日本近代文学の森へ (93) 徳田秋声『新所帯』 13 貧しい心性
2019.2.20
得意場廻りをして来た小僧の一人が、ぶらりと帰って来たかと思うと、岡持をそこへ投(ほう)り出して、「旦那。」と奥へ声をかけた。
「××さんじゃ酒の小言が出ましたよ。あんな水ッぽいんじゃいけないから、今度少し吟味しろッって……。今持って行くんです。」
「吟味しろッて。」新吉は顔を顰(しか)めて、「水ッぽいわけはねえんだがな。誰がそう言った。」
「旦那がそう言ったですよ。」
「そういうわけは決してございませんッって。もっとも少し辛くしろッてッたから、そのつもりで辛口にしたんだが……。」と新吉は店へ飛び出して、下駄を突っかけて土間へ降りると、何やらブツクサ言っていた。
店ではゴボゴボという音が聞える。しばらくすると、小僧はまた出て行った。
「ろくな酒も飲まねえ癖に文句ばっかり言ってやがる。」と独言(ひとりごと)を言って、新吉は旧(もと)の座へ帰って来た。得意先の所思(おもわく)を気にする様子が不安そうな目の色に見えた。
「店ではゴボゴボという音が聞える。」というのは、おそらく新吉が酒樽から酒を一升瓶などについでいる音だろう。今では、瓶詰めになっている酒を自分で選んで買うのが当たり前だが、ちょっと前までは(といっても50年は経つかなあ)、酒は酒屋へ瓶を持っていって、樽から注いで貰ったものだ。
ぼくの生家の数軒先には酒屋があって、家では職人の給料日に酒を出したので、よく一升瓶を持って買いにいかされたものだ。今思えば、いつも「樽酒」だったわけで贅沢なものだが、もちろん酒は二級酒だ。酒屋の店先は、いわゆる「角打ち」で、何人もの労働者が安い焼酎をうまそうに飲んでいたのをよく覚えている。貧しい労働者ではあったが、どこか幸せそうだった。
この当時は、酒は、酒屋が配達するもので、その酒も酒屋がお客の好みにあわせて選んでいたらしい。新吉が営んでいた商店は決して酒の専門店ではないが、こういう細かい商いをしてせっせと稼いでいたわけである。
やれ、お前んとこの酒は水っぽいの、甘いのと文句ばっかり言ってる旦那に悪態をつきながら、それでも、そういう旦那の思わくを気にしないでは商いが成り立たない新吉の「不安」は、自信がない駆け出しゆえに、いっそう新吉を神経質にさせ、苛立たせる。
お作は番茶を淹れて、それから湿(しと)った塩煎餅を猫板の上へ出した。新吉は何やら考え込みながら、無意識にボリボリ食い始めた。お作も弱そうな歯で、ポツポツ噛っていた。三月の末で、外は大分春めいて来た。裏の納屋の蔭にある桜が、チラホラ白い葩(はなびら)を綻(ほころ)ばせて、暖かい日に柔かい光があった。外は人の往来(ゆきき)も、どこか騒(ざわ)ついて聞える。新吉は何だか長閑(のどか)なような心持もした。こうして坐っていると、妙に心に空虚が出来たようにも思われた。長い間の疲労が一時に出て来たせいもあろう。いくらか物を考える心の余裕(ゆとり)がついて来たのも、一つの原因であろう。
お作は何(なん)かの話のついでに、「……花の咲く時分に、一度二人で田舎へ行きましょうか。」と言い出した。
新吉は黙ってお作の顔を見た。
「別に見るところといっちゃありゃしませんけれど、それでも田舎はよござんすよ。蓮華や蒲公英が咲いて……野良のポカポカする時分の摘み草なんか、真実(ほんと)に面白うござんすよ。」
「気楽言ってらア。」と新吉は淋しく笑った。「お前の田舎へ行くもいいが、それよか自分の田舎へだって、義理としても一度は行かなけアなんねえ。」
「どうしてまた、七年も八年もお帰んなさらないんでしょう。随分だわ。」お作は塩煎餅の、くいついた歯齦(はぐき)を見せながら笑った。
「そんな金がどこにあるんだ。」新吉は苦い顔をする。「一度行けア一月や二月の儲けはフイになっちまう。久しぶりじゃ、まさか手ぶらで帰られもしねえ。産れ故郷となれア、トンビの一枚も引っ張って行かなけアなんねえし。……第一店をどうする気だ。」
お作は急に萎(しょ)げてしまう。
「こっちやそれどころじゃねえんだ。真実(ほんとう)だ。」
新吉はガブリと茶を飲み干すと、急に立ち上った。
「湿(しと)った塩煎餅」というものは、なんとも貧乏くさい食べ物である。この「湿(しと)った」という言葉が懐かしい。ぼくの祖母がよく使っていたような気がする。これは「しめる」の方言だが、江戸だけではなくて、神奈川、静岡、山梨などのほか、島根、和歌山、高知などにも見られるようだ。祖母は、静岡の人間だが、そっちの方言だったのだろうか。
「しめる」の意味で「しける」という言葉もあるが、これに「た」がつくと、「しけった」なのか「しっけた」なのかでよく迷う。別役実の戯曲では、よく「この○○は、しけってるよ」なんて言い方がよく出てくる。これもどこか懐かしい言葉だ。ただ「しける」は方言ではなさそうである。
まあ、それにしても、新吉とお作が、この「湿った煎餅」を食べるシーンは何とも貧乏くさい。──「お作は番茶を淹れて、それから湿(しと)った塩煎餅を猫板の上へ出した。新吉は何やら考え込みながら、無意識にボリボリ食い始めた。お作も弱そうな歯で、ポツポツ噛っていた。」ここに出てくる「猫板」というのは、「長火鉢の端の引き出しの部分にのせる板。ここによく猫がうずくまるのでいう。」(日本国語大辞典)で、今ではもう馴染みのないものだ。
この長火鉢というヤツは、歌舞伎や時代劇では必須のアイテムだが、今ではまず見かけなくなった。この前にどっかと座るだけで、なにはともあれ格好がつく。後は燗酒を飲むもよし、莨ふかすのもよし、頬杖ついて考え事をするもよし、とにかく「内容」はどうあれ、「格好」はつく。こういうことって、日常生活のうえではとても大事だと思うのだが、今は、「格好」がつくしぐさとか、アイテムがない。落ち着かない時代である。
長火鉢の前で、夫婦が「湿(しと)った塩煎餅」を囓る姿は、なんとも貧乏くさいのだが、その貧乏くささが「様になっている」のである。まして、お作の「弱そうな歯」の「はぐき」にその煎餅のかけらがついてるとなれば、貧乏くささも極めつけで、それだけに、リアルで、切ない。
そして、その後にくる新吉のセリフ。せっかく、お作が「田舎に行こう」とポジティブな提案をするのに、あれに金がかかる、これに金がかかると全部否定してしまう。
「一度行けア一月や二月の儲けはフイになっちまう。」──この思考回路が、生活をアジケナイものにする。どんなに貧乏したって、お作のいうように、田舎に行って、「野良のポカポカする時分の摘み草」が楽しめれば、それで人生は結構幸福なのだ。しかし、新吉にはそれができない。もっと儲けたい。もっと商売を大きくしたいの一心で、それ以外は「気楽を言ってらあ」と冷笑してしまうのだ。
この貧しい思考は、何も新吉に限ったものではなく、明治時代の日本がとにかくなりふり構わず大国を目指した心性の一端を国民が担っていたということだろう。