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日本近代文学の森へ (72) 田山花袋『蒲団』 19  疑念

2018-12-20 14:27:52 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (72) 田山花袋『蒲団』 19  疑念

2018.12.20


 

 時雄にとっては、芳子が恋人と肉体関係をすでに持ったのかどうかが大問題なのだが、芳子の父親にとってもそれは同じだ。けれども、時雄よりも父親のほうが、冷静というか、大人というか、世間を知っているというか、二人はすでに「できている」と考えるのだ。


 二人の間柄に就いての談話も一二あった。時雄は京都嵯峨の事情、その以後の経過を話し、二人の間には神聖の霊の恋のみ成立っていて、汚い関係は無いであろうと言った。父親はそれを聴いて点頭(うなず)きはしたが、「でもまア、その方の関係もあるものとして見なければなりますまい」と言った。

 父親としては、こういうことを言いたくはないだろうが、普通に考えれば、「その方の関係」はあるというしかない。いまだって、芸能人が、男女二人でホテルから出てくれば、いくら部屋で仕事の打ち合わせていただけだと言っても誰も信じないのと同じで、明治のころならなおさら、旅先で一緒に泊まったことだけで、「その方の関係」があろうがなかろうが、十分非難に値するわけだ。芳子がいくら「私達の関係はそんな汚れたものじゃありません」って言い張っても、それを信じる、あるいは信じようとするのは時雄ぐらいのものだ。もっとも時雄が「信じる」あるいは「信じようとする」のも、芳子を心から信頼しているからではなくて、ただただ「そうあってほしい」という願望にすぎないのだが。


 父親の胸には今更娘に就いての悔恨の情が多かった。田舎ものの虚栄心の為めに神戸女学院のような、ハイカラな学校に入れて、その寄宿舎生活を行わせたことや、娘の切なる希望を容(い)れて小説を学ぶべく東京に出したことや、多病の為めに言うがままにして余り検束を加えなかったことや、いろいろなことが簇々(むらむら)と胸に浮んだ。

 まあ、娘をもつというのも、やっかいなことだ。

 呼びにやった田中が来た。


 一時間後にはわざわざ迎いに遣った田中がこの室に来ていた。芳子もその傍に庇髪を俛(た)れて談話を聞いていた。父親の眼に映じた田中は元より気に入った人物ではなかった。その白縞の袴を着け、紺がすりの羽織を着た書生姿は、軽蔑の念と憎悪の念とをその胸に漲らしめた。その所有物を奪った憎むべき男という感は、曽(か)つて時雄がその下宿でこの男を見た時の感と甚だよく似ていた。
 田中は袴の襞を正して、しゃんと坐ったまま、多く二尺先位の畳をのみ見ていた。服従という態度よりも反抗という態度が歴々(ありあり)としていた。どうも少し固くなり過ぎて、芳子を自分の自由にする或る権利を持っているという風に見えていた。


 ここでは、田中が父親の目にどう映ったかを「客観的」に描いている格好をとっているが、あきらかにここに描かれる田中は、時雄の目を通した田中だ。表現としては、「父親の眼に映じた田中は元より気に入った人物ではなかった。」と断定的に書いているが、ほんとうのところは、「父親の眼に映じた田中は元より気に入った人物ではなかったはずだ。」ということだ。

 花袋は、三人称の小説として、いわゆる「全知視点」(作者は、登場人物のすべての心の中を知っている、という書き方)でこれを書いているのではない。もし、そうなら、もっと父親の内面について詳しく描かねばならないだろう。たとえば、この場面で、父親は時雄の「魂胆」をまったく見抜けないばかりか、寸毫も疑っていない。この先生、ひょっとしてうちの娘に気があるのではなかろうかと、ちょっとぐらい疑ってもよさそうなものだが、それがない。父親が見た田中は、おなじ「田舎」から出てきた者としてのある種の共感のようなものがあってもおかしくないが、それもなく、ただただ「軽蔑」と「憎悪」しか感じない。つまりは、時雄とまったく同じ感慨しか抱かないのだ。

 時雄と父親は、田中が田舎に帰るように説得するのだが、田中は頑として応じない。父親は、とにかく今は早すぎる。君は神戸に戻ってもっと勉強するがいい。その間に、芳子を嫁にやってしまうなどという裏切りは神に誓ってしないからと言うのだが、それでも、将来の結婚の約束をさせてもらえないなら、嫌だと田中は言い張るのだ。


「よう解っております」と田中は答えた。「私が万事悪いのでございますから、私が一番に去らなければなりません。先生は今、この恋愛を承諾して下されぬではないと仰しゃったが、お父様の先程の御言葉では、まだ満足致されぬような訳でして……」
「どういう意味です」
 と時雄は反問した。
「本当に約束せぬというのが不満だと言うのですじゃろう」と、父親は言葉を入れて、「けれど、これは先程もよく話した筈じゃけえ。今の場合、許可、不許可という事は出来ぬじゃ。独立することも出来ぬ修業中の身で、二人一緒にこの世の中に立って行こうと言やるは、どうも不信用じゃ。だから私は今三四年はお互に勉強するが好いじゃと思う。真面目ならば、こうまで言った話は解らんけりゃならん。私が一時を瞞着して、芳を他(よそ)に嫁(かたづ)けるとか言うのやなら、それは不満足じゃろう。けれど私は神に誓って言う、先生を前に置いて言う、三年は芳を私から進んで嫁にやるようなことはせんじゃ。人の世はエホバの思召(おぼしめし)次第、罪の多い人間はその力ある審判(さばき)を待つより他に為方が無いけえ、私は芳は君に進ずるとまでは言うことは出来ん。今の心が許さんけえ、今度のことは、神の思召に適っていないと思うけえ。三年経って、神の思召に適うかどうか、それは今から予言は出来んが、君の心が、真実真面目で誠実であったなら、必ず神の思召に適うことと思うじゃ」
「あれほどお父さんが解っていらっしゃる」と時雄は父親の言葉を受けて、「三年、君が為めに待つ。君を信用するに足りる三年の時日を君に与えると言われたのは、実にこの上ない恩恵(めぐみ)でしょう。人の娘を誘惑するような奴には真面目に話をする必要がないといって、このまま芳子をつれて帰られても、君は一言も恨むせきはないのですのに、三年待とう、君の真心の見えるまでは、芳子を他に嫁けるようなことはすまいと言う。実に恩恵ある言葉だ。許可すると言ったより一層恩義が深い。君はこれが解らんですか」
 田中は低頭(うつむ)いて顔をしかめると思ったら、涙がはらはらとその頬を伝った。
 一座は水を打ったように静かになった。
 田中は溢れ出ずる涙を手の拳で拭った。時雄は今ぞ時と、
「どうです、返事を為給(したま)え」
「私などはどうなっても好うおます。田舎に埋れても構わんどす!」
 また涙を拭った。
「それではいかん。そう反抗的に言ったって為方がない。腹の底を打明けて、互に不満足のないようにしようとする為めのこの会合です。君は達(た)って、田舎に帰るのが厭だとならば、芳子を国に帰すばかりです」
「二人一緒に東京に居ることは出来んですか?」
「それは出来ん。監督上出来ん。二人の将来の為めにも出来ん」
「それでは田舎に埋れてもようおます!」
「いいえ、私が帰ります」と芳子も涙に声を震わして、「私は女……女です……貴方さえ成功して下されば、私は田舎に埋れても構やしません、私が帰ります」
 一座はまた沈黙に落ちた。
 暫くしてから、時雄は調子を改めて、
「それにしても、君はどうして京都に帰れんのです。神戸の恩人に一伍一什(いちぶしじゅう)を話して、今までの不心得を謝して、同志社に戻ったら好いじゃありませんか。芳子さんが文学志願だから、君も文学家にならんければならんというようなことはない。宗教家として、神学者として、牧師として大(おおい)に立ったなら好いでしょう」
「宗教家にはもうとてもようなりまへん。人に対(むか)って教を説くような豪(えら)い人間ではないでおますで。……それに、残念ですのは、三月の間苦労しまして、実は漸くある親友の世話で、衣食の道が開けましたで、……田舎に埋れるには忍びまへんで」
 三人は猶語った。話は遂に一小段落を告げた。田中は今夜親友に相談して、明日か明後日までに確乎たる返事を齎(もた)らそうと言って、一先(ひとま)ず帰った。時計はもう午後四時、冬の日は暮近く、今まで室の一隅に照っていた日影もいつか消えて了った。

 

 いい大人が若い二人をよってたかっていじめてるとしか思えない。父親はまだいい。その言い分も父親ならもっともだ。言葉を尽くして説得する態度にも好感がもてる。けれども、時雄ときたら、その父親の尻馬にのって、「どういう意味です」とか、「君はこれが解らんですか」とか、「どうです、返事を為給(したま)え」とか、ただただ怒鳴るばかりだ。まるで、祭りの神輿の周りで大きなウチワをあおぐアンチャンみたいだ。あげくの果てに、田中の「二人一緒に東京に居ることは出来んですか?」という至極もっともな叫びに、「それは出来ん。監督上出来ん。二人の将来の為めにも出来ん」と言う始末。「監督上出来ん」ってことは、要するに二人の肉体関係を阻止することができない、ということだろうが、そんな「監督」は誰も頼んでやしないのだ。父親でさえ、「その方の関係」はほとんど諦めているのだ。「二人の将来の為めにも出来ん」なんてまるで意味をなさない。何が「二人の将来のため」になるかなんて、時雄は真剣に考えてなんかいないのだから。

 結局話はラチもあかず、田中は帰り、芳子は部屋に戻る。時雄と父親二人が残った。二人で田中の悪口を言っているうちに、時雄の胸にまたしてもあの「疑念」が湧き上がった。果たしてふたりにはまだ「その方の関係」が本当にないのだろうか? という「疑念」だ。話は再びまたそこへ落ちていくのだ。





 


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