今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

バザー記念日

2007-06-12 | 記念日
今日(6月12日)は、「バザー記念日」
1884(明治17)年6月12日、第1回婦人慈善市(日本初のバザー)が開催された。鹿鳴館で上流階級の女性たちが手工芸品を持ち寄って開いたもので、3日間の入場者は1万2千人に上った。
鹿鳴館は、明治初期に政府によって建てられた「外国人接待所」の名。当時の急激な西欧化を象徴する存在でもある。また、鹿鳴館を中心にした外交政策を「鹿鳴館外交」とも呼ぶ。計画を推進したのは外務卿(内閣制度以降は外務大臣)井上馨である。井上は不平等条約改正交渉のため、日本が文明国であることを外国人に示す必要があると考えて建てられた。1883(明治16)年7月に落成後は、外国人を招いた舞踏会や夜会が毎週のように開かれた。夕闇が迫ると窓に煌々とガス燈が灯り、馬車の響きが近づいてくる。やがてワルツの楽奏とともにきらびやかな夜会服で踊る紳士淑女。その周囲には大礼服姿の日本人や、燕尾服の西洋人、僧服風の西洋人、辮髪の中国人等が立って歓談し、壁際には和服の奥方たちが椅子に腰掛けダンスを観ている。また貴賓席には雛人形のような衣装の宮廷女性たちの姿も見える。この人種も服装もチグハグな鹿鳴館。しかし、ダンスを踊れる人は少なく、慣れない燕尾服や洋装に身を固め、ぎこちないステップを踏む日本人を、外国人たちは「猿真似」だと笑った。・・・ジョルジュ・ビゴーの風刺漫画でも滑稽に描かれているが、これは、またの機会に詳しく書くことにする。
しかし、鹿鳴館では、舞踏や夜会以外にも、洋服着付、洋食マナー、外国語会話、外国人との交際法などの講習会や、音楽会、慈善バザー等も開かれていた。参加者は上層階級に限られていたが、西洋文明の情報センターとしての役割は果たしていたのである。
goo国語辞書でバザー [bazaar] を見ると、「(1)慈善事業・社会事業などの資金を得るために品物を持ち寄って売る催し。慈善市。(2)バザールに同じ。とあり、バザール 2[(フランス) bazar] は、(1)イスラム圏の街頭市場。バザー。スーク。(2)商店の大売り出し。また、その特設会場」とあり、語源的にはこのバザールに由来するようである。小説の世界を見ていても、明治時代には、バザーのことを「慈善市」と言うのが定着していたようだ。この日本で最初のバザーが行われたのが、1884(明治17)年の今日、鹿鳴館での第1回婦人慈善市であった。
1871年(明治4年)、明治政府が派遣した岩倉使節団は総勢46名、留学生59名も同行した。その中に、永井繁子(10歳)、上田悌子(16歳)、吉益亮子(16歳)、津田梅子(9歳)、山川捨松(12歳)の5人の留学生少女が乗っていた。北海道開拓を目指して設立された新しい官庁の次官となった黒田清隆は、良い母親を養成する女の学校を北海道につくるために募った女子留学生である。北海道開拓のモデルはアメリカであった。留学期間は10年であったが、上田悌子、吉益亮子の2名は、病気のためその年のうちに帰国。年少の3人が10年の留学を終えて帰国してきた。3人の中で年長の山川捨松はアメリカでベーコン牧師宅に預けられ、基本的な英語の勉強をした後、ヒルハウス高校を経て、ヴァッサーカレッジ大学も出、さらにコネティカット看護婦養成学校に短期入学もして帰ってきた。しかし、幼い少女が命がけとも言える10年の留学を終えて帰ってきたときには、北海道開拓使はすでに廃止され、何の仕事もなかった。津田、山川、永井の3人は米国時代の孤独な留学生活時代を年長の山川中心に協力し合っていたが帰国後も緊密な交際を続けていた。政府も3人の貴重な人材を長い間放置しておくことはなかった。彼女たちには先ず鹿鳴館の舞台が提供された。捨松は帰国の翌年大山巌元帥に嫁いだ。結婚しこの20日後が鹿鳴館の会開館夜会であった。捨松には舞踏会にふさわしい美貌と才気が備わっていた。社交だけでな鹿鳴館貴婦人による慈善バザーを行った。
その収益金は民間における初めての施療病院・有志共立東京病院(後の東京慈恵会医科大学。初代校長は高木兼寛。総長は有栖川宮威仁親王妃慰子)へ寄付、日赤篤志看護婦人会の設立に協力した。1887(明治20)年に皇室の要望により名称を「東京慈恵病院」と改めた。この「有志共立東京病院」で働いていた看病婦は、看病について教育をうけていない者がほとんどであったため、看護婦養成の必要性を痛感しつつも多額の経費を要するためなかなか着手できなかった。それにたいして、婦人慈善会会員に働きかけ慈善市(バザー)を実施し、看護婦教育所設立に着手するようにと寄贈したものであり、1885(明治18)年4月有志共立東京病院内に看護婦教育所を設立することが出来た。これが我が国初の看護学校の始まりでる。
津田梅子は年少であったためアメリカ留学では高校卒業であったことから、帰国後再留学して、大学を卒業した。そして女子英学塾(後の津田塾大学)の創設者となっている。その後、捨松は伊藤博文の要請により下田歌子とともに華族女学校の創立に貢献した。が、旧態依然とした公家や大名出身者の多い華族には女子教育の重要性を理解してもらうことができず、その不満が後に永井繁子(瓜生海軍大将に嫁ぎ瓜生繁子)と共に、津田梅子の津田塾創立を支援したことにつながったといわれる。その後、戦時下においては寄付集めや婦人会の活動をしていた。このときには看護婦の資格を生かして、実際に病院で看護婦もしていた。日露戦争での救援活動などもおこなっている。夫・大山巌の死後は表だった活動を控えていたが、1919(大正8)年、津田梅子が病で倒れた後混乱する女子英学塾の運営を取り仕切った。しかし、津田梅子の後継学長を決めた後、疲労から当時流行していたスペイン風邪(インフルエンザ)に倒れ急逝した。捨松はアメリカの上流、中流婦人の社会奉仕や活動に見習ってここから自分の活路を開こうとしたのだろうが、彼女の異国風の顔立ちと振る舞いは、上流社会全体に対する大衆の反感を一新に集めてしまうところがあった様だ。
彼女をモデルとして徳富蘆花が書いた小説『不如帰』がある。この小説の中で捨松は「冷たい継母」として脚色されていた。この小説が売れたために世間では捨松を冷たい目で見る空気があり、彼女は晩年までその風評にかなり悩んでいたという。しかし事実とは異なっており、徳富蘆花から公式に謝罪があったのは捨松の亡くなった年であったという。大山は再婚で、先妻との娘を3人連れていた。実際の捨松は大山との間に2男1女を儲け、大山の連れ子からも慕われており、絵に描いたような「良妻賢母」であったという。
(画像は、欧化政策をとった井上外交の象徴である鹿鳴館は1883=明治16年に完成。大山巌夫人捨松は鹿鳴館の女王としてもてはやされた。画像は、がす資料館蔵。週刊朝日百貨「日本の歴史」より)
鹿鳴館-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B9%BF%E9%B3%B4%E9%A4%A8
日本舞踏史:目次
http://www.ballroom-j.com/history/history.htm
首相官邸で伊藤博文主催による仮面舞踏会が開催された
http://blog.goo.ne.jp/yousan02/e/9cca45f07a3d69be1c90bec5094a70d5
山川捨松 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E5%B7%9D%E6%8D%A8%E6%9D%BE
大山捨松 (おおやま すてまつ)  「鹿鳴館の貴婦人」
http://www.page.sannet.ne.jp/tsekine/sutematu.htm
[PDF] 日本の近代看護教育草創期の教育感観を探る/津田右子HTMLバージョン
http://www.kure-u.ac.jp/nurse/research/pdf/03-1/v03-01-02.pdf
慈善市 - 青空文庫全文検索 Aozora Bunko Full-Text Search
http://www.su-ki-da.com/aozora/search?query=%BB%FC%C1%B1%BB%D4
アリス・メイベル・ベーコン - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A2%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%A1%E3%82%A4%E3%83%99%E3%83%AB%E3%83%BB%E3%83%99%E3%83%BC%E3%82%B3%E3%83%B3
テーマで見る日露戦争 IX 赤十字社
http://www.jacar.go.jp/nichiro/keyword09.htm
07看護婦さん
http://www.edo.net/edo/01ehagaki/bijinehagaki/bun/07.html
東京慈恵会医科大学 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%85%88%E6%81%B5%E4%BC%9A%E5%8C%BB%E7%A7%91%E5%A4%A7%E5%AD%A6
作家別作品リスト徳冨 蘆花『不如帰』小説
http://www.aozora.gr.jp/cards/000280/card1706.html