Web yoshy'sGarageへようこそ♪
管理人のヨッシーです。
少し遅い夏期休暇を取得できたので、
コロナ禍で延期していた
"南東北ツーリング"に出掛けることにした♬
※岩手県の一部(陸前高田市)を含む。
令和6(2024)年1月1日に発生した
"能登半島地震"。
そして、
科学的に近い将来に発生が予測され、
私の住む地域もその範囲に含まれる
"南海トラフ地震"などの
大きな自然災害にどの様に向き合うかを
見つめ直す(防災意識向上)ことと、
この旅が被災された方々への
何かしらの"支援"になればという思いで
愛車のエンジンに火を入れた...。
今回、
ロングツーリング時の
走行性能と使い勝手などを探るべく、
"Kawasaki/ZRX1100ーC2"ではなく
"HONDA/XL750ーTRANSALP"を
旅の相棒として選択シタ♪
納車後1000Km程度の走行距離では、
全てが"未知数領域"の車両なれど、
良い仕事をこなしてくれると信じ
旅の荷物を積み込んだ♬
"パッキング(荷物の積載)"は
この様な仕上りとなった♬
天気予報を確認すると、
日程全てに"傘マーク"が付く
"最高♬"のツーリング日和が並ぶ(笑)
普段ならば出掛けることに
戸惑いを感じてしまう予報だが、
"屋内施設"を多く利用する予定なので、
特に迷うこともなく出発を決めタ♬
8月21日(水)am2:30-出発の時。
雨雲レーダーを確認し、
走行ルートにゲリラ豪雨的な雨雲が
張り出していないかダケは
しっかりと確認し、
"頼むぜ!相棒"という思いで
"TRANSALP"を撮影♬
※雨天走行は初で不安なれど、
"RAINモード"でどれだけ走行安定性を
得られるかも楽しみであった♬
...さぁ、
南東北に向け出立ダ。
セルボタンを押し込む...
"トルルッ!"と小気味良い鼓動と共に
HONDAの二気筒エンジンは
気持ち良く目覚めた♬
高速道路に乗るまえに給油♬
当たり前であるが、
給油することが主目的である...
しかし、
それ以外に大切な事は、
"荷締めロープ等々"に
不具合(緩み等々)がないかを
最終確認する
大切な時間でもあるノダ。
私は、
ロングツーリング前には、
必ず給油してから旅に出る様に
心掛けている。
給油を済ませ...
高速道路に駆け上がる♬
名神高速道路==中央自動車道==駒ヶ岳SA(休憩・給油)
長野自動車道==上信越自動車道と繋ぎ、
"松代PA(下り)"に朝食と給油で立ち寄る♬
天気予報に反して快晴♬気分は最高ダ!
カツ丼&蕎麦定食を注文♬
蕎麦を注文しようと思ったら
急に食べたくなり...
朝から"カツ丼"も食ス(笑)
メッチャ綺麗(美味そう)な
"川中島白桃"が売られていた♬
オートバイでは
流石に手も出せず諦め出発。
※川中島白桃
長野市川中島の果樹園で発見された品種。
果実の大きさは300g程度と大玉で、
玉ぞろいが良く、日持ち性も良好。
長野県を代表する白桃系の品種。
松代PA==上信越自動車道==北陸自動車道==
米山SA(休憩)
裏手のガーデンには
松尾芭蕉の句碑が立つ。
【松尾芭蕉句碑】
"荒海や 佐渡に横たふ 天の川"
目の前に荒海がある。
はるか彼方に
流人の悲しみを数々秘めた
佐渡島がある。
仰ぎ見ると空には天の川がさえざえと
横たわっている。
近くに、遠くに、
そして天空に広がる大自然、
この雄大さに比べれば、
そこにたたずむ
人間がいかに小さなものか、
人の哀れさをさそうものである。
元禄二(1689)年、
「奥の細道」の旅の途中、
越後出雲崎(新潟県三島郡出雲崎町)
での吟。(松尾芭蕉四十六歳)
松尾芭蕉は、
北陸路において、
新潟・富山・石川・福井と
日本海沿岸を行脚し、
岐阜(大垣)を「奥の細道」の
結びの地とした訳であるが、
この行程は、
北陸自動車道とほぼ同じ道を
辿っていることから、
これを記念し、
芭蕉の北陸路ゆかりの地に近い
米山SAに碑を建立した。
(句の建立には柏崎市の協力を得又
碑の書体は書家・白倉南寉先生による)
展望所から
日本海と佐渡島を望む♬
米山SA==北陸自動車道==
東北横断自動車道==
猪苗代磐梯高原ICで高速道路をドロップし、
道の駅猪苗代にて休憩♬
休憩時間を利用して、
昼食会場に予約の電話を入れる♪
【郷土料理】
ツーリングの楽しみは
郷土料理にアリ!
...と言うことで、
"会津わっぱめしと手打ち蕎麦"
をいただける
"芳本茶寮"さんにて昼食♬
廊下には、
南東北地方(山形・仙台・福島)を代表する
民芸品が並び、
温かい雰囲気を醸し出していた♬
席には、
会津地方の方言が
"相撲の番付表"にして紹介されていた♬
因みに"蒙御免"とは
"ごめんこうむる"と読みます。
これは、
江戸時代に興行である
大相撲を行うにあたって、
寺社奉公から許可を得たことを
示したものである。
わっぱめし・ざるそば・
野菜天麩羅・茶碗蒸しがセットとなった
"葉山膳"を注文♬
※輪箱飯(わっぱめし)とは、
桧を曲げた器に会津米と
さまざまな食材を入れて蒸し上げた
会津の伝統的な郷土料理のこと。
しばらくすると...
蒸したての
"わっぱめし"が運ばれてきた♬
蓋をあけると...
山菜や栗・根菜・竹の子・鶏そぼろ
鮭等々が美しく盛り付けられ、
一気に気持ちが盛り上がる♬
"わっぱめし"
をご飯茶碗に装(よそ)いながら
葉山膳を撮影していると、
"手打ちそば"が運ばれてきた。
これで"葉山膳"の完成ダ♬
少し遅れて
茹でたての"蕎麦"を運んでくるあたりに
このお店の心遣いがみてとれる♬
目にも口にも、
そして心までもが嬉しくなる
"わっぱめし(葉山膳)"であった♬
会津を訪れる際には是非ご賞味下さい。
但し、
人気店の様なので、
予約されることをお勧めします。
【郷土銘菓】
郷土料理に舌鼓を打った後は、
デザートに郷土銘菓を楽しむ♪
"日本三大まんじゅう"
会津"磐梯高原・柏屋"さん♬
"日本三大まんじゅう"とは、
東京都/塩瀬総本家の「志ほせ饅頭」
岡山県/大手饅頭伊部屋の「大手まんぢゅう」
そしてココ!
福島県/柏屋の「薄皮饅頭」のこと♬
2007年に三笠書房から出版された
『日本の「三大」なんでも事典』
にて和菓専門家から
選出されたことがその理由。
「日本三大まんじゅうサミット」という催しも
三社合同で開催されるなど、
日本のまんじゅう文化の
発展・発信も積極的におこなっているノダ♬
因みに
"三大まんじゅう"は
東京の"日本橋三越"さんにて
全て買えるそうです♬
嘉永五(1852)年、
柏屋の初代/本名善兵衛は
「病に薬がいるように、
健やかな者に心のなごみがいる」
との思いから、
奥州街道・郡山宿の薄皮茶屋で餡がたっぷりで
皮の薄い饅頭を考案しました。
これが柏屋薄皮饅頭の誕生です。
東北地方では当時、
皮が薄く"こしあん"がたっぷり入った
饅頭はめずらしく、
その忘れられないおいしさは
奥州街道の名物となり、
旅する人々にとってわざわざ遠回りしてでも
食べたい饅頭になりました。
ー會津 柏屋HPより
"こしあん"は、
上品でなめらか、口どけのよさと
さらっとした甘味が身上と言われる通りの
"薄皮饅頭"を楽しむこと叶いました♬
【菓祖神 萬寿神社】
ー 縁結びとお菓子の神様 ー
菓祖神「萬寿神社」は、
饅頭(まんじゅう)にも通じることから
命名されたもので、
萬(よろず)の寿(ことぶき)の意味を持ち、
縁結びの神様として親しまれている神社です。
良縁に恵まれ、子宝、家内安全、
長寿へと導いてくださいます。
多くの方々が、縁結び、招福を願って
萬寿の絵馬に願いを託し、
ご祈願しています。
幸多く、良縁に恵まれ、
たくさんの福が訪れますように…。
「萬寿神社」は「林浄因」をお祀りした、
奈良の「林神社」から日本で唯一
ご分社いただいた神社です。
所在地/福島県郡山市朝日1-13-5
(開成柏屋敷地内)
「菓祖神 萬寿神社」には、
中国から日本へ初めてお饅頭を伝えた祖神
林浄因命(りんじょういんのみこと)
日本のお菓子の原点、
橘(みかんの原種)を伝えた果実とお菓子の祖神
田道間守命(たじまもりのみこと)
薄皮饅頭をこの世に送り出した、
初代 本名善兵衛命(ほんなぜんべいのみこと)
三柱の菓祖神がお祀りされている。
磐梯高原/柏屋さんにある
お饅頭の形をした自然石"願掛け萬寿石"は、
願い事を聞き届けてくれる
願掛けの石として親しまれている。
ー 案内看板より
旅の安全を祈願し
"ひと撫で"しておきました♬
磐梯山の
伏流水を源とする地下水。
"柏井"の水は、
磐梯山のふところで生れた
天然の水。
豊かな自然の恵のなかで、
流れ、育ち、磨かれてきた
"ふるさと"の水。
郷土菓子を頬張りながら
"磐梯山(磐梯吾妻スカイライン"方面へ
目をやると...
ドス黒い雨雲が立ちこめだしている。
"やはり、雨雲が湧いたか!"
危険回避はツーリングの鉄則。
スカイラインアタックは回避し、
お宿へと向かう♬
国道115号線で福島市内へ抜けル。
安達太良山周辺は
ついさきほどまで土砂降りだったのでだろう、
路面は"HeavyWet"であった。
走行モードを
"RAINモード"に設定変更して
"TRANSALP"を走らせた♬
【ROUTE INN HOTELS】
最近旅のお宿に
"ROUTE INN HOTELS"
を利用する機会が増えた。
理由は、
①平面駐車場が確保されいてる。
②人工ではあるが"温泉"がある。
③コーヒーの無料サービスがある。
④質の良い朝食が提供される。
(郷土料理がだされる場合もある)
⑤製氷機が無料で利用できる。
⑥市街地にも近く夕食の利便性が良い。
(コンビニも近くにあることが多い)
宿泊した"ROUTE INN HOTELS"
福島西インター店は...
自走式の立体駐車場で
雨がしのげるというのが、
利用した最大の理由となる♬
雨雲レーダーによるリサーチでは、
南東北地方は連日(出発6日前からリサーチ)、
夕方から深夜にかけてほぼ毎日の様に
豪雨が発生していたから助かった。
※出発前なので車両は横を向けています。
8月22日(木)am7:30ー出発
この日は、
福島県から岩手県へと向かい、
いよいよこの旅の核心へと進む。
東北自動車道==長者原SA(休憩)
宮城県の郷土料理である
"ずんだ餅"をいただく♬
※夏から秋にかけて収穫した
旬の枝豆を茹で、
薄皮を丁寧にむいてからすりつぶし、
砂糖と塩を少々加えた
素朴で上品な味わいの餡。
東北自動車道==若柳金成IC(下りる)
県道48号線(弥栄金成線)にて、
旅の幕開けを告げるかの様な
"どこでもドア"を偶然発見したので
撮影シタ。
...いよいよ被災した地域へと向かう。
国道284号線に入り、
北上川に架かる"北上大橋"を渡り
"道の駅かわさき"に立ち寄る。
自動販売機もご当地色豊かだ♬
鉄神ガンライザー(テレビ岩手にて放送)
※現在は放送終了。
岩手県水沢(現・奥州)市出身
MLBーロサンゼルス・ドジャースの
"Shohei Ohtani"♬
国道45号線(三陸沿岸道路)を使い
向かったのは陸前高田市だ。
気仙川を渡す"気仙大橋"に
"TRANSALP"を止める...
下流には、
震災遺構"高田松原YH"と
"軌跡の1本松"が見える。
この地に立つのは3度目である。
震災前後の変りようも
"凄まじい"の一言であったが、
現在の整備された姿もまた
感慨深いものがあった...。
"東日本大震災津波伝承館"と
道の駅とで構成される、
"高田松原津波復興記念公園"に立ち寄る。
新たに整備された海岸線へと向かうまえに
"東日本大震災津波伝承館"
いわてTSUNAMI(つなみ)メモリアル
に足を運ぶ。
ー ミッション・ステートメント ー
日本列島は、
地球上でも特に自然災害の
危険性が高い宿命の地であり、
この地に生きる私たちは、
長年にわたり自然災害への
対応力を高めてきました。
しかし、
2011年3月11日に発生した
東日本大震災津波により、
私たちは多くの尊い命を失いました。
この悲しみを繰り返さないためには、
知恵と技術で備え、自ら行動することにより、
様々な自然災害から命を守り、
そして、
自然災害を乗り越えていくことが重要です。
東日本大震災津波伝承館は、
先人の英知に学び、
東日本大震災津波の事実と
教訓を世界中の人々と共有し、
自然災害に強い社会を
一緒に実現することを目指します。
そして、
東日本大震災津波を乗り越えて進む姿を、
支援への感謝とともに発信していきます。
伝承館の展示を見て回る。
※震災の映像と津波襲来・被災直後の映像には
こころが締め付けられた。(映像は撮影禁止)
津波にて流出した
"旧気仙大橋"の一部。
ー被災した消防車ー
展示されている消防車は、
津波襲来の直前まで、
住民への避難指示に奔走。
直ちに高台へ避難するように
くり返し呼びかけていた。
※乗車していた消防団員は無事であった。
震災以前の標識・看板。
震災以前より
"津波"への備えは
されていた地域であった。
展示室3"教訓を学ぶ"では、
逃げる・助ける・支えるなど
東日本大震災津波の時の
人々の行動をひもとくことで、
命を守るための教訓を共有する。
東北地方整備局災害対策室の
移設展示がされていた。
(映像及び展示品の撮影禁止)
伝承館より
海の方向(広田湾・第二線堤)へと足を向ける。
ー 祈りの軸 ー
津波の襲来した広田湾方向と
津波が遡上した気仙川上流を結ぶ
象徴的なライン。
芝が植えられ美しく整備された
"追悼の広場"を突き抜ける
"祈りの軸"の右方には...
震災遺構"高田松原YH"と
軌跡の一本松。
左方には、
"旧道の駅高田松原(タピック45)"
が見える。
祈りの軸を進み、
第二線堤の
"海のみえる場"から海を見渡す。
第一線堤には、
まだ幼い"防潮林(高田松原)"が
植えられていた。
海を見渡せる
美しい場所に設置された
献花台がもの悲しい...。
震災にて
お亡くなりになられた方々へ
"哀悼の意を表す"
"追悼の広場"の手入れは、
"Husqvarna(ハスクバーナ)社"の
自動芝刈り機が担当していた。
"高田松原津波復興記念公園"
を後にし...。
※公園の前には、
この様な風景が広がっていた...。
国道45号を南下し、
南三陸町へ向かう。
ー南三陸さんさん商店街
東日本大震災(2011年)で
壊滅的被害を受けた南三陸町の
2つの商店街(志津川地区、歌津地区)の
再生プロジェクト。
10mの盛土によって生まれた
新たな地面の上に、
かつての商店街が有していた、
ヒューマンなにぎわいを再現するために、
地元の南三陸杉を用いた在来木造による、
「縁側」のついた商店街である。
特産物や地元食材を使った料理等々を
楽しむことが出来る商業施設だ。
"隈研吾"氏設計の中橋を渡り、
南三陸町震災復興祈念公園へと向かう。
海抜16.5m、
これは東日本大震災の時に
南三陸町志津川地区を襲った
津波の高さである。
公園の中央部を占める「祈りの丘」は、
発災時に一時的な
避難地となり得る高さ(海抜20.0m)を
確保するために造成した
避難築山であるが、
その頂上のすぐ下では、
16.5mの等高線に沿って
「高さのみち」が丘をぐるりととりまく。
眼下には骨格構造だけが遺る
旧防災対策庁舎が見え、
被災直後には足下の高さまで
水面が迫っていたことが想像できるだろう
地域では、
旧防災対策庁舎保存への葛藤が
あることは知っている...。
ただ、震災発生時に防災無線を通じ
住民に避難を呼びかけ続け命を落とした
方が居たというのも揺るぎのない事実だ。
どれだけ多くの人々が呼びかけの声に
命を救われたのであろうかと思うと、
後世に"記録"として残すことも
また大切ではなかろうかと考えてしまう。
ひとそれぞれに考え方は違うのであろうが、
最後まで"住民の命"を優先し
亡くなられた方々の
"あの時の思い"を尊重した
"判断"をしていただければと切に願う。
庁舎の有無に関わらず、
未来にまで"人への思いやり"の気持ちを
絶やさず繋いでいくことが、
亡くなられた方々への
なによりの手向けとなるのでは
と感じずには居られない。
ー旧防災対策庁舎ー
南三陸町は1960年に発生した
チリ地震を教訓に津波対策を進め、
それを踏まえて防災対策庁舎は
鉄骨3階建で建てられました。
しかし、
東日本大震災ではチリ地震津波の5.5mを
はるかに超えた15.5mの津波が庁舎を襲い、
防災無線で「高台へ非難してください」と
呼びかけ続けた町職員33人を含む
計43人が亡くなられました。
現在の建物周辺はかさ上げの盛り土で囲まれ、
大津波の脅威を感じさせる鉄骨の骨組みは、
補強・塗装の塗り直しがされました。
2031年まで宮城県の管理下で
保存されることになっている。
庁舎を囲む
ー南三陸311メモリアルー
南三陸311メモリアルは、
住民の証言や写真、
映像などの資料を継続的に収集・保存する。
これらの資料から制作した
バナーや証言映像ダイジェストを
展示ギャラリーで見ることができる施設だ。
※隈研吾建築都市設計事務所が
未来に漕ぎ出す船をイメージし設計した建物。
館内の撮影可能エリアの
画像を掲載しておく。
※証言映像やアート作品等は撮影禁止
ー震災に触発された
クリスチャン・ボルタンスキーの
インスタレーションMEMORIALー
(撮影禁止)
ー安心して暮らし続けられる
まちづくりー
ー南三陸から
支援に対する感謝パネルー
"ありがとう"の気持ちは
次に同じ様に苦しむ方々に
返すのが良いだろう。
同じ日本という船に乗るもの。
有事があれば
"助け合う"のは人として自然な行為だ。
だが、
"ありがとう"という優しい言葉を
美しく使える人になりたいと
私は素直に思う。
メモリアルの側面の階段を昇れば、
復興祈念公園を見渡すことができる。
ー震災遺構ブライダルパレス
高野会館ー
震災当時、
高野会館のスタッフ等の判断により、
327名の高齢者や近隣の人と
犬2匹の尊い命が助かった。
当時の地上レベルや津波浸水高を実感できる
数少ない
民間の震災遺構として保存されている。
これまで皇室関係者、
官僚等はじめ
国内外から35万人以上の人が来館し
自然災害の脅威や防災減災の大切さを
伝承している実績がある。
3階天井より上(屋根腰壁下部)に
設置された、
"東日本大震災「津波浸水深」ここまで▽
の高さに驚かされる。
※津波浸水深の定義(国土交通省)
陸上の各地点で、
水面が最も高い位置にきたときの
地面から水面までの高さ。
ーモアイ像ー
約17,000Kmの距離を越えて、
南三陸町とチリは友好関係を深めてきた。
そのきっかけは、
1960年5月24日未明に、
遠い遠い海の向こうから押し寄せて来た
チリ地震津波だった。
旧志津川町内だけで、
41名が犠牲となり、312戸の家屋が流失、
倒壊 653戸、半壊 364戸、
浸水 566戸の壊滅的な被害を受けた。
この津波の記憶を未来に伝えようと、
30年後の1990年に
国鳥コンドルの碑がチリから贈られ、
1991年には
南三陸町がふるさと創生事業の一環として
チリ人彫刻家に依頼して創った
イースター島のモアイが、
志津川地区の松原公園に設置された。
東日本大震災で公園は被災したが、
流出したモアイ像の頭部は発見され、
志津川高校の敷地内に移設された。
日智経済委員会チリ国内委員会が、
南三陸町に新たなモアイ像を贈ろうと、
イースター島の長老会に協力を求めた。
93歳の老彫刻家マヌエル・トゥキ氏は、
皆に呼びかけた。
「海に破壊された日本の町に、
人々が再びそこで生きていきたいと思えるような
マナ(霊力)を与えるモアイを贈れないのか?
私は息子とともに、
日本の人たちが必要としているモアイを彫る!」
長老会は大きな拍手で包まれたという。
イースター島の石を使い彫られたモアイ像が、
島外に出たことはない。
しかし、
かつて倒れてバラバラになっていたモアイ像を、
日本人がもとの姿に建て直す
支援をしたことがあったことから、
イースター島初のプロジェクトが始まった。
こうして息子の
ベネディクト・トゥキ氏は、
石材を切り出して、
親戚の彫刻家たちとともにモアイを制作した。
南三陸町を訪れたトゥキ氏は、
設置されたモアイに
白珊瑚と黒曜石で作られた眼を入れた。
ー南三陸観光ポータルサイトより
ー眼が入ったモアイは、
世界に2体しかないというー
南三陸町を訪れ、
津波の惨禍を目の当たりにした
トゥキ氏の目に涙があふれた。
「眼を入れるとマナ(霊力)がモアイに宿る。
南三陸の悲しみを取り払い
復興を見守る存在になることを願っている」
と彼は語った。
モアイは、
イースター島のラパヌイ語で
「未来に生きる」という意味だ。
未来に生きる南三陸町の人々を、
遠い未来まで勇気づけ、
見守り続けることだろう。
ー南三陸観光ポータルサイトより
モアイ像と南三陸町の絆 ~未来へと繋ぐ贈り物~
ー前編内容
1日目(水)は福島までの移動日。
2日目(木)は、
陸前高田(岩手県)から南三陸(宮城県)まで、
東日本大震災の爪痕とともに、
未来へ向けての各地の復興状況を
目に焼き付けて来た。
ー後編内容予告
3日目(金)は、
宮城県仙台市から南下し、
福島第一原子力発電所災害に
見舞われた
南相馬市==浪江町==双葉町==
富岡町を巡る。
4日目(土)は、
秩父を抜け
山梨県(甲府市)へと至る。
5日目(日)は、
帰路==帰宅。
の予定です。
後編へと続く...
【関連記事】
<土砂災害に見舞われた東北ツーリングの記録>
【2017年夏ツーリング-前編-】<2017.9.20更新>
【2017年夏ツーリング-後編-】<2017.9.27更新>
<災害に見舞われたKawasaki復活の記録>
【はじまりのとき】<2018.2.10更新>
【ModifyRecord (1) -復活- 】<2018.3.4更新>
<車両を修復し挑んだ東北ツーリングの記録>
【2018年東北ツーリング - 再挑戦(前編) -】<2018.11.12更新>
【2018年東北ツーリング - 再挑戦(中編) -】<2018.11.17更新>
【2018年東北ツーリング - 再挑戦(中編)その2 -】<2018.11.19更新>
<2024年南東北ツーリングの記録>
【TOURING -南東北ツーリング(後編) -】<2024.8.31更新>
【TOURING -南東北ツーリング(後編) その2 ー】<2024.9.1更新>
【関連資料】
【郷土料理/芳本茶寮】ー公式HP
【會津/柏屋】ー公式HP
【東日本大震災津波伝承館】ー公式HP
【南三陸町震災復興祈念公園】ー観光ポータルサイト
では
Thanks for coming!
Web-yoshy'sGarageは
ライダーの皆さんのお越しを
お待ちしております♪