日本近代文学の森へ (69) 田山花袋『蒲団』 16 芳子の恋人
2018.12.8
芳子の恋人田中は、結局東京へ出てきてしまった。安い旅籠にとまって、どうしても京都には帰らないと言い張っているという。時雄は、勝手にしろと思うこともあったけれど、芳子が学校の帰りに田中のところに寄りはしないか、そこで何かしないかと気が気じゃない。それで、とうとう、時雄は田中に会いに行った。
その夕暮、時雄は思い切って、芳子の恋人の下宿を訪問した。
「まことに、先生にはよう申訳がありまえんのやけれど……」長い演説調の雄弁で、形式的の申訳をした後、田中という中脊の、少し肥えた、色の白い男が祈祷をする時のような眼色をして、さも同情を求めるように言った。
時雄は熱していた。「然し、君、解ったら、そうしたら好いじゃありませんか、僕は君等の将来を思って言うのです。芳子は僕の弟子です。僕の責任として、芳子に廃学させるには忍びん。君が東京にどうしてもいると言うなら、芳子を国に帰すか、この関係を父母に打明けて許可を乞うか、二つの中一つを選ばんければならん。君は君の愛する女を君の為めに山の中に埋もらせるほどエゴイスチックな人間じゃありますまい。君は宗教に従事することが今度の事件の為めに厭になったと謂うが、それは一種の考えで、君は忍んで、京都に居りさえすれば、万事円満に、二人の間柄も将来希望があるのですから」
「よう解っております……」
「けれど出来んですか」
「どうも済みませんけど……制服も帽子も売ってしもうたで、今更帰るにも帰れまえんという次第で……」
「それじゃ芳子を国に帰すですか」
かれは黙っている。
「国に言って遣りましょうか」
矢張黙っていた。
「私の東京に参りましたのは、そういうことには寧(むし)ろ関係しない積(つもり)でおます。別段こちらに居りましても、二人の間にはどうという……」
「それは君はそう言うでしょう。けれど、それでは私は監督は出来ん。恋はいつ惑溺するかも解らん」
「私はそないなことは無いつもりですけどナ」
「誓い得るですか」
「静かに、勉強して行かれさえすれァナ、そないなことありませんけどナ」
「だから困るのです」
この田中という男にも拍子抜けする。なんとも田舎くさい、トロい感じの男である。時雄の持ち出した「二択」も何でそれしか選択肢がないのか訳が分からないけど、田中の言い分も、なんだか要領を得ない。さらに田中についての記述が続く。
時雄の眼に映じた田中秀夫は、想像したような一箇秀麗な丈夫でもなく天才肌の人とも見えなかった。麹町三番町通の安旅人宿(はたご)、三方壁でしきられた暑い室に初めて相対した時、先ずかれの身に迫ったのは、基督教に養われた、いやに取澄ました、年に似合わぬ老成な、厭な不愉快な態度であった。京都訛の言葉、色の白い顔、やさしいところはいくらかはあるが、多い青年の中からこうした男を特に選んだ芳子の気が知れなかった。殊に時雄が最も厭に感じたのは、天真流露という率直なところが微塵もなく、自己の罪悪にも弱点にも種々(いろいろ)の理由を強いてつけて、これを弁解しようとする形式的態度であった。とは言え、実を言えば、時雄の激しい頭脳(あたま)には、それがすぐ直覚的に明かに映ったと云うではなく、座敷の隅に置かれた小さい旅鞄や憐れにもしおたれた白地の浴衣などを見ると、青年空想の昔が思い出されて、こうした恋の為め、煩悶もし、懊悩もしているかと思って、憐憫の情も起らぬではなかった。
やっぱり、時雄は、田中がどんなに素敵な好青年だろうと想像していたわけだ。読者もまたそうだろう。芳子とは神戸の教会で出会ったということだし、年は22だし、どう想像したって芳子以上にハイカラで、垢抜けた青年しか思い浮かばない。それが、こんな「京都訛」(どうも、京都訛には聞こえないけど)の、オドオドしたような歯切れの悪い情けない男だったとは意外である。
しかし、この田中青年の姿は、時雄の目を通しての姿で、芳子からみれば、魅力的な男なのだろう。ここで、客観的にはどうだったのかは、考えても仕方ないが、時雄の色眼鏡をはずして考えても、やはり、それほどの好男子ではなさそうだ。しかし、時雄は、その青年を見ているうちに、なんだか切なくなってきてしまい、君たちの「温情なる保護者となろう」とまで言ってしまうのだ。翻訳の仕事も紹介してやろうとまで言った。そして、そんな人のいい自分をまた罵るのだった。
この辺の時雄の心情というものは、なかなか複雑である。もし、田中が目を見張るような好青年だったら、時雄も諦めがついたかもしれない。それでなくても、一回り年が違うのでは勝ち目はないはずなのだ。それが、こんな男じゃオレの方がよっぽどマシじゃないかと時雄は思ったに違いない。「多い青年の中からこうした男を特に選んだ芳子の気が知れなかった」というのも無理はないのかもしれない。
気が知れなかった、といっても、それは仕方がない。恋とはそういうものだ。しかし、こんなヤツにオレが負けてる、という意識は時雄を苦しめたろう。
そればかりではない。時雄の女房もまた、同じような感想を田中について持つのだ。「厭な人ねえ、あんな人を、あんな書生さんを恋人にしないたッて、いくらも好いのがあるでしょうに。芳子さんは余程物好きね。あれじゃとても望みはありませんよ。」なんて言うのである。女房は、亭主の浮気心に気づいているのに、なんでこんな火に油を注ぐようなことを言うのだろうか。「いくらでも好いの」が、時雄である可能性をなぜ考えないのか。「余程物好き」な芳子なら、一回り以上も上の妻子持ちにだって恋をするかもしれないとどうして考えないのか。「考えない人」である点では、女房もまた同類なのかもしれない。
時雄は、口を極めて田中が「嫌な人間」であることを言い立てるのだが、「天真流露という率直なところが微塵もなく、自己の罪悪にも弱点にも種々(いろいろ)の理由を強いてつけて、これを弁解しようとする形式的態度」とは、まさに時雄のことではないか。
時雄は心の中でこそ「恋に師弟なんて関係ない!」と叫ぶけれど、口から出る言葉は、「天真流露という率直なところ」など「微塵もない」。そればかりか、大人のいやらしさ全開で、言葉では人の道を語りながら、なんとかして、二人の中を引き裂こうとしか考えていない。
時雄は京都嵯峨に於ける女の行為にその節操を疑ってはいるが、一方には又その弁解をも信じて、この若い二人の間にはまだそんなことはあるまいと思っていた。自分の青年の経験に照らしてみても、神聖なる霊の恋は成立っても肉の恋は決してそう容易に実行されるものではない。で、時雄は惑溺せぬものならば、暫くこのままにしておいて好いと言って、そして縷々として霊の恋愛、肉の恋愛、恋愛と人生との関係、教育ある新しい女の当に守るべきことなどに就いて、切実にかつ真摯に教訓した。古人が女子の節操を誡めたのは社会道徳の制裁よりは、寧ろ女子の独立を保護する為であるということ、一度肉を男子に許せば女子の自由が全く破れるということ、西洋の女子はよくこの間の消息を解しているから、男女交際をして不都合がないということ、日本の新しい婦人も是非ともそうならなければならぬということなど主なる教訓の題目であったが、殊に新派の女子ということに就いて痛切に語った。
時雄がどんなきれい事を並べようと、要するに、時雄は、芳子が田中と肉体関係を持ち、それに「惑溺」することだけを恐れているということだ。とにかく、時雄は、芳子の「純潔」(注:この言葉はこの小説では使われていない。)を守りたい。それは、表向きは芳子の「庇護者」であるからだが、しかし芳子の「純潔」がそれほど大事なのは、他ならぬ自分が芳子の「最初の男」になりたいからだ。その欲望を強く持っているからだということが、この後を読んで行くとはっきりしてくる。