今日のことあれこれと・・・

記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

竹中半兵衞 (武将) の忌日

2007-06-13 | 記念日
天正7年の今日(6月13日=西暦1579年7月6日)は、竹中半兵衞 (武将)の忌日である。<数え36歳> [1544年生]
戦国時代安土桃山時代の武将。豊臣秀吉の知将で、和製諸葛孔明と謳われた、通称半兵衛の正しい名前は竹中 重治(たけなか しげはる)。は重虎とも呼ばれる。法名は深竜水徹。天文13年9月11日(1544年9月27日)、美濃の土豪、竹中重元の 次男として生まれる。元服後、菩提山城主となり、斎藤氏に仕える美濃三人衆の一人、安藤守就の娘(得月院)と結婚した。
斎藤道三と子の斎藤義龍との戦いで父の重元は道三側に属し、永禄5年(1562年)に父が死去すると半兵衞 は斎藤家の当主の斎藤龍興に仕えたものの、冷遇されたとされ、永禄7年(1564年)、20歳のときに難攻不落といわれた龍興の居城稲葉山城(後の岐阜城)を16人の部下とともにわずか一日で奪取した。(『竹中雑記』)
竜興と敵対していた尾張の織田信長は、近江浅井長政に妹のお市を輿入れさせてまで同盟を結び、斎藤氏への牽制を強めいたが、半兵衞 の稲葉山城奪取を知ると半兵衞 に、城を明け渡すよう申し入れたが、半兵衞 はこれを断ったと言われる。しかし、その後、半兵衞 は直ぐに城を竜興に返還している。稲葉山城の占拠は、主君の暴挙を戒めるための一時的クーデターであり、城返却後、美濃国を退去。その後、近江国に隠棲したとも、近江の浅井氏の家臣となったとの説もある。城は奪還されたのか重治が放棄したのか・・その真偽はよく判らないのが実情のようである。しかし、この一連の騒動は、重治の名を近隣諸国に響かせたのは事実のようである。
その3年後の永禄10年(1567年)、8月、信長は斎藤龍興を攻めて念願の稲葉山城を奪取した。半兵衛は、翌・永禄11年(1568年)年9月の信長上洛時に南近江を扼する六角義賢近江箕作城(以下参考の「近江の城郭」の近江箕参照)攻撃には名が見えるというので、この頃までには信長に従い、木下藤吉郎(羽柴秀吉・豊臣秀吉)につけられ、秀吉の家臣となっていたようだ。
竹中半兵衞 は文武両道に優れ、その後の秀吉の戦略はすべて半兵衞の策によるとまで言われている。天正7年(1579)4月、播磨平定戦の際三木城攻め(三木合戦)の最中に発病し、三木城近くの平井山の陣中で病死したのは、天正7年6月13日(1579年7月6日)、享年36であった。陣中で病死する際、秀吉は京で養生するように戒めたが、半兵衞は「陣中で死ぬこそ武士の本望」と断ったとされる。またこのとき、最後の策として、三木城兵糧攻めを秀吉に献策し、別所長治を降伏させたとされている。この無血開城戦法は、後の備中高松城の水攻めにも通じている。
兵法家として、黒田如水(孝高)とも並び賞されるが、表には出ず、留守居をつとめる場面が多かった。半兵衞の 献策によるものだったという。このときの無血開城戦法は、後の備中高松城の水攻めにも使われている。
しかし、半兵衛の活躍は余り信頼に値する資料が残っておらず『武功夜話』や、江戸時代の軍記物である『太閤記』、子の重門が江戸時代に記した『豊鏡』などによって描かれているものであり、江戸時代の講談などで、黒田長政(孝高・官兵衛)とともに天才軍師としての人物像が固まり、現在の人気に至っているものである。性格も、物静かで控えめ、冷静に物事を的確に判断し、先の先を読むという洞察力にも優れ、しかも欲がなく、けっして表に出ようとしない謙虚さがあると良いことずくめ。「知らぬ顔の半兵衛」とは、本当は全てを見抜いていながら、あえて素知らぬ顔を装おっておき、取り合わぬたとえ。「知らぬ顔の半兵衛を決め込む」とも。「カマトト」と同義。また、決定的なところで相手を出し抜く様を言い表した言葉。諺、慣用句で、 この半兵衛とは、竹中半兵衛のこととも言われる。
しかしながら半兵衞 は、天下取りの野心ありと、信長・秀吉に疎(うと)まれていたとも伝えられている。現在NHK大河ドラマ「功名が辻」にも半兵衛が登場しているが、半兵衛が着用の鎧兜の奇抜さは、自己顕示欲の一端を顕しているのではないか。黒田長政でお馴染みの一ノ谷兜(戦国武将が用いた変わり兜)は半兵衛の遺品が、福島正則を経て長政に伝わったものである。また、その花押は「千年」「おほとり」という文字を崩したものは、当時鳳(おおとり)が、麒麟(きりん)とともに、千年に一度現れ、平和をもたらす空想上の動物とされていたことからすれば、彼もまた信長と同じ野心をだいていたのではないかとも推測される。恐らく、半兵衛以上に見通しの聞く信長や秀吉は半兵衛の本心を見通していたのであろう。『信長公記』などに記されている半兵衛の記事が少ないことから、織田家の位置づけとしては、秀吉の幕僚グループの単なる一人であると考えられていたようだ。
そういえば今の世の中、するべきことは何もしないが、税金や公金を本来の目的に使わず私用に使い、「知らぬ顔の半兵衛を決め込む」でいる政治家や官僚が溢れかえっているように思うのだが・・・・ね。
(画像は、竹中半兵衛。週刊朝日百科「日本の歴史」より。)
竹中重治-Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E4%B8%AD%E9%87%8D%E6%B2%BB
戦国武将列伝:9 竹中 重治
http://www.geocities.jp/yuutarou19800126/retu-sigeharu
NHK大河ドラマ「功名が辻」を追う!Vol.2 大河で活躍!今孔明・竹中半兵衛
http://www.sengokudama.com/taiga/vol02.html
[竹中半兵衛重治雑記] / 竹中半兵衛 [撰](早稲田大学図書館 )
http://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/ke05/ke05_01019/index.html
近江の城郭
http://siro.parfait.ne.jp/oumi_castle/
戦国猛人(日本中世の戦国時代の武将、合戦などを網羅)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/
箕作城の戦い(信長上洛戦)
http://www7a.biglobe.ne.jp/~echigoya/ka/MitsukuriJou.html
花押について
http://www.terakoya.com/hongwanji/rekidai/about_kao.html
花押 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E6%8A%BC
国立国会図書館デジタルアーカイブポータル/常山紀談 湯浅常山著,湯浅元禎輯録,江見水蔭校訂 5版 (続帝国文庫 第31編)
http://www.dap.ndl.go.jp/home/modules/dasearch/rank_detail.php?id=oai%3Akindai.ndl.go.jp%3A53012521-00000