今日(6月21日)は、川田晴久 (歌手、コメディアン) の1957(昭和32)年の忌日 。
戦前に一世を風靡した音楽コントグループ「あきれたぼういず」で同じメンバーであった「坊屋三郎(俳優)の忌日 」について書いたので、川田晴久 について書いてみようと思った。
「地球の上に朝がくる~その裏側は 夜だろう~♪」・・ラジオから流れてきた川田晴久(ダイナブラザース)の明るい歌・川田節は当時一世を風靡したものだ。
1907(明治40)年3月15日生まれ。東京生まれ。本名は、岡村 郁二郎。昭和10年代にギター片手にナンセンスな浪花節調の歌で人気を得る。はじめは、エノケン一座と並んで、当時の絶大な人気を博していた古川ロッパが徳川無声らと結成していた劇団「笑いの大国」の下っ端俳優をしていたが、1935(昭和10)年11月、吉本興業が浅草六区に浅草花月劇場をオープンし、レビュー「吉本ショウ」が始まり、川田はその中心メンバーとして活躍するようになる。当時は川田義雄という芸名だった。しかし、ショーのマンネリ化に嫌気がさし、1937(昭和12)年5月に若手を中心に音楽コントグループ「あきれたぼういず」を結成する。歌に演奏に堪能なハイカラな芸風が好評を呼び、同年8月には、川田義雄、坊屋三郎と芝利英の兄弟、益田喜頓の4人を正規メンバーとする「第1次あきれたぼういず」を結成。 映画の実演、レコード発売、映画出演など一世を風靡する。
1938(昭和13)年、ビクターの上山敬三があきれたぼういずの演技に度肝を抜かれ、レコードデビューを持ちかける。同年8月「アキレタ・ダイナ」「あきれた演芸会」が発売される予定だったが、次第に軍靴の音が近づいてくる時代、テスト盤が内務省の検閲に引っ掛かり発売禁止となる。台本を書き直し新たに吹き込んだ「四人の突撃兵」「スクラム組んで」「空晴れて」をSP盤として同年12月に発売。爆発的に売れて全国に人気が高まる。日劇を3回り半も客が立ち並び、後楽園球場のプロ野球戦の余興では、広い場内がわきかえるほどの人気を集めたそうだ。 1939(昭和14)年春、人気絶頂のなか新興キネマ演芸部が吉本興業の芸人を大量に引き抜いたため、川田を除いた3人が新興に移り、第1次あきれたぼういずは消滅する。一人残った川田は弟の岡村龍雄らとともに「川田義雄とミルクブラザーズ」を結成。このとき「地球の上に朝が来る」が大ヒットとなる。
しかし1942 (昭和17 )年に川田は脊椎カリエスが悪化し倒れる。1944 (昭和19 )年に、病床から復帰した川田は「川田義雄一座」を結成。そして、終戦を迎え、戦後はしばらく療養に努めたが、1947(昭和22)年、川田を慕って弟子入りした灘康次らと共に「川田義雄とダイナ・ブラザーズ」を結成。芸名を川田晴久に改名したのは、1949 (昭和24)年2月日劇に出演した時からのようである。ステージの傍ら、ピン芸人として、映画出演、ラジオのレギュラー番組「遠山の金さん」などでも活躍。昭和の大スター美空ひばり(本名:加藤和枝)は12歳でデビューしたが、その後もなかな売れなかった。1948(昭和28)年2月、加藤和枝(ひばり)は神戸新開地の松竹劇場に出演し、山口組三代目田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られる。同年5月、川田にその才能を見込まれ、川田一座に参加。美空ひばりは師匠といえるのは父親と川田先生だけと後に語っており、こぶしは川田節から学んだと言う。そこで当時のスター歌手笠置シズ子の物真似(歌真似)が非常にうまくベビー笠置といわれ拍手を浴びる。この後、同年9月に横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた宝塚の岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。そして、1949(昭和24)年1月、日劇のレビュー「ラブ・パレード」(主役・灰田勝彦)で笠置の「セコハン娘」、「東京ブギウギ」を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には東横映画「喉自慢狂時代」(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演。8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手として正式にレコードデビュー(7月30日)を果たすことになる。続いて『悲しき口笛』が大ヒット。同年、同名の映画も松竹で製作され、わずか12歳で映画主演を果たした。生き別れになった兄妹が再会するまでの物語で、すごく単純なメロドラマだったのだが、ひばりがスターへの道を歩みだす実質的第1作といえる。そして、1950(昭和25)年5月、ひばりは川田と共に5月16日、日系ニ世部隊の招きでハワイ公演に出発した。ハワイ公演の後アメリカに渡り、1ヶ月の休暇を楽しみ7月24日、アメリカから帰国するや、映画「東京キッド」のクランクインに入る。撮影の合間を縫って、8月1日からは1週間、浅草國際劇場でひばりは、川田と「ハワイ・アメリカ珍道中」を公演している。
そして、「美空ひばり米国帰朝第一作」と銘打たれ公開された「東京キッド」も前作同様の生き別れになった兄妹が再会するまでの物語であるが、これをどたばた喜劇でパロディーかしたものである。ひばりのためにギターを弾くのは彼女のスターへの道を準備した川田であり、他にも当時の人気コメディアンが多数出演していた。ひばりの人気をますます沸騰させた記念碑的作品となった。それから、ひばりは大スターへの道を驀進。そんなひばりの公私に渡るよき理解者であり、ひばりの売り出しに一役買った川田は、その7年後の1957(昭和32)年、6月21日、死去。享年51歳であった。翌・1958(昭和33)年、灘康次は、島影正人ら新メンバーでモダンカンカンを結成、川田節を継承し現在に至っているようだ。
(画像は、米テレビ出演時のひばりと川田。1950年、アメリカに渡ったひばりは、同行したボードビリアンの川田晴久とともに7月6日夜、ロサンゼルスのテレビ番組に出演した。ハリウッドの新人らを紹介する番組で、2人の歌は、大もてだったと朝日新聞は伝えている。画像等、朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
あきれたぼういず - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%8D%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%BC%E3%81%86%E3%81%84%E3%81%9A
あきれたぼういず part.1
http://www2.ocn.ne.jp/~jive/jive/akireta.html
Okason's room
http://homepage3.nifty.com/okason/
川田晴久 (カワダハルヒサ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/115442/index.html
美空ひばり- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E7%A9%BA%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A
美空ひばり (ミソラヒバリ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/100105/index.html
ボーイズバラエティ協会 灘 康次とモダンカンカン
http://bo-vara.com/000pro-modankankan.html
ピン芸人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%B3%E8%8A%B8%E4%BA%BA
戦前に一世を風靡した音楽コントグループ「あきれたぼういず」で同じメンバーであった「坊屋三郎(俳優)の忌日 」について書いたので、川田晴久 について書いてみようと思った。
「地球の上に朝がくる~その裏側は 夜だろう~♪」・・ラジオから流れてきた川田晴久(ダイナブラザース)の明るい歌・川田節は当時一世を風靡したものだ。
1907(明治40)年3月15日生まれ。東京生まれ。本名は、岡村 郁二郎。昭和10年代にギター片手にナンセンスな浪花節調の歌で人気を得る。はじめは、エノケン一座と並んで、当時の絶大な人気を博していた古川ロッパが徳川無声らと結成していた劇団「笑いの大国」の下っ端俳優をしていたが、1935(昭和10)年11月、吉本興業が浅草六区に浅草花月劇場をオープンし、レビュー「吉本ショウ」が始まり、川田はその中心メンバーとして活躍するようになる。当時は川田義雄という芸名だった。しかし、ショーのマンネリ化に嫌気がさし、1937(昭和12)年5月に若手を中心に音楽コントグループ「あきれたぼういず」を結成する。歌に演奏に堪能なハイカラな芸風が好評を呼び、同年8月には、川田義雄、坊屋三郎と芝利英の兄弟、益田喜頓の4人を正規メンバーとする「第1次あきれたぼういず」を結成。 映画の実演、レコード発売、映画出演など一世を風靡する。
1938(昭和13)年、ビクターの上山敬三があきれたぼういずの演技に度肝を抜かれ、レコードデビューを持ちかける。同年8月「アキレタ・ダイナ」「あきれた演芸会」が発売される予定だったが、次第に軍靴の音が近づいてくる時代、テスト盤が内務省の検閲に引っ掛かり発売禁止となる。台本を書き直し新たに吹き込んだ「四人の突撃兵」「スクラム組んで」「空晴れて」をSP盤として同年12月に発売。爆発的に売れて全国に人気が高まる。日劇を3回り半も客が立ち並び、後楽園球場のプロ野球戦の余興では、広い場内がわきかえるほどの人気を集めたそうだ。 1939(昭和14)年春、人気絶頂のなか新興キネマ演芸部が吉本興業の芸人を大量に引き抜いたため、川田を除いた3人が新興に移り、第1次あきれたぼういずは消滅する。一人残った川田は弟の岡村龍雄らとともに「川田義雄とミルクブラザーズ」を結成。このとき「地球の上に朝が来る」が大ヒットとなる。
しかし1942 (昭和17 )年に川田は脊椎カリエスが悪化し倒れる。1944 (昭和19 )年に、病床から復帰した川田は「川田義雄一座」を結成。そして、終戦を迎え、戦後はしばらく療養に努めたが、1947(昭和22)年、川田を慕って弟子入りした灘康次らと共に「川田義雄とダイナ・ブラザーズ」を結成。芸名を川田晴久に改名したのは、1949 (昭和24)年2月日劇に出演した時からのようである。ステージの傍ら、ピン芸人として、映画出演、ラジオのレギュラー番組「遠山の金さん」などでも活躍。昭和の大スター美空ひばり(本名:加藤和枝)は12歳でデビューしたが、その後もなかな売れなかった。1948(昭和28)年2月、加藤和枝(ひばり)は神戸新開地の松竹劇場に出演し、山口組三代目田岡一雄に挨拶に出向き、気に入られる。同年5月、川田にその才能を見込まれ、川田一座に参加。美空ひばりは師匠といえるのは父親と川田先生だけと後に語っており、こぶしは川田節から学んだと言う。そこで当時のスター歌手笠置シズ子の物真似(歌真似)が非常にうまくベビー笠置といわれ拍手を浴びる。この後、同年9月に横浜国際劇場と準専属契約を結ぶ。この時、演出していた宝塚の岡田恵吉に母親が芸名をつけてくれるように頼み、美空ひばりと命名してもらう。そして、1949(昭和24)年1月、日劇のレビュー「ラブ・パレード」(主役・灰田勝彦)で笠置の「セコハン娘」、「東京ブギウギ」を歌い踊る子供が面白がられ、同年3月には東横映画「喉自慢狂時代」(大映配給)でブギウギを歌う少女として映画初出演。8月には松竹『踊る竜宮城』に出演し、主題歌『河童ブギウギ』でコロムビアから歌手として正式にレコードデビュー(7月30日)を果たすことになる。続いて『悲しき口笛』が大ヒット。同年、同名の映画も松竹で製作され、わずか12歳で映画主演を果たした。生き別れになった兄妹が再会するまでの物語で、すごく単純なメロドラマだったのだが、ひばりがスターへの道を歩みだす実質的第1作といえる。そして、1950(昭和25)年5月、ひばりは川田と共に5月16日、日系ニ世部隊の招きでハワイ公演に出発した。ハワイ公演の後アメリカに渡り、1ヶ月の休暇を楽しみ7月24日、アメリカから帰国するや、映画「東京キッド」のクランクインに入る。撮影の合間を縫って、8月1日からは1週間、浅草國際劇場でひばりは、川田と「ハワイ・アメリカ珍道中」を公演している。
そして、「美空ひばり米国帰朝第一作」と銘打たれ公開された「東京キッド」も前作同様の生き別れになった兄妹が再会するまでの物語であるが、これをどたばた喜劇でパロディーかしたものである。ひばりのためにギターを弾くのは彼女のスターへの道を準備した川田であり、他にも当時の人気コメディアンが多数出演していた。ひばりの人気をますます沸騰させた記念碑的作品となった。それから、ひばりは大スターへの道を驀進。そんなひばりの公私に渡るよき理解者であり、ひばりの売り出しに一役買った川田は、その7年後の1957(昭和32)年、6月21日、死去。享年51歳であった。翌・1958(昭和33)年、灘康次は、島影正人ら新メンバーでモダンカンカンを結成、川田節を継承し現在に至っているようだ。
(画像は、米テレビ出演時のひばりと川田。1950年、アメリカに渡ったひばりは、同行したボードビリアンの川田晴久とともに7月6日夜、ロサンゼルスのテレビ番組に出演した。ハリウッドの新人らを紹介する番組で、2人の歌は、大もてだったと朝日新聞は伝えている。画像等、朝日クロニクル「週刊20世紀」より)
参考:
あきれたぼういず - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%81%82%E3%81%8D%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%81%BC%E3%81%86%E3%81%84%E3%81%9A
あきれたぼういず part.1
http://www2.ocn.ne.jp/~jive/jive/akireta.html
Okason's room
http://homepage3.nifty.com/okason/
川田晴久 (カワダハルヒサ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/115442/index.html
美空ひばり- Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%BE%8E%E7%A9%BA%E3%81%B2%E3%81%B0%E3%82%8A
美空ひばり (ミソラヒバリ) - goo 映画
http://movie.goo.ne.jp/cast/100105/index.html
ボーイズバラエティ協会 灘 康次とモダンカンカン
http://bo-vara.com/000pro-modankankan.html
ピン芸人
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%B3%E8%8A%B8%E4%BA%BA