ヨッシーの道楽趣向-別冊-【yoshy's Garage】

【Welcome to yoshy's Garage ♪】

【TOURING ー 舞鶴ツーリング♬ ー】

2024-09-18 | TOURING

Web yoshy'sGarageへようこそ♪
管理人のヨッシーです。

天候不順を理由に
"中止"するのも面白くないので、
お宿の確保と参加者の予定調整が
上手く咬み合ったので、
以前より企画していた
1泊2日の"舞鶴ツーリング"を
一週間前倒して開催することにシタ♬

9月14日(土)am5:00ー
待ち合わせ場所へと向かう為、
愛車Kawasaki/ZRX1100ーC2を
ガレージより引っ張り出ス♬

【道の駅立田ふれあいの里 】am6:00ー
道の駅"立田ふれあいの里"にて
ツーリング倶楽部
"MotoComrade"(現在休止中)の
残党(仲間)と待ち合わせ♬
"立田ふれあいの里"は
令和8年度に敷地・施設を拡充し
"ふれあいの里HASUパーク"として
リニューアルするため
大がかりな工事中であった。
※令和7年農産物直売所オープン予定。
※工事中も施設はほぼ利用可能。

西の方角(伊吹山方面)を見やれば...
ドス黒く怪しげな"雨雲"が掛かっている。
雨雲の動向を注視しながら、
頃合いを見計らい"出発する"こととシタ♬

揖斐川堤==養老町を抜け
関ヶ原町のコンビニエンスストアにて
朝食とシタ。

伊吹山山麓を抜け滋賀県へと入り、
賤ヶ岳(木之元)==琵琶湖(湖北)を掠(かす)め
【道の駅塩津あぢかまの里】
車両を撮影していると...
突如"猛禽類"が飛来し
上手く画像に納まるという
珍事が起こる♬

"天晴♬"
真にツーリング日和という
晴天(青空)を満喫しながら、
国道303号を
"琵琶湖西縦貫道路"から
"鯖街道(若狭街道)へと繋ぐ。
【道の駅若狭熊川宿】
休憩中の"旅談議やバイク談議"も
仲間とのツーリングでの
楽しみのひとつダ♬

福井県小浜市上野から
高浜町の若狭高浜駅手前までの
"全長22、8km"を結ぶ広域農道は、
若狭西広域農道(若狭西街道)を
快走し舞鶴に至ル。
参加した仲間達と話し合い、
お店が混み合う前に
早めに"昼食"をとることとした♬
【坂根食堂】am10:45ー
随分以前から
"是非、味わいたい♬"
と切願していた思い遂に叶う。
※コロナ禍もあったりで今回となる。

坂根食堂さんは、
「爺さまの代から(創業40年)続く」(店主談)
舞鶴の老舗食堂ダ♬
店内の壁には、
各種定食物や各種うどん・そば類、
各種丼物等々数多くのメニュー札が
ぶら下がっているのだが...
来店するお客さんの多くが
"肉うどん"を注文するという♬ルン
※画像は肉うどん(大盛り)

モッチリとした柔らかめの"うどん"♬
溢れんばかりに乗せられた"細切れ肉"♬
程良い甘味と塩味が効いた"うどん汁"♬
それぞれの"うま味"が
見事に"ドンブリ"の中で調和を成した
"肉うどん"に舌鼓が止まらない♬ポン
※このうどんは
"柔らかめ"でも良いと私は思う。


店主もオートバイ乗り
(最近、娘さんもオートバイを購入)
気さくな店主の営む食堂で
"バイク談議"と"肉うどん"を
皆で満喫!
※店前にて記念撮影♬


絶品"肉うどん"で
腹を満たした後は...。
国道27号線==国道175号線==
由良川に架かる"大川橋"を渡り、
県道532号線に入れば
"岩戸山(いわどやま)の袂に辿り付く♬
気温が上がり暑くなることを見越し、
元伊勢内宮皇大神社の
駐車場(1日/500円)で、
持参した軽装へと着替え
220段にも及ぶ自然石の石段が設けられた
表参道(300m)を登り本殿へと向かう♬
【元伊勢内宮皇大神社】
ー ご祭神
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
ー 御由緒
人皇第十代崇神(すじん)天皇
三十九(紀元前五十九)年に
「別に大宮地(おおみやどころ)を
求めて鎮め奉れ」
との皇大神の御教えに従い、
永遠にお祀りする聖地を求め、
皇女豊鍬入姫命御杖代となり給い、
それまで奉齋されていた倭(やまと)の
笠縫邑(かさぬいのむら)を出御(しゅつぎょ)
されたのが、
平成二年を去る
二千四十九年の遙か昔であった。
そして、
まず最初にはるばると
丹波(のちに分国、当地方は丹後となる)
へ御遷幸(ごせんこう)になり、
その由緒により当社が創建されたと
伝えられている。
皇大神は四年ののち倭へおかえりになり、
諸所(二十余か所)を圣て、
五十四年後の
人皇代十代垂仁天皇二十六年に、
伊勢の五十鈴川上(今の伊勢神宮)に
永遠に御鎮座になった。
しかし、
天照皇大神の御神徳を仰ぎ慕う崇敬者は、
ひき続いて伊勢神宮の元宮として、
「元伊勢(内宮)さん」
などと呼び親しみ、
いまに至るも庶民の篤い信仰が続いている。
※笠縫邑(かさぬいのむら)とは、
崇神天皇6年に、
宮中に奉祀していた天照大神を移し、
豊鍬入姫命に託して祀らせた場所。
同時に宮中を出された
倭大国魂神は渟名城入媛命に託して、
後に大和神社に祀ったとされる。




【元伊勢内宮皇大神社の麻呂子スギ 】
麻呂子(まろこ)スギは、
聖徳太子の御弟麻呂子親王が、
丹後国与謝郡河守庄三上嶽に棲む
英呉、軽足、土熊という
3人の凶賊を追討された時に、
当社に詣でて御手植えになったのが
3本杉といわれています。
樹齢千年以上と伝える古木で
参道に聳え立っています。
もとは3本杉であったが落雷等で枯死し、
今は1本となっている。
ー 元伊勢内宮皇大神社HPより



「温故知新」...。
枯死したスギの根元に、
新たなる杉が継がれ祀られている。

【黒木の鳥居】
正面鳥居は、
全国的にも珍しい、
樹皮のついた丸太のままの木で造る
素朴で原初的な様式の鳥居で、
"杉"が用いられていた。

拝殿にて参拝ス。
【ご本殿】
ご本殿は茅葺の神明造り。
千木は内ソギで堅魚木は10本。
左右に棟持柱がある。
基礎に台石を用いる他は、
伊勢神宮の古制と同じ。
また、
神宮は20年毎に遷宮がありますが、
当社には60年毎の式年造替の定めがあります。
明暦2(1656)年の社殿造営にあたり
丹後国主源朝臣京極高国が
修築をしたことを記した棟札も残り、
歴代藩主等の尊崇を受け行われてきた。
しかし、
明治5(1872)年に造営されて以後途絶え、
ようやく138年後の
平成22(2010)年に平成の大改修が行われた。
本殿の裏側には扉がある遙拝形式の社殿で、
かつては来訪神の
信仰があったことがうかがえる。

【ご祭神】
天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)
高天原の神々の中の
最高神であり太陽の神。
皇室の御祖先の神であり、
私たち国民の総氏神。
日本書紀によると、
お生まれになった時
「光華明彩(ひかりうるわ)しくして、
六合(くに)の内に照り徹る」
と称えられ、
この上なく輝かしい存在として、
また神々の世界を治める
日の神としても伝えられている。
ご利益は、
"国土安泰、五穀豊穣、生命力向上"
などあらゆることに神徳を発揮される。
※明治四拾五年奉納とある。

【元伊勢小唄】
元伊勢小唄という唄もあるようだ。

元伊勢内宮皇大神社に参拝をし、
"日室ヶ岳遙拝所"
"天岩戸神社"
へと向かう。

【日室ヶ岳遙拝所】
皇大神社から天岩戸神社に向かって
約200mのところに日室ヶ岳遙拝所がある。
ピラミッドに似た日室ヶ岳(岩戸山)は、
原生林におおわれた神霊降臨の神体山。
その頂上には磐座らしき巨岩もあり、
皇大神社はもともと
この山頂にあったとの伝承もある。
また、
日室ヶ岳遙拝所は「一願さん」と呼ばれ
「一つだけ願い事をすれば叶う」
という"一願成就"の信仰が
古くから伝えられている。

夏至の日には
「夏越の大祓」が行われ、
遥拝所から拝むと太陽が頂上に沈む、
まさに神霊降臨の神秘の瞬間を拝むこと叶う。
※遙拝所から拝む東斜面は、
禁足(立ち入ってはいけない)地とされてきた。



神秘的な
"日室ヶ岳遙拝所"を後にし、
"天岩戸神社"へと向かう道も
厳(おごそ)かさが漂う。

ー 元伊勢三社 ー
福知山市大江町の
皇大神社(元伊勢内宮)と
豊受大神社(元伊勢外宮)は、
伊勢神宮の元宮といわれ、
天岩戸神社とともに
元伊勢三社として知られている。
いずれも古来の深い森を有し
永い間信仰の対象とされてきた。
ー 元伊勢内宮皇大神社パンフレットより


鳥居をくぐり、
急勾配の石段を下ってゆけば...


凜とした空気感漂う
厳かな渓谷となっている。

日室岳の下を流れる宮川渓流に、
天岩戸神社があり
"岩壁にはりつくように鎮座"している。
天照皇大神がお隠れになったという伝説の地。
天降った神々が座したと伝えられる
巨大な岩「御座石」、
神楽を舞ったと伝えられる岩「神楽石」など
巨岩とうっそうと茂る森が、
神秘的な雰囲気を感じさせる。
この少し下流には
神様が湯あみをしたという
産釜・産だらいという
大きな甌穴があり、
(水の流れが小石を転がしてできた岩のくぼみ)
日照りの年でも
水が湧き出てくると言い伝えられている。

天岩戸神社に参拝する際には、
鎖場斜面を登る必要があるので
"ライディングシューズ"
は履き替えると良いだろう。
※我々は軽装&運動靴を持参した。
【天岩戸神社】
天照大神がかつて降臨したと伝わるご神体山
岩戸山の麓に鎮座する
"櫛石窓戸命"と"豊石窓戸命"を
祭神とするお社。
鎖を伝い、斜面を登って参拝する。


「毬栗(いがぐり)実る!」
暑い中を歩き
滝汗をかいたが...
季節の移り変わりを感じて
気持ちも朗らかになる♬
沿道の"豊かな自然"を満喫しつつ、
元伊勢内宮皇大神社より
日室ヶ岳遙拝所を巡り、
天岩戸神社へと至り駐車場へと戻る♬

元伊勢内宮皇大神社より
舞鶴へと戻り...。
【舞鶴赤れんがパーク】
ー 旧海軍の赤煉瓦建造物群 ー
赤れんが倉庫は、
舞鶴鎮守府の軍需品等の保管庫として
明治33(1900)年から大正10(1921)年までに
次々と建てられました。
舞鶴鎮守府開庁の草創期に建てられたものは、
大正時代に建てられた倉庫と比べ
外観に意図的な工夫が凝らされていて、
急ピッチで進められた工事であるにも関わらず、
丹念につくられています。
明治37(1904)年に軍港学送線が
開通したことにより、
現存する自衛隊所有の3棟を除く
すべてが倉庫内まで線路を引き込み、
昭和47(1972)年に廃線になるまで
貨車等により物資を運搬していました。
現存する赤れんが倉庫は、
れんが造2階建11棟、鉄骨れんが造1棟があり、
うち8棟が平成20年に
国指定重要文化財に指定された。
ー 舞鶴赤れんがパークHPより



【ドック石】
ユニバーサル堤造船((株)舞鶴工場の
2号ドック渠底に使用されていた石材。
花こう岩を加工したもので
重さは約0.8トンある。
明治36(1903)年に発足した
舞鶴海軍工廠の第一船渠として、
明治37(1904)年に建造された。
工廠は駆逐艦・水雷艇などの小型船舶建造と
水中兵器を特色とする工廠として発達した。
展示されているドック石は、
2号ドックの拡張改修の際に
水門付近の底に敷かれていた石材の一部だ。
ー説明文より

【軍港としての舞鶴】
湾口が狭く波が穏やかで、
たくさんの軍艦を
停泊させることができる舞鶴湾に、
軍事拠点を置くことになった。
そして1901年、
東郷平八郎を初代指令長官として、
日本海側で初めての
海軍鎮守府、舞鶴鎮守府が設置され、
その後舞鶴港は
"軍港の街"として飛躍的に発展した。

折角"舞鶴港"に来たので
「乗ろうよ♬」
との仲間達のお誘いを受け、
軍港めぐりクルーズ船に
乗船することにシタ♬
※実際に見られる艦艇は日によって異なる。


船着き場には、
掃海艇が並ぶ♬
掃海艇は機雷や不発弾処理が任務となるので、
船体は木造やFRPで建造されている。
【掃海艇”はつしま"】艦番606
海上自衛隊の掃海艦艇として初めて
船体・上部構造物にFRP(強化プラスチック)
が採用されたことにより、
従来の木造船に比べ艦齢は2倍近く延伸する。
ー主要兵装
20ミリ機関砲1基、
掃海装置一式
※掃海とは、
航路の安全を確保するため、
海中に敷設された機雷や不発爆弾などを
捜索して除去すること。


クルーズ船に乗船ス。
船内は空調も効いていて
とても快適に
クルーズを楽しむこと叶う♬

船内に入ると、
本日舞鶴に寄港している
海上自衛隊の"艦船"が
ホワイトボードで紹介されていた♬
※クルーズを面白可笑しく
冗談(オヤヂギャグ)満載に
案内して下さった船長及びスタッフは、
全て元海上自衛隊の自衛官でるので、
艦艇の説明はとても興味深いものがあった。

護衛艦"あしがら"(イージス艦)の
間近を通り抜け、
軍港めぐりクルーズ船♬出港!

"新日本海フェリー"
"海上自衛隊舞鶴教育隊"
"日本板硝子"
"舞鶴クレインブリッジ"
等々の施設の紹介をされながら
湾内をめぐる♬
舞鶴教育隊の凄まじい教育訓練の
話などは興味深いものがあった。
案内人(船長)は
退役までは教育隊に
所属していたそうだ。



そしていよいよ
劇場版「名探偵コナン」第17作の
舞台となった、
軍港めぐりクルーズの最大の見せ場!
"海上自衛隊北吸係留所"
へと船首を向ける。
海上自衛隊の最新鋭艦艇が居並ぶ姿は
真に圧巻である♬
【ミサイル艇"はやぶさ"】艦番824
艦対艦ミサイル(SSM)を主兵装とする
高速戦闘艇。
ー主要兵装
62口径76ミリ速射砲×1、
艦対艦ミサイルシステム一式

【護衛艦"やはぎ"(FMM型)】艦番5
2024年5月21日引き渡し・自衛艦旗授与された
最新鋭の"もがみ型護衛艦"。
レーダーに捕捉されにくいステルス性を重視し、
円柱形のアンテナが空を突く
独特の外観が特徴。
乗員は従来艦の半数に満たない約90人。
運用システムの統合により省人化されたほか、
機雷を除去する掃海艦艇の機能も持つ。
人員不足が慢性化する中、
増大し続ける任務を遂行するため、
将来の海自の姿を変える工夫が
この艦に凝縮されている。
ー主要兵装
62口径5インチ砲1基
SeaRAN1基
遠隔管制機関銃2基
SSM装置1基
VDS、TASS 1式
対機雷戦用ソーナー1式
UUV1機
USV1艇
簡易型機雷敷設装置1式
哨戒ヘリコプター1機
VLS装置1式
など
※FFMとは、
対潜・防空能力を持ち、
揚陸部隊や補給部隊などの護衛を任務とする
艦艇フリゲートのFF(Frigate)に
多目的(Multi -Purpose)と
機雷(Mine)のMを足した
多機能護衛艦という艦種である。

DDG型・FMM型護衛艦が横並ぶ
勇壮な風景を海上より楽しむ♬
一口に護衛艦といっても
与えられた力(兵装)は様々だ。
【護衛艦"あたご"(DDG型)】艦番177
イージス艦と呼ばれる護衛艦。
ギリシア神話に登場する、
あらゆる邪悪な存在から身を守る
“神の盾"がその名の由来。
その名の通り鉄壁の防空能力を持ち、
水上艦艇として
世界最強の戦闘力を持つのが
イージス艦である。
現在、海上自衛隊では
こんごう型、あたご型の2タイプ、
6隻のイージス艦を保有し、
艦隊戦力の主力となっている。
ー主要兵装
イージス装置一式、
VLS装置一式、
高性能20ミリ機関砲×2、
SSM装置一式、
62口径5インチ砲×1、
3連装短魚雷発射管×2
など。
【護衛艦"あがの"FMM型】艦番6
"あがの"は"やはぎ"と同様に
"もがみ型"の護衛艦であるので
説明は割愛。





軍港めぐりクルーズ、
なかなかの迫力であった♬
国道からも艦艇は見えるが、
北吸係留所や軍港めぐりクルーズで
国防を担う海上自衛隊の艦艇を
間近にみてみるのも良いだろうと思う。

船長は"南極観測船"の舵を取った
経験をもお持ちとのことで、
船内には貴重な
"南極大陸の石"が展示されていた♬

大迫力!海軍ゆかりの港めぐり遊覧船
舞鶴観光協会 - Visit Maizuru

舞鶴赤れんがパークに戻り
レンガ倉庫群を見学♬





お宿に入り、
宴会へと出掛ける♬

会場は
"極楽秘密酒場/闇市倶楽部"
西舞鶴店さん♬
みるからに
"怪しさ漂う"お店である(笑)
ソチラの現象に"敏感"なかたは
入店しない方が良い雰囲気デアル...。




20周年企画として、
嬉しい"ドリンク祭り♬"が
開催されており、
全日ドリンク100円で
提供されていたゾ♬ルン


仲間との"宴会"は、
お泊まりツーリングの楽しみダ♬
"PREMIUM MALT'S"最高!

乾杯!の大合唱♬

ツーリングのこと...。
Modifyのこと...。
オートバイへの想い...。
沢山の経験や意見の交換は
時間(とき)を忘れるほどに楽しい♬
次々と美味い料理が並ぶが、
やはり最高の酒の肴は
"オートバイ"なんだと知る♬


...部屋に戻っての"2次会"♬
そして長い夜は明け...。
9月15日(日)am9:30ー
予報は"曇り雨"であったが
お宿の上空には"青空"が広がっていた♬
"ナイス!"


復路(帰路)は、
雨雲レーダーを確認しながら、
往路と同じ道を辿った。
※天候を考慮しイベントは無し。
昼食は伊吹山山麓のコンビニで♬
コロナ禍で閉鎖が続いていた
"コンビニカフェ"も再開され、
猛暑の中、
空調の効いた席に座り
飲食できるのは本当に有難い♬

駐車場より目をやれば...。
美しい"伊吹山"が輝いて見えた♬
"青空って最高ダ!"


道の駅"立田ふれあいの里"まで戻り
"解散式"♬

舞鶴ツーリングを
事故・トラブルなく無事に終えること叶う。
一週間前倒ししたとはいえ、
"雨天走行"覚悟での
ツーリング決行となったが、
終始"青空♬"に恵まれ幸運であった♬
残暑厳しく大汗流しながらの
ツーリングではあったが、
気持ちは"爽快♬"そのものであった♬ルン
オートバイツーリングって
"走ってみるまで分からないものだな"
...と改めて思う。
このツーリング記の締めとして、
"走る♬"ことを諦めない
仲間達に感謝と敬意を表シ、
参加車両を紹介スル。
Kawasaki/GPZ900R(ZRX1100エンジン搭載)

Kawasaki/ZRX1200DAEG

そして...
愛車Kawasaki/ZRX1100ーC2

舞鶴...。
まだまだ"やり残し"あり。
また走りに行くぞ♬

【関連資料】
【坂根食堂】ー食べログ
【元伊勢内宮皇大神社】ー公式HP
【舞鶴赤れんばパーク】ー公式HP
【海軍ゆかりの軍港めぐり】ー公式HP
【海上自衛隊】ー公式HP

では
Thanks for coming!
Web-yoshy'sGarageは
ライダーの皆さんのお越しを
お待ちしております♪









コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【TOURING -南東北ツーリング(後編) その2 ー】

2024-09-01 | TOURING

Web yoshy'sGarageへようこそ♪
管理人のヨッシーです。

少し遅い夏期休暇を取得できたので、
コロナ禍で延期していた
"南東北ツーリング"に出掛けることにした♬
※岩手県の一部(陸前高田市)を含む。
令和6(2024)年1月1日に発生した
"能登半島地震"。
そして、
科学的に近い将来に発生が予測され、
私の住む地域もその範囲に含まれる
"南海トラフ地震"などの
大きな自然災害にどの様に向き合うかを
見つめ直す(防災意識向上)ことと、
この旅が被災された方々への
何かしらの"支援"になればという思いで
愛車のエンジンに火を入れた...。

後編ーその2
"東日本大震災・原子力災害伝承館"より
国道6号線を南下し、
大熊町を抜け
富岡町方面へと移動すると...
(福島第一原子力発電所方面)
徐々に国道6号線から枝道(脇道)への
流出に制限がもうけられてくる。
町外の第三者による無断での立ち入りや
危険個所への立ち入りを防止するため、
バリケードや通行止めの表示を
設定している箇所も多く、
帰宅困難区域に指定されているため
道路脇には"住宅や商業施設"が
ひっそりと佇む姿が痛々しい。
国道にはデジタル表示板にて
現在の"放射線量"が所々で表示され、
福島第一原子力発電所近くの
放射線量は、"1.296μS/h”であった。
原子力発電所から約4Km離れた場所では、
"0.2μS/h"であるので、
時間あたりの単位が
"μS/h(マイクロシーベルト)"あるにせよ
他の地域より6.5倍の値であるのは
間違いのない事実である。
※1年間に受ける日本人の
平均被ばく線量は"5.98mS/h"であり、
そのうちの"2.1mS/h"が
自然放射線からの被ばくであると
推定されている。(消費者庁調べ)
因みに放射線量の単位は、
mSv(ミリシーベルト)は、
Sv(シーベルト)の1/1000。
μSv(マイクロシーベルト)は、
Sv(シーベルト)の1/1,000,000
となる。
※画像は伝承館の展示

ー とみおかアーカイブミュージアム ー
(富岡町文化交流センター)
富岡町を中心に歴史と、
この地域で生じた自然災害、
原発災害の"特徴"を展示する施設。


映画"Fukushima50"と
(2020年3月6日公開)"
"夜の森桜並木"をモチーフとした
黒板アート。
(会津学鳳高美術部 作)

富岡町の歴史や自然なども
紹介されていて、
震災以前は"豊かで風光明媚"な
土地であったことがよく分かる展示だ。


その生活が...
あの震災と
福島第一原子力発電所の
事故にて一変してしまう。

ー 津波に流されたパトカー
避難誘導中に津波にさらわれた
双葉警察署のパトカー。
※2名は残念ながら殉職された。





ー 災害対策本部の部分再現

時間(とき)を刻むのを止めた
針の位置がそれぞれ違う時計たち。
詳しく"その意味"を知りたい方は
ミュージアム(富岡町)まで
足を運ぶのがよいであろう。
ー 針を止めた時計たち
町は、震災や原発災害により針をとめた
たくさんの時計を保全してきた。
それには特別な意味がある。
時計の保全までには、
最短でも震災後3年9ヶ月の期間を
要しています。
震災後すぐの復旧復興の着手すら
妨げられたためで、
これも
原子力災害に特有のこと。
「保全までに要した時間の長さ」
という情報また、
"震災遺構"だと言える。
同じ時計でも、
それぞれが持つ被害の情報は異なる。
ー説明より

ー 折り鶴
「復興支援をお約束します」
富岡町へ向け全国各地から支援が届いた。

震災遺産という考え
地域資料の保全に加え、
複合災害の実態を語る資料の保全も
急務の課題であった。
地震や津波の痕跡を示す"瓦礫(ガレキ)"、
被害による何らかの影響で止まった時計、
1万6000の運命を変える決断がなされた
災害対策本部の"空間"、
避難経験など人びとの記憶、
災害によって変った風景、
復旧復興系の事業で変化する景観ー。
モノの保全と様々な情報の記録は
「歴文PT」にとっての大きなミッションであった。
震災遺産保全を主導したのは、
福島県立博物館の学芸員を中心に
起ち上がった
"ふくしま震災遺産保全プロジェクト"
実行委員会(ふく震)
"震災遺構"という言葉は、
建物などの構造物しか
対象にならないことから、
ふく震のメンバーは
"震災遺産"と"震災遺構"を使い分けながら
保全事業を展開した。
当館では、
ふく震で使われてきた"震災遺産"という
言葉を独自に定義し直し、
継承しています。
(詳しい解説は常設展示室に展示)
また富岡町は、
全国初例となる
"震災遺産保存等に関する条例"
を制定している。
富岡町・町民が経験した複合災害もまた、
地域の歴史に位置づけられるべき
"特徴的な事象"なのです。

"とみおかアーカイブミュージアム"
前の歩道に設置されている、
マンホール蓋...。
モチーフは"夜の森桜並木"であろう。
実に美しい。
"富岡は負けん!"

ー 東京電力廃炉資料館 ー
原子力事故の記憶と記録、
長期にわたる膨大な"廃炉事業"の
全容を"見える化(可視化)"した施設。
復興に向けた努力を続けなければならぬ
東京電力の取り組みを知るうえでも、
訪れておくべき施設であろう。
これからも東京電力の果たすべき
事業者としての"責務"は重い。

エントランスに設けられた、
東京電力からのご挨拶文だ。



中央制御室を模したシアター。
映像にて当時の様子が
公開されている。


原子炉建屋(1号機から4号機)
までの状況を、
模型を使って詳細に解説。

ー 燃料デブリ
事故当時、
1~3号機は稼働中だったため、
炉心に燃料が格納されていました。
事故発生後、
非常用電源が失われたことで
炉心を冷やすことができなくなり、
この燃料が過熱し、
燃料棒や炉内構造物とともに溶融しました。
その溶融物が冷えて固まったものを
"燃料デブリ"と言います。
1~3号機合計で
推定880トンあるとされています。
ー 使用済み核燃料との違い
使用済燃料は、
ウラン燃料を
金属製の被覆管(燃料棒)に閉じ込めており、
設計通りの形状で存在しています。
それに対して燃料デブリは、
加熱した燃料が、燃料棒や炉内構造物とともに溶融し、
その溶融物が冷えて固まったもので、
①ウラン燃料が
燃料棒に閉じ込められていない、
②塊・小石・粉などの様々な形状で
存在する。
この様な特徴を持っている。
ー 東京電力/燃料デブリポータルサイトより
ポータルサイトへのリンクは、
下記に【関連資料】としてリンクしておくので、
閲覧することをお勧めする。


ー 原子炉格納容器(PCV)
1号機・2号機・3号機の内部調査
をパネルにて公開。



各原子炉の被害状況の差異により
使用される調査用ロボットも様々。
作業員が入ることが許されない場所の
"廃炉作業"には、
この様に産業ロボット達が活躍する。
ロボット技術の進歩もまた
福島第一原子力発電所の"廃炉"には
欠かせない。
ー 1号機PCV内部調査用ロボット

ー 2号機・3号機調査用ロボット

東京電力廃炉資料館を
見学する前日のこと...
マスコミ各社が一斉に報じた。
令和6(2024)年8月22日(木)より、
東京電力は、
福島第一原発(2号機)の"燃料デブリ"を
試験的に取り出す予定であったが、
"作業手順に誤り"があったとして中断。
"再発防止策"をまとめた上で再開するとした。
ー 福島中央テレビNEWS
(8/30(金) 16:55配信)


8月24日(土)am7:30ー
23日(金)エンドまでに移動した
那須塩原のお宿から
山梨(甲州)へと抜けるルートを考える。
那須塩原にお宿を設定したのには、
天候がどの様に動いたとて
二通りの行程が考えられるからダ。
状況変化に如何様にも対応できる行程を
考えておくのもまた、
ロングツーリングの醍醐味なのだ♬
(詰め将棋の様で楽しい♬)
考えられるルートは以下ダ。
①日光を抜け"日本ロマンチック街道"経由で
軽井沢・佐久辺りで宿泊。
②秩父を抜け"秩父(長瀞)を経由で
山梨県(甲州)で宿泊。
雨雲レーダ-をチェックすると
日光経由の天候は1日中おもわしくないので、
比較的天候が安定している
②ルートを選択し
"TRANSALP"のエンジンに火を入れる♬
とにかく暑いので、
市街地のストップ&ゴーの繰り返しは
耐えられなので
"長瀞"まで高速道路でジャンプ!
ー 道の駅みなのにて休憩。

道の駅で次なる行程を考え、
秩父といえば"味噌焼き豚丼"だろ!
...という事で♬
ー 秩父肉汁そば 山寿さんにて昼食。



お蕎麦の
二種盛り(あい盛り)を注文♬
田舎系(太蕎麦)・更科系(細蕎麦)
どちらも美味い蕎麦で満足であった♬


こちらが"本命!"
秩父名物"味噌焼き豚丼"も注文ス。
味は伝えるまでもなく...
画像からも溢れでてるでショ♬ルン


長瀞から奥多摩に回り込み
国道411号線(青梅街道)から
山梨(甲州)へ抜けるのも楽しいかな
とも考えたのだが...
雨雲レーダーを見ると奥多摩方面は
"真っ赤"な表示!
「これはヤバイな」と思い、
国道140号線(秩父往環)を
素直にゆくことにしたのだが...。
雁坂トンネル(有料トンネル)を抜けたところで、
ドス黒い雨雲が張り出してきて
”ドシャ降りの雷雨"に見舞われ
袂にある"道の駅みなと"に逃げ込む。
私は運よく
屋根付きの"駐輪場"に滑り込めた♬が、
次々と逃げ込んでくる二輪車は、
"屋根付き駐輪場"は満車となっていて
気合いの入ったカスタム車も
ズブ濡れで可哀相であった。
駐輪場の屋根下で
雨が緩くなるまで小一時間休憩。
お宿まで残す距離も僅かであるので、
気持ちは楽であった。
※これもツーリングなんだ♬

ツーリング最後のお宿は
夜朝食付きの
"温泉旅館"をとも思ったが、
①雨をしのげる駐車場があること。
②天然温泉施設があること。
③山梨(甲州)であること。
で検索して"甲府記念日ホテル"さんに
お世話になった。


湯村温泉を目一杯楽しむ♬
ー 信玄の湯 湯村温泉
1200年前に
弘法大師により開湯されたと伝わる湯村温泉は、
500年前の武田信玄公の治世の頃
"志摩の湯"と呼ばれ、
武田家三代にわたり、
頻繁に湯治に訪れていた、
謂わば、
武田家の元湯とも言うべき温泉。
武田信玄公生誕500年(令和3年)に
「信玄の湯 湯村温泉」と名称が改められた。

愛知県までの距離もさして無いので、
最終日は"休日気分を満喫"し
ゆったり余裕をもっての出陣(出発)とした♬
am10:00出発。
帰路のルートは雨も考慮して
高速道路を使うことは決めていたので、
下記のルートが考えられる。
①中央自動車道経由
②中部横断自動車道経由
雨雲レーダーの解析によると...
①は、八ヶ岳から諏訪間、駒ヶ根辺りは
長時間強い雨が降るとの予報。
②も、多少は雨の範囲もあるが...
中部横断自動車道はトンネルが多いので
雨も凌げるだろうと予測し、
ルート②を選択した。
思惑通りに首尾よく
"トンネル"で雨をかいくぐりながら、
"NEOPASA静岡"に滑り込み休憩&給油♬

ここでも雨雲レーダーを確認。
新城から岡崎にかけて雨予報なので、
新東名高速道路==浜松いなさJCTを経由
新東名高速道路引佐連絡路で
東名高速道路にスイッチ。
美合PA(下り)にて休憩。
ー 吉野家の牛丼

旅(ロングツーリング)の
締め飯しに選ばせていただいたのは、
"吉家家"さんの牛丼(特盛り汁ダク)
やはり美味い!

"TRANSALP"の
トリップメーターは、
5日間で"1902.6Km"を指していた。
"TRANSALP"の
"Impression"は後日記事にするので、
興味のあるか方はお楽しみに♬

あの日、あの時、あの瞬間に
起こった出来事を、
否が応でも受け入れながら
人それぞれの人生は流れ...
そして今に辿り着き、
これからの未来を強く生きる。

最終日に宿泊した
"甲府記念日ホテル"のロビーには、
"LOVE"のオブジェが置かれていた。
他者と"共に"
喜びや悲しみを分かち合えるだけの
"強さ・寬容さ"
そして、
"優しさ・思いやり"
をこれからも忘れない様にしたいと思う。

南東北の宮城県・福島県、
そして岩手県(陸前高田市)の
東日本大震災・福島第一原子力発電所事故
の爪痕と復興状況を
中心(ツーリングの核)に据えた
ツーリングをしてきた。
けっして"楽しい♬"と感じるだけの
旅(ロングツーリング)ではないことは、
企画段階から分かってはいた。
しかしながら、
10年以上の時間(とき)が経過した
いま(2024年)だからこそ、
知り・感じることできる
"あの日・あの時"被災地で
起こっていたことを
真っ直ぐに心で感じることができた。
被災した状況を
"公の場(震災遺構や施設)"にて
一般公開することは、
とても苦しく・辛いことと
心中をお察し申し上げます。
されど、
この記事が少しでも多くの人の目に触れ、
東日本大震災で起こった事実を鑑みることで、
今後の"防災・減災"意識に
繋げてゆけたらばと願ってやみません。
それが、
震災でお亡くなりになった方、
震災で故郷を離れなくてはならなくなった方、
今もなお震災で苦しまれている皆々様。
そして、
震災復興に従事されている事業者の皆様
への私なりの"復興支援"になればと
切に願っております。
被災地の皆様
"ありがとうございました"
再び訪れます際には
どうぞ宜しくお願い致します。

人生は喜びより辛さの方が
多い様に思う。
されど、
ほんの少しの"優しさ"を感じるだけで
"捨てたものではないな"
と感じられたりもするものだ。
被災者に限らず、
人生に迷っている君に...
そして、
そこから立ち上がろうとする君に...
この曲を捧ぐ...。
【MUSIC VIDEO】君に捧げる応援歌 / HIPPY


【関連記事】
<土砂災害に見舞われた東北ツーリングの記録>
【2017年夏ツーリング-前編-】<2017.9.20更新>
【2017年夏ツーリング-後編-】<2017.9.27更新>

<災害に見舞われたKawasaki復活の記録>
【はじまりのとき】<2018.2.10更新>
【ModifyRecord (1) -復活- 】<2018.3.4更新>

<車両を修復し挑んだ東北ツーリングの記録>
【2018年東北ツーリング - 再挑戦(前編) -】<2018.11.12更新>
【2018年東北ツーリング - 再挑戦(中編) -】<2018.11.17更新>
【2018年東北ツーリング - 再挑戦(中編)その2 -】<2018.11.19更新>
【2018年東北ツーリング - 再挑戦(後編) -】<2018.11.18更新>

<2018年東北ツーリング外伝>
【2018年東北ツーリング(外伝) - 石ノ森章太郎の世界 -】<2018.12.4更新>

<2024年南東北ツーリング>
【TOURING -南東北ツーリング(前編) -】<2024.8.29更新
【TOURING -南東北ツーリング(後編) その2 ー】<2024.9.1更新>

【関連資料】
【とみおかアーカイブミュージアム】ー公式HP
【東京電力 廃炉資料館】ー公式HP
【燃料デブリポータルサイト】ー公式HP
【秩父肉汁そば 山寿】ー食べログ
【甲府記念日ホテル】ー公式HP
【吉野家】ー公式HP

では
Thanks for coming!
Web-yoshy'sGarageは
ライダーの皆さんのお越しを
お待ちしております♪








コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【TOURING -南東北ツーリング(後編) -】

2024-08-31 | TOURING

Web yoshy'sGarageへようこそ♪
管理人のヨッシーです。

少し遅い夏期休暇を取得できたので、
コロナ禍で延期していた
"南東北ツーリング"に出掛けることにした♬
※岩手県の一部(陸前高田市)を含む。
令和6(2024)年1月1日に発生した
"能登半島地震"。
そして、
科学的に近い将来に発生が予測され、
私の住む地域もその範囲に含まれる
"南海トラフ地震"などの
大きな自然災害にどの様に向き合うかを
見つめ直す(防災意識向上)ことと、
この旅が被災された方々への
何かしらの"支援"になればという思いで
愛車のエンジンに火を入れた...。

南東北ツーリング(後編)
8月23日(金)am7:00ー
仙台の
お宿を出発し向かったのは...
JR常磐線"坂元駅"横の
農水産物直売所"やまもと夢いちごの郷"
の駐車場内。

ー LIM LIFE IS MIRACLE
TSUNAMI ハーレー展示館 ー
「社団法人まちづくりやまもと」
代表理事の成毛政孝氏が、
2012年に山元町在住の横山育生氏の
オートバイ(HARLEYーDAVIDSON)が
カナダに流れ着き、
米国のハーレーダビットソンミュージアム
に展示されることになったニュースを知り、
設置を思い立ちました。
自動車販売整備事業者である
成毛政孝氏は震災後、
自動車整備振興会の会員として
復旧作業に参加し、
ひしゃげた自動車などを重機で回収する
つらい作業の中、
見つけたのが顧客である
佐伯和浩氏の今回展示している
ハーレーでした。
ー説明看板より

右ハンドルが取れ、
ブレーキパイプで辛うじてつながるなど
破損が激しく、
再生は不可能に思えましたが、
スクラップにするのは忍びなく、
所有者の許可を得て保管していました。
佐伯氏のご家族は無事でしたが、
自宅は津波で流出し、
町内陸地に移転しています。

「つらい記憶を思い出してしまう半面、
初めて手に入れて20年以上乗った
ハーレーで愛着もある。
展示したいという
成毛さんの思いを受け止めたい」
という所有者の思いと

「自分もバイクに乗るので捨てたくなかった。
津波を後世に伝える展示がしたい」
という成毛氏の思いが重なり展示に至る。

尚、もう1台の展示車両は、
同業である(有)玉田自動車商会が
亘理町(わたりちょう)で撤去したハーレーで、
現在では珍しいサイドカー付きの車両。

是非、この車両たちをご覧いただき、
後世に東日本大震災を語り継いで
いただければ幸いです。
ーTSUNAMI ハーレー展示館 案内看板より

ー 2011年3月11日15地50分頃
大津波襲来。
津波の引き波によりコンテナガレージごと
海へ流出。
ー 2012年4月18日
カナダ・ブリティッシュコロンビア州の
グレアム島にて、
ピーター・マーク氏(カナダ在住)により発見。
ー 2012年5月
所有者のもとに発見の一報が届く。
その後、
ハーレー本社より修理して返送する旨の
申し出があるが、
「多くの人が被災している中で、
自分だけが恩恵を受けるわけにはいかない」
と辞退。
協議のうえ、
車両を寄付し同社の博物館に展示する
運びとなる。
ー 2012年10月
「ハーレーダビットソンミュージアム」
での展示スタート。
(アメリカ合衆国ウィスコンシン州)
ー 2019年4月21日
山元町においてパネル展示をスタート。

「ハーレーダビットソンミュージアム」
に展示されている、
津波にて流出した
ハーレーダビットソンの勇姿が、
同時に東日本大震災にて
被災した2台のハーレーダビットソンの
後方にパネル展示されている。

同じ様にオートバイを愛する者達の
思いが胸に突き刺さる...。
引き波にさらわれカナダまで
"6500Km"の距離を流されたにも関わらず、
発見されその姿を
再びオーナーに見せてくれるという
奇蹟のような話である。
人(人間)と機械(車両)であれど
何か不思議な"絆"で
繋がっているのだとすれば、
それは、
互いが互いの命をあずけ合っている
間柄だからではなかろうか...。

TSUNAMI ハーレー展示館を後にし、
国道6号線を南下し相馬市へ。
ー 鵜ノ尾岬 ー
鵜ノ尾崎トンネルの南出口にあたる
この高台は、
夕顔観音様が古くから祀られている。
その参道に沿った岩壁のくぼ地が
祠(ほこら)になっていて、
昔は石碑や地蔵尊が
沢山並んで祀られていた。
地域の人達は、
この参道を「お地蔵通り」と呼び
観音様へのお参りの時には、
この地蔵様への供養も欠かさず、
大切に護ってきました。




2011年3月11日、
三陸から常磐沖にまたがる海底を震源とする
東日本大震災が発生しました。
この地震による10メートルを越える大津波が
この鵜ノ尾崎を呑み込み、
「奥の院夕顔観音」と「お地蔵通り」
はその波しぶきに覆われました。
地蔵様は
この激流に巻き込まれ押し流されて、
その姿を殆ど失ってしまったのです。
誰もが自分の身の回りの事で精一杯の
毎日を送っていた中、
地蔵様設置に携わった石材店の方々が、
鵜ノ尾崎の現地に入り、
流されたお地蔵様の捜索や取り出し作業を
して下さっており、
ここに五十二体のお地蔵様の復元設置を
実現することができました。
ー案内看板より

津波被害もあり
鵜ノ尾崎灯台は立入り禁止となっている。


この地に立ち寄ったのは、
鵜ノ尾崎より
"大洲海岸"の眺望を拝むためだ。
真っ直ぐに延びる"市道大洲松川線"
の眺望は素晴らしいの一言であった。
ー 大洲海岸(大洲松川ライン) ー
平成8年日本の渚・百選に選ばれた
"大洲海岸"は、
松川浦県立自然公園の潟湖と紺碧の
太平洋を7kmにわたって仕切る白砂青松の
美しい景観を持つ渚です。
大洲松川ラインが開通し、
そう快なドライブが楽しめます。
平成23年3月11日に発生した
東日本大震災の津波により
甚大な被害を受けましたが、
2018年4月21日に
市道大洲松川線が開通するなど、
震災前の景観を少しずつ戻している。


美しい市道大洲松川線を
"TRANSALP"で駆ける♬




国道6号線==県道120号線と繋ぎ、
南相馬市原町区本町へ。
ー 3.11 希望の灯り ー
以下"碑文"
この「希望の灯り」は、
2011年3月11日に発生した
東日本大震災で亡くなられた方々の
「生きた証」として、
福島第一原子力発電所の事故で、
ふるさとを離れざる得なかった方々への
「道しるべ」として、
今を生きるすべての南相馬市民の
「希望の灯り」
として一歩踏み出す力になるようにと
国内外からのご寄付や多くの市民の
皆さんが協力して建立したものです。

ここに灯(とも)る火は、
1995年1月17日に発生した
阪神淡路大震災後の
2000年1月17日、
全国47都道府県から種火を集め、
神戸市東遊園地に建立された
「1.17 希望の灯り」
から分灯したものです。

大震災が教えてくれた、
やさしさ、思いやり、
家族や地域の絆の大切さを
忘れることなくともに歩んでいきましょう。

2012年3月10日
3.11南相馬希望の灯り実行委員会
認定特定非営利活動法人「1.17希望の灯り」
たすきプロジェクト


そして文頭には、
「1.17 希望の灯り」と同じく
この言葉が刻まれている。
ーーー
希望の灯り
二〇一一年三月十一日
午後二時四十六分
東日本大震災

震災が奪ったもの
命 仕事 街並み 思い出

・・・たった一秒先が
予知できない人間の限界・・・

震災が残してくれたもの
やさしさ 思いやり 絆 仲間

この灯りは
奪われた
すべてのいのちと
生き残った
わたしたちの思いを
むすびつなぐ

堀内正美(神戸市)
ーーー

希望の灯りを後にし、
"道の駅なみえ"にて休息を取る。


ー ポケモン ローカルACTS ー
2019年2月に
ポケモンGOのキャラクター
"ラッキー"が
「ふくしま応援ポケモン」
に任命されました。
ラッキーは幸せ(福)を運ぶと
言われているポケモンで、
福島県の福を連想させます。
また、
お腹のタマゴは、
美味しく栄養がたっぷり。
同じく美味しく栄養がたっぷりな
農産物を通じて県内外へ
幸せを運ぶ福島県の応援ポケモンに
ぴったりということで選ばれました。
ー説明看板より

道の駅の公園に設置された遊具も
"ラッキー"♪
私も"ツキ(福)"をもらえると信じて
撮影してみました♬





自動販売には
"ラッキー"と...

"浪江女子発組合"
「浪江発の風に乗せて、
笑顔が皆様に広がりますように…。」
浪江から始まった
"わ"を日本全国に届けます。
人と土地を結ぶ
”縁結び”をグループならではの
スタンスで活動していきます。
...とのことです♬
応援宜しく!

道の駅に併設された
"なみえの技なりわい館"では、
鈴木酒造店の酒造りの様子を
ガラス越しに見学できる。


ー 鈴木酒造店
「日本で一番海に近い酒蔵」
福島県浪江町の鈴木酒造店は
かつてそう呼ばれ、
浪江町の漁師たちは、
大漁だったときは鈴木酒造店の
定番酒「磐城壽(いわきことぶき)」
の一升瓶で祝いしたものであった。
2011年3月11日に発生した
東日本大震災は、
浪江町に大きな被害をもたらした。
波の音が聞こえるくらい
海に近かった鈴木酒造店は、
酒も蔵も看板も酒造りに関するデータも、
すべて津波で流されてしまいました。
さらに、
福島第一原子力発電所事故により
浪江町へは立ち入りさえ出来なくなり、
6年にも渡る長期の
避難を余儀なくされることになる。

たまたま福島県の研究所に預けていた
酵母が残っていたため、
その年の夏には本数限定で「磐城壽」を醸造。
11月には縁の出来た
山形県長井市の蔵を買い取り、
酒造りを再開し
長井での酒造りは年々軌道に乗り、
2017年には、
鈴木酒造店長井蔵で醸造した
「一生幸福」が全国新酒鑑評会で
金賞を受賞し(2022年には二度目の金賞受賞)
地元に貢献することも叶う。
2017年3月末、
浪江町の一部地域の避難指示が解除され、
震災から10年目となる2021年3月には、
「道の駅なみえ」がグランドオープン。
鈴木酒造店は同所に併設する形で
新しい酒蔵を建設し、
浪江町での酒造りを10年振りに復活させた。

鈴木酒造店が手掛ける
"酒の試飲(有料)"もできる♬

流石に
"飲酒"をするわけにもいかず...

甘酒プリンソフトクリーム
をいただくことにした♬
プラカップが、
酒枡に入れられているところが
なんとも粋だ♬


※酒枡の持帰りは不可。
酒枡が欲しい方には、
厚紙製の"紙枡"が用意されているが
趣がないので私はやめた。

道の駅より
震災遺構"浪江町立請戸(うけど)小学校"へ。


2011年3月11日
東日本大震災発生。
未だかつて経験したことのない
大地震・大津波と
その後の原発事故に見舞われ、
甚大な被害を受けた福島県沿岸部。
福島県浪江町に位置する
請戸小学校も大きな被害を受けましたが、
全員が無事避難することができた
奇跡の学校としても知られている。


津波到達直前(36分前)の
請戸地区の航空写真。

津波襲来直後(15:53ー頃とある)
請戸地区の被害状況。

地震・津波、
原発事故の爪痕を残す
浪江町立請戸小学校に
足を踏み入れる...。

あの日、
どのようにして逃げ切ることができたのか、
事実に基づいたこの物語とともに
校舎の被害状況をみていきましょう。
ー案内看板より

2011年3月11日の
児童の避難状況を絵本
「請戸小学校物語大平山をこえて」
とともにパネル展示されてゆく。
あの日の出来事が時系列で示され、
地震(強い揺れ)発生による
現場の逼迫(ひっぱく)した状況と、
時間経過とともに教職員と児童が
徐々に切迫(せっぱく)した状態に
陥ってゆく様子が克明に描かれ、
臨場感(圧)がとても強い展示内容と
なっていた。

2011年3月11日(金)
93名の児童が通学していた。
11名の1年生は、
4校時目までだったので帰宅。
2年から6年生まではまだ学校で過ごしていた。
5年生は体育館で
3月23日(水)に行われる
修・卒業式へ向けた準備をしていた...。

ー 14時46分
震度6強の地震発生
数日前にも地震があったこともあり、
"また地震か"と揺れがおさまるのを
机の下に隠れまったが揺れはおさまらず、
机ごと数十センチ移動した。
体育館にいた5年生は、
その場にしゃがみ込み、
頭を手で守るようにしていた。
ー 14時47分
安全確認と校内放送
「早く校庭に出なさい!」
校内放送で児童の安全確認を呼びかけ、
校庭へ避難するよう指示を出した。

ー 14時49分
大津波警報発令
ー 14時50分
防災行政無線放送
「只今、大津波警報発令中です。
ただちに、沿岸地区の
棚潮地区、請戸地区、中浜地区、両竹地区
の方は指定された避難所に避難して下さい」

震災後に児童が
黒板に思いを残したのか...。

津波の威力により、
2年生教室の壁が南から北へ倒される。
3年生教室の壁は流出。
1年生教室の壁は
大きく歪んだまま残されている状況から、
海に近い方が強い衝撃を受けたことが分かる。



ー 壁から引きはがされた複合盤 ー
津波により壁は流され、
各室の時計や火災報知などを
一括管理していた複合盤はむき出しになり、
傾いたまま機能停止した。
そのため、校内に残っている時計はすべて
15時37分を刻んだまま停止している。



ー 校長室の金庫 ー
頑丈で重い金庫も
津波の威力には勝てずに流され倒れた。


津波(水流)の威力の
凄まじさを今も残す...。


ー 14時54分
先生・児童、大平山へ向かう
全員が校庭に避難したことを確認、
教務主任の先導のもと
"大平山"へ向けて避難を開始。
同時刻
福島県沖で地震
大平山へ避難を開始すると同時刻に
マグニチュード6.1の地震が発生。
浪江町では震度5弱の揺れ(余震)が観測。
ー 15時14分
当初3mと発表された津波高が、
6mに修正された。






ー 積みあがった機器類 ー
調理場の機器類が
北側の検収室へ押し流され
積みあがっている。


ー 15時30分
大津波警報(高さ修正)
津波高が10mに再度修正された。
ー 15時33分
沿岸部に津波第一波が到達。
ー 16時00分
先生・児童、大平山頂上到達。

ー 大津波の襲来 ー
津波第一波到達後も、
何度も押し寄せる津波は
大平山のふもとまで到達した。

ー 床の落ちた体育館 ー



ー 16時30分
双葉町鴻草(こうのくさ)地区に到達。
山を下り、国道6号線沿いの
駐車場で休憩していると、
何度も余震がきて、
児童や先生の目の前で地割れが発生した。

ここからどうしたものかと
立ち尽くしていると、
突然目の前に大きなトラックが止まる。
いわき市の運送業者で、
トラックの荷台に全員を乗せ、
役場まで連れて行ってくれた。


正面玄関から
昇降口へと向かう。


2階への階段を上る。
踊り場の"津波到達地点"。
2階床上10cm程度まで
津波が浸水している。


ー 2階展示室 ー
校庭側に設置されていた時計
大津波の影響により
文字盤が曲がってしまっている。
ー メッセージが書かれた黒板 ー
震災当時の在校生は、
原子力災害による避難指示で、
しばらく立ち入ることができませんでした。
(立ち入り許可は高校生以上)
立ち入許可がでた後、
多くの方々が
黒板に想いを寄せた...。


請戸小学校は
福島第一原子力発電所より、
北側に約5.1Kmの距離。
2階の窓からは排気塔が見える。



ー 見晴台 ー
請戸小学校で印象的なのは、
この美しい見晴台であろう。
"津波到達地点"
の高さがよく見て取れる。


ー プールの手摺り ー
折れ曲がった手摺りにもまた
津波の凄まじさが感じられる痕跡がある。

震災遺構"浪江町立請戸小学校"の
パンフレットには、
この様に書かれている。
「ありのままのわたしたち」
を見に来てくれて、ありがとうございます。
震災から10年以上の年月がたっても、
こうして足を運んでくれたことに、
心から感謝しています。


請戸小学校を震災遺構とし
一般公開する意図として、
東日本大震災の教訓を活かし、
防災意識の大切さ、命の大切さを、
考える切っ掛けにして欲しいとの
浪江町の方々からの
願いが込められている様に感した。
興味のある方は、
下記QRコードを読み取り
"リアルインタビュー"
にアクセスしてみるのも良いだろう。


浪江町より
"東日本大震災・原子力災害伝承館"のある
双葉町へと向かう。
ー FUTABA Art District ー
「FUTABA Art District」」は
東京電力福島第一原発の事故で
全町避難を強いられた福島県双葉町を、
壁画アートで盛り上げようと
双葉町出身の料理人髙崎丈さん、
壁画アートカンパニー「OVERALLs」が
手がけたプロジェクト。
地震で倒壊してしまったり、
解体されたりしたものもありますが、
現在も多くの壁画アートが
双葉町を彩り多くの人の注目を集めている。












ー 東日本大震災・原子力災害伝承館 ー
原子力災害を中心とした展示や
語り部講話を通じて、
震災の記録と記憶を教訓として
防災・減災に役立てる為の施設。


ー基本理念
世界初の甚大な複合災害の記録や教訓と
そこから着実に復興する過程を
収集・保存・研究し、風化させず後世に
継承・発信し世界と共有することは、
被災した人々の共通した思いです。
東日本大震災・原子力災害伝承館では、
特に福島だけが経験した
原子力災害をしっかり伝えるために、
以下の3つの基本理念を掲げます。
1 原子力災害と復興の記録や教訓の
未来への継承・世界との共有
2 福島にしかない経験や教訓を生かす
防災・減災
3 福島に心を寄せる人々や団体と連携し
地域コミュニティや文化・伝統の再生
復興を担う人材の育成等による
復興の加速化への寄与

館内を見てまわる前に、
円筒形のシアタールームで、
福島県出身の俳優
"西田敏行"さんのナレーションによる
地震・津波・原子力発電所事故発生当時の状況を、
アニメーションを組み合わせた内容の映像で
紹介される。
震災のこと、事故のこと、復興のこと、
これからの未来のことについて考える
入口としての役割を担う。
※映像撮影及び音声録音は不可


シアターの周囲は螺旋状の通路(順路)と
なっていて、
内壁には震災・原子力事故の経緯が
時系列に紹介され、
資料・証言・事故調査の記録から
複合災害の始まりを克明に描かれる。





錯綜(さくそう)する情報。
転々とする避難生活。
これまで経験したことのない
原子力発電所事故発生直後の状況や
その特殊性を、
様々な資料や証言などをもとに振り返る。

ー 原子力発電所事故直後の対応 ー






ひとたび大きな災害が発生すると
"社会的弱者"の方々への
対応はとても困難を極める。
特に医療の分野では、
特殊な対応が求められることが多く、
とても興味深い内容の展示に
かなりの時間を費やし資料を読み込んだ。
ー 双葉病院患者の過酷な避難 ー


ー 長期化する原子力災害の影響 ー
除染(放射性物質の除去)、
風評の払拭、長期避難への対応、
健康に対する取り組みなど、
原子力被害による困難な課題に、
タッチパネル解説や資料を通じて伝える。




ー モニタリング機器
左:①シンチレーション検出器
中央:②電離箱検出器
右:③ゲルマニウム半導体検出器
①と②は検出器に監視盤が接続され
空間線量を電話回線で、
県原子力センターに送信するもの。
③は土壌や農作物・海産物の
放射性物質検査などに使用される機器。


ー 復興への挑戦 ー
廃炉作業の進捗、
福島イノベーション・コースト構想などの
取り組みから、
福島県民が困難に立ち向かい、
復興へ向け力強くチャレンジする姿が
発信されている。




災害・事故に直面した際の
人の想いの様なものを克明に伝える
写真の数々。
切り取られた瞬間(とき)に
その人々の痛烈なる感情が
あふれ出ていて感慨深い...。
ー 資料館外通路(館内廊下) ー
①読売新聞社の記者・カメラマンが撮影した
2012年から2020年の「3月11日」の写真。
※撮影不可のものも多数あるので、
閲覧したい方は足を運んで下さい。


②浪江町立請戸小学校のピアノ


ー 屋外展示
①津波により変形した消防車(双葉町)
この車両は、
伝承館敷地近くで発見された。
消防車の放射線量を計測した記録が
残されており、
計測時は"約0.6μS"であった。
(双葉町消防団第9分団の車両)
乗車していた消防団員は難を逃れている。


②原子力広報の文字パネル(双葉町)
標語は双葉町が町民から募集したもので、
標語を掲示したアーチは、
双葉町の公民館・体育館のあった
国道6号線に沿った場所と
双葉町役場庁舎前に設置されていた。
※展示品はレプリカ


"東日本大震災・原子力災害伝承館"
と併設されている、
双葉町産業交流センターに展示されていた
"双葉ダルマ"。
双葉ダルマは
"①太平洋ダルマ"と"②町章ダルマ"の2種類。
双葉町ではおよそ300年前の
江戸時代からダルマ市が行われていた。
このダルマ市では様々な縁起物の
ダルマが販売されていたのだが
双葉町独自のダルマがなく、
そこでおよそ30年前に
JAふたば女性部
双葉支部ダルマ部会がデザインを考案。
双葉ダルマとして
広く知られるようになった。
七転び八起きの意味をもつ
縁起物の双葉ダルマは、
東日本大震災と原発事故の被害を受けた
双葉町にとって復興のシンボルとなっている。
ー 双葉町公式HPより

①太平洋ダルマ(青色)
青い縁取りは太平洋を表現。
町の花・桜と町の鳥・キジの羽の
モチーフを描いています。
キジの羽のモチーフには
未来へ向かって羽ばたいて欲しい
との思いが込められている。
②町章ダルマ(赤色)
町章をモチーフにした
金色の縁取りで体に竹の模様を配置。
竹は冬場でも色あせず、
縁起物の松竹梅に由来します。
しなやかで折れにくい竹に、
願い事をかなえる
途中で心が折れないようにとの
思いが込められている。
ー双葉町HPより


この後、
国道6号線を双葉町より
大熊町(福島第一原子力発電所)を抜け
富岡町へと向かうのだが...。
ブログの文字数制限もあり
"南東北ツーリング(後編) その2"
としてお伝えしようと思う。

地震・津波・原子力発電所の事故
の3重苦...。
福島県を襲った被害は甚大である。
この後、
南東北ツーリングは
"とみおかアーカイブミュージアム"
"東京電力廃炉資料館"
へと続いてゆく。

その2へと続く...

【関連記事】
【TOURING -南東北ツーリング(前編) -】<2024.8.29更新>
【TOURING -南東北ツーリング(後編) その2 ー】<2024.9.1更新>

【関連資料】
【震災遺構 双葉町立請戸小学校】ー公式HP
【FUTABA Art District】ー公式HP
【東日本大震災・原子力災害伝承館】ー公式HP
【双葉町】ー公式HP

では
Thanks for coming!
Web-yoshy'sGarageは
ライダーの皆さんのお越しを
お待ちしております♪








コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【TOURING -南東北ツーリング(前編) -】

2024-08-29 | TOURING

Web yoshy'sGarageへようこそ♪
管理人のヨッシーです。

少し遅い夏期休暇を取得できたので、
コロナ禍で延期していた
"南東北ツーリング"に出掛けることにした♬
※岩手県の一部(陸前高田市)を含む。
令和6(2024)年1月1日に発生した
"能登半島地震"。
そして、
科学的に近い将来に発生が予測され、
私の住む地域もその範囲に含まれる
"南海トラフ地震"などの
大きな自然災害にどの様に向き合うかを
見つめ直す(防災意識向上)ことと、
この旅が被災された方々への
何かしらの"支援"になればという思いで
愛車のエンジンに火を入れた...。

今回、
ロングツーリング時の
走行性能と使い勝手などを探るべく、
"Kawasaki/ZRX1100ーC2"ではなく
"HONDA/XL750ーTRANSALP"を
旅の相棒として選択シタ♪
納車後1000Km程度の走行距離では、
全てが"未知数領域"の車両なれど、
良い仕事をこなしてくれると信じ
旅の荷物を積み込んだ♬
"パッキング(荷物の積載)"は
この様な仕上りとなった♬

天気予報を確認すると、
日程全てに"傘マーク"が付く
"最高♬"のツーリング日和が並ぶ(笑)
普段ならば出掛けることに
戸惑いを感じてしまう予報だが、
"屋内施設"を多く利用する予定なので、
特に迷うこともなく出発を決めタ♬
8月21日(水)am2:30-出発の時。
雨雲レーダーを確認し、
走行ルートにゲリラ豪雨的な雨雲が
張り出していないかダケは
しっかりと確認し、
"頼むぜ!相棒"という思いで
"TRANSALP"を撮影♬
※雨天走行は初で不安なれど、
"RAINモード"でどれだけ走行安定性を
得られるかも楽しみであった♬


...さぁ、
南東北に向け出立ダ。
セルボタンを押し込む...
"トルルッ!"と小気味良い鼓動と共に
HONDAの二気筒エンジンは
気持ち良く目覚めた♬

高速道路に乗るまえに給油♬
当たり前であるが、
給油することが主目的である...
しかし、
それ以外に大切な事は、
"荷締めロープ等々"に
不具合(緩み等々)がないかを
最終確認する
大切な時間でもあるノダ。
私は、
ロングツーリング前には、
必ず給油してから旅に出る様に
心掛けている。

給油を済ませ...
高速道路に駆け上がる♬
名神高速道路==中央自動車道==駒ヶ岳SA(休憩・給油)
長野自動車道==上信越自動車道と繋ぎ、
"松代PA(下り)"に朝食と給油で立ち寄る♬
天気予報に反して快晴♬気分は最高ダ!


カツ丼&蕎麦定食を注文♬
蕎麦を注文しようと思ったら
急に食べたくなり...
朝から"カツ丼"も食ス(笑)


メッチャ綺麗(美味そう)な
"川中島白桃"が売られていた♬
オートバイでは
流石に手も出せず諦め出発。
※川中島白桃
長野市川中島の果樹園で発見された品種。
果実の大きさは300g程度と大玉で、
玉ぞろいが良く、日持ち性も良好。
長野県を代表する白桃系の品種。

松代PA==上信越自動車道==北陸自動車道==
米山SA(休憩)
裏手のガーデンには
松尾芭蕉の句碑が立つ。

【松尾芭蕉句碑】
"荒海や 佐渡に横たふ 天の川"
目の前に荒海がある。
はるか彼方に
流人の悲しみを数々秘めた
佐渡島がある。
仰ぎ見ると空には天の川がさえざえと
横たわっている。
近くに、遠くに、
そして天空に広がる大自然、
この雄大さに比べれば、
そこにたたずむ
人間がいかに小さなものか、
人の哀れさをさそうものである。
元禄二(1689)年、
「奥の細道」の旅の途中、
越後出雲崎(新潟県三島郡出雲崎町)
での吟。(松尾芭蕉四十六歳)

松尾芭蕉は、
北陸路において、
新潟・富山・石川・福井と
日本海沿岸を行脚し、
岐阜(大垣)を「奥の細道」の
結びの地とした訳であるが、
この行程は、
北陸自動車道とほぼ同じ道を
辿っていることから、
これを記念し、
芭蕉の北陸路ゆかりの地に近い
米山SAに碑を建立した。
(句の建立には柏崎市の協力を得又
碑の書体は書家・白倉南寉先生による)

展望所から
日本海と佐渡島を望む♬




米山SA==北陸自動車道==
東北横断自動車道==
猪苗代磐梯高原ICで高速道路をドロップし、
道の駅猪苗代にて休憩♬
休憩時間を利用して、
昼食会場に予約の電話を入れる♪


【郷土料理】
ツーリングの楽しみは
郷土料理にアリ!
...と言うことで、
"会津わっぱめしと手打ち蕎麦"
をいただける
"芳本茶寮"さんにて昼食♬



廊下には、
南東北地方(山形・仙台・福島)を代表する
民芸品が並び、
温かい雰囲気を醸し出していた♬




席には、
会津地方の方言が
"相撲の番付表"にして紹介されていた♬
因みに"蒙御免"とは
"ごめんこうむる"と読みます。
これは、
江戸時代に興行である
大相撲を行うにあたって、
寺社奉公から許可を得たことを
示したものである。

わっぱめし・ざるそば・
野菜天麩羅・茶碗蒸しがセットとなった
"葉山膳"を注文♬
※輪箱飯(わっぱめし)とは、
桧を曲げた器に会津米と
さまざまな食材を入れて蒸し上げた
会津の伝統的な郷土料理のこと。


しばらくすると...
蒸したての
"わっぱめし"が運ばれてきた♬
蓋をあけると...
山菜や栗・根菜・竹の子・鶏そぼろ
鮭等々が美しく盛り付けられ、
一気に気持ちが盛り上がる♬


"わっぱめし"
をご飯茶碗に装(よそ)いながら
葉山膳を撮影していると、
"手打ちそば"が運ばれてきた。
これで"葉山膳"の完成ダ♬
少し遅れて
茹でたての"蕎麦"を運んでくるあたりに
このお店の心遣いがみてとれる♬
目にも口にも、
そして心までもが嬉しくなる
"わっぱめし(葉山膳)"であった♬
会津を訪れる際には是非ご賞味下さい。
但し、
人気店の様なので、
予約されることをお勧めします。



【郷土銘菓】
郷土料理に舌鼓を打った後は、
デザートに郷土銘菓を楽しむ♪
"日本三大まんじゅう"
会津"磐梯高原・柏屋"さん♬


"日本三大まんじゅう"とは、
東京都/塩瀬総本家の「志ほせ饅頭」
岡山県/大手饅頭伊部屋の「大手まんぢゅう」
そしてココ!
福島県/柏屋の「薄皮饅頭」のこと♬
2007年に三笠書房から出版された
『日本の「三大」なんでも事典』
にて和菓専門家から
選出されたことがその理由。
「日本三大まんじゅうサミット」という催しも
三社合同で開催されるなど、
日本のまんじゅう文化の
発展・発信も積極的におこなっているノダ♬
因みに
"三大まんじゅう"は
東京の"日本橋三越"さんにて
全て買えるそうです♬

嘉永五(1852)年、
柏屋の初代/本名善兵衛は
「病に薬がいるように、
健やかな者に心のなごみがいる」
との思いから、
奥州街道・郡山宿の薄皮茶屋で餡がたっぷりで
皮の薄い饅頭を考案しました。
これが柏屋薄皮饅頭の誕生です。
東北地方では当時、
皮が薄く"こしあん"がたっぷり入った
饅頭はめずらしく、
その忘れられないおいしさは
奥州街道の名物となり、
旅する人々にとってわざわざ遠回りしてでも
食べたい饅頭になりました。
ー會津 柏屋HPより

"こしあん"は、
上品でなめらか、口どけのよさと
さらっとした甘味が身上と言われる通りの
"薄皮饅頭"を楽しむこと叶いました♬

【菓祖神 萬寿神社】
ー 縁結びとお菓子の神様 ー
菓祖神「萬寿神社」は、
饅頭(まんじゅう)にも通じることから
命名されたもので、
萬(よろず)の寿(ことぶき)の意味を持ち、
縁結びの神様として親しまれている神社です。
良縁に恵まれ、子宝、家内安全、
長寿へと導いてくださいます。
多くの方々が、縁結び、招福を願って
萬寿の絵馬に願いを託し、
ご祈願しています。
幸多く、良縁に恵まれ、
たくさんの福が訪れますように…。
「萬寿神社」は「林浄因」をお祀りした、
奈良の「林神社」から日本で唯一
ご分社いただいた神社です。
所在地/福島県郡山市朝日1-13-5
(開成柏屋敷地内)

「菓祖神 萬寿神社」には、
中国から日本へ初めてお饅頭を伝えた祖神
林浄因命(りんじょういんのみこと)
日本のお菓子の原点、
橘(みかんの原種)を伝えた果実とお菓子の祖神
田道間守命(たじまもりのみこと)
薄皮饅頭をこの世に送り出した、
初代 本名善兵衛命(ほんなぜんべいのみこと)
三柱の菓祖神がお祀りされている。

磐梯高原/柏屋さんにある
お饅頭の形をした自然石"願掛け萬寿石"は、
願い事を聞き届けてくれる
願掛けの石として親しまれている。
ー 案内看板より
旅の安全を祈願し
"ひと撫で"しておきました♬

磐梯山の
伏流水を源とする地下水。
"柏井"の水は、
磐梯山のふところで生れた
天然の水。
豊かな自然の恵のなかで、
流れ、育ち、磨かれてきた
"ふるさと"の水。


郷土菓子を頬張りながら
"磐梯山(磐梯吾妻スカイライン"方面へ
目をやると...
ドス黒い雨雲が立ちこめだしている。
"やはり、雨雲が湧いたか!"
危険回避はツーリングの鉄則。
スカイラインアタックは回避し、
お宿へと向かう♬
国道115号線で福島市内へ抜けル。
安達太良山周辺は
ついさきほどまで土砂降りだったのでだろう、
路面は"HeavyWet"であった。
走行モードを
"RAINモード"に設定変更して
"TRANSALP"を走らせた♬
【ROUTE INN HOTELS】
最近旅のお宿に
"ROUTE INN HOTELS"
を利用する機会が増えた。
理由は、
①平面駐車場が確保されいてる。
②人工ではあるが"温泉"がある。
③コーヒーの無料サービスがある。
④質の良い朝食が提供される。
(郷土料理がだされる場合もある)
⑤製氷機が無料で利用できる。
⑥市街地にも近く夕食の利便性が良い。
(コンビニも近くにあることが多い)


宿泊した"ROUTE INN HOTELS"
福島西インター店は...
自走式の立体駐車場で
雨がしのげるというのが、
利用した最大の理由となる♬
雨雲レーダーによるリサーチでは、
南東北地方は連日(出発6日前からリサーチ)、
夕方から深夜にかけてほぼ毎日の様に
豪雨が発生していたから助かった。
※出発前なので車両は横を向けています。

8月22日(木)am7:30ー出発
この日は、
福島県から岩手県へと向かい、
いよいよこの旅の核心へと進む。
東北自動車道==長者原SA(休憩)
宮城県の郷土料理である
"ずんだ餅"をいただく♬
※夏から秋にかけて収穫した
旬の枝豆を茹で、
薄皮を丁寧にむいてからすりつぶし、
砂糖と塩を少々加えた
素朴で上品な味わいの餡。

東北自動車道==若柳金成IC(下りる)
県道48号線(弥栄金成線)にて、
旅の幕開けを告げるかの様な
"どこでもドア"を偶然発見したので
撮影シタ。
...いよいよ被災した地域へと向かう。



国道284号線に入り、
北上川に架かる"北上大橋"を渡り
"道の駅かわさき"に立ち寄る。


自動販売機もご当地色豊かだ♬
鉄神ガンライザー(テレビ岩手にて放送)
※現在は放送終了。

岩手県水沢(現・奥州)市出身
MLBーロサンゼルス・ドジャースの
"Shohei Ohtani"♬

国道45号線(三陸沿岸道路)を使い
向かったのは陸前高田市だ。

気仙川を渡す"気仙大橋"に
"TRANSALP"を止める...

下流には、
震災遺構"高田松原YH"と
"軌跡の1本松"が見える。


この地に立つのは3度目である。
震災前後の変りようも
"凄まじい"の一言であったが、
現在の整備された姿もまた
感慨深いものがあった...。


"東日本大震災津波伝承館"と
道の駅とで構成される、
"高田松原津波復興記念公園"に立ち寄る。


新たに整備された海岸線へと向かうまえに
"東日本大震災津波伝承館"
いわてTSUNAMI(つなみ)メモリアル
に足を運ぶ。
ー ミッション・ステートメント ー
日本列島は、
地球上でも特に自然災害の
危険性が高い宿命の地であり、
この地に生きる私たちは、
長年にわたり自然災害への
対応力を高めてきました。
しかし、
2011年3月11日に発生した
東日本大震災津波により、
私たちは多くの尊い命を失いました。
この悲しみを繰り返さないためには、
知恵と技術で備え、自ら行動することにより、
様々な自然災害から命を守り、
そして、
自然災害を乗り越えていくことが重要です。
東日本大震災津波伝承館は、
先人の英知に学び、
東日本大震災津波の事実と
教訓を世界中の人々と共有し、
自然災害に強い社会を
一緒に実現することを目指します。
そして、
東日本大震災津波を乗り越えて進む姿を、
支援への感謝とともに発信していきます。



伝承館の展示を見て回る。
※震災の映像と津波襲来・被災直後の映像には
こころが締め付けられた。(映像は撮影禁止)
津波にて流出した
"旧気仙大橋"の一部。


ー被災した消防車ー
展示されている消防車は、
津波襲来の直前まで、
住民への避難指示に奔走。
直ちに高台へ避難するように
くり返し呼びかけていた。
※乗車していた消防団員は無事であった。





震災以前の標識・看板。
震災以前より
"津波"への備えは
されていた地域であった。

展示室3"教訓を学ぶ"では、
逃げる・助ける・支えるなど
東日本大震災津波の時の
人々の行動をひもとくことで、
命を守るための教訓を共有する。
東北地方整備局災害対策室の
移設展示がされていた。
(映像及び展示品の撮影禁止)

伝承館より
海の方向(広田湾・第二線堤)へと足を向ける。
ー 祈りの軸 ー
津波の襲来した広田湾方向と
津波が遡上した気仙川上流を結ぶ
象徴的なライン。

芝が植えられ美しく整備された
"追悼の広場"を突き抜ける
"祈りの軸"の右方には...
震災遺構"高田松原YH"と
軌跡の一本松。

左方には、
"旧道の駅高田松原(タピック45)"
が見える。

祈りの軸を進み、
第二線堤の
"海のみえる場"から海を見渡す。
第一線堤には、
まだ幼い"防潮林(高田松原)"が
植えられていた。

海を見渡せる
美しい場所に設置された
献花台がもの悲しい...。
震災にて
お亡くなりになられた方々へ
"哀悼の意を表す"

"追悼の広場"の手入れは、
"Husqvarna(ハスクバーナ)社"の
自動芝刈り機が担当していた。


"高田松原津波復興記念公園"
を後にし...。
※公園の前には、
この様な風景が広がっていた...。

国道45号を南下し、
南三陸町へ向かう。
ー南三陸さんさん商店街
東日本大震災(2011年)で
壊滅的被害を受けた南三陸町の
2つの商店街(志津川地区、歌津地区)の
再生プロジェクト。
10mの盛土によって生まれた
新たな地面の上に、
かつての商店街が有していた、
ヒューマンなにぎわいを再現するために、
地元の南三陸杉を用いた在来木造による、
「縁側」のついた商店街である。
特産物や地元食材を使った料理等々を
楽しむことが出来る商業施設だ。



"隈研吾"氏設計の中橋を渡り、
南三陸町震災復興祈念公園へと向かう。




海抜16.5m、
これは東日本大震災の時に
南三陸町志津川地区を襲った
津波の高さである。
公園の中央部を占める「祈りの丘」は、
発災時に一時的な
避難地となり得る高さ(海抜20.0m)を
確保するために造成した
避難築山であるが、
その頂上のすぐ下では、
16.5mの等高線に沿って
「高さのみち」が丘をぐるりととりまく。
眼下には骨格構造だけが遺る
旧防災対策庁舎が見え、
被災直後には足下の高さまで
水面が迫っていたことが想像できるだろう

地域では、
旧防災対策庁舎保存への葛藤が
あることは知っている...。
ただ、震災発生時に防災無線を通じ
住民に避難を呼びかけ続け命を落とした
方が居たというのも揺るぎのない事実だ。
どれだけ多くの人々が呼びかけの声に
命を救われたのであろうかと思うと、
後世に"記録"として残すことも
また大切ではなかろうかと考えてしまう。
ひとそれぞれに考え方は違うのであろうが、
最後まで"住民の命"を優先し
亡くなられた方々の
"あの時の思い"を尊重した
"判断"をしていただければと切に願う。
庁舎の有無に関わらず、
未来にまで"人への思いやり"の気持ちを
絶やさず繋いでいくことが、
亡くなられた方々への
なによりの手向けとなるのでは
と感じずには居られない。
ー旧防災対策庁舎ー
南三陸町は1960年に発生した
チリ地震を教訓に津波対策を進め、
それを踏まえて防災対策庁舎は
鉄骨3階建で建てられました。
しかし、
東日本大震災ではチリ地震津波の5.5mを
はるかに超えた15.5mの津波が庁舎を襲い、
防災無線で「高台へ非難してください」と
呼びかけ続けた町職員33人を含む
計43人が亡くなられました。
現在の建物周辺はかさ上げの盛り土で囲まれ、
大津波の脅威を感じさせる鉄骨の骨組みは、
補強・塗装の塗り直しがされました。
2031年まで宮城県の管理下で
保存されることになっている。












庁舎を囲む

ー南三陸311メモリアルー
南三陸311メモリアルは、
住民の証言や写真、
映像などの資料を継続的に収集・保存する。
これらの資料から制作した
バナーや証言映像ダイジェストを
展示ギャラリーで見ることができる施設だ。
※隈研吾建築都市設計事務所が
未来に漕ぎ出す船をイメージし設計した建物。


館内の撮影可能エリアの
画像を掲載しておく。
※証言映像やアート作品等は撮影禁止






ー震災に触発された
クリスチャン・ボルタンスキーの
インスタレーションMEMORIALー
(撮影禁止)

ー安心して暮らし続けられる
まちづくりー

ー南三陸から
支援に対する感謝パネルー
"ありがとう"の気持ちは
次に同じ様に苦しむ方々に
返すのが良いだろう。
同じ日本という船に乗るもの。
有事があれば
"助け合う"のは人として自然な行為だ。
だが、
"ありがとう"という優しい言葉を
美しく使える人になりたいと
私は素直に思う。

メモリアルの側面の階段を昇れば、
復興祈念公園を見渡すことができる。



ー震災遺構ブライダルパレス
高野会館ー

震災当時、
高野会館のスタッフ等の判断により、
327名の高齢者や近隣の人と
犬2匹の尊い命が助かった。
当時の地上レベルや津波浸水高を実感できる
数少ない
民間の震災遺構として保存されている。
これまで皇室関係者、
官僚等はじめ
国内外から35万人以上の人が来館し
自然災害の脅威や防災減災の大切さを
伝承している実績がある。


3階天井より上(屋根腰壁下部)に
設置された、
"東日本大震災「津波浸水深」ここまで▽
の高さに驚かされる。
※津波浸水深の定義(国土交通省)
陸上の各地点で、
水面が最も高い位置にきたときの
地面から水面までの高さ。

ーモアイ像ー
約17,000Kmの距離を越えて、
南三陸町とチリは友好関係を深めてきた。
そのきっかけは、
1960年5月24日未明に、
遠い遠い海の向こうから押し寄せて来た
チリ地震津波だった。
旧志津川町内だけで、
41名が犠牲となり、312戸の家屋が流失、
倒壊 653戸、半壊 364戸、
浸水 566戸の壊滅的な被害を受けた。
この津波の記憶を未来に伝えようと、
30年後の1990年に
国鳥コンドルの碑がチリから贈られ、
1991年には
南三陸町がふるさと創生事業の一環として
チリ人彫刻家に依頼して創った
イースター島のモアイが、
志津川地区の松原公園に設置された。
東日本大震災で公園は被災したが、
流出したモアイ像の頭部は発見され、
志津川高校の敷地内に移設された。

日智経済委員会チリ国内委員会が、
南三陸町に新たなモアイ像を贈ろうと、
イースター島の長老会に協力を求めた。
93歳の老彫刻家マヌエル・トゥキ氏は、
皆に呼びかけた。

「海に破壊された日本の町に、
人々が再びそこで生きていきたいと思えるような
マナ(霊力)を与えるモアイを贈れないのか?
私は息子とともに、
日本の人たちが必要としているモアイを彫る!」

長老会は大きな拍手で包まれたという。
イースター島の石を使い彫られたモアイ像が、
島外に出たことはない。
しかし、
かつて倒れてバラバラになっていたモアイ像を、
日本人がもとの姿に建て直す
支援をしたことがあったことから、
イースター島初のプロジェクトが始まった。

こうして息子の
ベネディクト・トゥキ氏は、
石材を切り出して、
親戚の彫刻家たちとともにモアイを制作した。
南三陸町を訪れたトゥキ氏は、
設置されたモアイに
白珊瑚と黒曜石で作られた眼を入れた。
ー南三陸観光ポータルサイトより



ー眼が入ったモアイは、
世界に2体しかないというー
南三陸町を訪れ、
津波の惨禍を目の当たりにした
トゥキ氏の目に涙があふれた。
「眼を入れるとマナ(霊力)がモアイに宿る。
南三陸の悲しみを取り払い
復興を見守る存在になることを願っている」
と彼は語った。
モアイは、
イースター島のラパヌイ語で
「未来に生きる」という意味だ。
未来に生きる南三陸町の人々を、
遠い未来まで勇気づけ、
見守り続けることだろう。
ー南三陸観光ポータルサイトより

モアイ像と南三陸町の絆 ~未来へと繋ぐ贈り物~

ー前編内容
1日目(水)は福島までの移動日。
2日目(木)は、
陸前高田(岩手県)から南三陸(宮城県)まで、
東日本大震災の爪痕とともに、
未来へ向けての各地の復興状況を
目に焼き付けて来た。

ー後編内容予告
3日目(金)は、
宮城県仙台市から南下し、
福島第一原子力発電所災害に
見舞われた
南相馬市==浪江町==双葉町==
富岡町を巡る。
4日目(土)は、
秩父を抜け
山梨県(甲府市)へと至る。
5日目(日)は、
帰路==帰宅。
の予定です。

後編へと続く...

【関連記事】
<土砂災害に見舞われた東北ツーリングの記録>
【2017年夏ツーリング-前編-】<2017.9.20更新>
【2017年夏ツーリング-後編-】<2017.9.27更新>

<災害に見舞われたKawasaki復活の記録>
【はじまりのとき】<2018.2.10更新>
【ModifyRecord (1) -復活- 】<2018.3.4更新>

<車両を修復し挑んだ東北ツーリングの記録>
【2018年東北ツーリング - 再挑戦(前編) -】<2018.11.12更新>
【2018年東北ツーリング - 再挑戦(中編) -】<2018.11.17更新>
【2018年東北ツーリング - 再挑戦(中編)その2 -】<2018.11.19更新>

<2024年南東北ツーリングの記録>
【TOURING -南東北ツーリング(後編) -】<2024.8.31更新>
【TOURING -南東北ツーリング(後編) その2 ー】<2024.9.1更新>

【関連資料】
【郷土料理/芳本茶寮】ー公式HP
【會津/柏屋】ー公式HP
【東日本大震災津波伝承館】ー公式HP
【南三陸町震災復興祈念公園】ー観光ポータルサイト

では
Thanks for coming!
Web-yoshy'sGarageは
ライダーの皆さんのお越しを
お待ちしております♪








コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

【TOURING ー 冠山峠(クラウンロード)を駆けル♬ ー】

2024-06-05 | TOURING

Web-yoshy'sGarageへようこそ♪
管理人のヨッシーです。

少しまえのこと...
徳山ダムを挟み
岐阜県揖斐川町と
福井県池田町を繋ぐルートは、
以前より国道が寸断され
険しい林道を経由してのみ通り抜け叶う
"酷道(ミッシングリンク区間)"
として知られるルートであったが、
2023年11月19日(日)に
新たに国道417号線は、
冠山峠道路(クラウンロード)
として整備されたので、
愛車Kawasaki/ZRX1100ーC2
を走らせてみることにシタ♬

立田大橋を渡り
県道23号線(清流サルスベリ街道)にて
長良川堤を北上シ、
道の駅"クレール平田"に立ち寄る♬
空は薄曇り時折小雨降ル状態ダ...。
am9:00頃から"晴れ"との予報を信じ
先に進むことにした。
<道の駅クレール平田>


心地よく走ること叶う
長良川堤を離れ、
安八町より
国道21号線==国道303号線へと渡り
"徳山ダム"を目指す♬

<道の駅星のふる里ふじはし>
道の駅に立ち寄ってみれば...。
新しい道路を目当てにしてだろう、
想像以上に多くのオートバイが
出入りを繰り返していた。



ここ道の駅"星のふる里ふじはし"は
国道303号線と国道417号線の分岐である
"横山ダム"の袂に位置している。
...この様な装置が展示されていた♬
<日本で最初の国産立軸水車>
大正四(1915)年に
揖斐川電気株式会社(現イビデン)により、
藤橋村西横山の大曽根地内に建設された
西横山発電所の発電機類で、
昭和三十八(1963)年まで稼働していたもの。
当初は
大垣市の摂津紡績大垣工場(後のユニチカ)へ、
電力を供給することが最優先の目的とされた。
以来、
営業面などに変遷のある中で、
昭和三十八年の建設省による
横山ダムの計画にともない
湖底に沈むこととなり、
その役目を終えた。
こうした発電関係の機械類は
外国に頼る他はなく、
この発電機一組も
アメリカの
"ジェネラル・エレクトリック社"
によるものである。
一方水車は、
国産第一号と位置づけられる
電業社(芝浦製作所から水車部門を引き継ぐ)
の製品で、
この形式を立軸単輪半流渦巻フランシス水車
と呼んでいる。
当初はドイツに注文していたものが、
第一次世界大戦のため輸入ができなくなり、
急遽、国産に切り替えなくなったのだが、
注文を受けた電業社も
立軸水車の製造は初めてで、
苦心を重ねた末に完成をみた。
しかし、
この初挑戦への研鑽(けんさん)が
その後の水車製造技術の発展に寄与し、
産業技術史に欠かせぬ
貴重なものと位置づけられている。
---説明看板より

とても貴重なものなのだが、
殆ど見学者は訪れることはなかった...。


道の駅を出て、
横山ダムより国道303号線から
国道417号線へ移り、
徳山ダム(徳山湖/揖斐川上流)に至る♬
<徳山ダム>
2008年に、
日本最大の総貯水容量を誇る
"徳山ダム"が揖斐川町上流に建設された。
徳山ダムは、
中央遮水方ロックフィルダムという種類のダムで、
水を通さない
粘土質の層(中央遮水壁)の両側を砂利ではさみ、
更に外側を岩石で覆っているのが特徴。
貯水量は、
浜名湖の約2倍の6億6,000万立方メートルで、
ダム堤頂の長さは、
新幹線"のぞみ号"の16車両(400メートル)
を超える427メートルである。
---揖斐川町HP(徳山ダム)より

<展望台>
展望台よりダムを見渡してみる♬





ダム建設時に使用された
90tダンプのタイヤが展示されていた♬

漸く天候も回復してきたので、
新設された冠山峠道路(全長7.4Km)を楽しむ♬
"塚宮ヶ原トンネル"を越えしばらく走ると、
今回開通区間である
全長4834mの
冠山トンネルが口を開ける♬
<冠山峠道路開通>
1982年に
国道417号線は国道指定を受けたものの、
"冠山峠区間"は41年間未開通の
分断国道となっていたが、
令和5(2023)年11月19日(日)
冠山トンネルが完成し、
全長7.8Kmの"冠山峠道路"として
岐阜県と福井県を結ぶ
国道417号線が開通した。

<改善効果>
〇延長
整備前:代替林道19.4Km
整備後:冠山峠道路7.8Km
整備効果:11.6Km短縮
〇車両通行規制
整備前
岐阜県側/マイクロバス以上通行不可
福井県側/マイクロバス(要運行許可)
整備後:規制なし(予定)
整備効果:規制解消
〇冬期運行規制
整備前:約200日/年通行不可
整備後:規制なし(予定)
整備効果:冬期通行止め解消
<期待される効果>
〇通行止め区間が解消され
移動距離が86Km、所要時間1時間短縮。
〇通行規制が解消され道路の安全性確保。
〇災害時応援協定が締結されている
鯖江市~大垣市・揖斐川町~池田町が
国道で連結され、
北陸自動車道通行止め時の
代替えルート確保。

美しい"徳山湖"を眺めながら
福井県に抜けル♬
<福井の風景♬>
愛車Kawasaki/ZRX1100ーC2も
頗(すこぶ)る快調で気分爽快♬
真に"越前若水"なる風景ダ。

<アニメキャラ>
某スタジオのアニメキャラに似た
動物のオブジェを発見したので
立ち止まる♬




<とんかつ ゑびす庵>
福井県といえば...
ということで"豚カツ"を
"ゑびす庵"さんにて食ス♬




"豚(トン)ラブ"のお店の
戸口には豚の玩具♬


お店の外観もだが
店内もなかなか個性的♬



メニューも豊富で嬉しい♬
折角なので
"大とろロースかつ定食(中)180g"
を注文。

注文の品が運ばれてくるまで、
店内をみてみると...。
凄い数の調味料が目を引いた。
<ヒマラヤの岩塩とトラ>

<キャベツ用ドレッシング各種>


<調味料の数々>

<甘い冷茶とサルのやかん>


<岩塩の数々>
岩塩を削りながら
"かつ"の揚げ上がりを待つ♬

<"大とろロースかつ"♬>
肉質の良さはもちろんのこと、
低温調理されているのだろう♬
脂っこいはずの
"トンかつ"があっさり感じられ
実に美味いノダ♬ルン



"ソースかつ丼"をとも悩んだのだが、
ライスに辿り付くまえに
諄(くど)くなってしまうので、
ソース味の豚カツは、
専用ソースを別注し楽むことにシタ♬

越前市(武生)といえば...。
NHK大河ドラマ「光る君へ」の舞台でもある。
...ということで、
紫式部に因んだ場所へ足を運ぶことにした。
<NHK大河ドラマ館>
武生中央公園内に建てられた、
光る君へ 越前 大河ドラマ館
"しきぶきぶんミュージアム"♬




平安中期、
貴族文化華やかなる時代に書かれた
「源氏物語」の作者である
"紫式部"を主人公とした、
NHK大河ドラマ"光るキミへ"の
大河ドラマ館だけに、
エントランスの展示物からして
平安の"雅(みやび)"を
感じられる空間広がる♬




大河ドラマ館入場♬


<紫式部特大パネル>
入場して直ぐに目を引くは、
主演/紫式部を演じられている
吉高 由里子さんの特大パネルだ♬

<ご挨拶文>
作:大石 静 氏
音楽:冬野 ユミ 氏
題字:根本 知 氏

<等身大パネル>
吉高 由里子さん/紫式部 役
岸谷 五朗さん/藤原為時 役
大河ドラマ館に来場された際に
お二人は自筆のサインを残される♬

<人物相関図>

<吉高 由里子さんの衣装展示>
ドラマ第2話"めぐりあい"の
裳着(もぎ)の儀式のシーンで
吉高由里子さんが着た衣装が
展示されていた♬
※裳着(もぎ)の儀式
平安朝の宮廷貴族社会で行われた
通過儀礼の一つで、
女子が成人して初めて
衣裳を着ける儀式をいう。


<岸谷 五郎さんの衣装展示>

<まひろが代筆して書いた恋文(木簡)>
第2回"めぐりあい"のシーンで使われた
撮影使用品の木簡。
父(為時)に内緒で行っていた代筆の仕事。
この時代、
庶民にとって紙は貴重品だったため、
紙以外の木簡などにも書いていた。
老若男女さまざまな客の気持ちになって
歌を詠むこの仕事に、
まひろは生きがいを感じるのだった。

半分は撮影用に先生が書いたもので、
残りの半分は
吉高 由里子さんの直筆なのだそうだ...。

撮影四方山話し...。
左利きの吉高さんは、
撮影時に
右手で文字を書くことに
苦労をされていたそうだ。

<大河ドラマ館の天井には...>
越前和紙に描かれた
"源氏物語"が吊されていた♬
※越前和紙
越前和紙とは
福井県越前市でつくられてきた和紙。
岐阜県の美濃和紙、
高知県の土佐和紙とならび、
日本三大和紙に数えられる。


<想像庵/アート作品>
想像庵は、
紫式部が越前で体感したイマジネーションを
現代のAI技術で表現した、
五感で感じる拡張世界への旅。
鏡を用いた空間演出とAI生成映像で
紫式部の心の中や頭の中をリアルとバーチャル、
過去と現代を行き来するような疑似体験ができる。









<公園内でひと休み>
武生中央公園に隣接した
スタバでひと休み♬


<紫式部公園>
中央公園より南に数キロに位置する
"紫式部公園"にも足を運ぶ♬

紫式部が歌にも詠んだ
霊峰・日野山を借景に池や築山などを記し、
寝殿造園を再現した公園。
<釣殿>
寝殿造の邸宅において、
中門廊(ちゅうもんろう)の先端に、
池に臨んでつくられた建物。
周囲を吹放ちにした瀟洒(しょうしゃ)なもので、
納涼・供宴に用いられた。
池に釣り下ろしたような建物であるため、
この名があるという。
また、
遊興としてここで鯉(こい)、
鮒(ふな)をとることもあったという。









<紫式部像>


紫式部の見つめるさきには...。
霊峰・日野山が聳えている♬


庭園越しに
"日野山"を望む風景が実に美しい♬

釣殿に置いてあった
文台(ぶんだい)には
紫式部が越前の地で詠んだ歌が
置かれていた♬
"ここにかく 日野の杉むら 埋む雪
小塩の松に けふやまがへる"
※現代語訳
日野山の杉の木を
埋めるように降る雪
京の小塩山の松にも
今日は雪が降り乱れているでしょうか

<歌碑>

<紫ゆかりの館>
公園に隣接する、
紫式部と越前国府の資料館。
館内は"出逢いの庭""はじまりの縁"
"紫式部の間""催しの間""しるべの間"
で構成され、
紫式部が越前で過ごした日々や、
"源氏物語"を書くまでの心境の変化を、
絵巻風映像や展示で体感できる。
ーーーパンフレットより
偶然に季節が重り合ったのだが、
紫ゆかり館の周辺には、
シラン(紫蘭)が咲き乱れていた♬




<紫式部の間>
ー紫式部和紙人形ー
作:日本民俗衣裳源流会
代表 三田村まつえ
国の伝統的工芸品である越前和紙で、
紫式部の宮中における装束だった
唐衣裳装束(からぎぬもしょうぞく)
が再現される。
簾越しの逢瀬が主流であった
平安当時の雰囲気を楽しむこと叶う♬

<下向行列/和紙人形>
京の都から越前国へと移動する、
紫式部と父・藤原為時の
下向(げこう)行列を再現した
模型人形。


几帳風グラフィックや
絵巻物風映像で、
紫式部の生涯や心模様をたどりる♬




紫ゆかり館より
国道8号線を辿り
"敦賀赤レンガ倉庫"へ向かう♬
<敦賀赤レンガ倉庫>

敦賀赤レンガ倉庫といえば...♬
<国鉄車両/キハ28 3019>


<ダイノベンチ/恐竜博士(3代目)>



恐竜博士は...
足下もお洒落♬

博士の見つめるさきのバス亭には...。
松本零士先生の作品である
"銀河鉄道999"の絵が描かれていた♬

<敦賀鉄道資料館(旧敦賀港駅舎)>
敦賀港は古代より
大陸に開かれた玄関口として
重要な役割を果たしてきた。
明治2(1869)年、
日本初の鉄道となる4路線の一つとして、
京都⇔敦賀間の鉄道建設が決定され、
明治15(1882)年に
日本海側初の線路が敦賀に敷かれた。
その後、
明治45(1912)年に
欧亜国際連絡列車の運行が始まり、
新橋(東京)⇔金ケ崎(敦賀)間を
直通列車が走り、
敦賀港から連絡船で
ウラジオストク(ロシア)へ、
そこからシベリア鉄道で
パリ(フランス)まで行くという
路線が確立された。
さらに、
昭和32(1957)年には
日本初となる本格的交流電化が完成し、
昭和37(1962)年には当時、
世界第5位の長さを有する
北陸トンネルが開通した。
このように、
敦賀は"港と鉄道"と共に
歩んできた街なのです。
---敦賀鉄道資料館HPより











<命のビザ(原寸大写真)>
第二次世界大戦中、
リトアニア・カウナス日本領事館の
"杉原 千畝領事代理"によって、
ナチス・ドイツの迫害から逃れる
ユダヤ人難民に発給された
日本通過ビザをいいます。
<外交官・諸外国の正義の人々(切手)>
1998年4月27日
イスラエル政府により発行。
命がけでユダヤ人を救った
世界の外交官5人が描かれる。
背景に日本領事館前のユダヤ人と
杉原ビザの写真が用いられている。


<3Dアート>
写真をある角度で撮影すると...
SLが飛び出るという趣向ダ♬

<イケメンキャラ>
よく分からないキャラだが、
多くの人が記念写真を
撮影していたので
私も撮影してみたゾ♬

冠山峠道路を抜けル
ツーリングも、
あとは帰路を残すのみとなる...。

敦賀港(福井県)==国道8号線==長浜市(滋賀県)
国道365号線==関ヶ原に抜け、
大垣市(岐阜県)==長良川堤(清流サルスベリ街道)
立田大橋を渡り==名古屋市内に入り
ツーリングを終えた♬

冠山峠道路ルート...
岐阜県から福井県に限らず
海側(日本海)へでて、
北を目指すというのも楽しい
ルートになるだろう♪
機会があれば、
また愛車Kawasaki/ZRX1100ーC2を
駆り出そうと思う♬

【関連資料】
【とんかつ ゑび庵】ー食べログ
【かいまみる紫式部】ー宇治市・越前市・大津市 観光ポータルサイト
【紫ゆかりの館】ー公式HP
【敦賀赤レンガ倉庫】ー公式HP
【敦賀港鉄道資料館】ー敦賀観光協会

では
Thanks for coming!
Web-yoshy'sGarageは
ライダーの皆さんのお越しを
お待ちしております♪


ヨッシーは走ることで日本を応援しています






コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする