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日本近代文学の森へ (70) 田山花袋『蒲団』 17  「真面目」とは何か?

2018-12-12 11:05:18 | 日本近代文学の森へ

日本近代文学の森へ (70) 田山花袋『蒲団』 17  「真面目」とは何か?

2018.12.12


 

 東京へ出てきてしまった田中はそのまま帰らない。時雄の煩悶は続く。


 その恋人が東京に居ては、仮令(たとい)自分が芳子をその二階に置いて監督しても、時雄は心を安んずる暇はなかった。二人の相逢うことを妨げることは絶対に不可能である。手紙は無論差留めることは出来ぬし、「今日ちょっと田中に寄って参りますから、一時間遅くなります」と公然と断って行くのをどうこう言う訳には行かなかった。またその男が訪問して来るのを非常に不快に思うけれど、今更それを謝絶することも出来なかった。時雄はいつの間にか、この二人からその恋に対しての「温情の保護者」として認められて了った。


 まあ、マヌケな話ではある。ほんとうに芳子をものにしたい(どうも品のよくない表現ばかりですみません)のなら、むしろ芳子を自分の家になんかおかないで、妻の姉のところもやめて、ぜんぜん関係のないところに下宿でもさせて、自分が通っていけばいい。田中が来るかもしれないけど、自分も乗り込んでいって、追っ払えばいい。ちょうど、鮭が産卵するときに、オスがメスの奪い合いをするようにやればいい。鮭だってそのくらいのことはするんだから、人間にできないことはない。

 鮭と人間と一緒にするなって話かもしれないけど、結局、本質は変わらない。「霊的な恋」なんて、所詮、時雄には無理だし、時雄じゃなくても一般人には無理なのだ。そんなものは、生かじりのキリスト信徒の妄想でしかないのだ。


 野は秋も暮れて木枯の風が立った。裏の森の銀杏樹も黄葉(もみじ)して夕の空を美しく彩った。垣根道には反かえった落葉ががさがさと転がって行く。鵙(もず)の鳴音(なきごえ)がけたたましく聞える。若い二人の恋が愈ゝ(いよいよ)人目に余るようになったのはこの頃であった。時雄は監督上見るに見かねて、芳子を説勧(ときすす)めて、この一伍一什(いちぶしじゅう)を故郷の父母に報ぜしめた。そして時雄もこの恋に関しての長い手紙を芳子の父に寄せた。この場合にも時雄は芳子の感謝の情を十分に贏(か)ち得るように勉めた。時雄は心を欺いて、──悲壮なる犠牲と称して、この「恋の温情なる保護者」となった。


 花袋の得意な風景描写が出て来る。しかし本当はこの描写は不必要だ。木枯らしが立とうが、モズが鳴こうが、そんなことと芳子と田中の恋の行方は関係ないからだ。彼らは彼らなりに燃えたわけで、季節の推移に応じたわけじゃない。けれども、こういう風景や季節の描写をさし込むことで、物語に客観性をもたせようとしたのだろう。演歌の歌詞にも似たような手法が氾濫している。(「さざんかの宿」とか「天城越え」とか、きりがない。)

 とうとう、二人の恋は、その親の知るところとなった。それも、時雄が直接「チクった」のではなくて、「一伍一什(いちぶしじゅう)を故郷の父母に報ぜしめた」、つまり芳子に報告させたのだ。その上で、時雄は「温情なる保護者」として、「長い手紙」を親に書いた。時雄はどこまでも「いい子」でいたいのだ。

 こうなればもう恋の行方は知れている。いくら、時雄が「芳子の感謝の情」を得ようと心を砕いてこの恋を認めてくれるように父親に説得しても、そうはいくまい。あわよくば、二人は別れさせられて、田中は故郷へ戻り、芳子は相変わらず弟子として自分のところにとどまることになるかもしれない。時雄はその可能性に賭けたのかもしれない。

 そんなとき、時雄は仕事の関係で、しばらく上州の方へいく。一時帰宅したときに妻から聞いた話では、芳子の恋は「更に惑溺の度を加えた様子」であるという。あまりに二人が頻繁に往来するので、妻は芳子に注意してそれで口論になったともいう。妻も、「保護者」としてふるまっているわけで、やっぱり時雄の「恋心」を察してはいても、それほど深刻には考えていないのではないかと思われる。時雄の芳子への「激しい恋」は、妻には「想定外」なのだろう。
再び上州へ戻った時雄の元に、芳子からの手紙が届いた。


先生、
まことに、申訳が御座いません。先生の同情ある御恩は決して一生経っても忘るることでなく、今もそのお心を思うと、涙が滴(こぼ)るるのです。
父母はあの通りです。先生があのように仰(おっ)しゃって下すっても、旧風(むかしふう)の頑固(かたくな)で、私共の心を汲んでくれようとも致しませず、泣いて訴えましたけれど、許してくれません。母の手紙を見れば泣かずにはおられませんけれど、少しは私の心も汲んでくれても好いと思います。恋とはこう苦しいものかと今つくづく思い当りました。先生、私は決心致しました。聖書にも女は親に離れて夫に従うと御座います通り、私は田中に従おうと存じます。
田中は未だに生活のたつきを得ませず、準備した金は既に尽き、昨年の暮れは、うらぶれの悲しい生活を送ったので御座います。私はもう見ているに忍びません。国からの補助を受けませんでも、私等は私等二人で出来るまでこの世に生きてみようと思います。先生に御心配を懸けるのは、まことに済みません。監督上、御心配なさるのも御尤(ごもっと)もです。けれど折角先生があのように私等の為めに国の父母をお説き下すったにも係らず、父母は唯無意味に怒ってばかりいて、取合ってくれませんのは、余りと申せば無慈悲です、勘当されても為方が御座いません。堕落々々と申して、殆ど歯(よわい)せぬばかりに(注:「歯す」とは、「仲間として交わる。同列に並びたつ。」の意。ここでは、「堕落した者と同列に扱う」といった意味か。)申しておりますが、私達の恋はそんなに不真面目なもので御座いましょうか。それに、家の門地々々と申しますが、私は恋を父母の都合によって致すような旧式の女でないことは先生もお許し下さるでしょう。
先生、
私は決心致しました。昨日上野図書館で女の見習生が入用だという広告がありましたから、応じてみようと思います。二人して一生懸命に働きましたら、まさかに餓えるようなことも御座いますまい。先生のお家にこうして居ますればこそ、先生にも奥様にも御心配を懸けて済まぬので御座います。どうか先生、私の決心をお許し下さい。
   芳子
   先生 おんもとへ


 要は、もうここまできたら、私は家も親も捨てて、仕事も探して自立して、先生の家を出て、田中と一緒に暮らしていきます、ということだ。それこそが新しい女の生き方だと先生が教えてくれたではありませんか、と言われては、時雄もグーの音もでない。

 時雄は芳子の父への手紙で、二人の恋を認めてやって欲しいと書いたけれど、そんなことを父が認めるわけがないことは知っていたし、「むしろ父母の極力反対することを希望していた」のだ。父親は案の定、猛反対して、勘当するとまで言ってきた。それに対して時雄はひたすら弁明につとめ、是非、東京へ来て、一緒に芳子を説得してほしいと書いてやったのだが、父親はそんなの無駄だといって出てこない。

 そこへ芳子からのこんな手紙だ。


 二人の状態は最早一刻も猶予すべからざるものとなっている。時雄の監督を離れて二人一緒に暮したいという大胆な言葉、その言葉の中には警戒すべき分子の多いのを思った。いや、既に一歩を進めているかも知れぬと思った。又一面にはこれほどその為めに尽力しているのに、その好意を無にして、こういう決心をするとは義理知らず、情知らず、勝手にするが好いとまで激した。


 「警戒すべき分子」というのは、二人が一緒に暮らす以上、そこで二人の恋が「肉の恋」へと発展する可能性ということだろう。いや、可能性どころじゃない。「既に一歩を進めているかも知れぬ」ではないかと時雄は焦る。

 面白いよね。今じゃ考えることすらできない。ここまで来た二人が「できてない」なんてことあり得ないでしょう? ってことになる。しかし、これがまだ「疑惑」の域を出ない、つまりまだ「やってない」ということが本当ではないという証拠もないわけで、そういうことが現代の世の中では絶対にないというわけでもない。

 ただ今の世の中で「やったか、やってないか」なんてことは、あんまり意味がない。そもそも今の世の中に「神聖なる恋」なんて概念がないんだから。当時にしても、「神聖なる恋」なんていったところで、「肉体関係のない恋」という程度の底の浅い概念でしかない以上、ほんとうはそんなことどうでもいいはずなのだ。

 『蒲団』という小説を読んでいて、一番不可解なのは、どうしてここまでそんなことにこだわるのか。女の「貞操」「純潔」「処女」にここまでこだわるのはなぜなのか。いったいどういう文化的・精神的な背景があるのか、ということだ。

 という問題意識がぼくにはあるけれど、時雄の場合は、そんな文化的、精神的な背景などほとんど関係なく、自分の欲望だけが問題となる。


 時雄は土手を歩きながら種々のことを考えた。芳子のことよりは一層痛切に自己の家庭のさびしさということが胸を往来した。三十五六歳の男女の最も味うべき生活の苦痛、事業に対する煩悩、性慾より起る不満足等が凄じい力でその胸を圧迫した。芳子はかれの為めに平凡なる生活の花でもあり又糧でもあった。芳子の美しい力に由って、荒野の如き胸に花咲き、錆び果てた鐘は再び鳴ろうとした。芳子の為めに、復活の活気は新しく鼓吹された。であるのに再び寂寞荒涼たる以前の平凡なる生活にかえらなければならぬとは……。不平よりも、嫉妬よりも、熱い熱い涙がかれの頬を伝った。
 かれは真面目に芳子の恋とその一生とを考えた。二人同棲して後の倦怠、疲労、冷酷を自己の経験に照らしてみた。そして一たび男子に身を任せて後の女子の境遇の憐むべきを思い遣った。自然の最奥に秘める暗黒なる力に対する厭世の情は今彼の胸を簇々(むらむら)として襲った。


 芳子が家を出ていってしまう、ということがもたらすのは「寂寞荒涼たる以前の平凡なる生活」であり、それが辛いということらしい。その辛さが嫉妬より大きく、それがために「熱い熱い涙がかれの頬を伝った」のだそうだ。笑止千万である。「嫉妬に狂った」っていえばすむことじゃないか。その方がまだ分かるし、共感できる。たとえ人の道に反していようと、そういう恋だってある。

 更にいけないのは、「真面目に芳子の恋とその一生を考えた」ことだ。それこそ余計なお世話じゃないか。「自己の経験に照らして」みればなんでも分かるというもんじゃない。挙げ句の果てに出て来る「自然の最奥に秘める暗黒なる力に対する厭世の情」とはいったい何なのか? たぶんどこか外国の小説にでてきた概念をそこに持ちだしているだけの話だろう。

 「真面目に」とあるが、それは、オレは自分のことだけを考えているわけじゃない、芳子の人生についても「真面目に」考えてやっているのだということだろうが、こういうのは「真面目」とはいわない。芳子がどうなろうとオレの知ったことか、と突き放すことのほうが、余程「真面目」である。「真面目」が「誠実」とほぼ道義であるとすれば、他者に対する「真面目さ」とは、他者を自分の価値観や感情で軽々しく判断しない、ということだからだ。






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