日本近代文学の森へ (74) 田山花袋『蒲団』 21 煩悶又煩悶、懊悩また懊悩
2018.12.26
芳子の裏切りを確信した時雄は、煩悶また煩悶、懊悩また懊悩で、夜も寝られない。この煩悶・懊悩の中身が、呆れるほどにひどく、いくら正直でも、ここまで書かなくてもいいじゃないかと思うほどだ。
父親は夕飯の馳走になって旅宿に帰った。時雄のその夜の煩悶は非常であった。欺かれたと思うと、業が煮えて為方がない。否、芳子の霊と肉──その全部を一書生に奪われながら、とにかくその恋に就いて真面目に尽したかと思うと腹が立つ。その位なら、──あの男に身を任せていた位なら、何もその処女の節操を尊ぶには当らなかった。自分も大胆に手を出して、性慾の満足を買えば好かった。こう思うと、今まで上天の境(きょう)に置いた美しい芳子は、売女か何ぞのように思われて、その体は愚か、美しい態度も表情も卑しむ気になった。で、その夜は悶え悶えて殆ど眠られなかった。様々の感情が黒雲のように胸を通った。その胸に手を当てて時雄は考えた。いっそこうしてくれようかと思うた。どうせ、男に身を任せて汚れているのだ。このままこうして、男を京都に帰して、その弱点を利用して、自分の自由にしようかと思った。と、種々(いろいろ)なことが頭脳(あたま)に浮ぶ。芳子がその二階に泊って寝ていた時、もし自分がこっそりその二階に登って行って、遣瀬(やるせ)なき恋を語ったらどうであろう。危座して自分を諌めるかも知れぬ。声を立てて人を呼ぶかも知れぬ。それとも又せつない自分の情を汲んで犠牲になってくれるかも知れぬ。さて犠牲になったとして、翌朝はどうであろう、明かな日光を見ては、さすがに顔を合せるにも忍びぬに相違ない。日長(た)けるまで、朝飯をも食わずに寝ているに相違ない。その時、モウパッサンの「父」という短篇を思い出した。ことに少女が男に身を任せて後烈しく泣いたことの書いてあるのを痛切に感じたが、それを又今思い出した。かと思うと、この暗い想像に抵抗する力が他の一方から出て、盛にそれと争った。で、煩悶又煩悶、懊悩また懊悩、寝返を幾度となく打って二時、三時の時計の音をも聞いた。
「そうか、やっぱり芳子は田中とやっていたのか。あんなヤツにやられるくらいなら、おれがやってしまったほうがよほどよかった。」なんて、まったく身も蓋もない。まともな大人の言うことじゃない。多少でも教養のある人間なら、決して口にしない言葉、世間に向かって言わない言葉だ。
人間というものは下劣な心を持っているもので、どんなに表面上は紳士を気どっていても、心の奥底で、どんなにうす汚いことを考えているかしれたものではない、ということは、ぼくも骨身にしみて知っているつもりだ。けれども、これほど人間の下劣さをそのまま言葉にされると、やはり衝撃をうける。
以前にも書いたことだが、『蒲団』の与えた衝撃は、ラストシーンだけにあるわけではない。むしろ、こうした人間の心の下劣さを隠さずに正面切って書いた部分こそが世の人々に衝撃を与えたのだ。
田中へのいわれなき差別意識。そんな男に身を任せたということで、芳子を「売女」と決めつけ、そんな「汚れた女」は、自分はどうにでもできるはずだと考える時雄は、ショックのあまり、まともな理性を失い、人間的な感情を持てなくなってしまっているのだろう。そうだとしても、自分が今さらながら芳子に告白したらどうなるだろうと想像するあつかましさはいったいどこから来るのだろう。「せつない自分の情を汲んで犠牲になってくれるかも知れぬ」なんてどうして考えることができるのだろう。時雄の軽蔑する「売女」でもそんな「犠牲」には決してなるまい。
自分の恋が「せつない」からといって、どうして芳子がその「犠牲」にならなくちゃいけないのか。なんでここに「犠牲」という言葉がでてくるのか。それは、時雄が、女性というものを一人の尊厳ある人間として認めていないからだ。「新しい女性」の自立した生き方を説きながら、自分にはまったく女性への尊敬の念がない。男が性欲にかられ、その充足を訴えれば、女性はその「犠牲」になるべきものだという意識がどこかにあるのだ。
つまりは、女性というものは、男の性欲の満足のためにある、突き詰めればそう時雄は考えていることになる。花袋がそう考えていたかどうか知らないが、「時雄」はそう考えていたわけだ。
泡鳴も、実はそう考えていた。自分が女郎買いをするのは、女房が子どもにばかりかまけて色気を失っているからだ。そのどこが悪いとその小説の随所で開き直っているのだ。
「どうせ、男に身を任せて汚れているのだ。」という時雄の「思想」は、時雄がどんなに煩悶しても、懊悩しても、びくともしない確固たる「思想」として時雄の中に根付いていて、時雄はそこから逃れようもない。そうした人間のとらえかたの根本的な錯誤は、その「恋」をも非人間的なものにせざるを得ない。そのことに気づかない時雄は、煩悶やら懊悩やらを、「切ない恋の感情」だと勘違いして、のたうちまわっているだけなのだ。そして、その煩悶、懊悩の深さにおいて、たぶん、モウパッサンの精神に触れているとこれまた勘違いしている。花袋は、あれほど外国文学を熱心に読んだのに、そこから何も学ばなかったと、福田恆存にバッサリ切られてしまう所以である。