伝統ある英国のTANNOY IIILZで聴く、音楽の父J.S.バッハ音楽を知る喜び・・・

音楽好きのIIILZ Monitor Goldユニットの箱を改良して楽しむダメオヤジ金ちゃんです。

今何故オルガ・シェップス(Olga Scheps):ショパンのピアノ曲を聴くのであろうかの考察

2023年10月26日 | 歴史(世界史/日本史)の考察

彼女は幼い頃からすでに、強烈な感情と強力な表現力、並外れたピアニスティックテクニックを組み合わせた独自のキーボード演奏スタイルを確立していました。オルガ・シェップス(Olga Scheps)は1986年、モスクワ生まれ、6歳の時にドイツに移住。現在はケルン在住。ケルン音楽・舞踊大学でパヴェル・ギリロフに師事。更にアリー・ヴァルディ、ディミトリ・バシキロフなどの元でも研鑽を積む。また、アルフレート・ブレンデルからは、ここ10年近く重要な芸術的刺激を受けている。
現在オルガ・シェップスはスタインウェイアーティストです。

ここで簡単にフレデリック・フランソワ・ショパンは(Fryderyk Franciszek (Frédéric François) Chopin)を説明すれば、ポーランド出身の、前期ロマン派音楽を代表する作曲家。当時のヨーロッパにおいてもピアニストとして、また作曲家としても有名だった。その作曲のほとんどをピアノ独奏曲が占め、ピアノの詩人とも呼ばれるようになった。美に対して厳しい完全主義者であったと聞く。今も親しまれる21曲の《ノクターン》は、ショパンによる短いながら詩的な偉業だ。特に筆者が好きなアルフレッド・コルトーの演奏、バッハの平均律クラヴィーアの如く、ショパンの24の前奏曲 作品28も厳格なルールに則った曲集である様にも思う。演奏は古いがこれ以上の演奏は見当たらない。



此れはあるピアノ好きな友人から勧められ、一枚のアルバムを聴き最近何気なく流しているのが、オルガ・シェップスOlga Scheps:Chopinである。このアルバムは、2009年に録音されたもので、最後の「幻想曲」のみルール・ピアノ・フェスティヴァルでのライブ。内容も初心者にも喜ばしい曲が満載で音質も大変良く、ピアノ演奏の音質が豊であり実に美しい。聴き終わりに感じる何とも言えない優雅な気持ちになることも嬉しくなる事でもある。
 フレデリック・ショパン
  1 Trois Nouvelles Etudes Nr. 1
  2 トロワ ヌーベル エチュード Nr. 2
  3 トロワ ヌーベル エチュード Nr. 3
  4のエチュードop. 10番 3
  5 エチュード op. 25番 12
  6 マズルカ op. 63番 2
  7 マズルカ op. 63番 3
  8 バラード op. 23
  9 ノクターン op. ポスト。
  10 ヴァルス op. 69番 1
  11 ヴァルス op. 69番 2
  12 ノクターン op. 27番 2

筆者の古い今や発売後50年以上経過したステレオ装置で鳴らすが、今も変わらず大変素晴らしい演奏で聴けるのでした。タンノイの10吋IIILZ Monitor Goldユニットでのピアノ再生は実に綺麗な音で鳴ってくれる、ピアノソロの美しい膨よかな鳴り方のショパン演奏は何故か、心穏やかにされる様でもある。
この様な音が出るまで試行錯誤した結果が今鳴っている音なのだと思う。



Live盤なのではかなり特徴のある演奏に思えましたが、こちらのCDではすごく説得力のある演奏と思わされ事で満足します。さすがショパンはピアノの詩人とは良く言ったものだと思う次第でもある、これはしばらくは秋の夜長の定番となりそうでもある。それとオルガならではの個性味あふれる小品集で、ピアノ音楽の美しさを感じる一枚も加える。曲も誰もが知る曲も満足するところである。

2015年発売の「ヴォカリーズ」以来のオルガ・シェプス待望の小品集は、プレイリストにも最適なリラックスできるピアノ名曲集。



選ばれた曲はかなり面白くもあり。どれもシェプスの大好きな曲ということで、もちろんショパンの「夜想曲第2番」や「エリーゼのために」、「トルコ行進曲」などの耳慣れた曲は散りばめられているものの、アルバムのほぼ半分を占めるのは1950年以降に生まれた、いわゆる同時代作曲家の作品。あまり気を使わずBGMで聴くも良しと言えるアルバムでもあろう。

オルガ・シェプス:Melody
 1. ヘルビッヒ:夕べに(Am Abend)
 2. ブラームス:間奏曲 イ長調 Op.118-2
 3. J.S.バッハ:協奏曲 ニ短調 BWV.974~第2楽章アダージョ(原曲 マルチェッロ:オーボエ協奏曲ニ短調)
 4. エイナウディ:Una mattina
 5. ショパン:夜想曲 第2番 変ホ長調 Op.9-2
 6. ゴンザレス:Armellodie
 7. ベートーヴェン:エリーゼのために WoO.59
 8. グルック/ズガンバーティ編:メロディ(原曲 『オルフェオとエウリディーチェ』~精霊の踊り)
 9. グリーグ:抒情小曲集 第2集 Op.38~メロディ
 10. J.S.バッハ:イタリア協奏曲ヘ長調 BWV.971~第2楽章:アンダンテ
 11. エイフェックス・ツイン:Avril 14th
 12. ビバン・バッティ&ケタン・バッティ:ムソルグスキーによるプロムナードIIのメロディ
 13. モーツァルト:ピアノ・ソナタ第11番イ長調 K.331~第3楽章:トルコ行進曲
 14. ゴンザレス:オルガ・ジーグ
 15. ショパン:夜想曲 第8番 変ニ長調 Op.27-2

ただしイタリア協奏曲ヘ長調 BWV.971流れ出すと今までとは違ったバッハを感じた、何故かいくらかスマートなオシャレ感のあるバッハが感じられた、彼女の中でのバッハ像が描かれている様でもあると思った。
最近この様な綺麗な曲を聴くのかと自分自身に尋ねると、多分現在の世界情勢が大変乱れているための逃避行では無いのであろうか・・・?とも思う。心和ませるには音楽の優しさ、美しさは必要でもあろう。

今やこの中はグローバル化しYouTube配信ニュース等で最新の情報を得られる、筆者等の無力な者は情報を知ることも大変怖い事だともおまいますが、皆さんはいかに考えているのでしょうか。日本政府も不安定な政治局面になり何も出来ない何もしない総理のみ息巻いている状態も不安である。勿論愛変わらず変わり映えのしない野党でもあり先行き不安状態は明白の様でもある。
現在中東問題で世界を騒がせているイスラエル地区の問題での発端は宗教問題であるように思う。



この地図は大阪の地図ではあるが、信長が欲しかった商業都市としての大阪周辺の繁栄した土地であり、その後秀吉が大阪城を完成し大繁栄に至り太閤人気が上がるが、大阪の冬の陣で消滅した大阪を家康が改築して現在の大阪城に成っているが、昭和6年(1931)市民の寄付金によって復興されました現在の商業都市大阪である。宗教戦争の顛末でもある・・・・。

実は日本も15〜16世紀頃宗教戦争を体験した国である、信長が一向宗と11年間戦いつ付け大阪石山本願寺も顕如(けんにょ・本願寺法主(ほっす))が降伏して、畿内の隅に逃げも平静になりまし。これも間違いなく宗教戦争である。
確かに歴史的に考えれば、古くからの摂津国東成郡生玉荘大坂にあった浄土真宗の寺院は仏閣作りは巨大な建造物が多い、大阪に新天地として開いた本願寺は城壁と天守閣さえ有れば、難攻不落の要塞であろう、勿論税も無く、死んだ次の世界も極楽に導かれる浄土宗はこの世の極楽でもあったのであろう、当初親鸞は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の仏教家。親鸞聖人と称され、浄土真宗の宗祖とされる。 法然を師と仰いでからの生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる親鸞は、鎌倉時代前半から中期にかけての日本の仏教家。親鸞聖人と称され、浄土真宗の宗祖とされる。 法然を師と仰いでからの生涯に亘り、「法然によって明らかにされた浄土往生を説く真実の教え」を継承し、さらに高めて行く事に力を注いだ。自らが開宗する意志は無かったと考えられる親鸞聖人は、29歳の時、比叡山の仏教と決別し、道を求めて聖徳太子ゆかりの六角堂に籠こもられました。そして、95日目の暁あかつき、聖徳太子の夢告むこくにみちびかれて、法然上人ほうねんしょうにんのもとをたずねられます。法然上人は、だれに対しても平等に「ただ念仏もうしなさい」とお説きになっていました。親鸞聖人は、この教えこそ、すべての人に開かれている仏道であるとうなずかれ、法然上人を生涯の師と仰ぎ、念仏者として歩み出されました。



当時信長と戦ったのは顕如であり、お経さえ唱えれば浄土に行けると解いた浄土宗での教行信証である。また政教分離は当時から問題視された様でもある。しかし筆者から思えば仏の上に神がいる日本には八百万の神は座す事実がある事を皆は承知していた傾向がある、古事記に纏わる神代の時代背景の存在が大きいのではあるまいか?

正信偈(しょうしんげ)は、私たち真宗門徒にとって、古来からお内仏ないぶつの前でおつとめしてきたお聖教(しょうぎょう)です。親鸞聖人は、仏教の教えが釈尊しゃくそんの時代から七高僧しちこうそうを経て、自分にまで正しく伝えられてきたことを、深い感銘をもって受けとめられました。この「正信偈」は、親鸞聖人がその感銘を味わい深い詩(偈文げもん)によって、後の世の私たちに伝え示してくださったものです。

御文(おふみ)第8代蓮如上人れんにょしょうにんが、ご門徒たちに宛てた「お手紙」で、真宗の教えがわかりやすく、しかも簡潔に書き表されています。当時(室町時代)の「御文」は、ご門徒に広く公開され、法座につらなった読み書きが出来ない人々も、蓮如上人の「御文」を受け取った人が拝読するその内容を耳から聴いて、聖人の教えを身に受け止めていかれました。「御文」は、現在約250通が伝えられており、その中で、1471(文明3)年から1498(明応7)年にわたる58通と、年次不明の22通の合計80通を5冊にまとめた『五帖御文ごじょうおふみ』が最もよく知られています。

浄土真宗は、鎌倉時代の中頃に親鸞聖人によって開かれましたが、その後、室町時代に蓮如上人(れんにょしょうにん)によって民衆の間に広く深く浸透して発展し、現在では、わが国における仏教諸宗の中でも代表的な教団の一つとなっています。勿論非課税のため収入はお布施により賄い武士以上の裕福な暮らしぶりだったのであろうと想像できる。
大坂、上町台地は信長のものとなり、いよいよ天下布武が目前に迫った4年後、信長は戦国の舞台から去ってしまった。上町台地の後日談は語るまでもない。豊臣秀吉は山崎の戦いで明智光秀を破り、翌年に柴田勝家を負かすと、直ちにこの地に大坂城を築造した。信長執念の石山の地は秀吉が引き継いでいった。信長の傍らで仕えていた秀吉は、信長がこだわった上町台地の地形の重要性を知り尽くしていたのだ。そして今度は上町台地に建った大坂城は、大坂冬の陣で落城するまでの約30年間、徳川家康を苦しめていくことになった。

先述の通り、家康は若い頃に一向一揆に苦しめられたことから自分の領内では一向宗の布教を許しませんでした。しかし一向宗の勢力が弱まったため、後に三河の本宗(ほんしゅう)寺の再興を許すなど寛容な態度を見せるようになります。

筆者の出身は東三河であり浄土真宗門徒である、しかし圧倒的に多くは西三河が断然浄土真宗信者は多い、確かに東京に移り50年程になるが、浄土真宗門徒は少なく感じる。
歴史を伺えば、江戸幕府は浄土真宗の勢力を恐れ、関東以東には浄土真宗のお寺を新たに認めませんでした。なので文化の遅れていた関東や東北には浄土真宗の寺院が少ないのです。愛知以西は圧倒的に浄土真宗地盤です。北海道は、開拓民の多くが浄土真宗門徒だったので、明治以降は浄土真宗が圧倒的です。あとは、檀家制度では身分的に百姓や漁師を浄土真宗に組み込んだことも大きかったのではと言われる。江戸時代以前は近畿が日本の中心であった事が理由である。

徳川幕府設立後の家康も岡崎時代の一向一揆の宗教問題には相当この問題に悩んだ事が伺えます。



この宗教問題の拗れは意外と長引き、しかもわずらわしさも残る事であろう。勿論現在ウクライナ問題と合わせアメリカ陣営も2箇所の紛争に関わって経済的にも不満が現れる事であろうが、さらに最近の支那の不動産経営が思わしく無く、膨大な不良債権、マンション等の資金不足により中途の建設途中の別件も多く、支那の経営危機とニュースは盛り上がっている様ですが、これは本当に事実であろうか?支那の国民性から考えれば、何故か騒ぎは少ない事は何時か?

この後トルコの動きは気になる所で、またこれに支那が絡まると話は益々ややこしくなる、宗教と共産国家の絡み合いは今後の先行きが見えない。



支那の最大大手、恒大集団、碧桂園等相次いで何度も外貨建て債務全て支払えないと言われているが、支那の制度では不動産は契約し購入すると、完成していない建物のローン支払いが始まり、引き渡しされないリスクがあるのに住宅を購入し購入者も本人が住まないのに契約し、将来不動産値上がりを考え転売し利益をと考えた、支那国民の中間層がマネーゲームをした結果の結末だと言われる、一番笑えるは購入者の多くは中国共産党員が多く騒ぐに騒げない理由でもある。

この中間層とは5億人ほどの低所得者は購入出来ず、例えば地方公務員等の中間層がこのマネーゲームに夢中になった事が顛末の様であり。この中間層は公務員(支那の共産党員)が多く購入したために、思った程騒がないとも言えるそうです。あとはダブルパンチのようにEV自動車に多額補助金を付け格安の自動車メーカーが次々と倒産し空き地が次々に大量放置されている、電気自動車急成長も「負の遺産」になっている様である。また電池の異常や劣化などに よる安全性や経済性のリスクが高く、EV利用の課題になっている、それとEV自動車は電池部分が重く。道路補修費も負担増になると言われる。

最後にEV自動車ついて言えば今や支那のEV自動車はスマホにエンジンを付けた車で安全基準も曖昧の車は大変危険と言う意識は薄く今やEV自動車メーカーは倒産ラッシュである。



支那が苦しむのは今からである、聴くとこ支那の新幹線の乗車客が少なくどうやら採算が取れず稼働本数を減らしていると言われる。低所得層は今の生活より悪くなり富裕層は支那に見切りを付け海外移住し残るは借金まみれの中間層と低諸国車のみとなり、今一番問題されている一人っ子政策(1979年から2014年)により今後35年間毎年850万人人口がレリ続ける老齢化国となりこの先失速し続ける国となるかのせいは大きい、支那が暴発すれば台湾との戦争が一番の不安事項でもあるのであろう。
さらに今まで一番利益を得た西欧も特にイタリア、ドイツは恩恵した代表の国であるが、香港問題で変わり始め最近人権問題等でのチャイナリスクを感じ脱支那が加速するEUになった事も大きな影響が強い。益々支那の近平が台湾暴発する事も危険信号である、それは日本も巻き込まれる可能性が高い。



一番恐れる問題は中国共産党の不満が台湾問題に転化された場合一番不安が高まる状態である、最近のニュースでは支那がロシアに大量のドローンを輸入した事が明るみになり、今後経済制裁を厳しく追求すればこの先の展開は見えない。勿論北朝鮮等の国は煩わしいがロシア、支那共問題終了後はその様になるのだろうが、宗教トラブルは簡単には妥協しなく、今後トルコが如何に動くか、それが一番の問題であろう。但し悪の巣窟は中国共産党である事が解明される。

今後しばらく世界情勢がどの様に変化するかは全く予告できなく、今は静かに準備をして「いい曲を聴きながら」事の顛末を見るしかあるまい。

今また中東は乱れているが・・・そんな時こそ改めて聴いたヒラリー・ハーン:バッハのヴァイオリン・ソナタを考察

2023年10月14日 | J.S.バッハ制作音楽

今の中東(イスラエル)問題は今後如何になるのであろうか・・・?和平の光は何処にあるのであろうか・・・?一つ間違えば今後第三次世界戦争にならない事を祈るばかりだ、支那もハマス側に付いている様子である。
今読んでいる本は1993年に発表された、これぞ「文明の衝突」なのである、しかし未来はその本が示す様になるのであろううか?
(この本はアメリカ合衆国の政治学者サミュエル・P・ハンティントンが1996年に著した国際政治学の著作である、簡単に説明すると一つの国に二つの文明が入ると人種、国家、宗教の違いにより弱き勢力は滅ぶとの説明がある。)それと一番知りたい事は自由圏と共産圏は何が滅ぶかも一番興味は強い。

確かにロシア政権、はたまた隣国支那政権等も権力者が変わる度に新しい国となり、今や近平は独裁を目指しているが、先ずは一人っ子政策の裏目か毎年の850万人が減少して行く事実と、負のスパイラル(不動産、EV自動車等)と顛末を迎えるかが見ものでもある。と言うより今後ロシア(ウクライナ戦争)・支那(近平も諦め出した、大量の不動産バブル崩壊)が今後衰退していく様を、人類は見る事ができるのかも知れない。此に今イスラエル問題が湧き起こっている。



今まで確かに史実不明なインカ文明、輝ける偉大な島と呼ばれるイースター島モアイ像の謎、アメリカ先住民インデアン等の謎、色々思えば消えた文明は多く、今も謎が多く不明である。しかし一番不思議なことは突然変異の現象か。ホモ・サピエンスの登場であろう。最近一番衝撃的なヒトの進化を示したイラストが実は大間違いであることで実証されている。ホモ・サピエンス登場の頃時同じくしてネアンデルタール他の猿人が種類も多く誕生したが、ホモ・サピエンスが生き残った、不思議な事でもある。

政治学者サミュエル曰く:“冷戦後の世界は七つあるいは八つの主要文明の世界である。…地域紛争のなかでも広範な戦争にエスカレートするおそれが強いのは、文明を異にするグループや国家のあいだの紛争である。
”“異文明間の世界戦争を避けられるかどうかは、世界の指導者が世界政治の多文明性を理解し、力をあわせてそれを維持しようと努力するかにかかっている。”と述べている。

宗教問題も絡みイスラエル問題は上手い具合にソトランデングして欲しい問題であり、地球上でのこれ以上の人々の殺戮は御免であり、一刻も早い平和的処置が望ましい、日本史に於いても信長時代に門徒衆との宗教戦争は起きているが、11年もの長き戦いに多くの人が死に恨みとり、その為に信長暗殺と言う事で結末を迎えた歴史は残る、宗教問題は意外と長引き双方遺恨を残す事が多い。その後石山本願寺に秀吉が大阪城を構築し日本の中心となる。



筆者達の地球には現在1種類のヒト(ホモ・サピエンス)しかいないのに何故闘争するのか。しかし,地球上に現れた人類達は,数多くの種を生息していたと言われる、サル族から進化した類人猿は他の動物より脳が大きく、分娩ほ頭から産み落とし、歩行できる様になるまで随分手間暇(約3年程)がかかる、確かに他の動物は生まれて直ぐに歩行したり餌を食べる事ができ、猿人は歩行するまでに月日がかかるが絶滅もせずに良く進化を遂げたと思う、奇跡であろうか。

世界にクロマニヨン人とかジャワ原人他多種が生息していたが、ホモ・サピエンスも同時に進化し、他の人種とも生殖しながらアフリカ大陸を出発したホモ・サピエンス一種類になって行ったのであろう。
そう頃は他の類人猿との繁殖は不可能になり今も我々のDNAの中で育まれている、現生人類はホモ・サピエンス種である。今後科学が進化すればこの謎も解明されるのかも知れない。

そして、そのうち唯一現存する亜種はホモ・サピエンス・サピエンスとして知られる。 他の既知の亜種であるホモ・サピエンス・イダルトゥはすでに絶滅している。 一時期、ホモ・サピエンス・ネアンデルターレンシスと呼ばれて亜種に分類されていたネアンデルタール人は3万年前に絶滅している。最後はホモ・サピエンス以外のヒトは全て絶滅してしまい、残るはヒトの我々だけです。



直立猿人以降は多種のホモ・サピエンスは生まれヒトに進化してと言われる。

ホモ・サピエンス一種になったのは理由の一つに嗅覚が優れていた為に異質な臭いを嫌い最終的に残った種族とも言えるが、脳は大きくとも石器で獣等を取り生で食べ消化には相当長い時間が必要と言われる。
人類は、二足歩行をすることで自由になった「手」で、道具を使うようになり、火を利用するようにもなった。おそらく人類は、火山の噴火あるいは落雷によって木や草が燃え出すなどの自然の火災から、燃焼という現象を発見したのだろう。そして、「野火」へ接近し、火遊びなどに一時的に使うなかで、少しずつ火を恒常的に使用するようになっていったのだと思われる。その後、人類は木と木の摩擦によって火をつくり出す方法を発見した。
当社はヒト族は火は近づくと熱く、適度な距離を保てば暖かいことを学び他の哺乳類と違う感覚を持ち保温、食物の保存として焼く事を学んだ様である。火を知った人類は、あかり、暖房、調理、猛獣からの防御に火を利用してきた。それでは、人類が火を利用し始めたのはいつ頃のことだろうか。まず大きく人類の進化を見ていこう。人類史は、約七百万年前に始まったと考えられており、大まかに初期猿人、猿人、原人、旧人、新人と時代区分をすることができる。

考古学上、人類が火を使用した可能性がある遺跡はいくつか見つかっている。たとえば、百万年から百五十万年前のものでは、焼けた骨が見つかった南アフリカのスワルトクランス洞窟、焚き火と関連して高温に熱せられた石が見つかった東アフリカのケニアのチェソワンジャ遺跡などがある。しかし、落雷などの自然現象の可能性もあり、確証には至っていない。人類が意識的に火を使った証拠を見つけるのは難しいのだ。



いつの間にか全く歴史が解明出来ない文明にになってしまった「インカ文明」である。今回のイスラエル問題も宗教問題も関係が深くイスラム教。キリスト教の危機が近づいているのかも知れない。日本の神代の昔から八百万の神であり世界の中でもこの様に多くの神がいらしゃる国も他に無いのである。

約二百万年前~ 原人の時代。アフリカで原人が誕生。脳が拡大し、知能が発達し始める。本格的に道具を作製するようになり、初めは死肉あさりだったが後に積極的に狩りを行うようになった。
約二十万年前~ 新人の時代(現在まで)。アフリカでホモ・サピエンスが誕生。最近の研究では男性Y遺伝子は何故か、徐々に衰弱し現在の男性は弱くなっていると言われる、今後長い年月でY遺伝子は滅んでしまうと言われるので、その時が人類の滅亡時期と言われている。

と言うことは火を知らなかった、百八十万年間はただ獲物を取り暮らしていたことになる、当時の猿人達は、だらっとした人生であり、生肉食は消化に時間がかかり最低5時間は寝ていたと言われる。
一番このホモ・サピエンスを進化させたのは火を扱うことが出来ることであろう、肉を焼いて食べる行動は食事後の休憩時間を短くし、食料保存が有利になり。食事関係に時間を費やす事が少なく、食料確保に専念できる様になった事である。最近発表された事実は「米」は弥生時代以降の食料ではなく縄文時代から保存食として丁重に扱われていた様である。
では何故「コメ作り」をしなかった訳は簡単で、海に囲まれ、暖流と寒流が流れる海には豊富なタンパク源があり丸木船で魚を獲り海岸で貝を拾えば食料は豊富であり、手間のかかる米作りは貯蔵分があれば充分であった様です。

その後文字が生まれ言葉が生まれ、歌が生まれる事で現在に至るのである、しかし日本では天皇制度以前は神々の世界と言われる様になり、それ以前の歴史は神の領域で調べるとこは御法度であった様です。所が戦後敗北後進駐軍統制され、俄かに歴史はダメだが考古学が持ち上がり、古事記前の世界の事柄とも言える貝塚等が注目される様になり、現在では世界的にも不思議と言われる様に、日本国内で様々な一万ヶ所以上の遺跡が発掘されている状態である。昔から言われた大国主命とかも現存した状態とも言われ、今後の発掘が楽しみでもある。



思えば所謂芸術を味わう知力、音楽鑑賞、絵画、構築物のバランスを鑑賞する地力はヒトが一番感じる力であろう、この辺りが脳の重さにも関わり合いが大きいのであろう。

話は変わって最近良く聴くヴァイオリン演奏者にヒラリー・ハーンを紐解く。
最近圧倒的にTANNOYのユニットで聴く事が多いが何故かTANNOYが上手く鳴るような曲を選ぶ傾向が強い。
偶にはLS3/5aでも聴こうとセットした、最近何時もの左耳の聞こえが良くなく昨日耳鼻科で耳の点検に行く、診察していただくと、やはり耳奥に大きな耳垢があり早速取り去る処置して頂き正常に戻る。

久しく聴くLS3/5aは楽しみではある。確かに耳当たりの良い曲が聴こえる装置を選ぶことはオーディオ好きの筆者には当たり前の事の様ではあるが、確かに聴き出せばこのLS3/5aと言うエンクロージャーはこれだけ聴けば成る程他の装置は不要に思える鳴り方をする、特にJ.S.バッハ意外の曲でニコロ・パガニーニが作曲の「24の奇想曲 第24番」を聴けば納得してしまいそうである。


J.S.バッハ好きの筆者もBWV1001〜1006のバッハ:ヴァイオリン・ソナタ第一集はどうも馴染みが少なく天才的なヒラリー・ハーンでの演奏で聴き思わず曲の美しさを味わい、今は好きな曲となったと言えよう。
特に無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調 BWV1004等はもうLS3/5aで十分とも思えるが・・・しかし肝心のヴァイオリンの胴鳴きに不満を感じる、24の奇想曲では余り感じれらなかった音色でありバッハの音楽造詣の深さを感じる一コマででもある様に感じた。

そしてエンクロージャーはTANNOYIIILZ Monitor Goldユニット装着した箱に戻すのだった、但しキレの良いJazz系統には良いかも知れない・・・。
バッハの音楽はTANNOYユニットが勝るようである事を実感した。



彼女の経歴は(Hilary Hah、1979年11月27日生まれ)バージニア州レキシントン生まれ、ボルティモア出身のドイツ系アメリカ人。3歳11か月の時、地元ボルティモアの音楽教室でヴァイオリンを始める。1990年、10歳でフィラデルフィアのカーティス音楽学校に入学し、ブロツキーの没後は19歳までハイメ・ラレードに師事。室内楽の勉強にも力を入れ、フェリックス・ガリミールとゲイリー・グラフマンに師事した。1997年、デビューアルバムである「バッハ:無伴奏ソナタ・パルティータ集」がディアパゾン・ドール賞を受賞し、話題となる。1999年、カーティス音楽学校を卒業(必要単位取得後も勉強を続けるために在籍していた。

ボルティモア出身のヴァイオリニスト、ヒラリー・ハーン17歳の時のデビュー・アルバム。その恐ろしい程の才能とパーフェクトと呼ぶに相応しいテクニックをこの若さでひっさげてのデビューは、非常に大きな衝撃として我々の胸に刻まれました。初来日でも噂に違わぬそのポテンシャルを遺憾なく発揮、その凄まじいまでの実力を見せつけ、各メディアにより絶賛の嵐を受けました。



ヒラリー・ハーン デビュー! バッハ:シャコンヌ
J.S.バッハ:
 1.無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第3番ホ長調 BWV1006
 2.無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番ニ短調 BWV1004
 3.無伴奏ヴァイオリンのためのソナタ第3番ハ長調 BWV1005

 ヒラリー・ハーン(ヴァイオリン)
 録音:1996年6月、12月、1997年3月 ニューヨーク
 DSDマスタリング
 メディア掲載レビューほか

解説書より引用、(ボルティモア出身のヴァイオリニスト、ヒラリー・ハーン17歳の時のデビュー・アルバム。その恐ろしい程の才能とパーフェクトと呼ぶに相応しいテクニックをこの若さでひっさげてのデビューは、非常に大きな衝撃として我々の胸に刻まれました。初来日でも噂に違わぬそのポテンシャルを遺憾なく発揮、その凄まじいまでの実力を見せつけ、各メディアにより絶賛の嵐を受けました。)


 
曲を聴き終わり17才のハーンのデビュー・アルバムとは驚きです。何故か技術だけの青臭い演奏ではなく、巨匠のような自信に満ちた演奏そして、爽快。これこそ絶品なソナタ集でもある。やっと巡り合ったバッハのソナタという感覚に浸りつつ聴いております。 私の聞いていない盤はまだ数あるとは思いますが、なかなかこの盤を超える演奏に巡り合えることは少ないとの思いがいて、なんだか残念な心持ちにさえなります。 17歳の女の子のデビュー盤ですか・・・、 正に此ぞ天才少女と思うばかりです。今まで多くのバッハ:ヴァイオリン・ソナタ第一集を聴いたが筆者の名盤となるでしょう。

後は最近リリースされた「24の奇想曲 第24番」は、その超人的なテクニックから「ヴァイオリンの鬼神」と称えられたニコロ・パガニーニが作曲した、現代のヴァイオリニストにとっても演奏が至難な作品とされている。 「悪魔」を売りにした天才バイオリニスト、ニコロ・パガニーニの惨憺たる⼈⽣と ねじれこじれの結末魔⼒のような魅⼒です。




1782年、⽇本では江⼾中期、天明の⼤飢饉があっていた年に、イタリアのジェノヴァでニコロ・パガニーニは⽣まれました。パガニーニの⽗は港の労働者でその傍らでマンダリン弾きとしても稼いでいました。この⽗から5歳の時にマンダリンを教えられ、その他にもギター、そして7歳の時にバイオリンを始めます。⼩さい頃から病弱でしたが、体調の優れない時でも何時間もの厳しい特訓について来なければ暴⼒を受けたり⾷事を与えてもらえなかったそうです。パガニーニの⺟はパガニーニが5歳の時に奇妙な夢を⾒ます。それは、⾚い炎に包まれた劇場でパガニーニが悪魔と命を賭けた演奏勝負をしていると⾔うものでした。そこに天使が現れ、「彼は素晴らしいバイオリニストになる、そして名は世に知れ渡る」と告げたそうです。
もしかするとハーンも「悪魔」を売りにしたのであろうかと錯覚するような演奏を、一度聴きお確かめください。ブラボー!

最近徐々にブログの内容に自信も新しいニュースも少ない状態である、確かに筆者の文章力は非常に弱く感じている、あまり人気薄なブログでもあるので、更新する事を控えようと思っています、日々ブログアップしている諸氏には尊敬を値すると思います、よろしくお願いします。

BWV1080を聴きながら・・・1975年頃、一般のラーメン価格は250円~300円だった頃「銀座アスター」のアスター麺は何と1,000円の高嶺の花と出会った頃・・・

2023年10月09日 | J.S.バッハ制作音楽

筆者が27歳1975年頃当時、愛知県から東京銀座一丁目に会社の事情にて配置替えになり、当時の上司がお昼でもと言われ案内された処がすぐ近くの銀座通りにある「銀座アスター」である。田舎者の筆者が驚いたのは、その上司曰く、此処のラーメンが美味しいと言われた・・・事である。
兎も角店内はインテリアも上品で高級支那料理店でもあり、ラーメン店とはと違う雰囲気の店内と思った。早速係の人が注文を承る、じゃラーメンにしましょうとお店の方に「アスター麺」2個と注文する。

当時1975年頃、一般店のラーメン価格は250円~300円だったのですが、銀座アスターのアスター麺は1,000円でした!そしてメニューの中身の価格を見て二度びっくり常識を覆す価格流石銀座価格共思った、普段のランチ等は銀座と言えど当時500円程で十分満足できる昼食にありつける。



特に銀座通りに面するお店でも銀座カプリの特別なレンガの窯で焼くピザは感激の旨さを今も思い出す。近くには今も健在の「グリルつばめ」のハンブルグステーキも美味しい料理の一品で勿論近くにある「レンガ亭」も有名でした。
「銀座アスター」は後日に知った内容は創業昭和元年、中華の名店「銀座アスター」の看板メニューといえば「アスター麺」。アスター麺とは、海老や豚肉、数種のきのこなどが入った具だくさんなあんかけ中華麺のこと。鶏ガラをベースに醤油、味噌など数種類の調味料をブレンドしたとろみのあるスープは品があり美味しい。と評されている事であった。

約10分程で彩りは鮮やかでもありませんが、具だくさんの丼が着きました。ではスープから、オイスターソースが効いていますねえ。味は濃いめで、その分出汁感が隠れてしまっているが実に衝撃的の旨さであった。流石銀座の本格中華です、具材も海鮮と豚が混じり実に酔う塩梅のお味です。意外と盛りもよくお腹いっぱいになります。
上司曰く、中々ラーメン美味しいですよね、と言われ勿論ありがとうがざいました、とても美味しいラーメンでしたと答えた記憶があり筆者の「銀座アスター」の味の始まりではあった、その後も美味しい支那料理と記憶するが、記憶に残る料理は「カニとエビをすり合わせ」団子にし油で揚げた調理は実に美味しかった記憶が残る。



させこの度義母が亡くなり49日法要準備にため早めに墓の近くに住む魏姉の所に位牌等を預けるように話が決まり、埼玉県東武動物公園まで車で向う。
途中柏でお疲れ会なるランチを柏高島屋で頂きながらと言う比較的最近に柏玉島屋に増築された11Fに出来た「銀座アスター」系列のベルシーヌ柏でアスター麺を頂こうと家族で話が決まり高島屋の駐車場に駐車した。



窓に面したダイニングは眼下に駅の喧噪を、遠くに筑波山を望む、ゆとりある空間も実に気持ちが良い。 早速案内されメニューを見る、アスター麺の筈がランチコースも割安感がある。一番リーズナブルのコースを頼みました。

ランチコース:前菜、飲茶、メイン四種類から(エビと湯葉のあんかけ)スープ、おかゆ、デザート、を注文する。



前菜も勿論味和深く、特に肉厚のクラゲは絶品である。量が少ない為か余計に旨味を感じた。



飲茶肉の混じり物、海産物の混じり物(チャーシュー2種)お味が上品な味で、量も適量でした。



続いてスープが運ばれた後は・・・



愈々メイン調理が運ばれる、エビと湯葉の餡掛け風の一品でした。
メイン調理の味はアスター麺のスープを思い出させる深みのある味は何故か懐かしい味を感じた。アスター麺を食べた味を思い出すのである。

そして若干麦入りのお粥でした、流石ジュニアはお粥はおかわりをいた。体に優しいランチコースではあるが、ほんのり身体が温まり満足しました。



そして食事の内容を話しながらのデザートは果物のジュレと杏仁豆腐の甘みを抑えたデザートの締めで終了です。

因みに現在アスター麺は2,200円でしたので今回は少し奮発しランチコースに変えましたが、意外とヘルシーな上品な支那料理は実に満足感を感じられた、今年娘が年末に帰るというので是非一緒に美味しいランチをとも話した。

その後車で16号線内回りを進行し東武動物公園近くの親戚に立ち寄り法要の品を預け、義母の生前の思い出は話に花が咲き一時間程雑談した。モジャ君の散歩もあるので早めに引き上げました。
連休なので翌日写真等をまとめブログ更新をしながら、バッハの音楽を聴きながらまとめている次第であります。


今は義母が旅たちどのあたりにいるのであろうか、とも思いバッハの音楽を聴きながらブログをした為いているが、最近『フーガの技法』(独: Die Kunst der Fuge、英: The Art of Fugue)ニ短調 BWV1080は、ヨハン・ゼバスティアン・バッハによる音楽作品。1740年代前半に作曲が開始され、J.S.バッハ最晩年となる1740年代後半に作曲と並行して出版が準備されたが、その途中で作曲者自身の視力が急激に低下してしまい、一般に「コントラプンクトゥスXIV」とされる作品(3つの主題による4声のフーガ)が未完成の段階で作曲が中断されてしまった。何人かの音楽学者によって、最初の12曲が1742年にチェンバロ独奏を想定して作曲されたことが判明しているが、残りのフーガを書き始めた経緯は今もなお不明である。曲集はバッハの死後、未完成のまま出版されたそうです。

色々調べますと次の様な評される文章があります。
バッハの「フーガの技法」は一つの主題に基づいてどれだけ多彩なフーガが書けるかを追求した対位法音楽の傑作ですが、多くの謎に包まれています。「音楽の父」として誰もが知るJ.S.バッハ。万人から愛される普遍的な存在でもあり、難解で近寄りがたくもある。その不思議な魅力で多くの音楽家を虜にしてきましたが、その中でも対位法の最高傑作「フーガの技法」は、芸術性の高さと未だ解明されない多くの謎ゆえに特に知的好奇心をくすぐられます。
近年の研究では、バッハがこの作品の出版について問い合わせた文献が残っており、少なくともこの作品を完成させる意図はあったこと、完成した曲はすでに校正願いを出していたこと、そして恐らく絶筆ではなかったことが指摘されている。



ロレンツォ・ギエルミ(Lorenzo Ghielmi)は、イタリアを代表するオルガニスト、チェンバリスト、指揮者で、ルネサンスとバロック音楽の研究家。現在、ミラノの聖シンプリチアーノ教会オルガニスト。ミラノ国際音楽アカデミー古楽研究所で教鞭を執っているほか、バーゼル・スコラ・カントールム元教授。イタリアの古楽アンサンブル、イル・ジャルディーノ・アルモニコの初期メンバー。

図らずも未完となってしまった曲集はバッハの意思を汲み出版されたが、わずか30部足らずほどしか売れず、同時代の評判はあって無きが如しであった。とはいえ一部の愛好家には次第に受け入れられ、1800年代以降の筆写譜が少なからず残されており、さらに1838年にはツェルニー校訂によるピアノ譜が出版された。この曲集が演奏家にクローズアップされるようになったのは、19世紀後半以降にサン=サーンスなどの優れたピアニストがピアノで演奏することが広まってからであった。



ヴィットリオ・ギエルミ(Vittorio Ghielmi) は、イタリアのミュージシャン、指揮者、作曲家です。 ヴィットリオ・ギエルミは、ヴィオラ・ダ・ガンバと音への新しいアプローチで、非常に若い頃から注目を集めました。古楽のレパートリー。今回ギエルミの、ヴィオラ・ダ・ガンバ演奏とのアンサンブルにより音の厚みが感じられる、重厚な仕上がりにもなった演奏とも言えよう。

確かに筆者は最近BWV1079,BW V1080の曲を聴く事が多くなっている、一人で聴く曲としては難解な部分が多いが例えば特にIX.(8度のカノン)X.(コントラプンクトゥスVIII)XI.(コントラプンクトゥスXI)XII.(拡大及び反行形によるカノンの初期稿)XIII.(コントラプンクトゥスXII)XIV.(コントラプンクトゥスXIII)XV.(XIIの発展稿)から続く箇所を何度も聴く度にバッハに近づける様なな錯覚を覚える、BWV1080の演奏はまさに興味深い。最近何故か良く聴くパガニーニによって生み出された表現「Il Suonar Parlante」は、楽器が実際に人間の声を模倣することができる特別なテクニックを指します。


【演奏】
 Il Suonar Parlante:
  Vittorio Ghielmi [soprano and bass viol]
  Rodney Prada [tenor viol]
  Fahmi Alqhai [bass viol]
  Cristiano Contadin [great bass viol]
 Lorenzo Ghielmi [harpsichord, Silbermann fortepiano]
 Marcello Gatti [flute]

IL SUONAR PARLANTE の音楽家たちの音楽には興味が湧きます。これにより、古典音楽と初期音楽の伝統に対するまったく新しい理解がもたらされる様です。 ヴィットリオ・ギエルミは、国際的なヴィオラ・ダ・ガンバのソリスト、指揮者、作曲家、作家、教師としての活動により、彼の楽器のサウンドとヨーロッパのクラシックのレパートリーに新たなイメージを与えています。 


IL SUONAR PARLANTE の音楽家たちはの演奏には興味が湧きます、古典音楽と初期音楽の伝統に対するまったく新しい理解がもたらされるだけでなく、非常に革新的な音楽言語を生み出す可能性も生まれます。
今後も注目したいメンバーでもありロレンツォ・ギエルミの鍵盤演奏にも直目したい演奏ででもある様です。
確かにピアノ演奏のアルフレート・ブレンデルに師事し若き才人フィリッポ・ゴリーニのバッハはなんと『フーガの技法』も演奏共に録音も良いが、この程度のメンバーでの演奏が筆者には実に馴染みやすい様でもある。ブラボー!

安定感抜群の演奏を気持ちいい音質で楽しめるスコット・ハミルトンのジャズ新譜にはたまらない1枚でもある。いい音質で捉えた自分の装置に合ったジャズを楽しむ。

2023年10月05日 | JAZZ・ボサノヴァ


最近は暑かった夏も過ぎ。やっと秋風が爽やかな季節となりました、写真は以前行った横浜の写真です。思えば代理店時代在籍中に此処の写真背景にモデルさんの使用した横浜赤レンガ倉庫もすっかり補修し綺麗にリニューアルし今や人気の場所となった様です。やっと秋空が実に爽やかである。

筆者の持参する音響機材で鳴る音が良く聴こえる音楽をチョイスして淹れたての珈琲を飲みながらジャズを楽しむ。

確かに最近音質の追求から音楽全体の楽しみに徐々に変化している様でもある、筆者の選ぶ音楽アルバムも何となく懐かしさを感じる曲が多くなっている様である。クラシックで言えばバッハ:カンタータが大変多くなったことは本人も承知することである。
確かに徐々にオーディオ熱は無くなるのであろう、或程度の音質で満足するのであろう、此れは駄耳になって来た老化によるものなのか、欲が欠如する・・・。即ち間違いなく後期高齢者の老人なのである。



多分筆者が偶然見つけた此の真空管300B(ZAIKA5300)の変更によりやっと馴染んだ、と言う感じで音楽については妙に納得させられた音が鳴る様になったことは確かである、勿論昔のWE300Bは良い真空管とは聴くが(最近新しいWE300Bが販売されている様だが、ガラス製作が違い音にも影響あるのであろうかの疑問は尽きないので試すのはオールドに限る)この様なこだわりがオーディオの面白味かもしれない。
勿論貧困老人には敷居が高く試した事は無いが、今後中古品の割安な球でも入手出来れば試したいとは思う程度である。一番肝心なことは演奏の奥に何か演奏者が訴えたいことが解る様に感じたのがこのZAIKA5300の真空管のお陰とも思っている。「いい音、いい音楽」にほんの一歩近付いた様に思うと共に多くの素晴らしい演奏を聴きたい。

何方かと言えばブルース音楽が好きな円熟の季節を迎えたスコット・ハミルトン(ts) のジャズを楽しむ、勿論筆者の装置タンノイで聴くにはで心地よく響くジャズは実に気持ちの様ものである。

「中間派」となる「シニア・ジャズ」に風穴を開けた安定したスコット・ハミルトンのジャズはすきっとした青空の様に感じる、確かにカルフォルニアサウンドとは違ったタンノイサウンドのジャズが楽しめる音でもある、聴き慣れると独自の渋めの音質も深みがある様に聴ける様である。



ジャズのブルース吹き、ズート・シムズに近いブルースネスだろう。 ヒギンズも中盤を中心として活躍、最近の洗練されたピアノからはなかなか昔の味わいは想像できないが、中間派レーベルにアルバムを発表し、ヴォーカルのバッキングで素晴らしいフレーズを言いながらやがて「ピンのピアニスト」として名声を確立していました。その魅力は、ハミルトンにも近く、流れるような流れ麗なフレーズと心に沁みる清涼な音色だろう。
そこでお互いの魅力をさらに曳きだして加速するコンビネイションが素晴らしい。て、わかりやすいジャズがいいじゃないか!二人の音楽からはそんな声が聞こえる如しでもある。



筆者が当初聴き出すは、エディ・ヒギンズ(p) スコット・ハミルトン(ts) が良い環境により巡り合ったコンビでもあろう、彼をジャズに導いたきっかけとなった大好きな音楽、つまり素晴らしいバラードやブルースを心から演奏し、スウィング演奏の時代を超越した美徳をあらゆるフレーズに強調しながら演奏し続けている。世界中にファンがいるのなら、それ以外の方法はありません。

長年スタンダードの完璧な解釈者として評価されてきたスコフ・ハミルトンは、大きくて温かいテナーサックスの音と間違いのないスイング感覚によって、彼が演奏するあらゆる曲を独自のものにする方法を持っています。

勿論筆者も好きな1978年、レコードアルバム「ディア フレンズ」で日本の大御所北村英治と初共演、以来友情が続き、2003年に共演したCDアルバム「ヴィンテイジ」はジャズファンはもとより音楽各誌でも高い評価を得ている。音質も大変具合が良い。以前にも紹介させて頂いた筆者のブログです。


スコット・ハミルトン(Scott Hamilton)は、今日の最高の「主流」サックス奏者です。1954年にロードアイランド州プロビデンスで生まれた彼は、彼が愛したジャズ、つまりイリノイ・ジャケやエディ・ロックジョー・デイヴィスのような偉大なスタイリストの小グループ・スウィングが時代遅れで、ほとんど時代遅れになっていた時代にやって来た。公衆の耳。スコットのハンサムなサウンドと非の打ち所のないフレージングは 、若いジャズマンの間では珍しい仲間でした。

そこで彼がコンコード・レコードと契約し、レーベルのボスであり主流派の支持者であるカール・ジェファーソンのためにアルバムを作り始めたとき、このスタイルの愛好家だけでなく、より広い音楽界にも驚きと興奮を引き起こした。スコットの真骨頂はバラード。ベン・ウエブスターばりの深い響きをたたえたトーンと歌心あふれるフレーズで、聴き手を一気に30年代へとタイム・スリップさせてしまう。一方アップ・テンポの曲では、ズート・シムズの様に余裕のある軽快な演奏で、偉大なスウインガーぶりを発揮する。



いぶし銀の人気サックス奏者スコット・ハミルトンがロンドンで行ったライブ盤が発売!名ジャズ・クラブ"Pizza Express"が立ち上げた新レーベルPX Recordsよりリリースされた作品で、英国のジャズメンと共に演奏したカルテットでの作品。"イパネマの娘"や"ピュア・イマジネーション"といったスタンダードを安定感抜群の演奏で聴かせるスコット・ハミルトン印満点のファンにはたまらない1枚。音質にも力を入れているのか、サックスの艶やかな音を中心に低域もファットかつ豊かに捉えられてた聴いていてとても気持ちいい仕上がり。良いサウンドシステムでじっくりと聴きたくなります。

ロンドンのPizaExpress Liveに初めて出演してから40年を記念して、米国の尊敬されるサックス奏者スコット・ハミルトンが、新たに設立されたPizzaExpressレーベルPX Recordsからの初リリースとなる新しいライブ・アルバムをリリースすることになった。

筆者にとっては実に耳障りの良い1950年代のクール・ジャズに聴こえる、マイルス、マリガン、ズート・シムス、リー・コニッツの演奏する世界に連れて行ってくれる様にも感ずる実に小気味の良いサウンドなんですね!



60年にわたってソーホーのディーン・ストリートにあるクラブに出演してきたハミルトンは、ピザエクスプレス・ライブとこの新しいライブ・アルバムの構成要素の一部となっており、スコットのイギリスを拠点とするジョン・ピアース(ピアノ)、デイブ・グリーン(ベース) とスティーヴ・ブラウン (ドラムス) のカルテットがフィーチャーされている。

『The Girl from Ipanema』や『Pure Imagination』など、数々のクラシック・スタンダードをフィーチャーした 7 トラック・セットを収録して大変嬉しくなるセットの構成です。

タイトル:At PizzaExpress Live In London

 6.Pure Imagination
 7.The Summer Wind

 アーティスト:Scott Hamilton Quartet
 ラインナップ:Scott Hamilton - tenor saxophone
 Scott Hamilton - sax
 John Pearce - piano
 Dave Green - bass
 Steve Brown - drums



久しぶりの新譜ではあるが、内容は誰も知っているジャズサウンドの定番曲である!

幼い頃よりピアノとリトル・クラリネットを習い、17才からテナー・サックスに転向し、1976年8月にNYに進出した。フュージョン全盛期にあって、レスター・ヤングの流れをくむオーソドックスなスタイルが新鮮な響きとなり、一躍テナー・サックス界の寵児となった。ロイ・エルドリッジの助力で「コンドンズ」に出演。ハンク・ジョーンズとの演奏を皮切りにアニタ・オデイをはじめ多くのヴォーカリストやミュージシャンと共演。1977年夏にはジョン・バンチの推薦でベニー・グッドマンのツアーに参加、コンコード・ジャズ祭にも出演した。
今までに共演者は多く大変安定したジャズ」演奏者とも思う、1954年生まれで現在69歳ですが何時迄も活躍して頂きたい奏者でもある。ブラボー!