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一日一書 895 奥の細道(大石田)・芭蕉

2016-05-28 20:08:32 | 一日一書

 

芭蕉「奥の細道」より

 

半紙

 

 

 

最上川のらんと大石田と云(いふ)所に日和を待(まつ)。爰(ここ)に古き俳諧の種こぼれて、

忘れぬ花のむかしをしたひ、蘆角(ろかく)一声の心をやはらげ、此(この)道にさぐりあしして、

新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければ、

わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、爰(ここ)に至れり。

 

【口語訳】

 最上川を船に乗って下ろうと、大石田という所で、舟行に都合のよい日和を待っていた。

するとこの地の人々が「この土地には古く俳諧の種がまかれて、

いまでも俳諧をやっております。その華やかに行われたころがなつかしく、

かつまた、片田舎の素朴な風流とはいえ、それなりに風雅の趣を解するようになって、

手さぐり足さぐりで俳諧をやっております。しかし近ごろは、新しい句風がよいのか、

古い句風が正しいのか、わからずに迷っているしだいです。

それも適当な指導者がいないからなのです。ついては……」

と頼みこまれていたし方なく、この地の人たちと俳諧連句一巻を巻いた。

この俳諧修行の旅も、ここに蕉風の種をまくようなことにまで及んだのである。

 

 

この「大石田」という所は、後に晩年の斎藤茂吉がしばらく住んだことでも有名です。

茂吉が住んだのは、昭和21年2月から翌22年11月まで。

昭和42年発行の、「日本詩人全集」(新潮社刊)の年譜では、こう記述しています。

 

「昭和21年(64歳)二月金瓶を去って山形県大石田の二藤部(にとべ)方の離家へ移る。

握飯をもち、つまごをはき、敷物用のさんだわらを抱えて最上川のほとりを歩く。

最上川は茂吉の少年の日からの忘れがたい故郷の川であった。老いた茂吉の心に

再び創作意欲が燃え立った。」

 

茂吉が山形に移り住んだのは、疎開のためだったのですが、

この年譜で、64歳の茂吉のことを

「老いた茂吉」と書いてあるのを数年前に見て衝撃を受けたものです。

昭和42年ごろには、

64歳という年齢は「老いた」と形容されることになんら不思議はなかったのでしょう。

今なら絶対こうは書かないだろうと思いますけどね。

 

それはともかく、芭蕉が地元の俳諧愛好者から頼まれて指導をしたのが、

この大石田だということを茂吉はどこかに書いているのでしょうか。

ちょっと調べたくなります。

 

 

 


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