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一日一書 631 「天作会展」森本順子・ハシグチ リンタロウ(2015.7.2)

2015-07-05 14:17:00 | 一日一書

「天作会展」に出品された森本順子さん、ハシグチ リンタロウさんの作品を紹介します。

 

 

 

 

森本順子

 

森本さんの作品の素晴らしさは

とても言葉では表現できません。

ただただ茫然と立ち尽くし、魂の奥まで解放される。

そんな至福の時を与えてくれる。

そんな感じです。

 

師匠の越智先生の感想をどうぞごらんください。

 

 

 

 

 

 

 

 

ハシグチ リンタロウ


ハシグチさんとは、会場で初めてお目にかかり

いろいろとお話を伺うことができました。

若くて穏やかな方で、技術的なことまで詳しく教えてくださいました。

 

作品の下に、ひっそりとおかれたA4のプリント「STATEMENT 「光影残象」」は

書だけではなく、芸術、そして「生きる」ということまで

深く考えさせる文章でした。

その文章を読みながら、この2点の作品をご覧ください。

 

 

 

光影残象

 

 

 

 

 

 

以下は、「柱」の部分です。

 

 

 

 

 

 

 

 

ハシグチ リンタロウさんの「STATEMENT」

 

 

 

 

この文章があまりにも素晴らしく、示唆に富んでいるので

以下、テキスト化しておきます。

 


 

 

STATEMENT 「光影残象」ハシグチ チリンタロウ

 

作品とは、基本的に作品そのものが自立していることが前提であり、釈文や解説は無くとも、見た人それぞれの受け取り方で楽しんでもらえればよいと考えている。

しかし、その一方で、他の作家による素晴らしい作品や表現に出会った時、どのようにしてそれらの作品が生まれたのか、その背景を知りたいと思うことも本音としてあり、ならば自分の場合はどうか? と思い、この文章を書くことにした。

私が21歳の時だった。参加したある展覧会で、作家各自のキャプションに『あなたにとって書とは何か?』というテーマについて考えを添えることになった。

その時、私は短く「日常から生まれた日常を生きるためのエネルギー」とだけ書いた。

つまり、自分にとっての書とは、「日常から生まれた言葉を書き、その書かれたものの姿が、日々自身を奮い立たせる起爆剤である」と考えたのだ。

今思えば、何のために字を書いているのかをはっきりと考えだした出発点はその頃だった。
その時点では、主な鑑賞者は自分自身であり、誰に見て欲しいか? については、ぼんやりとしていた。

やがて、作品を見てもらいたいと考える、その対象となる人物像は「日々闘う人」となった。そんな人たちに見てもらいたいと。
「闘う人」と書くと、少々大袈裟のようだが、特別な何かをしている人に限らず、この世の中の誰もが多かれ少なかれ、日常のーコマ、すなわち、日々ある種の岐路の上に常に立たされているようなものであり、当然のことながら、誰もがその当事者になりうる。

更に、そうした無名の誰かが、何かのために闘っている、というシチュエーションは「知られざるもの」であり、そこから「日の当たらない場所で闘う人」と、少しずつ私の作品の鑑賞者はこんな人物ではなかろうか? という輪郭が出来ていった。

やがて私は、様々なものや人に出会い、また別れを繰り返す中で、作品を誰に見てもらうかという対象やシチュエーションを区切ることをやめ、もっと根源的なテーマを取り扱いたいと思うようになっていった。
また、その中で「書が芸術か否か」といった問題を含めて、表現の力テゴライズの無意味さを感じるようになった。

隔てられ、細分化されるカテゴリー。現代の人間生活もまた同じだ。

そのような日常の中で自分が求める表現のあり方とは? そして何を表現していくのか?

思索を続けるなかで、これまでの動機を下地としつつも、書が芸術かどうかの壁を乗り越え、また技法の巧拙新旧を飛び超えて、「生命そのものを鳴り響かせること」が目指すべき場所であり、同時にそれこそが表現そのものの原点であると考えるようになった。

そこを目指し、その実践として制作を続けるというのが現時点での指針である。



以下今回の展示、三鷹市芸術文化センターで聞かれる第7回天作会展に展示する作品のstatementである。

「光影残象」(And subIimated the suffering to the Iight , it wi11 penetrate the walI 2015) 183cm×369cm
「柱」(the piIlar 2013) 105cm×75cm この2点の展示を予定している。

今回展示してある「光影残象」は副題に「And sublimated the suffering to the Iight , it wi11 penetrate the walI」(苦難を光に昇華し、その壁を貫く)と付けた。

切り抜かれた板は副題の通りに解釈すれば、「限界の際を突き抜けたもの」と捉えることが出来る。

また別の視点では、切り抜かれたところは瞬間瞬間に消えていく「動きの残像」であり、ペンキの場所はその結果として「定着した痕跡」の対比と捉えることも出来る。

また想像を豊かにすれば、戻ることの出来ない過去や薄れていく記憶と、紛れも無いリアルな今の交錯する描写でもある。

私達は過ぎた時間を取り戻すことは出来ない。
またがんじがらめの中で一切を省みず野放図になる事も出来ずにいる。

ならば、抱えたまま行けばいい。
抱えたまま行き止まりの壁に全てを渾身ぶつけて問う、叫ぶ、うねる、爆発する、今この瞬間に、この場所で。

こういった時間軸、止まることの無いものをテーマとして取り上げ始めたのは、もう一つの作品である「柱(the piIlar)」を作り始めた2013年頃だった。

「柱」という作品は九州国立博物館で展示していた中国歴代王朝展で展示していた、柱の残骸をモチーフに作ったものだ。それがいつの時代のものかも覚えていないし、何故それが至宝のーつとして展示されていたのかも分からない。
また、決して大きいものでもなかったように思うが、黒く煤こけた柱の残骸のイメージが強く記憶に残り作品を作る動機になった。

取り壊され、辛うじて残った一部分から全体の雰囲気や風景を想像して文字に託して書いた。今はその柱の残骸がどんな形をしていたかすら覚えていない。ただ「柱」と書かれた作品だけが残っている。

この年はそれまであまり意識をしてこなかったことに目が行く体験もあり、全てのものは永久に留まることはないと強く感じた年でもあった。

そして「永遠でない」という儚さは往々にして戸惑いや切なさを駆り立てるものではあるけれど、だからこそどうにか、生命そのもののど真ん中をかき鳴らす様なものを地に穿ち、今この瞬間を生きる者の讃歌を表現したいと思って日々取り組んでいる。そしてその意味すら超えてただただ画面にぶつかっていきたい。

圧倒的な現実を明朗にぶっとばして突き抜けろ。


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100のエッセイ・第10期・43 「謄写版」の悩み

2015-07-05 10:13:14 | 100のエッセイ・第10期

43 「謄写版」の悩み

2015.7.5


 

 母校であり、元の勤務校である栄光学園が、この夏に、校舎の建て替えをする。そのために、今までの校舎の中にあるさまざまなモノの整理に追われているらしいということが、ある教員のフェイスブックから伺えた。「謄写版」である。

 それがどこにどうしまわれていたのか知らないが、とにかく前世紀の遺物みたいな「謄写版」の印刷機が出てきて、これを捨てるのかとっておくのかで、悩んでいる先生がいるらしい。

 校舎自体は、ぼくが中学3年生のとき(東京オリンピックの年、1964年)に完成し、夏休みに、横須賀の田浦から大船へ引っ越してきた。土地の買収やら、新校舎の建設やらでだいぶ金もなくなっていたらしく、使えるものはなんでも持ってきた。運搬も、業者にすべてまかせるというのではなく、生徒も協力したし、家族までもが協力したというか巻き込まれた。我が家はペンキ屋だったので、業務用のトラック(トヨエース)も動員されて、叔父だったと思うが、何度か田浦から大船までモノを運んでいたという記憶がある。けれども多くのものはそこに置き去りにされ、捨てられたわけで、それはそれで仕方のないことだ。

 その「新校舎」も、築50年ということになり、とうとう建て替えということになったわけだ。50年もたてば、いろいろと、いらないゴミみたいなモノがたくさんあるに違いない。そのなかのひとつが「謄写版」というわけだろう。

 若い先生は、おそらくその使い方すら知らないだろう。だから、「捨てちゃえ」と思うに違いない。ところが、ぼくに近いような世代の先生には、しみじみとした思い出があるはずだ。だから「とっておけ」ということになるに違いない。むずかしいところだ。

 実は、「若い先生は使い方を知らないだろう」どころのサワギではないのである。もう30年も前に、当時の高校生は、この「謄写版」の使い方を知らなかったのだ。

 ぼくが栄光学園に教師として赴任したのは、1984年(昭和59年)、御年35歳のときであった。赴任して2~3年経ったころだろうと思う。ブラスバンド部の生徒が職員室にやってきて、コンサートのチラシを印刷しているのだが、謄写版が壊れてしまって、ぜんぜん文字が印刷できないと訴えてきた。「壊れる」といっても、謄写版なんて、実にシンプルな構造なので、壊れようがない。「ローラーにインクをつけて、ちゃんと刷ってるの?」って聞くと、「はい、そうしています。」と答える。「それでも、紙に字がぜんぜん印刷されないの?」って重ねて聞くと、「はい、そうです。」と言う。

 謄写版を知らない人のために説明すると、まず、「蝋原紙」と呼ばれる、薄い和紙(?)に蝋をひいた丈夫な紙を、「ガリ版」と呼ばれるヤスリの板に上に置き、その原紙に、「鉄筆」とよばれる鉛筆の芯が鉄でできたような筆記具で字や絵を書くわけである。(この時、ガリガリという音ができるので、「謄写版」は別名「ガリ版」と呼ばれた。)そうすると、鉄筆で書いた部分は、蝋が削られて穴があく。といっても、紙は丈夫だから、切れてしまうことはない。つまり、書かれた部分だけ穴のあいた紙ができるのである。後は、それを謄写版の機械にセットして(そのセットの仕方は説明しません。メンドクサイので。)インクを着けたローラーで、こすると、したに置かれた紙の上に、穴からしみ出た(?)インクがついて印刷できるという仕組みである。つまり、これを「孔版印刷」という。

 昔は、これで、授業のプリントやら、試験問題やらを作成していたわけで、実に大変だったのだ。国語の試験などは、文字数が多いから、延々とガリガリやっているわけだが、途中で問題文の1行が抜けていたりしようものなら、その原紙は廃棄して、また最初からやり直し。何時間かかったかしれやしない。ぼくが教師になったのは1972年(昭和47年)御年23歳だったが、その時はまだこのガリ版で仕事をしていた。それから5年後、青山高校に行ってからは、ガリ版にかわって「トーシャファクス」という機械が登場してこの「ガリ切り」からは解放された。(しかし、現在学校で主に使われている「リソグラフ」に至るまで、原理はすべて「孔版印刷」である。「オフセット印刷」は「平版印刷」なので違う。)

 どうも説明が長くなったが、件のブラバンの生徒の言うことがどうにも理解できないので、とにかくブラバンの部室に行ってみた。自分でもローラーにインクを着けて刷ってみたのだが、たしかに紙は真っ白で、何にも印刷されていない。よく見ると、原紙もちゃんとセットされている。不思議だと思いつつ、周囲を見渡して、「ここで原紙を作ったの?」と聞いてみた。やはり「はい、そうです。」と答える。あっと思って、「『ガリ版』はどこにあるの?」って聞いてみた。すると驚くべきことに「『ガリ版』って何ですか?」という答えが返ってきた。「だって、ガリ版の上で書かなきゃダメでしょ。どこで書いたの?」と聞くと、「この机の上で書きました。」との答え。それじゃ穴があくはずがない。ぼくはまた彼らを連れて職員室に戻り、棚の中から「ガリ版」を取り出し、この上で書くんだよ、そうすると穴があいて印刷できるんだと教えてあげた。彼らは、初めて聞くその説明に、ふ~んと感心しきりだった。

 これが30年も前のことである。やっぱり捨てちゃったほうがいい。それでなきゃ、「博物館」行きだ。


 




★似たような内容の、こんなエッセイもあります。

時間がかかる





栄光学園 旧新聞部の「謄写版」(某教諭のフェイスブックより転載)



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