3層目: 暗茶褐色土。掘立柱建物1棟、石皿、石斧などが確認され、古墳時代から弥生時代にかけての遺跡とされる。 
 4層目: 桜島の火山灰を含む薄えび茶褐色土。多数の土坑、黒川式土器が確認され、縄文時代晩期の遺跡とされる。 
 5層目: 桜島の火山灰を含むえび茶褐色土、および鬼界アカホヤ火山灰を含む明橙色土。 
 6層目: 桜島の火山灰を含む灰茶褐色土。 
 7層目: 黒褐色土。様々な種類の縄文土器に加えて集石遺構56基、土坑3基が確認され、縄文時代早期中葉から前葉の遺跡とされる。 
 8層目: 桜島の火山灰を含む黒色土。前平式土器、撚糸文土器が確認された。 
 9層目: 暗茶褐色土。竪穴建物跡、集石遺構、連穴土土坑、前平式土器などが確認された。この層と直下の10層目との間に縄文時代早期前葉の遺構が挟まる形になっている。
この遺跡の鬼界アカホヤ火山灰前の遺跡から底の部分が平らな土器が発掘されかなり進歩した縄文期の土器と同じであり火山爆発以前の南九州での文化は相当進歩していた、ヒエ、アワ等穀物の苗もあったと思われる。



当時縄文人は土器を使っていたが土器を直接火に掛け「煮炊き」をした訳である当然器の土器も窯の様なもので焼いていたのであろう、要するに徐々に「火」を制するのであり高音な温度を操作する様に進化し、銅、鉄は熱により溶ける(溶解)を体得し後に高音の火の作り方を体得し弥生時代には銅鐸、農機具などを磨製石器から金属製(青銅〜鉄)に変換して言ったと考えられそうである。

此処で明らかに理解できることは鬼界アカホヤ火山爆発以前から縄文人達が暮らしていた事である。日本人の祖先三つの源流である。
意外に此処での疑問は鬼界アカホヤ火山噴火は、縄文時代 の7,300年前、鹿児島南方にある 硫黄島・竹島付近で起こった巨大海底 火山噴火です。縄文時代早期の終わりに起こった鬼界カルデラ(大隅海峡にあるカルデラ)の大噴火によって壊滅的な噴煙被害を受け、前期以降は、ほぼ住民がいなくなった地域です。



日本で最後に巨大カルデラ噴火の悲劇が起こったのは、今から7300年前、縄文時代に遡る。縄文時代早期の日本列島では、南九州で成熟した縄文文化が発達していたという。本州ではまだ先の尖った尖底土器を使っていたのに、南九州では既に平底型の土器が使われていたのだ。 尖底土器は、屋外で地面に穴をあけてそこに立てるように置いて使われていたものらしい。 一方、平底土器は住居の中での調理や貯蔵にも使うことができた。すなわち、平底土器の出現は、縄文人のライフスタイルが定住型に変化した証拠だと言われている。

此処で話は前後するが地球が誕生してから46億年の歴史をさらに長い目で見ると、地球は約10万年ごとに暖かくなったり(間氷期)寒くなったり(氷期)を繰り返してきたことが分かっています。その度に地球の海の高さは100メートル以上も変動してきたのです。その様子は、まるで呼吸をするたびに胸が上下するかのようです。
ちょっと信じられないかもしれませんが、現在の地球は、約3500万年前に始まった比かく的気温が低い氷河期のまっただ中にあります。 氷河期はさらに、とても寒い時代の氷期(ひょうき)と少し暖かくなる間氷期(かんぴょうき)にわけられ、現在は間氷期にあたるそうです。

縄文時代が始まる前の、旧石器時代は、とても寒い気候の様でした。 氷河期といって、いちばん寒いときは、年間の平均気温が今より7〜8度も低かったとされています。 氷が地球をおおい、海面の高さは、今より100メートル近く下にありました。 地球の気温がだんだん上がり始めたころ、縄文(じょうもん)時代が始まりました。
例えば人類が産業活動を始める前、約7000年前の縄文時代も温暖でした。 この頃は今よりも2〜3℃気温が高く、海の高さは今よりも3〜5メートルほど高かったと考えられています。



上記はその当時の地図であり縄文の海は、広かった!次の温暖な時期が来れば当然の如し地図で示す様に埼玉の久喜等は昔で言えば奥江戸湾の海の中である。

そのようなことを知ると、当時は"日本が温暖であった「縄文海進」の時代には、 極域に存在する氷床が約7000年前ころに融解したために海面が上昇し、 その後寒冷化すると再び氷床が拡大して海面が低下した"と考えられがちですが、「縄文海進」の原因として、 この考え方は正しいとは言えません。「縄文海進」の正しい原因を考えるヒントは、 かつて北アメリカ大陸やヨーロッパ大陸に存在した氷床が残した地形と世界中の海岸の地形の分布に隠されています。
 最終氷期と呼ばれる今から約10,000年以上前の時代には、 北アメリカ大陸やヨーロッパ大陸の北部には現在の南極氷床の規模にも匹敵する厚さ数千メートルにも達する巨大な氷床が存在していました。 これらの氷床は、約19000年前に最大に達し、それ以降急激に融解し、約7,000年前までには、ほぼ完全に融けきってしまったことが、 氷河の後退過程で削剥・運搬されて残された地形や堆積物の研究からわかっています。 ところが、約7000年前以降に、海面を数メートルも低下させるような氷床の再拡大を示す地形の証拠は確認されていません。

「縄文海進」とは、約7,000年前ころ(縄文時代に含まれる)に、現在に比べて海面が2~3メートル高くなり、 日本列島の各地で海水が陸地奥深くへ浸入した現象をさします。 この時代には日本列島の各地に複雑な入り江をもつ海岸線が作られました。その後海面は現在の高さまで低下し、 かつての入り江は堆積物で埋積されて、現在水田などに利用されている比較的広く低平な沖積平野を作りました。 この海進の現象は日本では東京の有楽町で最初に調べられたこともあり、地質学的には「有楽町海進」、 あるいは「完新世海進」とか「後氷期海進」などと呼ばれています。花粉化石や貝化石の研究に基づくと、 「縄文海進」の時期の日本列島は、今よりも数℃以上気温、水温が温暖な時期であったことも推定されています。



縄文海進当時の流通経路を考えてもわかるように、最初誰が発見したのか分からないが、黒曜石採取に神津島まで航海しそこから日本全国に届ける事ができた様で、全ての日本遺跡より出土されている黒曜石の流通は一番遠くはロシアまで運ばれている事と、ある程度の定期航路は運行したと考えられる、後は貝殻の腕輪、飾り物の瑪瑙等貴重品を運搬したとも考えられる。縄文海進時代の後悔は環フィリピン海経済圏も含め暮らす海洋人も暮らしていた様にも思う。

此処で一つの仮説を立てる、船に用いたものは当初は「葦船」から底の深い「丸木船」に布を帆に加え帆船の如く自由にしかも相当な広範囲に海を航海してのではないであろうか?実験にて当時の磨製石器を使い直径100サンチ長さ8M程の丸木船の製作は仕上がり後に内面を火によって焦がしその後黒曜石で表面を仕上げ水漏れも防ぐことが出来たそうである、製作には一番肝心な事は寸法の基本であるが当時の成人男性の戸を広げた(例えが1ヒロ160センチ)と仮定する等工夫を凝らしてのであろう、後期は成人男性20名で2か月程製作日数が必要で生活を考えれば男性20名女性20名子供60名合計100名の集団が必要で公開の為のメンテナンス等自作の丸木船の計画等に他には丸木船航海士も必要で総勢150人程の集落は必要である。丸木舟に関しては以前の筆者のブログで

この様にして徐々に縄文人達は航海範囲を広げていったのであろう、これは一つのプロ集団を作らなければ上手くいかないのであろう。これは日本が海に囲われた国であり海上航海がある程度の荷物運搬にも適した方法であった。時は江戸時代も水路を利用した海上運搬である、勿論現在も輸送は大型コンテナ船で貿易を行い縄文時代も基本は変わらない様である。
この様に日本の縄文遺跡の発見は世界的に見ても確かに異常であり、お隣韓国では50箇所以下であり、日本は一万箇所以上が認められている以上再度調べ直し研究は怠らない様に努めなければならない。



此のような航海技術が豊富で経験も豊かな縄文人は鬼界アカホヤ火山爆発で南九州は住めなくなり避難先に朝鮮南端、長江下流域に避難したのではないであろうか?その頃朝鮮半島には人間は住んでいなく避難場所とは住み良い場所だったのかもしれない。又支那の長江下流域にも住みやすい場所で会ったと思う。そして船に積んだ穀物を植え生活基盤を作ったと考えれば合点がゆくのだ。

他にも南九州では耳栓やツボ型土器などのモダンな道具が使われていた。何故長江と呼ばれるのであろうか此れは海からこの川を見れば大きな長い入江と見え「長江」と呼ばれるのが一番納得できるのだ。 長江流域に住む縄文人と黄河文明を起こした人種が違い度々闘争が起き武器に青銅が使われ不利になるところが、この南九州で、ある時を境に「先祖返り」が起きたのである。実に辻褄が追うのである。
支那と朝鮮に避難した縄文人が帰化し弥生文明と混じり合うではあるまいか?その後の推理はまとめ次第報告させていただきます・・・ブラボー!


「喜寿」は室町時代末期に日本で生まれた習わしであるといわれるが、77歳間近の歳になった過ごし方。

2024年05月09日 | 歴史(世界史/日本史)の考察


今朝も早朝から愛犬モジャ君との散歩です、今日はコースを梨畑とコースを変えてみた早朝5時30分ではあるが、この時間から消毒の散布する作業車を動かしていた、農園の方に声を掛け写真撮影の許可を頂き今年の梨の赤ちゃんを撮った、暫くして余分な実は摘果するのであろう・・・今年も美味しい梨に期待する。

引退生活も長くなり、あまりこれと言う趣味も持たず、毎日はBGM的に好きな音楽を流し、粗毎日同様な定期的な生活を送っているが、会社員の頃との違いは早朝から愛犬と散歩しシャワーを浴び朝食代わりに淹れたての珈琲を頂き夜は早めに休む生活のリズムが夜型から昼間型に変わった、PCのスイッチを起動しメールチェックしながら近くの市の図書館で借りた歴史書見ながら、不明事項にはインターネット検索し、改めて思うは筆者が学生時代に習った歴史書は古い時代も程正しい歴史と違い驚くやらこれは違った意味に置いて、責めて日本史程度はもう一度見直す価値はありそうである。


最近珈琲豆の在庫も減ったので美味しかった豆を選び4種類ほどの追加注文品が届くので早速新しい豆を使用し珈琲を淹れる。
頻度は2ヶ月に一度程の周期ではあるが、夏場はかなり需要は減る様である。最近購入毎に根が上がるのは早いペースでもある。



今日はエディット・ピヒト=アクセンフェルト( Edith Picht-Axenfeld)のバッハを聴きながら過ごした。

フライブルク大学眼科学の教授であり眼科臨床医の世界的権威テオドール・アクセンフェルトの娘として1914年、フライブルクで生まれた。5歳でピアノの演奏を始め、卒業試験後は当時バーゼルにいたルドルフ・ゼルキンにピアノを、ヴォルフガング・アウラー、アルベルト・シュヴァイツァーのもとでオルガンを学んだ。世界的なピアニスト、チェンバリストとして活躍。オーレル・ニコレ、ハインツ・ホリガー、フィッシャー・ディースカウ、ヘンリク・シェリング、ローター・コッホらとの共演やレコーディングなども数多い。



J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集 第1巻 24の前奏曲とフーガ
      [1]-[24] 第1番 ハ長調 BWV846~第12番 ヘ短調 BWV857
      [1]-[24] 第13番 嬰ヘ長調 BWV858~第24番 ロ短調 BWV869

J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集 第2巻 24の前奏曲とフーガ
      [1]-[26] 第1番 ハ長調 BWV870~第13番 嬰ヘ長調 BWV882
      [1]-[22] 第14番 嬰ヘ短調 BWV883~第24番 ロ短調 BWV893

2001年、87歳で他界した偉大なピアノ、チェンバロ奏者であり、教育者としても20世紀の音楽界に大きな足跡を遺したエディット・ピヒト=アクセンフェルト。バッハの譜面のすみずみまで熟知したエキスパートである彼女が高度な技術でエレガントに奏でる比類のない音色は、どこまでも暖かく聴くものをやさしく包み込みます。
いかにも厳格な感じのピヒト=アクセンフェルトの演奏はいかにもJ.S.バッハらしい風格も備わった演奏が聴けると思う、またBGMとして聴くも心穏やかになる演奏は大変重宝します。
先日筆者所有のTANNOYⅢLZ in GOODMAN AXIOM80Cabinetも若干改善の手入れをいた結果以前より落ち着きあるエディット・ピヒト=アクセンフェルトの演奏になった様である。確かに書類をまとめる作業にごく小さな音でのバッハの音楽は頭をスッキリさせる効果もある様にも思う。



先ずは縄文時代の歴史は随分当時とは違い、筆者の小学校高学年6年生時代今から約60年前の社会の教科書ではこの時期長く続いて縄文時代は1頁で終了1万年以上続く縄文の歴史が1頁とは情けないのである。
これは我々日本人が1万年以上生活した記録は弥生時代も含め精々2,500〜3,000年しか経過していないのである。この現実を想像する事により日本の歴史は大変に長いのである。
勿論隣国支那に黄河流域には文明が栄えたが、支那の書物には日本の記載は昔からあり最初は三国志時代に「魏」について書かれた「魏書」の一部、「東夷伝」のさらに一部分、「倭人(わじん)」についての記述を指します。
「魏志倭人伝」に書かれているのは、三国志が書かれたのと同じ、3世紀の日本の様子です。「帯方郡 (たいほうぐん)」の海の向こうに倭人がいること、30の国に分かれていることが記されています。
「魏志倭人伝」は長い三国志の中の、ほんの一部分に過ぎません。それでも日本人にとっては、当時の様子を知る手がかりとなる、重要な資料です。
なぜ外国人が書いた書物が、それほど重要視されてきたのでしょうか。
魏志倭人伝日本の古代史を知るうえで貴重な資料
日本で漢字が広まり、文書として残されるようになったのは、4~5世紀のことといわれています。
魏志倭人伝が書かれた3世紀の日本では、まだ文字が普及していなかったと考えられており、当時の様子が分かる文書もまったく見つかっていません。
しかし、中国人が三国志に記述を残してくれたおかげで、3世紀の日本の様子が少しだけ明らかになりました。三国志は史実を述べているうえに、同じ時代を生きた人が書いたこともあり、研究に値する重要な資料といえます。
ただし、現存の三国志は何度も書き写されたもので、字の間違いも多く、すべてを信頼できるわけではありません。魏志倭人伝によって、その存在が分かった「卑弥呼」や「邪馬台国」についても、いまだに多くの謎が残されたままです。
「魏志倭人伝」には、古代日本の政治体制や人々の暮らし、魏との関係などが記録されています。それぞれ具体的に見ていきましょう。



邪馬台国の位置や政治「魏志倭人伝」には。邪馬台国への行き方や距離が書かれています。しかし、解釈の仕方によって位置が大きく変わってしまうため、現在も、邪馬台国がどこにあったのかは分かっていません。
邪馬台国は、もともと男性の王が治めていましたが、争乱が起こったため、卑弥呼という女性が王位に就き、国をまとめたとされています。
卑弥呼は不思議な力を持つ「巫女(みこ)」で、その力を発揮して人々の支持を集め、争いを収めたと記されています。

当時の日本人の生活や風習「魏志倭人伝」には、日本人(倭人)が、魚や貝を好んで食べていたことや、馬やトラ、羊がいない代わりに、サルやキジがいたことなどが書かれています。
また、卑弥呼が住んでいた場所には、宮殿や物見やぐらがあり、その周囲を柵で厳重に囲われていました。卑弥呼が亡くなったときには、大きな墓が造られ、100人ほどの奴隷が「いけにえ」になったとも記されています。
当時の日本人の生活や風習がよく分かる内容といえるでしょう。
国内の争乱を収めるために、大国の力を借りようと考えた卑弥呼は、魏の皇帝に使者を送ります。
そのころ中国では、漢が弱体化して三国時代に突入したことで、それまで漢に朝貢していた周辺の国々が背を向け始めていました。
そのようなときに、傘下に加わりたいと、はるばるやってきた卑弥呼からの使者に、魏はたいそう喜びます。
皇帝は卑弥呼を支援することを決め、「親魏倭王 (しんぎわおう)」の称号や金印、銅鏡百枚などを与えたのです。
実際に邪馬台国が他の国と争いを始めたとき、卑弥呼の要請に応じて魏は支援を決めます。しかし、間もなく卑弥呼が亡くなったため、魏が動くことはありませんでした。
卑弥呼の死後、邪馬台国では男性の王が即位しますが、他国の反感を買い、日本(倭)は再び戦乱の世に逆戻りします。
女王の不思議な力がなければ国を治められないと考えた邪馬台国は、「壱与(いよ、とよ)」という少女を後継者に選びました。
魏との外交も続いていましたが、魏志倭人伝の話は、266年に使者がやってきた時点で終わっています。その後の邪馬台国がどうなったのかについては、どこにも記録が残っていません。
「魏志倭人伝」に登場するさまざまな情報の中でも、特に注目されているのが邪馬台国です。
邪馬台国があった場所はもちろん、本当に国名なのか、邪馬台国の表記自体が誤りではないかとの説もあります。現在分かっている邪馬台国の情報を見ていきましょう。



邪馬台国があった場所には、諸説あります。
「魏志倭人伝」には邪馬台国への行き方が記されていますが、記述の通りに進むと太平洋上になってしまうことから、方角か距離のどちらかが誤りだったのではないかという推測のもとに、研究が進んでいるのです。
「魏志倭人伝」に記された卑弥呼の政治手腕や周辺国との関係を踏まえて、邪馬台国の場所を特定しようとする研究も行われています。
現在、邪馬台国の場所として有力候補に挙がっているのは、「畿内(きない)」と「九州」です。それぞれの説について、具体的に紹介します。
邪馬台国の場所を特定する研究は、江戸時代から行われていました。江戸時代前期の歴史家は「邪馬台」が「ヤマト」と読めることから、邪馬台国は大和国(やまとのくに、現在の奈良県)だったと考えます。
帯方郡は、現在の朝鮮半島におかれた中国の郡です。中国から見て朝鮮半島の海の先にあるわけですから、まさに日本のことを表していると分かります。
三国時代以前の漢の書物にも、日本に関する記述がありますが、そのときは100を超える国があったとされています。
中国で国が三つに分かれていたころ、日本では100以上もあった小さな国が統合され、30国ほどになっていたのです。
「魏志倭人伝」は長い三国志の中の、ほんの一部分に過ぎません。それでも日本人にとっては、当時の様子を知る手がかりとなる、重要な資料です。
なぜ外国人が書いた書物が、それほど重要視されてきたのでしょうか。



三国志時代も終わり隋の時代になり倭国の記実が現る。
後は隋(王朝) (581年〜618年)南北朝の分裂を統一した中国の王朝の頃『隋書』は、二十四史の一つで第13番目にあたる。中国大陸史の中における隋代を扱った歴史書。志の部分だけは通史である。その頃は日本国も同時期の「日本書紀」推古朝は女帝の時代にあり、倭王が 誰にあたるのかは定説がない。
当時支那は漢字の書物が用いられ、漢文が書かれた書物が流通していた。表題も「隋書倭国伝」の中に倭国の記載は列伝第46条東夷伝の中にある隋書倭国伝に位置、地勢、倭国での順路、倭国の気候、暮らし、習慣や支那との関係等詳しく述べれれている。

この当時仏教の伝来し、権力争いの火種となり豪族の間で仏教を受け入れるかの意見が分かれ派閥が出来上がる。朝廷では蘇我馬子(蘇我 馬子は、飛鳥時代の政治家、貴族。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた。 敏達朝で大臣に就き、 以降、用明天皇、崇峻天皇、推古天皇の4代に仕えて、54年にわたり権勢を振るい、蘇我氏の全盛時代を築いた。)
当時朝廷内の蘇我馬子が推古天皇が即位し飛鳥時代が始まり、朝廷を中心とする中央政権化が進み592年に初の女性天皇である推古天皇が即位する593年にその甥である聖徳太子が摂政となる蘇我馬子と協力し天皇に忠誠を目指した。



上記の写真は聖徳太子の幼少の頃とされる。

その後聖徳太子が603年(推古天皇11年)に制定した「冠位十二階」(かんいじゅうにかい)は、優れた人物であれば身分に関係なく取り立てられる制度で、旧来の豪族の力を弱体化して天皇に権力を集中することが目的でした。しかしこの制度が導入されたあとも蘇我馬子は権力の中心にいたことから、聖徳太子を背後で操っていたのが蘇我馬子であったと主張する歴史家もいます。



603年には家柄には関係なく優秀な人材を登用を目的とした冠位十二階(大徳・小徳・大仁・小仁・大礼・小礼・大信・小信・大義・小義・大智・小智の十二種からなる位階である。 この名称は、儒教の最高の徳目である徳をはじめにおき、人のおこなうべき五つの道、仁・義・礼・智・信の五常を加えて六つとして、それぞれ大小にわけて十二にした。)604年に初めての憲法でもある。政治に関する人々に道徳や心構えを説いた憲法17条を制定した。内容は以下の通りである。
 第1条:和(仲良くすること、争わないこと)を大切にせよ。
 第2条:仏教を信仰せよ。)
 第3条: 天皇の命令には必ずしたが従え。)
 第4条:身分の高い人も低い人も、礼儀作法・ 儀式などの社会的・道徳的な  決まりにもとづく行いをすれば、国は自然に治まる。
 第5条:裁判をする人が、賄賂を貰って、金持ちに有利な裁判をすることをやめ裁判を公正にせよ。
 第6 条:人のよい行いをほめ、悪い行いを改めさせよ。
 第7条:その役職に適した人を 選べ。
 第8条:勤勉に仕事をせよ。
 第9条:すべての事にまごころをもってあたれ。 
 第10条:いかりをおさえて表面に出さないだけでなく、心を広くもって人の失敗 をゆるせ。
 第11条:功績と悪事を見分けて、賞ばつを公平に行え。
 第12条: 租税 を取る権利があるのは天皇だけだから、役人が勝手に租税を取ってはならない。)
 第 13条:自分の担当する仕事や役目をよく知れ。
 第14条:人をうらやんではなら ない。
 第15条:地位を利用して、自分の利益をはかってはならない。国や民のた めにつくせ。
 第16条:農閑期を利用して民を使うのは昔からのよき教えであ る。
 第17条:重要な事を決めるときは、おおぜいの人と相談せよ。そうすれば、 人々を納得させるような理(道理、理論)が必ず見つかる。

現在日本の政治問題で問われる事についはこの内容をよく理解した上にて議院バッチを付け、守れない場合は即刻辞職する。1,500年以上前の憲法17条を基本にすれば全て上手く捗る、まず政治家自身上記の記載をよく遵守する事は最低の国民との約束ごとでもあろう。当時この後607年に小野妹子を遣隋使として隋の国に送っている、又隋の歴史書に於いても隋書倭国伝に記載される。

確かに当時は海の向かいの支那に漢文、政治に関する冠位十二階等は学んでいるが、当時の支那の学術を日本風にアレンジし日本人が使いやすい様にした所は見逃せない所でもある。


推古天皇陵

隋の中央官僚には十二等級あり
大徳・小徳・大仁・小仁・大義・小義・大礼・小礼・大智・小智・大信・小信と並び日本の並び順とは異なっていた。「徳・仁・義・礼・智・信」となっていた様である。日本では「徳・仁・礼・信・義・知」と教えた。又冠位十二階は儒教の影響が強い当時の隋では影響を受け水を真似し日本に導入されたと考えたが、隋の時代の儒教では五徳の徳の教えが「仁・義・礼・智・信」が重要視され「仁」人を思いやる事「義」利欲にとらわれない事「仁」守るべき事「智」通りをよく知るえる人「信」真実を告げ約束を守り誠実である事と述べている。儒教ではこの順番を重要視され隋書が正しいと思われるが日本人の法制度はこの順番を変更し冠位十二階を定めたであろう。しかし720年には冠位十二階は無くなってしまった。

この様に祭り事を行う政治家、役人が昔決められた冠位十二階も学ぶ事なく現在の政治を決める政治は真の平和な世界が作れるのであろうか?
以前トランプ大統領選挙の結果が発表された時に、高々200年の歴史しか持たない米国の判断は本当に正しいのであろうか、日本は世界でも歴史の古い伝統ある国の判断を聴きたいと叫んだトランプ大統領の言葉が今も残る言葉でもある、所詮先の戦争で与えられた日本国憲法も官僚、政治家が冠位十二階をよく学びた後に新たな日本に相応しい日本国憲法も視野に入れた新しい憲法が必要な時を迎えて様にも思う。
昨今の大臣の態度は最悪でもあり、日本人としての品格も疑われる現在の政治家には基礎教育が必要であり実に情けな無い時代となっているのが現状でもある。