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記念日や行事・歴史・人物など気の向くままに書いているだけですので、内容についての批難、中傷だけはご容赦ください。

幕末最後の天皇「孝明天皇 」誕生日

2007-06-14 | 人物
天保2年6月14日(西暦では1831年7月22日)は、幕末最後の天皇「孝明天皇」(こうめいてんのう)の誕生日である。
孝明天皇は、江戸期における日本の天皇(121代、在位:弘化3年2月13日~慶応2年12月25日)。は統仁(おさひと)。 幼称は煕宮(ひろのみや)。
1840年(天保11)に立太子し、1846(弘化3)年の父・仁孝天皇崩御によって即位した。在位中の徳川将軍は、第12代将軍徳川家慶・第13代将軍徳川家定・第14代将軍徳川家茂・第15代将軍徳川慶喜とくるくると代わっている。
父同様に学問好きな性格の持ち主で、その遺志を継いで1847(弘化 4)年、公家の学問所である学習院京都御所日御門前に創立した。
1853(嘉永6)年のペリー来航以来、幕府政治に発言力を持ち、江戸幕府大老井伊直弼が諸外国と独断で条約を結ぶとこれに不信を示し、一時は攘夷さえ表明するなど攘夷の意思が激しく、妹・和宮親子内親王を第14代将軍・徳川家茂( いえもち)に嫁がせるなど、公武合体運動を推進し、あくまで鎖国を望んでいた。家茂が上洛してきたときは、攘夷祈願のために賀茂神社石清水八幡宮に行幸している。京都守護職であった会津藩主松平容保への信任は特に厚かったといわれる。
しかし、1865(元治元)年、攘夷運動の最大の要因は孝明天皇の存在にあると見た諸外国海軍は艦隊を大坂湾に入れて天皇に条約の勅許を要求して、天皇も事態の深刻さを悟って条約の勅許が出される事となった。だが、この年には西洋医学の禁止を命じる(実際には宮中のみに留まった)などの保守的な姿勢は崩さなかったという。その翌・1866(慶応2)年12月25日、義弟・家茂の後を追うように崩御した。死因は天然痘による病死と言われているが、突然の死であったため、倒幕派暗殺されたとの説も根強くある。この説によれば、孝明天皇は保守的な人物で倒幕の意思が無かったため、倒幕派であった岩倉具視などからその存在を疎まれ暗殺されたのだといういうのである。 なお、これに関連して、倒幕派は孝明天皇の子である睦仁天皇をも暗殺し、長州にあった南朝光良親王の末裔である大室寅之祐とすり替え、これを明治天皇として擁立したという説が存在している。いずれにせよ、幕府の存在に深く理解を示していた孝明天皇の崩御は、禁門の変で鳴りを潜めた勤皇倒幕派の勢力復活と佐幕派の衰退を招き、幕末史の大きな転換点となったのは事実であろう。
以上は、以下参考に記載の「孝明天皇 - Wikipedia」をそのまま引用した。後段に記載の暗殺説等については、私は、自分自身が、何の根拠となる資料も持っていないので、軽々に意見を述べるわけにはゆかない。ただ、孝明天皇が亡くなり、明治天皇に代わって、大きく変化したことが色々有ることは確かである。時代は遡るが、南北朝時代つまり、1336(延元元/建武3)年に足利尊氏による光明天皇の践祚、後醍醐天皇の吉野遷幸により朝廷が分裂してから、1392(元中9/明徳3)年に、明徳の和約によって、南朝の後亀山天皇が北朝の後小松天皇三種の神器を渡し、両朝が合一するまでの間、日本には南朝(大和国吉野行宮)と北朝(山城国平安京)に2つの朝廷が存在し、それぞれ正当性を主張していた。しかし、合一が行われたものの、両統迭立(てつりつ=かわるがわる立つこと)の約束が守られることはなく持明院統の皇統が続いたため、南朝の遺臣たちによる皇位の回復を目指しての反抗が15世紀半ばまで続き、後南朝が神璽・宝剣を一時奪還する禁闕の変まで起きるが、嘉吉の乱で滅亡した赤松氏の再興を目指す赤松遺臣によって、1457(長禄元)年に南朝後裔の自天王・忠義王なる兄弟が殺害され、神璽が奪還される(長禄の変)ことによって、後南朝は実質的に滅亡した。以降、正式には、北朝系統の天皇が続いていたが、孝明天皇を最後に、「北朝系の天皇は終わり、南朝系統の明治天皇誕生となっている。北朝最後の天皇には孝明天皇と漢風諡号が贈られた。諡を持つ最後の天皇(明治以後の追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。そして、平安京最初の天皇・桓武天皇を祀る平安神宮に、1940(昭和15/皇紀2600)年に平安京最後の天皇として孝明天皇が合祀されたそうだ。(諡のことは、以下参考に記載の「諡法解」が詳しい。)
子供の頃から、「足利尊氏は極悪人」であり、元弘の乱で、後醍醐天皇に応じて赤坂城に挙兵した楠木正成が、尊氏と戦うために負け戦と知りつつ、天皇に忠義を尽くして、摂津国湊川の戦い(現:神戸市兵庫区)にて、一族、郎党が討ち死にしたことは有名であり、楠木正成・正季兄弟終焉の地として正成ら楠木一族を祭神に祀った湊川神社には、徳川光圀自筆の「嗚呼忠臣楠子之墓」の石碑などが存在する。楠木正成の銅像が皇居に(明治33年、1901年完成)にある。なにか、明治維新が、実は北朝から南朝への「王朝交替」劇でもあったのではないかとの印象を感じさせるところはあるように思う。
興味のある方は、以下参考に記載の※印のものなど見られとよい。
(画像は孝明天皇。Wikipediaより)
孝明天皇 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AD%9D%E6%98%8E%E5%A4%A9%E7%9A%87
明治天皇睦仁
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/meijitennou.htm
南北朝時代 (日本) - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%97%E5%8C%97%E6%9C%9D%E6%99%82%E4%BB%A3_(%E6%97%A5%E6%9C%AC)
皇国史観 - Wikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9A%87%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E8%A6%B3
諡法解目次
http://www.toride.com/~sansui/posthumous-name/mokuji05.html
※街角の文化遺産/皇居外苑の楠公像
http://www3.ocn.ne.jp/~zeon/machi/nankou/nankou.htm
※Contents of the Historical column
http://www004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/no_frame/history/h_index.html
※「北朝」の明治天皇が、「南朝」を復権させたのはなぜか(歴史)
http://www.mypress.jp/v2_writers/hirosan/story/?story_id=1392415